「兄貴のことが、好きだよ」 そういわれて、もうすぐ1年。 今度は、僕が豪にチョコを渡さないと。 好き。そういう気持ちもあるけど。豪には、この一年の感謝の気持ちを、伝えたいと思う。 机の前には、黒い包装紙のチョコレートが置かれていた。 昨日、いろんなところを回って、豪の好きそうなものを選んだ。バレンタインに”チョコを買った”のは、生まれて初めてだった。 少し緊張はしたけれど、最近は男性が買ってもあまり違和感がないものらしい。 一年前にもらった薔薇のコサージュは、いまでもちゃんと持っている。 大丈夫。もう何にも不安になることなんかない。誰からチョコを貰っても、一番大切な人がいる。 だから、大丈夫。 チョコレートのリボンに薔薇を括り付け、烈は目を細めて笑った。 Bitter splinters 「おはよ、母さん」 「おはよう、烈」 星馬家の朝。去年と同じように、テレビでは芸能人のチョコの行方を追うニュースが流れていた。 服だけを着替えた烈が、階段から降りてくる。 「あれ、豪は?」 「朝錬だっていって、もう出て行ったよ」 「早いな…」 朝錬とはいえ、ちょっと早すぎるだろう。 「なんだかやけにばたばたしながら出て行ってね…忘れ物でもしたんだろうね」 「ふーん…」 あの豪が、一度も烈と顔を合わさずに出て行った。 (はじめてかも、な…豪と顔合わさなかったの) 1週間に2度くらいは、朝起きてすぐに見るのが豪の顔、なんて日もあるのに。今日に限って。どうして。 「ね、烈。今年は何個チョコもらえそう?」 「うーん…」 去年は30個オーバーだった。結局、烈のお返しはすごいことになった。 あまりの多さに良江がこっそり協力してくれたほどだ。 「今年は…30個もいかないと思うよ」 「烈…?」 「そうしないつもり。去年、大変だったからね」 「そうだねぇ…もらうのはいいけど、お返しがね…」 「今年は自分の手でなんとかするよ」 1つ1つ戸惑いながら、受け取った。あの時は、どうしてみんなくれるのか、わからなかった。 今なら少しだけわかる。受け取らないのをわかっていても、好きというその事実を相手に伝えたい。たぶんそれだけのことなんだと。 理由がわかった今でも、受け取るわけにはいかなかったけれど。 「懐かしいわねぇ…お父さんのときは、そんなイベントなかったから…」 「イベントがあってからは?」 「1個だけもらったことあるんだよ」 「へぇー」 「やっぱり、バレンタインっていいものだね」 「甘いもの食べられるから?」 「こら、烈」 「ごめんなさい」 そう言いながら、たぶ毎年チョコをくれるんじゃないかという淡い期待を持ってるのかもしれない。 バレンタインはいつもの日常だけど、やはりどこか甘ったるい雰囲気が漂っていた。 ◆ ◆ ◆ 息を荒く吐き出して吸い込むと、冷たい空気が肺に染みていく気がした。 (嫌だ。今の自分。すっげー嫌だ) ぎりぎりと歯を食いしばりながら、豪は必死で走っていた。 (なんでだよ…なんで、俺…) 泣きそうになりながらも、それを堪えて、必死で走っていた。 「なんか、今日の星馬、おかしくないか?」 「うーん…バレンタインだからじゃないのか?」 「でもあいつ、去年チョコもらって喜んでたよな」 「じゃ、なんでだ?」 「さぁ…」 息を切らせながら、身体が痛みを訴えだしたころ、豪はようやく足を止めた。 「はーっ、はーっ…」 冬の寒さにも関わらず、額には汗がいくつも流れている。 「よっ、お疲れ豪」 「…あ、ありがとうございます。先輩」 「どうしたんだ?やけにハイテンションで走ってたな」 「いや全然。醜い嫉妬ぐるぐるの状態で走ってた」 そう言って、豪は汗をタオルでぬぐった。 豪がここまで息を切らしているのは珍しいと、首をかしげた。 「嫉妬って、お前、恋人でもいるのか?」 「……」 ゆっくりと、豪は首を振った。 「そうじゃ、ないんだ……なんで、俺…チョコ貰うの、嫌だって思うんだろ…」 「豪…?」 「変だよな…、最初はこんな気持ちであげたんじゃないのに…」 ぶつぶつ何かを呟いてる豪に、これはやばい、と悟り、豪を立たせた。 「おまえちょっと落ち着けよ…嫉妬でぐるぐるなのはよーくわかったから…少し大人しくしてろ」 「…ごめん、八田先輩」 「お前の兄貴だって、こんなところ見られたら、心配するぞ」 「…!」 びく、と豪が震えた。 「豪…?」 「あ……」 今度は一気に力が抜け落ちたようにへなへなと座り込んでしまった。 「ちょ、ちょっと待て。ここで座り込むな」 「…烈兄貴……」 ぎゅっ、とタオルを握り締めて、がたがた震えていた。さっきとは酷い変わりようだった。 「これは、重症か…、おい、誰が豪と同じクラスの奴いるか?」 「あ、なんでしょう?」 「ちょっと豪の様子がおかしいんで寝かせてくる。そういっておいてくれ」 「わかりました」 「ほら、豪立て。大丈夫か?」 「あ、はい…大丈夫です……」 「まったく…いつもの馬鹿っ面はどこいったんだか…」 「すみません…」 朝錬を頑張りすぎた、と養護教諭には言っておいた。豪は体調というか、精神的な面で不安定らしい。 ”醜い嫉妬ぐるぐるの状態で走ってた” 豪がいうにはたぶんそれのせいだと思うから、1日で治ればいい。 「何があったっていうんだ?」 「………」 豪は、答えなかった。時折瞬きしながら、八田のほうを見ている。 「まぁ、何があったのかは聞く気はしないが…、兄貴がらみみたいだな。喧嘩でもしたか?」 「……!」 「当たりか。お前らの喧嘩なんかしょっちゅうなんだから、今さらだろ」 「八田先輩…兄貴には、黙っててくれませんか?」 「…まぁ、それは…構わないけど…どうしたんだ?」 言おうか言わないか悩んだそぶりを見せたが、やがてぽつぽつと喋った。 「嫌なんだ…、兄貴が、チョコもらうの」 「はぁ?お前だってチョコもらってるじゃないか」 「うん…それは、わかってる…本末転倒っていうんだっけ、こういうの、だから兄貴に言えないんだ。こんな気持ち、生まれて初めてだ」 自分の腕で、目を覆った。泣き出しそうになるのを堪えていると思い。八田をそれを咎めなかった。 「チョコをもらう兄貴に嫉妬か…。豪、お前はお前で。兄貴は兄貴だろうが」 「……」 「チョコもらうのが嫌なら、兄貴に言っちまえよ。たぶんあいつのことだから、なんだそりゃって言って呆れるだろうが、それだけじゃないか。お前がこうなっているよりはまだマシだ」 「…それじゃ、何にも変わってない…ガキのまんまだ」 「豪…少し頭冷やせ」 「……」 「お前と兄貴はバレンタイン、毎年どうしてた?チョコの貰った数で買った負けたで笑ってて、チョコ食べたりしてたんじゃないか?それを、あいつも楽しみにしてたんだろ?」 「……」 「俺は…お前と兄貴に何があったのか知らないし、話してくれなくてもいい。嫉妬ってのは、思っててもそう簡単に拭えるものじゃないしな…こればっかりは、お前の手で解決するしかないな」 「…兄貴に、何て言えばいいんだ…」 「お前の気持ちを正直に言えば、いいんじゃないのか?」 「自分の気持ち…」 「…ま、おせっかいかもしれないけどな。少し寝てろ」 「…はい」 豪は視界を闇で覆ったまま、目を閉じた。 「…だって、自分のいったことさえ守れないなんて、サイテーじゃ、ねーかよ…」 去年、バレンタインにチョコをくれると言ってくれた。だからきっとくれる。 それと同時に沸き起こったのは、みんなから嬉しそうにチョコを貰ってくるだろう烈の姿だった。 嫌だ、と思ってしまった。 嫉妬だと気づくのは、朝起きてすぐだった。 烈があんなに不安になってチョコをもらうのがなんだか嫌だった。だから、豪は告白した。 恋人になった今、不安になってチョコをもらうことはたぶんないだろう。だけど、恋人になるってことが、こんなに苦しいことなんて豪は知らなかった。 言えるわけがない。チョコを貰って欲しくない、だなんて。 もらわない、ともし烈が言っても学校で烈が困るだけ。やっぱりそれは無理って言ってとしても、楽しいバレンタイン、なんてならない。 だから逃げてしまった。はじめて烈と一度も顔を合わさずに。 挙句の果てに、無理してこのざまだ。 「なんでこう、うまくいかないんだよ…」 1時間ほど寝て、授業に戻ったけれど、豪の心は上の空だった。 チョコは全て断った。義理チョコさえも。 「豪、いったいどうしたんだ?」 「…なんでもない……」 「調子悪いなら帰ったほうがいいんじゃないのか?」 「……」 ため息ばかりをついている。 「重症だな」 「重症だね」 二人が呟いたとたん、ばたりと机に突っ伏した。 「お、おい豪…」 「腹へった…」 「……」 もはや空ろな目で呟くと、豪は眠りについた。 ◆ ◆ ◆ おかしい。 豪が、帰ってこない。もう19時になる。 いくら部活でも、この時間ならそろそろ帰ってもいいはずだ。なのに。 今日一日、豪のことばかり考えて、チョコレートを準備したのに。肝心の豪がいなければ意味がない。 「……」 しばらく考えて、携帯を取り出した。アドレスを選択して、呼び出す。 「あ、もしもし八田君?」 ”お、烈か…ひさしぶりだな。どうした?” 「うん…豪ってもう帰ってる?」 ”え、豪か?” 「うん…」 ”豪なら今日の午後の部活は出てないぞ。調子悪そうだったから家に帰した” 「えっ、豪が?」 ”なんか思いつめてるみたいでさ…嫉妬がどうとか言ってたけど” 「……」 ”烈、おまえ豪と喧嘩でもしたのか?” 「う、ううん。そうじゃないんだ…ありがとう」 ”ああいう状態になったら、なんとかしてやれるのはお前だけだ。頼んだぜ” 「うん…わかった」 ぱたん、と携帯を閉じた。 豪が、帰ってこない。一度も会わないまま。 「母さん、ちょっと豪を迎えにいってくるよ」 「え、この時間にかい?」 「うん、たぶん近くにはいると思うんだ」 「傘持って行きな。雪降ってるからね」 「ありがと、いってくる!」 マフラーを巻き、コートを羽織って家を飛び出した。 かばんの中には、1つチョコを入れて。あとは携帯電話と財布だけを。 「まったく、せっかくのバレンタインだっていうのに…」 外は暗く、雪がちらちらと舞っていた。 ネオンが光り輝く中、走り回って探しても、どこにも見当たらなかった。 学校と家の間を何度か行き来しても、いなかった。 人ごみが行きかう中で、ゲームセンターや、本屋に立ち寄り、豪を探した。けれどいない。 「……何処いったんだ…」 そして、探し回ったときに見つけたのが、アクセサリーショップ。 自分と豪が持っているラピスラズリとガーネットがある場所だ。 「…ここにもいないか…」 そうして、少し走った矢先だった。 ふと、青いものが目に入った。 「…!」 ガラス張りのファミレス。そこの窓際の席に、青い髪が突っ伏していた。 「豪っ…」 慌てて店内に入った。そこにいる人の知り合いだと告げ、豪の元へ歩み寄った。 豪は、微動だにしていなかった。 「はぁっ…お前…何やってるんだよ…」 「…烈兄貴…」 ようやく、突っ伏していた身体が動いて、顔を上げた。 「……」 烈が息を呑む。 一日でこうも変わるかと思うほど、豪は憔悴していた。 はらりと髪が落ちる。それすらも払う気がないのか、ぼんやりとしていた。 「おまえ、どうしたんだよ…」 「俺、変だ…なんでだろ…ワケわかんねーよ…」 そういって、また突っ伏してしまった。 「……」 こうなってしまっては、烈も手の打ちようがなかった。豪が本気で落ち込んでしまったときは、烈にはどうしようもできなかった。 かつて、マグナムが壊されてしまったときも、3日間、烈はなにもできなかった。 ワケがわからない。豪はそういう。 しかし、烈にはなんとなくわかる気がした。豪がここまで落ち込んでしまった理由。 「座っていいか?」 「……」 髪がわずかに動いた、うなずいたと解釈して座る。 テーブルの上には、注文した冷めたコーヒーが置かれていた。 「なぁ豪…落ち込んで、少しは落ち着いたか?」 「……」 「その様子じゃ、何も食べてないみたいだな…すいませーん」 「ご注文をどうぞ」 「コーンスープ1つ、エビサラダ1つ。大根おろしハンバーグ定食1つ、Aセットをつけて。カルボナーラ1つ。マルゲリータ1つ。チョコプリンパフェ2つ」 メニューを見ながら手当たりしだいといった様子で、注文していく。 「れ、烈兄貴…?」 普段の烈ならありえないその様子に、ようやく豪が顔を上げた。 「ストレートティーホットで1つ。あと食後のアイス。バニラで」 「以上でよろしかったですか?」 「あと、出汁巻き卵」 「かしこまりました」 ひらひらと手を振りながらメニューを畳んだ。 「お、やっと起きたか」 「…烈兄貴、いまの…」 「ああ、俺がおごってやるから、お前も注文していいぞ」 にこにこと笑いながら言った烈に、豪はふっと顔を背けた。 「食べたくない…」 「そっか…重症だな」 「…3回目だ」 「え?」 「それ言われたの…」 「事実だからな。なんだろうな。お前の場合、恋わずらい?それとも、知恵熱かもな」 「知恵熱って…」 よしよし、と犬を撫でるかのように撫でると。烈はふっと笑った。 「お前が何に悩んでるのかはなんとなくわかるけど、それはお前のプライドもあるだろうから言わないでいてやるよ。だけどな」 「うん…」 「お前はもうちょっと、俺に対して自信を持っていい。そうすればお前の悩みは解消だ」 そういうと、烈は黒い包装紙に赤いリボンと薔薇のコサージュに包まれた箱を差し出した。 「烈兄貴、これ…」 「生まれて初めて、俺が”バレンタインにあげる”チョコだ。受け取ってくれ」 「……」 目を丸く見開いて、恐る恐る、といった様子で、その箱を手に取った。 「この飾り…」 「覚えてたんだな。お前が去年くれたやつにあったのをつけたんだ」 「…ありがとう」 「いいよ」 手作りなんて柄じゃない。だから、出来合いのものだっていえばそこまで。だけど、気持ちだけは込めた。 「お前がチョコをくれて…そのあと、いろいろあったな」 「うん…」 「お前があのとき言ってくれなかったら、きっと、俺は今年も悩んでたと思う。でも、今はそうじゃない。豪にはすごく、感謝してるんだ」 「烈兄貴…」 「…俺に初恋を教えたのは、お前だ。それだけは、自信を持って言っていいぞ」 言い切って、下を向いた。烈自身恥ずかしかった。こんなファミレスで、弟に告白なんてどうかしている。 その告白を聞きながら、豪はわずかに顔を上げた。 「…独り占めしていいのかよ?」 ぽつりと、豪が呟いた。 「豪…?」 「他の誰も見るな、俺だけを見てくれ、って言ったら兄貴は見てくれるのか?できないだろ?俺だってわかってる。なのに…、なのにそんな風に思っちまうんだ」 「……」 「兄貴がチョコをもらうのさえ嫌だなんて、サイテーじゃねーか…」 「お前…そんなこと思ってたのか?」 「……」 「偉いな。お前」 「…え?」 「そう思って、最低だって思えるだけ、お前は立派だよ。ちゃんと…俺のこと思ってくれてる」 「こんなんで、立派って…」 「俺がお前だったら、”絶対にチョコ貰ってくるなよ”って言っちゃいそうだ」 くす、と笑った。 「チョコ、今年は1つも貰わなかったんだ。本当のことを言うと、学校で全部食べちゃった」 「兄貴…」 「俺の手元にあったのは、お前へ渡すためのそのチョコ1つだけだ」 「…」 じっ、とその箱を見て、薔薇のコサージュに触れる。 自信を持て。そういった烈の言葉の意味が、ようやく豪にもわかった。 「ありがとな、烈兄貴」 「うん」 豪が、今日はじめて、烈の前で見せた微笑みだった。 「おまたせしましたー。大根おろしハンバーグ、マルゲリータになります」 テーブルいっぱいに並べられた、ピザ、ハンバーグ、パフェ2つ。パスタ。 にこにこ笑いながら、烈はハンバーグを切り分けていた。 「…烈兄貴、こんなに食べられるの?」 「じゃ、お前も食べるか?」 「…いいのか?」 「あー、そっか…お前さっき食べないって…それじゃ仕方ないな…」 「う…」 ぐう、と同時に豪から音がした。 「あはは、相当腹減ってたみたいだな」 「烈兄貴ぃ…」 「いいよ、今日おごってやる」 「やった、俺パスタ食べるな。あと…オムライス!」 「……」 さっきとの変わり方に、烈はまた呆然とした。これで2回目だ。 「あ、そうだ豪」 「何?」 「出汁巻き卵は食べるなよ。食べたら…どうなるかわかるな?」 「…はい」 がつがつという効果音が似合う食べ方に、烈は苦笑しながらそれを見ていた。 「ひぇつひゃにきぃ…」 「ちゃんと飲んでから言え。何だ?」 「…母ちゃん、家で晩御飯作ってるんじゃないか?」 「……」 「……」 「豪…」 「烈兄貴…」 「怒られるときは一緒だよな!」 「…烈兄貴…」 今度は豪が苦笑する番だった。 素材提供:素材通り |