Schwarzer Sarg


眠る彼は、まるで死んでいるように見えた。規則正しい呼吸音がそれが偽りだということを知らせる。
それが誘っているかのように。欲望のままに、彼に身を寄せた。
頬に指を滑らせてみるが、起きる様子を見せない。
恐怖感と期待感に苛まれながら。このまま、首を絞めてしまおうか。
指がぐっと力をこめて皮膚に食い込まれる。
気道が塞がれる感覚が親指に伝わって、背筋が凍るようだった。
「……っ」
できるわけがない。
本当に首を絞めたいのは誰なのか。彼を身代わりにしているだけ。
あんまりにも、一方的じゃないか。こんなの、誰が喜ぶっていうんだ。
「…えー、りひ、くん?」
ぼんやりと、紅玉色の双眸が僕を見つめる。あまりにも至近距離。彼の瞳の中に、灰色の自分が見えるよう。
「…レツ………」
しどろもどろになる暇もない。硬直していた。
「…いま、何…して、た?」
「………あ」

答えることも、できなかった。


+   +    +


彼が絵葉書を集めることが趣味だということを、ふと聞いた。
そこで、ただの親切心のつもりで家にあった絵葉書を数枚、エアメールで送った。
かなり古いもので、誰も使う人もいなかったものだから。セピアやら、モノクロやら、そんな寂れたものだったけれど。
彼にとっては、とんでもなく嬉しいことだったらしい。
丁寧に返事の手紙が届いた。
わざわざ手書きで、ドイツ語を勉強したんだろう初心者の文体。

思えば、そこからだった。

手紙はいつしかメールに代わり、誰かに言えないことも、レツになら書けた。
顔の見えない相手。聞いてくれても決して相手には迷惑をかけない距離。
そして、グランプリでの面影は自分の中でレツを美化しつつあった。
「日本に行くことになりました」
そうメールで送ったとき、送信ボタンを押した指が震えていたことを覚えている。
レツからすぐに返事が来た。とても喜んでいる。それが文章だけでわかる。
5年の歳月は彼がドイツ語で文章を普通に書けるようになるまでには十分な時間だった。
そして、僕は…。
自分の中でのレツの想像は、限界まで膨らみつつあった。
それがどんな異常で、歪んだ思いだと気づきながら、見てない振りして。



5年ぶりに、彼とあった。
想像で作った彼にとてもよく似ていた。柔和な笑みも強気の笑みも、そのままに。
「ようこそ、日本へ」
レツは、自分の手を引いて、微笑む。
手首が、疼きそうだ。
回転寿司のわさびの辛さに笑われつつ。カフェテリアでいろいろなことを話した。
5年会っていなかったけれど近況は知っていた。
レツの好きな緑茶を、始めて飲んだ。まったく甘くない。
「よく、爺くさいとか言われちゃうんだけどね」
そういって苦笑いを浮かべる。
「なんとなく、わかる気がしまうよ」
「ひどいな、エーリッヒくん」
眉を寄せていうけれど、怒っているより困っているようだ。
「すみません」
「いいよ…、今度エーリッヒくんの好きな紅茶、教えてね」
「わかりました」
じゃあ、約束。と、レツは自分の手帳に書き込む。

「こんなに誰かと一生懸命話したの、久しぶりの気がするよ。来てくれてありがとう」

それは、こちらの言葉だ。
こんなに自分のことを話して、楽しかったことなんて滅多にない。
否定もしない。ただありのままに受け止める。

「あの」
「…ん?」

「もう少し、話していてもいいですか?」

空はもう、水色と黒の境界にある。
「連絡してみる、たぶんいいって言うと思うよ」
レツはルビーレッドの携帯電話で誰かに話していた。口調からして、たぶん弟のゴー・セイバ。
「うん、ごめん。もしかしたら泊まるかも」

…え?

泊まるかも、って…どういう意味だ?
意味がわかりかねて、混乱する。
「ああ、母さんにも言っておいて、それじゃ…」
ぱたん、と携帯電話を閉じる。
「エーリッヒ君?」
「あ、いえ…レツ、今の電話。泊まるって…」
「ああ…もしかしたら。って意味だよ、大したことじゃない」
それ以上の言及は許さない、と声色が語る。

「もう遅いね…ホテルに戻る?」
レツの心が、わからない。

ホテルは、僕の泊まるところ。けれど、レツと一緒になればその先は。
彼の赤い髪がふわりと揺れる。

「…何か、考えごとしてる?」

僕の指を握り締めたこの手は、どこに続くんだろうか。
かたかたと、歪んだ思いが棺の中から音を立てる。
その中身は真っ黒な恋心だった。

深夜になっても、彼との話は終わらない。
泊まるかも、という彼の言うとおり、もう戻れない時間まで来ていた。
幸いにも、というか、自分の部屋は2人部屋を1人で借りていた。
「レツ、喉、渇きませんか?ずっと喋りっぱなしですよ」
「あ、そういえば、そうだね…」
「買って来ますよ」
「ありがとう」
レツは、にこりと微笑む。
「すぐに戻りますね」
扉は閉ざされる。

わからない。
僕は、わからない。
レツは唯一無二の親友で、もちろん、これは勝手に僕が思っているだけなのだけど。
そして、歪んだ思いを持つ唯一の相手。
なのにこの状況はまるで。

”レツがこの状況を望んだ”ように思ってしまうのは何故だ。

あるわけがない。
レツは、そんな風に僕を思っているわけがない。錯覚だ。幻聴だ。
がらんと缶の緑茶を2つ勝って、戻った。


…レツが無防備な姿を眼前に晒していた。



+   +    +


硬直したままの自分。しばらく見つめていたレツだった、やがて諦めたように笑った。
「ごめんね」
一言、レツは僕にそう言った。
「どうしてですか…何故、あなたが僕に謝るんですか」
「だって、そうしたのはたぶん僕のせいだから」
「……」
痛ましげに、うつむいた。
「ごめんね」
呪いのような、謝罪の言葉。祝いのような、謝罪の言葉。
レツが、腕を伸ばす。

「…本当に、ごめんね」

「レツ…あなたは……」
いつでも逃げ出してもいいとばかりに、片腕にしがみついていた。
その気になれば、片腕で払いのけてもいい。と。
意味はわかる。けれどそれは…本当にそういう意味だと、驕ってもいいんだろうか。
棺が、かたかたと音を鳴らす。

「……変な人だって思うんだろうね」
苦笑しながら、レツは言う。
「楽しかったんだ…本当に、何もかも…だから抑えられなかった…会わないほうが、よかったのかな」
途切れ途切れに、紡がれる言葉が脳に響く。
黒い棺ががたがたと音を立てる。出して欲しいと叫んでいる。
レツが、紐に手をかける。引き止める手段はなかった。

あなたは、友人という垣根をとうに越えてしまっていたのかもしれません、ね。

「レツ、顔を上げてください」
しがみついた腕を放して、指と指の間に自らの指を滑らせる。
「エーリッヒ、くん?」
戸惑いの声が漏れる。

気づくのが下手なのも、行動が遅いのも、お互い様だ。
あなたは、墓荒らしだ。けれどそれでよかったのかもしれない。

生きたまま埋められて腐り果ててしまうよりはあなたに見つけて欲しかった。

「朝まで、一緒に眠りましょうか?レツ」
「いいの、かな」

「ええ…あなたのことをもっと知りたい。これからも、ずっと」

黒の棺は、解き放たれる。
「後悔するよ」
「…たぶん、それは、お互い様ですよ」

目覚める先に、視界はおそらくない。
それで構わなかった。
赤い秘宝は、すぐそばにあるのだから。







なんというか…耽美&ゴシック系?



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