■闇に惑う心を抱いて■


−1−


 何で、こんな思いをしなければいけないんだろう。
 こんなふうに生きるために、俺は生まれてきたんだろうか。

 それなら、生まれてきたくなんてなかったのに―――





 最も忌むべき日。
 自分の出生を、思い知らされる日。
 それが、今日。


「……はあ……はあっ……」
 路地裏に辿り着き、地面に座り込む。
 息が上がっていた。
 周りを見ないよう、人間が目に映らないよう、ここまで全力疾走してきたから。
 それでも、まだ動ける。
 息が上がっていても、それ自体は全然苦痛じゃない。
 体力は落ちてきてはいるものの、まだまだ普通の人間には劣らない。
 そう、肉体的には。
 この苦しい息は、肉体的な疲れではなく、精神的に参ってのものだった。
 気をしっかり持たなければ。
 油断すれば、俺は―――


「具合、悪いのか?」
「―――っ!」
 突然、かけられた声に、俺は思わず顔を上げてしまった。
 目の前に立っていたのは、グレイのスーツを着た長身の男。
 ―――まずい。
 見てしまった。
 今まで、人間を見ないようにしてきたのに。
 こんな人気のない路地裏に人間など来ないと思っていたのに。
 油断した。
 どうしよう……どうしよう!
 ここから逃げる?
 ……無理だ。
 後ろは行き止まり。
 そして何より、目の前に人間がいるのに。
 欲してやまない―――があるのに……。
 それを振り切って、逃げる事なんて出来ない……!

 俺の意志とは関係なく、本能が湧き上がる。
 ……駄目だ。
 絶対、駄目だ。
 負けてはいけない。
 懸命に自分の意志を保とうとする。
 本能と自分の意志が、闘う。
「……っ……ううっ……」
 そうやって、何とか本能を抑え込む。
 必死の思いだった。
 けれど、それがまずかった。
 苦しそうに息をしながら呻く俺に、男が更に近寄ってきたのだ。
 恐らく、相当具合が悪いように見えているのだろう。
 普通の状態だったなら、親切な人だと思ったかもしれない。
 けれど今は、迷惑なだけだった。
 ……大体、被害を受けるのは、そっちのほうなんだ。
 そうならないように、こうやって身を潜めているのに……。

 男の動きは止まらない。
「く、来るなっ」
 男を見ないように視線をそらしながら、言い放つ。
 にも関わらず、足を止める気配はなかった。
 それどころか、段々2人の距離が縮まっていく。
「こっちに来るなよ……っ」
 俺に近づくな……!
 いくらそう言っても、男は聞き入れない。
 それも当然で、俺は立つことも出来なかったのだ。
 怖くて。
 動いたら、どうにかなりそうで。
 それを、具合が悪いために動けないと勘違いされても仕方がなかった。
「……掴まれ」
 手を差し伸べてくれるが、俺はその手を取らなかった。
 取れるわけがない。
 触れてしまったら、もう止められない。
「やめろ……近づくなって言ってるだろっ」
「黙ってろ。具合悪いんだろ」
 これだけ言ってるのに、こっちの気も知らないで……っ。
 ……もう、どうなっても知らないからな……。
 ふと、そういう考えが浮かぶ。
 そう、本能のまま行動すれば。
 そうすれば、楽になれるだろうから。
 だから俺は。
 目の前にいる男を―――
 ……って、何を考えてるんだ、俺はっ。
 今まで考えていたことを慌てて振り払う。
 そんなことをしたら、今までのこの苦労が水の泡になる。
 それだけは、嫌だ。絶対に。
 ぐっと拳を握りしめた瞬間、身体が宙に浮かんだ。
「な……っ」
 勿論、本当に浮かんでいるわけではなくて、俺は男に抱き上げられていたのだった。
 同時に、男が持っていた鞄を押しつけられる。
 持っていろということらしい。
「は、離せ……」
 俺の頭の中は真っ白になる。
 どうしようどうしよう、どうしよう……!
 パニック寸前だった。
 けれど、とにかく離れなくちゃいけないということは解っていて、俺は無茶苦茶に暴れた。
 どう暴れたのか自分でも解らないほど、暴れまくった。
 人間に触れている。
 それを意識しないために。
 意識する暇がないくらい、暴れた。
 これだけ暴れれば男も諦めるだろうと、そういう気持ちもあった。
 というより、さっさと俺を降ろして欲しかったのだ。
 別に降ろすなんて丁寧な動作でなくても良い、落とされても構わないから、解放して欲しかった。
 それが俺のためで、何よりこいつのためなんだから。
 けれど、そんな思いが男に伝わるはずもない。
 押さえつけられて、身動きできないように抱き込まれた。
 もう、駄目だ。
 限界だ。
 これ以上、自分を抑えられない―――!
 俺がその気になれば、この程度の拘束なんて何でもない。
 決心して、男の顔を見上げた。
 男の表情からは、感情が読めなかった。
 男は俺の顔をまっすぐ見下ろしている。
 目が合う。
「……何だ?」
「…………」
 男の目を見ていた俺に、男が訝しげに訊ねてくる。
 俺は、答えられなかった。
 男の黒い瞳に吸い込まれそうな感覚を覚える。
 その瞳から、目が離せなかった。
 この黒が、どこまでも深く続いているようで。
 ―――もしかしたら、見とれていたのかもしれない。
 少なくとも、俺の本能は抑えられていた。
 不思議なことに、あれだけ欲していたものを欲しいと思わなくなっている。
 こいつ、一体……?

「行くか」
 男は俺から視線を外し、俺を抱えたまま歩き出した。
「ちょっと、どこ行くんだよっ」
 視線が外されたことによって男の瞳から解放された俺は、今の状況を思い出し慌てて叫んだ。
 男はそれには答えず、さっさと路地裏を出ようとする。
「なあ、離せって! 何考えてるんだよ、あんた」
 このままだと往来へ出てしまう。
 こんな恥ずかしい状態で。
「なあってば!」
「……俺の家だ」
「はあ!? 何で俺があんたの家に行かなきゃなんねえんだよ」
「…………」
「何、黙ってんだよ。答えろよなっ」
 何なんだよ、こいつは。
 さっきから何か訊ねても、まともに答えない。
 返ってくるのは短い言葉だけ。
 無口なだけなのか?
 ……って、いつの間にか往来に出てるし!
 周りの人がこっちを見ている。
 男が男に抱き上げられて往来を歩いているんだ、注目も浴びるというものだ。
「おい、聞いてんのかよ!」
 耐えきれなくて、男に再び言う。
 せめて、人のいないところへ。
 そう思って。
 けれど男は、相変わらず感情の読めない表情と口調で、言い放った。
「……俺は、ここでお前を放って行っても構わない」
「…………っ!」
 それだけは勘弁してくれ!
 そう心の中で叫ぶ。
 こんな往来で、こんなに目立って。
 それでその中に俺ひとりだけ置いて行く?
 冗談じゃない。
 それに、こんな人通りの多いところに取り残されたら、俺は……。
 思わず、男にしがみつくようにしてしまう。
 あまり身動きはできないので、微かに身体を捩った程度でしかなかったが、男にはそれが解ったらしい。
 小さく笑われたような気がした。
 途端に俺は、むっとして、
「な、何が可笑しいんだよ!」
 そう怒鳴ってやった。
 けれど、男は表情を崩さない。
 俺を抱えたまま、周りを気にすることなく、歩き続ける。


 どのくらい歩いただろうか。
 様々な建物が並ぶなかでも、一際高く立っているマンションの前で、男は立ち止まった。
 そして、そのマンションへと入って行く。
 当然、俺も一緒に。



2003/3/22



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