■闇に惑う心を抱いて■


−2−


 マンションの中に入って、エレベーターに乗り込む。
 身動きが取れないせいで、何階に行こうとしているのかは解らなかった。
 エレベーターから降り、男は無言で歩みを進める。
 しばらく歩くと、男は俺が持っていた鞄から鍵を取り出した。
 どうやら、男の部屋に着いたらしい。
 俺を抱えたまま鍵を開け、中に入る。
 俺は、中の様子を見る余裕もなく、じっとしていた。


 リビングに着き、俺をソファに座らせると、男はスーツの上着を脱ぎ始めた。
 ネクタイも外す。
「……なあ、着替えるんだったら、部屋で着替えれば? 何で、こんなとこで……」
 言いかけて、口を噤んだ。
 ワイシャツのボタンを3個外し終えた男は、覗き込むようにして俺を見ていた。
 心なし……すごく距離が近いような気がする。
 ふと湧き上がるのは、さっき抑えた本能。
 けれど、さっきとまるで同じものではなくて。
 本能は本能でもさっきのとは違うように感じる。
 感じるけれど……。
 それでも結局、本能は本能で。
 俺は今、相当やばいことになっていた。
 顔を近づけるな、顔を!
 そう怒鳴ってやりたいが、言葉にならない。
 俺は焦って、何もできなかった。
 そうこうしているうちに、男は俺の肩に頭を乗せた。
 目の端に見えるのは、男の首筋で―――
 そこに目が釘付けになってしまう。
 慌てて目をそらそうとするけれど、どうしてもそこに目がいってしまう。
 俺は、出来るだけ見ないようにして、
「……っ、な、何だよ!?」
 辛うじてそれだけ口にする。
 そして。
 俺は、次の男の言葉に、耳を疑った。

「―――欲しいんだろ?」

 ―――何が?
 何が欲しい?
 俺がその言葉で解るのは、ただひとつ。
 けれど。
 この男は、それを知っているのか?
 それとも、別の意味なのか……?
 俺は硬直してしまった。
 肩に乗った頭が、微かに揺れる。
 含み笑いをしたようだった。
 けれど、俺にはそれを咎める余裕もなかった。
 動揺していた。
「どうした? いらないのか?」
 そんな俺を嘲るように、男は低い声で囁く。
 俺は、身震いした。
「な、何、を―――?」
「とぼけなくても、解ってるさ」
 解ってる?
 解ってるって?
 もしかしてこいつ……。
 こいつ、知ってる?
 俺のこと、解ってる!?
「あ、あんた……知って……?」
 俺が恐る恐るそう言うと、男は顔を上げた。
 至近距離で俺を、射すくめる。
「……ああ、知ってる。だから、あげるって言ってるんだ」
「何で、知ってるんだよ!? 解ってて声かけたのか!?」
 俺の声は完全に上擦っていた。
 どうしようもなく、震える。
「最初は解らなかったよ。まあ、様子を見ていて見当はついたけどな」
「な……じゃあ、解ってて俺をここに連れてきたっていうのか!? あんた、怖くないのかよ!!」
「怖い? 何故? そんなことあるはずないだろ。あげるって言ってるんだから、大人しくもらっておいたら?」
 ぐい、と唇に首筋を押しつけるようにされて俺はきれた。
「ふざけんな! そんなもんいらねえよ!」
 そう言わなければ、自分を抑えられないと思った。
「そんなもん……か。でも、必要だろ?」
「……っ」
 必要?
 ああ、そうだよ。
 確かに必要だよ。
 ……そうかもしれないけれど、俺は絶対に嫌だ!
 俺は乱暴に男の肩をひっつかんで、俺から引きはがさせた。
「いらねえもんはいらねえんだよ! 俺は……俺はっ、人間の血は絶対に吸わない! そう決めてるんだ!」
 これ以上ないってくらい、鋭く男を睨みつける。
「人間の血、か……」
 男は、馬鹿にしたように薄く笑う。
「そんなに血を吸うのが嫌なら、家にでも閉じこもっていれば良かっただろ? 満月の夜に出歩いて血は吸いたくないって?」
「うるさいなあっ。俺だっていつもは家から出たりしねえよ! 今日は、兄貴が家使うから仕方なく……!」
 そうだ、兄貴さえ。
 勇士兄さえ家を使わなければ、こんなことにはならなかったのに。
 本当だったら今頃、家でいられたのに。
 俺がそうやって言い返すと、男は考え込むようにして、こちらを見る。
 驚いたように見えたけれど、相変わらず表情が変わらないので実際どうなのかは解らなかった。
 やがて、男が口を開いた。
「……まさか、本気で人間の血を吸いたくないなんて言う吸血鬼がいるなんてな……」
「なっ、あんた、何言って……っ……んん……っ」
 抗議の声が呑み込まれる。
 男の、唇で。
「ん……っ」
 抵抗するけれど、強い力で押しつけられていて、離れられない。
 何やってんだよ、こいつ……っ。
 何されてんだよ、俺……!
「……っ!?」
 違和感を感じて、俺は目を見開いた。
 思わず、口を開いてしまう。
「ちょ……おいっ……あっ……」
 それがまずかった。
 口を開いた隙に、男の舌が口の中に入ってきたのだ。
「ん、ん―――っ」
 俺は必死で逃れようとする。
 けれど、逃げれば逃げるだけ追いかけてきて、どんな抵抗も無意味だった。
 散々、好きなようにされる。
「……っは……っ」
 ようやく、唇が解放されて、息を吐く。
 初めてのことに、俺のなかの何もかもがわけの解らない感覚に翻弄されていた。
 それでも、男を睨みつける。
「何すんだよっ……」
 手の甲で唇を拭いながら、絞り出すようにして声を出す。
「俺のことうるさいうるさいって言うけど。お前のほうがよっぽどうるさい。ちょっとくらい黙れ」
「はあ!?」
 それだけ?
 それだけで、キスなんかしたのか、こいつ……っ。
 ていうか、黙らせるためなら舌まで入れる必要なんかないだろうが!
 ……違う、そもそもキス以外に方法はあるだろう……。
「……もう1回、する?」
「……っ、ふざけんな! ……帰るっ」
 男の言葉に、かっとなって怒鳴る。
 ……けれどそれは、動揺してしまった自分を隠すためだった。
 さっきの感覚を思い出してしまったのだ。
 くそっ。
 俺はそんな思いを振り切るように、リビングから出ようとする。
「おい」
 今にも出ていくという時に、不意に呼び止められた。
 立ち止まる理由はなかったけれど、俺は男を振り返ってしまう。
「途中で人間に会ったらどうするんだ?」
「人通りのないところ選んで通るから良いよっ」
 どういうつもりで引きとめようとしているのか、そんなことはどうでも良い。
 とにかく、今すぐここから出ていきたかった。
 この男から離れたかったのだ。
 俺の言葉と様子に、男はひとつ溜息をついて言った。
「……気つけて帰れよ」
「言われなくてもっ」
 吐き捨てるように言って、俺は玄関へと向かう。
 後ろを振り返ってみるけれど、男が追ってくる気配はない。
 それはそれで良い。
 けれど、男が『気つけて帰れよ』と言った時に、何かを含んだような言い方だったように思ったのは気のせいだろうか。
 それが、気になっていた。
 靴を履きながらも中の様子を窺う。
 やはり、男がこちらに来ることはない。
 ……気のせいだよな、やっぱ……。
 そう思い直すと、ドアを勢いよく開ける。
 俺は、わざと大きな音をたててドアを閉め、男の部屋を後にした。



2003/3/22



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