ウェザーレインの贈り物
 




6月後半の青空は、青い色をしているのに、まるで透明に見えた。
手を伸ばしても遠く、中空を飛ぶ鳥さえにも触れることなどできない。
それでも、この空はいつでもそばにあり、自分は”ひとりではない”ということを、ふと教えてくれた。
流れていく雲は、風が吹いていることを。
揺れる草花は、その風が地表面まで降りていることを。
「豪ー、帰るぞ」
その声は、離れていていても、自分を呼んでくれていた。

豪は、烈の声に振り向いて駆け寄った。もうすぐ、暑い夏がやってくる。
そしたら、思いっきり走り回って、優勝を目指すんだ。
二人ともそのために調整は欠かさない。家でじっくりメンテナンスをすることも大切だけど、やっぱり走ってる方が何十倍も楽しい。
久しぶりの日曜に、公営グラウンドでの調整。午前中のせいか、あまり人がいないのはすごくラッキーだった。思いっきり、走れる。
「烈兄貴、調整はもう終わったのか?」
「ああ、うまくいった。お前は大丈夫なのか?」
「もう絶好調、いますぐでも兄貴と勝負したい気分だぜ」
「それはやめとけ」
そういって、烈は笑った。
「なんでだよ」
「レース前にこてんぱんにしたら、お前が落ち込むからなー」
にや、と悪戯っぽい笑みを浮かべ、豪の前に指を突き出した。
「なんだとー、なら勝負だ、勝負ー!」
「だからやめとけって」
ふわ、と風の向きが変わった。
雲の色が灰色に変わり、少しずつ翳りを生んでグラウンドを覆っていった。
「烈兄貴…?」
届かない空を見た。鳥が急落下して低空で飛んでいく。
「もうすぐ、雨が降る。だから、その前に戻るんだ」
と烈は断言した。
「お前も、せっかくメンテナンスしたマグナムを濡らしたくはないだろ?」
「なんでわかるんだよー」
「鳥を見てればわかるよ、あと雲とかね」
あれとか、雨雲だ。と烈は灰色の雲を指した。豪はただ、首を傾げるだけだった。
「そんなもんなのか?」
「鳥だって、雨が降れば翼が重くなる。だから低空で飛ぶんだ」
さっき、鳥が低空飛行したのはそういうこと。と烈は自慢するそぶりも見せずに言った。
「兄貴って、天気が読めるんだな…」
「確実じゃないさ」
「でも、俺には雨が降るなんてわからないぜ」
「それは…」
くす、と烈は意味深な笑みを見せた。
「お前が注意力がないだけ」
「なんだとー!」
「あはは、ほら、さっさと戻るぞ」
透明な空は天気雨に変わる。
車の中で、ガラスに雨粒が滑り落ちた。
しとしと降り続く恵みの雨に、兄貴の言うことは本当だったと、窓ガラスから見て豪は思った。
鳥がみんな、低空で飛んでいた。翼が重いから、それでも飛びたいから、低空で飛んでいる。
車の中で、雨が降りながらも光が時折こぼれだした。
(そういえば、虹って水を光があれば出るんだっけ…)
そんなことを、前に烈が言ったような気がする、とふと思い出した。
「兄貴兄貴ー、虹出るかな?」
「虹?」
烈も豪のそばによって窓の外をじっと見た。
灰色の雲から光の筋が幾重にも降りる。それでも、しとしとと降り続く雨。それも、もうすぐ止みそうだ。
「そうだなー、たぶん出るんじゃないか?太陽の位置をちゃんと見とけよ」
「太陽の位置だな、よし!」
真剣に見つめる豪に苦笑いをして、烈も反対側のガラスから空を見た。
通り雨はすぐに止むだろう。
ソニックと走り出す日もそう遠くない。膝の上に置いたピットボックスに微笑みかけた。
「兄貴ー、虹でた!すげー!」
「ほんとだ」
そうして、しばらく虹をみてわいわい騒いでて、運転をしていた父親に怒られた。


俺はあの虹を今でも、鮮やかに覚えている。




◆   ◆    ◆



あれから、6年。


「あちゃー、傘持ってきてなかったな…まいったな」
まさか、雨が降るなんて思ってなかった。烈は憂鬱そうに空を見た。
しとしとと降り続く雨。いつ止むかなんてわかりようもなかった。
このまま帰ってもいいけれど、そうしたら制服がぬれるからそれもやっかいだ。
「止むまで、待つかな…」
「烈兄貴、どうしたんだ?」
「豪…」
外を見て、豪はなにが感づいたらしく、にやにやと笑った。
「あ、もしかして傘忘れた?」
「…ああ、そうだよ。そういうお前はどうなんだよ」
「じゃーん」
しっかりと黒い折りたたみ傘を持っていた。
「なんで…」
「んー、今日玄関で鳥が低空飛行してたからかな?」
「は?」
訳がわからない、という顔をした烈に、豪は苦笑した。
「烈兄貴使えよ。俺部活でもうちょっと遅くなるから、それまでに止んでるだろうし」
「豪…、なんだよ、今日はやけに親切だな。なにかあったか?」

「いや、あのときに虹を見せたくれたお礼をしてなかったなって思って」

「虹?」
「じゃ、またな烈兄貴」
「あ、ちょっと豪!」
折り畳み傘だけ押し付けられ、風のように消えた豪を見て、傘を見つめた。
「お礼、か…」
なんだったっけ。と思いながらも、烈は折り畳み傘を広げた。
思い出そうとしてふらふらと歩き、15分ほどしたら、雨があっという間に止んでいた。
「虹だ…」
透明な空いっぱいに掛かる虹。
「前も、通り雨で虹がかかったことがあったっけ…」
いつだったかはもう忘れてしまったけれど。豪がすごく喜んでいた。

「そうか…鳥の低空飛行……」

鳥が低空飛行で飛んだら、通り雨が降る。
そんなことを豪に言ったのは…間違いなく烈自身だった。
「豪、覚えてたんだな…」
だから、玄関先で鳥を見て、折り畳み傘を…。

(今度は、何か僕がお礼をしてやらないとな)

傘を畳んで、雲が去った空を見た。

低空飛行の鳥が、急旋回して高く羽ばたいた。










 

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