薄闇と透明に至る蝶々 -catharsis-
「…ねぇ、烈兄貴の友達って、アンタらのこと?」 「えぇ?烈兄貴って……お前誰?」 「星馬豪。星馬烈の弟だけど。兄貴の行方知らない?」 「知らねーよ、女でも出来て逃げたんじゃねーの?」 「……そうかよ」 踵を返した。聞くんじゃなかった。と唇を噛んだ。 ……烈兄貴が家に来てしばらく。 俺は烈兄貴が通ってた大学に言ってみたことがある。 そこでの烈兄貴のことは、やはり外見上で、よくわからなかったけれど。 あまり、居心地のいい場所じゃなかったんだなということだけはわかった。 「……」 もっとも、俺の傍が兄貴にとって居心地のいい場所かどうかは、わかんないけどさ。 「おはよ、兄貴」 クローゼットを開けると、兄貴は笑って迎えてくれた。 完全に昼夜逆転生活に慣れた兄貴は、睡眠薬を飲まなくても自然と朝に眠るようになった。 身体に縛った布を解くと、兄貴は首をくるりと一回だけまわす。 「やっぱ痛い?」 「寝返りも出来ないからな。でも慣れればどうってこともない」 お前が心配することじゃない、と意思表示のように俺に倒れこんだ。 ふわりと流れた赤い髪に、ふと気づく。 「髪、ずいぶん伸びたんだな」 「そうなのか?あんまり気にしたこと無い」 どうでもいいとばかりに、兄貴は眼を閉じる。 もう、兄弟なんてのは形式上のことで、今はなんて呼べばいいのか分からない。 飼う側と、飼われる側?そんな単純なことじゃない。 ただ…… 独り占めしてる。 「ほら、起きて」 「うん……」 兄貴はなるようになるまま。 俺が運ぶスプーンを、兄貴は普通に受け止める。 「…味、ちょっと変わった?」 「うん、ちょっとね」 「美味しいよ」 「…ありがと」 ちょっとだけ、笑った。 「兄貴。傷はもう大丈夫?」 さりげなく聞いてみると、兄貴は少し眉を寄せて、 「痛くないから、たぶん平気」 そう言って、目を閉じた。 「そっか、よかった」 「…うん」 他愛の無い会話だけ。カチャカチャ鳴る音だけが部屋に響く。 このままでいいのかな、って思う気もするけど、そろそろ次のステップに進みたい。 いいよね、兄貴。 「兄貴、俺の頼みを、一つだけ聞いて?」 ◆ ◆ ◆ 辛く、はないと、思う。 しっとりと汗ばんでいる肌に、吸い上げられていく。 「うぁっ……」 息を吐いて、吸って。ただ感覚に集中すればいい。 舌を撫でられる感覚に、背筋から電流が流れて、跳ねる。 この身体でわかる、確かなこと。 贖罪なのだろうかとも思う。汚れてしまったことと、此処へ来たことの。 決して無理やりじゃない。だけど、腕を拘束されたまま、自由に動けないのに高められていく熱は、苦しい。 「…はっ……」 呼吸の仕方さえ、忘れてしまいそうな。押し流しそうな恍惚ともとれる感覚。 舌を深く絡められると、そんなことさえどこかへ行ってしまった。 ふと、唇を離して、目を開けてみると、そこには深い色の青の瞳。 「やっぱ、まだ辛い?」 困ったような笑顔で聞いた。僕はゆっくりを首を振る。 「辛くないよ、好きにすればいい。でも……」 「でも?」 「あんまり、褒められたことじゃないな。手首を拘束しないと不安か?」 「そういうわけじゃないよ、ただ…そういう抱き方が、好きなだけ」 「悪趣味」 「……ふふ」 それを受けていれてるのは兄貴だろ?とは言わなかった。 お互い高めていくだけで、決して僕をどうこうしようというわけではない。 抱き枕の延長線なのだ。これは。 いつまで続ければいいのか、わからない。 不安になる。 弟の何かを、僕が壊しているような気がして。 「ねぇ、兄貴」 「何だよ?」 「俺が好き?」 「……嫌いじゃない」 そうとしか言えなかった。 肌を滑る温かい肌に、僕は少しだけ指を食い込ませた。 ここは温かい籠の中。 けれど、やっぱりただとは言えなくて。毒の蜜を、与えてくれる。 籠そのものを、ゆっくりと溶かしながら。 だから、豪。 もう終わりにしよう。これ以上、お前が溺れて帰れなくなる前に。 僕は……もうわからないけれど。 温かさを全身で感じて、震える快感が走った。 それでも、目醒めは、あっけなく訪れる。 「豪……青い空が見たい」 一言だけの呪文。籠をあける鍵。 「………そっか」 豪は微笑んだ。そして、一回だけ深くゆっくりと瞬きをした。 「うん、見てきなよ」 手首の紐を、豪は解いてくれた。 扉の鍵はかかっていない。 「豪……」 「また、いつでも来なよ」 閉じ込められていたクローゼットから、服を出してくれた。 「今なら、単位を頑張って取れば1年留年で済むと思う。…戻れるよ」 透明になっていた蝶々は、日の光を浴びて、色を取り戻す。 「……ごめん、豪」 豪が首を振った。 「頼ってくれて、嬉しかった。俺は兄貴が好き。本当は、行かせたくないけど、無理強いは出来ない」 「豪……」 服を着た僕は、豪に近づいて、ゆっくりと抱きしめた。 この細くなった腕で。 「烈兄貴…」 豪は不思議そうな顔をした。 「ずっと、こうしたかったんだ」 「…そっか、嬉しいな」 笑って、目を閉じた。 それが、楽園の終わり。 ◆ ◆ ◆ 俺がどうして兄貴を縛ったのか。 すこし、踏み外してみたかったのだ。 何の打算も、思惑も無く、兄貴を囲ってみたくなった。 驚いたことは、兄貴が縛ったことに、何の抵抗もしなかったこと。 少し怖くて、それでも楽しい。 赤い目も、赤い髪1本1本も自分のモノだって自覚してみたかった。 でも、兄貴がここを飛び立ってから、母親から兄貴が帰ってきたと連絡は無かった。 …行方知らずの兄貴。 きままに青い空にでも飛んでるんだろうか。 そうしてぼーっとしていると、 こん。 一度だけ、ドアを叩く音がした。 「……」 黙ってドアを開けてみると、そこには思っていた赤い色。 「……ただいま」 変わらない、笑顔。でも困っているようだった。 「ごめん、豪。お前を道連れにしようと思うんだ」 そういって、ため息をひとつ。 俺はそんな兄貴をめいっぱい抱きしめた。 「お帰り、烈兄貴」 蝶々は籠の蜜の味が忘れられなくて、戻ってきてしまいました。 籠と共に、散り逝く覚悟をして。 そしてまた、蝶々は色を無くすことを選びました。 今度は、繋がれているのかどうかは、誰も知らない。 |
背景:廃墟庭園