藍の軌道を巡り行き



夏の空は、熱い空気が覆っている。
それが、ゆっくりと動いて、頬を凪いだ。
なんとなく、ベッドで寝る気になれなかったから、兄貴に内緒で浜辺にやってきた。
砂浜は当然のごとく俺だけ。
目を閉じると、ざわざわとした波の音が、耳に残る。
「……疲れた…」
今日、はしゃぎすぎたかな、と少しだけ後悔する。
ほんの、少しだけ。

それ以上に、楽しい時間を過ごせたんだ。

俺の誕生日一日は、このリゾート施設で過ごした。
兄貴の「行くか?」という言葉に二つ返事で了解を出した。
眩しい太陽と、どこまで行っても果てない青い空。
海で兄貴と遊びまわったり、レースしたり。
こんなに遊びまわったのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
前はそんなことお構いなしだったのに。
俺も、それだけ大人になった、ってことなのか…よくわからない。

夏の日差しを目一杯に浴びて、マグナムと走った。
パフェは食べ放題だし、ミニ四駆のコースもあるし、至れり尽くせりだ。
施設からいって、たぶん藤吉からだ。感謝しないとな。

あと、烈兄貴にも。

なんだかんだ言って、俺を誘ってくれた。
準備よく誕生日プレゼントなんてくれて。
かっこいい防水仕様の腕時計、今度からこれを使ってみよう。
腕を空にかざしてみると、黒い腕時計が鈍く銀色に光った。
ふっ、と視界が揺らぐ。

「……眠…っ…」
さすがに、動きすぎたかな…。
8月1日がもうすぐ終わる。最高の誕生日だった。
波の音を聞きながら、また目を閉じる。
このまま眠るのも、いいのかもしれないな。

兄貴に、怒られるだろうけど。

「豪、お前こんなところでなにやってるんだ?」

ほら、やっぱり。
薄目を開けて見上げるとすぐそばに、兄貴が立っていた。
Tシャツにパーカーという、兄貴にしてはかなりラフな格好。
「兄貴…」
「食べるか?」
そういって差し出したのは、割りばしに刺した、冷やしたパインアップル。
「…もらっとく」
手に取ると、兄貴は何も言わずにそばに座った。
「…さすがのお前でも、疲れたみたいだな」
「さすがにな…でもいい感じに気持ちいい…」

風がゆっくり流れていく。
「綺麗な空だな…」
呟いて、兄貴を見ると、兄貴は上を見ていた。
「…すっげー」
夏の空、ってこんな綺麗だったっけ。
天体観測に夏は向いてないって言うけど、そんなこと全然ない。
透き通る青色だった空が、今では深い藍色。
ちらちらと、星が瞬く。

兄貴は、珍しく何も言ってこなかった。ただ、星を見てるだけ。
月の光に照らされて、ぼんやりと横顔が見える。ときおり、パインアップルをかじりながら。
何座、なんて俺にはわからない。
わかるのは、さそり座くらいだけど…この時間では見えないらしい。
俺もパインアップルをかじってみた。
「冷たっ…」
「よく冷えてるだろ?」
「すっげー冷えてる」
すっぱくて、甘い。大きく切ったパインアップルは、そんな味だった。
「今日は、ホントに楽しかった」
「そっか…」

でも心から楽しめたのは、きっと兄貴のおかげ。
「なぁ、兄貴…」
「ん?」
「今日、あと何分?」
「自分の時計見ればいいだろ?」
「あ、そっか…」
見ると、時刻は11時50分をさしていた。
「あと、10分か…」
兄貴も感慨深げにその時計見ていた。

楽しかった誕生日。
それが、もうすぐ終わる。
最後になるかもしれない。
兄貴、知ってるかな…。

第一志望の大学に合格したら、家をでていかなくちゃならない、ってこと。

母ちゃんも父ちゃんも知ってるけど、兄貴には言ってなかった。
家から電車で3時間ほどだから、帰れない距離ではないのだけど。きっと一人で暮らしていく。
兄貴は、家から通える距離の大学だったんだけど、俺は…そうもいかなかったから。

俺は、兄貴に何をしてやれるだろう。
「なぁ、兄貴…」
「ん?」
「最後に…俺から誕生日プレゼントリクエストしていいかな」

知らなくてもいい。俺のこの気持ちを。
俺が、ただ…満足したかっただけだ。

「なんだよ、もうこんな時間だから、何にも売ってないぞ」
「売ってるもの、じゃないから」
烈兄貴の表情が少しだけ変わった。変化に、気がついたんだろうか。
「わかったよ…で、何をすればいい?」
兄貴はため息をついて、割り箸を置くと空を見上げた。

「そのまま、目を閉じててくれ」
時刻が変わるまで。
俺の生まれた日が終わるまで。

「…こう、か?」
ゆっくりと、目を閉じる。
波の音に、聞き入ってるみたいだった。
風が海の音に揺れる。
「うん…そう、しばらくそうしててくれ」
ゆっくりと、腕を伸ばす。
そのまま、少しずつ距離を縮めていった。なんでだろう、どきどきする。

「……」

兄貴の肩に額を当てて、抱きしめてた。
薄着だからこそわかる、肩幅の小ささとか、髪の柔らかさとか、ここいるだけでこんなにも違う。
夜の闇だけの世界の中で、二人だけが存在してるみたいだった。
兄貴の指が、そっと、腕に触れる。
気持ち悪いとか、感じないんだろうか。兄貴は何も言うことも、拒絶することもなく。
目を閉じていたと思う。
俺はうつむいていて、顔が見えなかったから。
そのほうがよかったんだ。兄貴の体温が、ちゃんとわかったから。

大好きだよ、兄貴。
今日ほど楽しかった日はなかった。
ありがとな。

ぴぴ、と腕時計が鳴った。
0時が過ぎていく。
腕を放すと、まだ温もりがまだ指に残っている。
兄貴は閉じていた目を開けた。

「綺麗な、星だな」
弟に抱きしめられていたのに、兄貴はただそれだけを言った。
「ああ…すっげー綺麗」

「豪」

不意に、兄貴が横を向いた。
少し、目を細めて。柔らかい微笑をしていた。
「烈兄貴?」
「腕出せ」
「こう?」
言われたとおりに出すと、少し口を尖らせた。
「そっちじゃない」
「こっちか」
腕時計をしたほうの手を出すと。兄貴は何を思ったのか、時計をいじりだした。
「兄貴…?」

「お前の誕生日、あと10分だけ延長だ」

言うと、手を引っ込めた。
「あ…」
時刻は11時50分。時刻は戻された。

「…もうちょっとだけ、一緒にいたいんだ」

兄貴はそう言って、ゆっくりと頭を俺に預けた。
「しょうがない兄貴」
「しょうもない弟だよ、お前は」

困ったように笑った。
兄貴の心の内は、俺には見えない。けど、俺はここにいていいんだな。
今は、それだけで十分。

「…なぁ兄貴」
「ん?」

「あの、さ…俺……」
「その先は言うな」

言う前に、兄貴は自分で制した。

「言わなくても、いい」
少し顔を上げて、微笑む。月に照らされて、なおさら、綺麗に見える。
「じゃ、言わないでおくな。来年くらいは言ってもいいのか?」
「覚えてたならな」

「ああ…」

波の音と、夜の月と。汐の匂い。


藍色に染まる空に、静かに、俺の生まれた日が、流れていった。



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