チェリッシュ・ノスタルジア
 





風輪町の都市伝説に、こんなものがある。

”山にある一本の桜が満開の日、満開の時に、願い事をするとなんでも願い事を叶えてくれる”

「へぇ…」
豪は一本の桜を見上げて、感嘆の声を上げた。
じっとその桜の枝を見つめると、納得したように頷いた。

そして、それだけで、後ろを振り向いて立ち去っていった。


チェリッシュ・ノスタルジア


春先は、雨が多いと言う。
だからこそ、花冷えなんて言葉がある。お花見をしようにも、雨が降っていてはあっという間に散ってしまう。
雨は憂鬱になることばかりだ。
冷える身体を抱きしめながら、烈はそんなことを思った。
「…なんだよ、烈兄貴」
「別に」
しとしとと雨が降り続く。
暗い中で、降り続く雨の音を聞く。
「こういう静かなのも、なんだかいいよな」
そういいながら、豪はベッドの上に身を委ねた。
しなやかな肢体を惜しげもなく晒して、まどろみへ落ちるように眼を閉じる。
「風邪引くぞ」
「すぐ戻るから」
そう言って、眼を細めて笑った。
こういうときの豪は、どこか扇情的で別人のようだと、烈は思う。
薄闇の中で二人きり、夜の世界に身を浸す。
さっき気の済むまで求め合ったせいか、身体少々疲れてる感じだった。豪に求められて、翻弄されるのも悪くは無いけれど、どちらかというとこういう二人きりで一緒にいるだけのほうが、烈は好きだった。
豪の中に潜む何かが、垣間見えるような気がした。
血の繋がった兄弟で絡みあう狂気。それをも超越する欲望やら思いやら。たぶん、愛情なんてのも混ざってるんだろう。
受け入れてる自分はなんだ。
そう、自問する。
答えはいくつか浮かんだが、豪と同じ気持ちだったから、といつも結論付けた。
夜は好きだ。電気さえ消していれば、あとは何も見えないのだから。なにも考えなくていい。
雨は降り続いている。
微かな呼吸の音を掻き消すように、屋根やベランダに当たる音が響く。
「そういえばさ、兄貴」
「ん?」
「山桜の都市伝説って知ってる?」
「都市伝説?」
「そう、まぁ、風輪町だけの噂だから、都市伝説ってほどでもねーんだけど」
「どんな話なんだ?」
「山に一本だけある桜が満開になったときに、願い事をすると、なんでも願い事が叶うんだとさ」
「なかなか難しいな」
そういって、烈は苦笑した。
「なんで?」
「まず、その桜がどれかわからない。桜なんていくらでも咲いてるだろ」
「あ…」
「あと、満開のタイミングが難しいな…、今日だったら…」
窓の外の宵闇。
雨の音はしとしとを降り続く。
「…たぶん、もう散ってるな」
「夢がないな、兄貴」
「桜に夢を求めてどうするんだよ」
「兄貴、桜苦手?」
「いや、別に…そういうわけじゃ…」
「あ、そうか。よくあるもんな。”桜の木の下には死体が埋まってる”って…」
「よくあるじゃない、それは話の中の一説だ」
「そうなんだ」
「梶井基次郎の短編小説だったかな、確か…そんなフレーズがあった。あんな綺麗な花を咲かせるのは、きっと死体が埋まってるから…なんだとさ」
烈は眉をよせながらも、淡々と答えた。
「何で兄貴そんなこと知ってるんだ?」
「……」
思い出したくも無い、とばかりに、眼を瞑った。
「…兄貴?」
「…いいたくない」
「あ、そう…」
言いたくないというのなら、無理に聞かなくてもいいか。と豪はそれ以上聞こうとしなかった。
「実はさ、俺知ってるんだ。その桜の樹」
「…え?」
「願い事が叶うかもしれない桜。今から行かないか?」
「今から、か?」
「眠くないなら、行こうぜ。きっと、最後のチャンスだ。そんでもって」
豪が、起き上がる。

「烈への最初の誕生日プレゼントになるのかな」

少し驚いた顔をして、烈は豪を見上げた。
わざと呼び方を変えていた。
「…豪……」
「春の雨に夜の散歩。なかなかロマンチックだな」
「濡れるだけだ」
「だから、兄貴は夢がないんだよ…」
ため息を吐いた。
「おまえがロマンチストなだけじゃないのか?」
「なんだよ…」
「いや、なんにも」
何か思い出すように笑った。
「動ける?」
「今日はお前もあんまりがっつかなかったし、たぶん平気だ」
「がっつくって…」
「なんだよ、事実だろ。ひどいと腰痛になって腹壊すのは俺なんだぞ」
「う…すみません…」
よしよし、しょげた豪を犬のごとく撫でた。
「…少し待ってろ、着替えるから」
「あ、俺も」

時刻、夜明け前の4時半。

明かりをつけないように、闇の中で、烈と豪は手を繋いだ。
「すぐ戻るんだぞ」
「わかってる」
繋がない手で傘を持って、もう片方の手で指と指を絡めた。
「なんか、変な感じ」
「…ん?」
「ガキの頃に戻ったみたいだ」
「…そうだな」
子供のころは、たぶんこんな深夜に出かけたりはしなかっただろうけど。
電灯に降る雨が見える。
雨の形が見える。
「兄貴、こっち」
豪に誘われるままに、迷路のような明け方の夜を歩いていった。
光は電灯のみ、雨のおかげで虫さえ飛ばない。
誰もいない。冷たい気温の中で確かな温かさは豪の手のひらだけだった。
ときおり、身体が軋むように痛むのを我慢して、彷徨うように歩いた。
「…大丈夫?」
「大丈夫だ」
豪の声には、そう答えた。
雨は小降りになり始めていた。
塀をすり抜けるように奥へ。薄灰色の空が少しだけ明るみを増した。
「この山?」
「そう」
暗闇の中で、さらに闇が広がる山の中。
雨のしずくがぽたぽたとさらに大きな音を立てる。
「ここに桜があること、知ってる人少ないんだぜ」
「へぇ…」
そういう、烈も知らなかった。烈と豪は傘を畳み、急な坂道を登る。

暗い森のような山をひたすら歩く。平衡感覚すら無くなりそうなものなのに、豪は平然とした顔で歩いていた。
やがて、広い場所へ出た。そう高くない山だ。そこには一本の枝垂れ桜が雨に濡れて花を咲かせていた。
「…ここ、願い事が叶う桜」
「…すごいな……」
開花が遅く咲き始めだったせいか、あまり散ることもなく薄紅色の花をいっぱいに開いていた。
「願いが叶いそうな桜だろ?」
「ああ…」
確かに、願い事が叶う、と言われたら信じそうなほど、見事な桜だった。
「これ、山桜なのか?」
「さぁ、誰かが手入れしてるかもしれないけど、山にあるんだから山桜でいいんじゃないのか?」
「そういうものか…」
そういうもの、と豪は目を細めて笑った。

「誕生日、おめでとう。烈兄貴」
「…ありがと」

あんまりにも豪は幸せそうに笑ったので、烈もその気持ちにこたえるように微笑んだ。
「…あ」
「ん?」
「しまった…プレゼント持ってくるの忘れた…」
「いいよ、帰ってからで」
「やだ。今からダッシュで持ってくるから、兄貴はそこにいてくれよ!」
うんという暇もなく、豪は駈け出して行ってしまう。
後ろ姿を見送り、烈はため息をついた。
「まったく…」
こんな山の中で、一人きりにするなっての。
心の中だけで、そうつぶやいた。


桜の下には、死体が埋まっている。

その話を聞いてしばらく。その語源を知りたくて調べた。
答えは作家の冒頭文。確かに妖しいほど綺麗に咲く桜には、死体でも埋まってるかもしれないな。と烈は妙に納得して、それで終わった。
知りたかった理由は、単純に怖かったから。そのときは、そう思っていたのだ。

「そういえば、願い事をすると叶うんだっけ、この桜」
散ってる様子もない、つぼみもほとんどない、見た限り、満開の枝垂れ桜だった。
「願い事、か…」
豪と、そういう関係になって、不安になったことは何度もある。
それでも、それをわかって豪の気持ちを受け入れている。自分も同じ気持ちだ。
後悔はしてない。

だから、今になって願い事なんてない。

桜を見上げると、風に吹かれて、枝が揺らめいた。
「…不満なのかな」
雨が上がり、雲が少しずつ薄らいでいく。
月はすでに沈みかけ。朝焼けの色をした光が桜を照らした。
「もし、願い事が叶うなら、か…」
「烈兄貴ー」
「豪」
振り向くと、豪が早足で戻ってきていた。
「ごめんごめん、遅くなって」
「いや、別に…」
「ほら。これ」
「……」
渡されたのは、缶ジュースだった。
豪もおなじものを持っていた。
それを豪を交互に見比べて、目を細めた。

「これが誕生日プレゼント?」

「んなわけねーだろ!」
豪のつっこみに、そりゃそうだろうな。と納得して、缶ジュースの蓋を空けた。
「あーあ、もう夜明けだな」
「そうだな」
ジュースを飲みながら、雨の薫りがする木々を眺めていた。
「なぁ兄貴、俺がいない間、願い事した?」
「ん…、そうだな」
桜がゆらゆらと揺れる。

「俺には必要ないよ」

そう、呟いたとたんだった。
ざあっと、風が待った。
「うわっ」
腕で顔を覆った。
突然の強風に、桜の花びらがいっせいに舞った。

「あ…」

最後のチャンスだったのかもしれない。
願い事が叶う桜が散っていく。
ばらばらと音を立てて、崩れていく気がした。
「あっという間だったな」
なぜか、烈は桜に向かってそう言った。

「なんだよ、烈兄貴桜に興味なかったんだじゃなかったのか?」
「ん…見るのは好きだよ」

烈の含んだ言い方に、豪は口を尖らせた。
「で、誕生日プレゼントって何だった?」
「え…ああ…これ」
豪から烈に渡ったのは、紅色の小さな箱だった。
「…なんだろ」
「さぁ?」
はぐらかすように、豪は笑った。

「ま、いいか。ここで空けると濡れるからな。帰ってからあけよう」
「じゃ、戻ろうか」
「そうだな」

帰りは行きと同じように手を繋いだけれど、それは途切れ途切れになっていた。
人が近づくたびに、少し離して、また繋いだ。
「不便だな、こういうの」
「…俺は結構好きかも」

指先だけ繋いで、その温もりに、一瞬だけ眼を閉じた。


◆    ◆     ◆


結局徹夜になったな、と烈は思いながらベッドに横になった。
あと2時間もない。
真っ赤な箱をじっと見つめた。
「…なんだろ、豪のプレゼント……」

リボンの飾りすらない箱をあけた。


”HAPPY BIRTHDAY!! RETSU!!”

そう書かれたメッセージカード。
「豪の奴…」
思わず笑いがこぼれた。豪に聞こえないように、声を殺して笑った。
そうしたら、久方ぶりに少し泣いた。

豪の誕生日プレゼントを箱に戻して、蓋を閉じた。
あと少しの惰眠を貪るために。

「ありがとな、豪」

箱に語りかけても何も帰ってこない。
起きたらちゃんと豪に言おう、そう思って、烈は眼を閉じた。




豪のプレゼントの中身は…烈のみぞ知る。
 

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