■闇に惑う心を抱いて■


−5−


 ……嘘だろ?
 今、自分の身に起ころうとしていることが、とても信じられなかった。
 こいつは、俺と同じ吸血鬼で。
 そして、その俺の血を、吸おうとしている――?


「や、めろ……っ」
 男の所作を見ているだけだった俺は、首筋に固いものが当たった瞬間、ようやく声を上げた。
 それが、歯――牙だと解ったから。
 動いたら噛みつかれそうで、身を捩ることも出来なかった。
 けれど。
 結局は、動こうが動くまいが、結果は同じだった。
「痛……っ」
 牙が食い込む痛みが、首筋に走る。
 噛まれたのだと、悟った。
 きっとこのまま、血を吸われるのだろう。
 血を吸われるのって、どんな感じなのかな……。
 血を吸うのって、どんなだろう……。
 吸ったことも、当然吸われたこともない俺には、見当もつかないことだった。
 力とか、抜けるんだろうか?
 貧血とか……。
 まあ、大丈夫じゃないかとは思うんだけれど……吸血鬼同士でっていうのは、どうなんだろう……。
 血を吸われようとしているというのに、逃げることも考えずにそんなことを思う。
 どのみち、この状態で逃げられるのかどうかは怪しいけれど。
 今できることなんて、ほとんどない。
 頭のなかで何か考えてることしか、できない。


「……?」
 どのくらいたったのかは解らない。
 痛みとかが襲って来ると思っていたのに、いつまで経っても何も起こらないことを訝しむ。
「……おい?」
 呼びかけても返事はない。
 男と自分の首筋に意識を向けると、噛みついていた牙は抜けていた。
 とはいえ、確かに噛まれたことは噛まれたようで、ひりひりとした痛みは少しだけある。
 けれど、それだけだった。
 とても血を吸われたとは思えないのだ。
「おい……」
 覆い被さっている男の肩に手を掛けて力を入れると、意外にも簡単に押し退けることができた。
 男は、相変わらず、感情の読めない顔で俺に視線を向けてくる。
「……冗談だ」
「は!?」
 冗談?
 男の呟くような声をはっきり聞き取った俺は、驚く。
 つまり……こいつは、吸血鬼じゃないってこと?
 それらしいことを仄めかしておいて……おまけに、あんな演技までして――?
 怒りを隠すことなく、睨みつける。
 すると男は、まだ俺の上に乗っかったままで口を開いた。
「冗談ってのは血を吸おうとしたことだ。……俺が、吸血鬼だということは……冗談じゃない」
 目を伏せ、小さい声で。
「……いや、やっぱり冗談なのか……」
 ようやく男が俺から離れる。
 元のように、ベッドの半分に寝転がった。
 男が天井を見上げるのを、横目で見る。
 俺には、何を言いたいのか全然伝わってこない。
 血を吸おうとしたのが冗談で。
 吸血鬼というのは本当で。
 けれど。やっぱり、冗談――?
 疑問の目を向けると、男と目が合った。
 男は俺を見ながら、息をひとつ吐いて話し始めた。
「俺は、お前とは違う。お前は自分が吸血鬼だということをきちんと解っているだろうが……俺は、そうじゃない」
 淡々と、話は続く。
「俺には、物心ついた時から両親も親戚もいなかった。だから、誰も俺が何者なのか、教えてくれる人はいなかったんだ」
 施設で育ったんだと、何でもないことのように言う。
 両親が生きていれば、自分が何者か悩まずにすんだのにと。
 苦笑混じりに。
 何故、こんな簡単な口調で、言えるのだろう。
「解るのは……満月の夜になるとお前と同じようになることだけだ」
 けれど。
 次に続いた言葉は、どこか辛そうで。
 寂しそうで。
 少し、投げやりになったような態度で――。

 急に、この気にくわない、訳の解らない男が、自分のすぐ近くにいるように感じた。
 身近に感じたのだ。
 心の距離が。
「……もう、寝るぞ」
 何も言わずにいた俺に、男はそう言ってベッドから起きあがった。
 訝しげに目を遣る。
「お前はそこで寝ろ」
「……あんたは?」
 一緒に寝るのではなかったのか。
「俺は、ソファででも寝る」
「あ、」
 ベッドから降りようとしている男を、俺はとっさに引き留めてしまった。
 今度は、男の方が訝しげな目で俺を見る。
 俺は慌てた。
 思わず掴んでしまった腕を、どうすることも出来ず、どうして引き留めたのかと考え込む。
「……その、ここはあんたの部屋なんだから、あんたがベッドで寝ろよ」
 その結果、言った言葉がこんなことだとは、自分でも思わなかった。
 俺が狼狽えていると、男はどうやらベッドの中に戻ってきたようだ。
 1回引き留めただけで、あっさり戻ってこなくても良いのに……。
 そう思わないでもなかったけれど、諦めて今度こそ眠ろうと目を閉じる。
 目を閉じたまま、俺は疑問を口にした。
「あんたさ……何で、俺をここに連れてきたんだよ。それに……あんたが血を吸わない理由って何?」
 男が微かに、身じろいだのが解った。
 俺の問いに答えようとしてるんだろう。
「……お前が、俺と同じような様子だったからだ。吸血鬼かどうか、確かめたかった」
「え? じゃあ、俺が吸血鬼って解ってて連れてきた訳じゃなかったのかよ」
「まあな。多分、そうだろうとは思っていたが。結果は……吸血鬼だった。だから俺も、そうなんだろうと、以前より確信が持てた」
「でも……あんた、満月の夜のわりに普通だっただろ? 平然と人通りのあるところ歩いてたし」
「お前と同じように、一応抑えることは出来るからな。それに、お前よりも俺の方が人間に近いんじゃないか? 歳の差の分」
「そっか……」
 普通に、会話してる。
 出会った時からは考えられないほど。
「それと、もうひとつの質問。俺が血を吸わないのは、自分が人間だと信じていたかったからだ。今でも、出来ることなら信じていたかったんだ……」
 じゃあ、俺を連れてこなければ良かったんじゃないか。
 そんな考えが浮かぶ。
 それを悟ったのか、男は首を横に振った。
 その瞬間。
 珍しいものを見た。
 そんなことはないというように、微か表情を緩める男を。
 けれど、驚いてまじまじと見返すうと、すぐに元の無表情に戻ってしまった。
「本当は解っていた……普通じゃないってことは。だから、良いんだ」
「じゃあ、これからはどうするんだ? 吸うか吸わないか、どっちだよ?」
「吸わないよ。此処まで来たらな。今更、今までのことをなかったかのように人間の血を吸うなんてことは出来ないからな」
「そう……」
 ほっとした。
 自分以外の、人間の血を吸わない吸血鬼がいなくなってしまうのが嫌だったのもあるけれど。
 それ以上に、こいつに血なんて吸って欲しくなかった。


 ふと、男が自分の首筋を見ているのに気付く。
「何だよ?」
 俺の言葉は無視して、手を触れさせる。
「……っ」
 今まで忘れていたけれど、そこは噛まれたところで。
 一瞬、痛みが走った。
「……痛いか」
「……ったり前だろ! あんたのせいだ!」
 男の手を退けさせようとする。
「冗談で、本当に噛みつく奴があるかよ……」
 首筋から手を外させて、そう言うと、
「……途中までは、本気だった」
 あっさりとそんな返事が返ってきた。
「えっ……」
「あんまり痛そうだったんで、やめたけどな」
 今度は、首筋に唇を寄せてきた。
 軽く触れる。
「な、何すんだよっ」
 まさか、また噛みつかれるのかと身体を強張らせた。
 けれど、男は噛みつきはしなかった。
 代わりに、噛みついた牙の痕を唇でなぞっていった。
「やめろ……っ」
 触れられると痛む。
 ……けれど、それだけじゃなくて――。
「……っ」
 何か、熱い。
 触れられたところが、異様に……。
「やめろって……!!」
 慌てて渾身の力で押し退けると、ようやく離れていった。
 とにかく、もうそこに触れられたくない。
「……何もしないんじゃなかったのかよ!?」
 泊まる時に言われた言葉。
 実は、今の今まですっかり忘れていた。
 こいつにキス、されたことも。
 あの話のせいで、警戒心まで吹っ飛んでいた。
「……別に何もしてないだろ?」
「ど、こが……っ」
「痕、大丈夫か見ただけだ」
 これが?
 見るだけなら、こんなことしなくても良いだろうに。
 けれど、怒っている俺を余所に、男はさっさと目を閉じてしまった。
「……もう、寝ろ」
 と、それだけを言って。

 俺は、しばらく警戒していたけれど、男が寝入っているのが解ってから、ようやく目を閉じた。
 今夜は何だかいろんなことがありすぎて。
 すぐに俺も、眠ってしまったようだった。





「……おい、起きろ」
「……ん……?」
 聞こえてきた声に、身を捩る。
 まだ、目を開けたくない気分だ。
 それにしても。
 いつもは誰も起こしになんてこないのに、何で今日は……?
「もう昼前だぞ、起きろ」
 ……ああ、そういえば。
 こいつの家に泊まったんだっけ……。
 ……で、今、昼前……?
「あ……」
「起きたか」
 目を開いたのを見て、男がそう言った。
 まだ、頭はぼんやりしている。
「さっさと飯食ってくれ。これから仕事なんだ」
「仕事? 今日、日曜……」
「休日出勤なんだ、今日」
「休日出勤……」
「そうだ。だから早く起きろ。もうじき出かけるぞ」
 そういう男は、既にスーツ姿だった。
 ……もしかして、ぎりぎりまで寝かせてくれた……?
 そんなことを思いながら、段々、目が覚めていった。
 ぼんやりしていた頭も。
「ほら、さっさとしろ」
 慌てて服を着替えて用意されていた御飯を食べた。
 それから、慌ただしくマンションを出る。
 道が解るところまで、俺を連れて行ってくれることになっている。
「なあ。あんた、料理出来るんだ?」
 そう言ったのは、用意されていた料理が思いがけず手の込んだ――母親が家族のために作るようなものだったからだ。
「……施設にいた頃から料理はしてたからな。味はともかく、料理が出来るようになるのは自然だろ」
 ……意外なことに、男の作った料理は美味しかった。
 けれど。
 それを言うのは、何となく癪だったので口を噤んだ。


「この辺で良いだろ。帰れるな?」
 見覚えのある――昨夜、男と会った路地裏へと続く通りまで来ると、そう言って男は足を止めた。
「じゃあな」
 俺が頷いたのを見て、男は踵を返した。
 どうやら職場はここから正反対の場所だったようだ。
 御礼を、言うべきだろうか?
 自分の意志で男のマンションに行ったわけではないけれど、一応助けてもらったんだし。
 言うべき、だよな。

「……がとう」
 男の背中に向かって、小さな声で、呟いた。
 声が届いたかどうかは解らない。
「……でも、一応言ったからな……」

 男が見えなくなるまで、俺はそのままそこに突っ立っていた。



2003/05/14



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