リップ編:Lv2「名前も知らない」


僕はただ「ごめんなさい」と繰り返すリップさんをそっと抱きしめていた。
いやだって交通事故ってのが頭にあったからさ。ぎゅってしたらダメなんだろうと思って。
リップさんはしばらくして落ち着いたのか、恥ずかしそうに僕の顔を見上げた。
「すみません、いきなりこんなことしてしまって」
泣いたせいでそばかすの散った鼻のまわりも赤いけど、頬自体も赤かった。
「なんだかいろいろあって、見ず知らずの方にいきなり…」
ああ、この恥じらい具合。乙女って感じ。くぅー。
僕、本当に間抜けで呑気な人間なんです。

「どうしてだか聞いてもいいですか?」
そして好奇心に弱い人間でもあるのです。いや、好奇心なくてもここは聞くところだと思うけど。
リップさんは涙のあとの残る顔で、困ったように微笑んだ。
「それは言えないんです。ごめんなさい」
そしてまた泣きそうになる。僕は慌ててリップさんの方をがしっと掴んだ。
「いいんです! それならいいんです! ただ、そばにいてもいいですか?」
僕はもう二度と大切な人が目の前から急に消えるなんて嫌だった。
「僕をアーチェリー部の部員にしてください」
だから、リップさんの目を見て頼み込んだ。
そうしたら、意外なことにリップさんはにっこりと笑ったの。
「部員、そうですね、もう部員さんが居てもいいんですものね」
もう?細かいことにひっかっからずにはいられない僕。
しかし聞くとまた彼女は泣くんだろうなと思ったから聞かなかった。

こうして、僕はめでたく正式にアーチェリー部の部員となって、あのテントに通うことになった。

…思うにリップさんはもう一人になりたくなかったんじゃないかな。
僕が来ると嬉しそうにアーチェリーの説明をいろいろとしてくれた。
まず道具の説明。アーチェリーって複雑なのね。防具の付け方とか弓の引き方とか。
道具は自分の古いやつを使ってくださいと提供してくれた。
あの日、とりすがって泣いていたロッカーをあっさりと開けて。
僕のためなら、いや他の人のためなら平気なんだろうか。

…いやたぶん、繰り返しになるけど彼女は一人になりたくなかったんだ。
誰かにそばにいて欲しかったんだ。残念ながらそれは僕じゃなくてもよかった。
非常に残念ながら、人間観察も得意な僕にはわかってしまう。
きっと誰か、何も知らない人間にそばにいて欲しかったんだろうな。
そのためにはロッカーも平気で開けられてしまうくらい、実は必死なんじゃないかな。

僕はインテグラ先生の言葉を思い出していた。
リップさんには、本当に何があったんだろう。

「事故」に遭う前、ただ一人で一心不乱に弓を引いていたリップさんは今のリップさんと全然違った。
あの頃の彼女は孤独も普通に受け入れていた。
でも今のリップさんは孤独が怖くてたまらないみたいだ。
放課後、テントで僕の顔を見る度にほっとして笑うんだもの。
…なんども繰り返すけれど、それは僕じゃなくてもいいんだろうけどね。

「最初は空撃ちから始めるんです」
リップさんはそういって弓を差し出した。
「矢をつがえずに、弓の弦だけ弾くんです」
僕は習ったとおりに弓を構えてみた。リップさんが横に立って手を添えてくれる。
僕の左手にリップさんの左手を。当然体もすごく近くに立つことになる。くぅー。
リップさんの体はいい匂いがした。石鹸の、女の子の香りってやつだ。
なにか花の香りみたいにも思えた。どんな石鹸使っているんだろうなんて考えつつ。
あ、それより弓ね、弓。

弓の弦は思っていたより簡単に引けた。僕はてっきり、漫画で読んだような
引くだけですっごいトレーニングがいるようなのを想像していたんだけど。
「これは私の弓ですし、張り方も弱めにしてありますから」
あ、やっぱり。

「動かないでくださいね」
そう言ってリップさんは僕の姿勢をいろいろを調整する。
左手はまっすぐ、背筋は伸ばして、足の位置もちょっと変えて。
律儀なリップさんは足を動かす時も、
僕の足元にしゃがみ込んで両手で僕の靴を掴み調整してくれた。
うわ、僕ってすっごい幸せ者。
…いいんだよ、だから。リップさんにとっては誰でもよくても。

その証拠にリップさん、僕の名前未だに聞かないもんね。
この真面目で律儀なリップさんがだよ。
僕は悲しいより先に彼女の抱えている闇を思ってしまう。
いやもちろんすんげー悲しいけれど。

「じゃあ、そっと手を離してください。撃とうと思わなくていいんです。離すだけで」
リップさんの言うとおり、僕はいいかげんしびれかけていた右手を離した。
ビィィンと弓の弦がうなる。かすかに左手のアームガードに当たった。
防具つけていてよかったー。直にあたったら痛そうだもん。
「ちょっと体が動きましたね」
リップさんは唇に人差し指をあてて、そう評した。
「でも始めてにしては形になっていたと思います」
優しいことを言ってくださる。
それで僕たちはなんどか空撃ちの練習を繰り返した。
毎回姿勢を調整してってやるから意外と疲れる。僕、元々体育会系じゃないしね。
「ちょっと休憩してもいいですか?」
僕はあっさり音をあげた。根性なしと呼んでくれ。
なにせずっと声もかけずに覗き見していた男だ。

「あ、いえ、私こそ、つい夢中になってしまって」
優しいリップさんはそう言って、テントのすみにあるベンチを指さした。
「あそこで休憩しましょうか」
もちろん! 僕らは隣り合って座った。
思わず背伸びして全身の筋肉を伸ばす僕の横で、
リップさんは僕からうけとった弓を見ながら、また物思いにふけっている。
その顔はすっごく暗かった。
なにかにすがりつかないと闇に落ち込んでしまうんだろうなと僕は思った。
それで、僕は自然に彼女の肩に手を回していたの。
リップさんは驚きも抵抗もせず、僕によりかかってきた。
そしていつか、最初にいきなり泣きついてきた時みたいに、僕の体に体をあずけて
やっぱり物思いにふけっていた。

さて、どうするべきか。
僕の本能は動かずにいろと告げていた。だからそのままでいることにした。
好きな女の子の体重を感じていられるんだ、これ以上望んじゃいけない。
例え彼女が僕の名前すら知らなくても、僕は彼女の闇を少しでも負担してあげられなくても。
きっといつか、傷は癒えるから。彼女は僕の名前を聞いてくれるから。
そう信じるしかなかった。正直なところ。僕ってさ、無力だね。

そして半月が経った。二週間ね。
僕は毎日テントに通った。元々帰宅部だったし可能なのよ。
リップさんはようやく僕に矢を撃つことを許可してくれた。
ロッカーの中から大切そうに矢を取り出す。
「危険なものですから、注意してくださいね」
そう言う顔は真剣そのものだった。
「まず最初は30mから撃ってみましょう」
僕は的の前に立った。二週間も毎日練習していたら、
もうリップさんの修正がほとんどいらないくらいには空撃ちにも慣れている。
でもやっぱり矢をつがえると緊張した。
さっきのリップさんの、やけに真剣な顔が頭にあったからかもしれない。
足の位置、手を伸ばすこと、視線・照準の合わせ方、しっかりと復習しながら
矢を引き絞る。気分はロビンフッド。なんてね。
そして軽く矢を支える右手を離す。

あっけないほど簡単に、矢は的の中心に吸い込まれた。僕って天才?

当然リップさんは褒めてくれるだろう、笑顔を見せてくれるだろうと思って
僕は隣のリップさんを振り返った。
たぶんその時、僕は得意そうな顔をしていたんだと思う。
でも。リップさんは僕と目が合うと泣き出した。その大きな瞳から大粒の涙があふれる。
え? え?
「あの、すみません、私、私、、、、」
ああ、最初の時と同じだ。僕は弓を台のうえに放り出してリップさんに駆け寄った。
そして彼女を抱きしめた。それが彼女の求めていることだって分かっていたから。

体のつながりがね、欲しいんだよ、彼女は。誰かに支えて欲しいの。
心じゃなくて体で。思うに、今押し倒したら彼女は抵抗しないね。
僕とっくの昔に童貞じゃないからさ、分かるのよ。ごめんね、汚れた男で。
でもしないってところに僕の本気を見て欲しい。

僕はただリップさんを抱きしめていた。
でも、もうそろそろ聞くべき時じゃないかなって気もしていた。
「ねえ、どうしてなのか聞いてもいいかな?」
リップさんはしゃくりあげたままだ。
「リップさん、まだ僕の名前も聞いてくれないよね」
「、、、あ」
彼女はようやく気が付いたらしい。
「いいんだよ、別に。僕は君が好きだから」
僕は体を離して、リップさんの目を見つめた。まだ涙の止まらない、くしゃくしゃになった顔を。
「けど、リップさんが好きだから、リップさんの背負っている重荷を少しは解消してあげたいの」
そしてまた彼女を抱きしめた。
「ねえ、話してくれないかな」
我ながら、一世一代の話術だったと思う。
この日のために鍛えてきた甲斐があったというものだ。

リップさんは戸惑いながら、口を開いた。
「私は弓を使って、罪を犯したんです」
僕は口を挟まず、ただ黙って彼女を抱きしめていた。
「私はアーチェリーで一番いけないことをしてしまいました」
リップさんは泣きながらすがりついてくる。絞り出すような声だった。
「人を、撃ったんです」
それにはさすがの僕も動揺した。
あのリップさんが。花も手折れないようなリップさんが。
物静かで誠実で優しくて真面目で、そしてあんなに綺麗に弓を引いていたリップさんが。
体がくっついていたので僕の動揺はすぐ伝わったと思う。
リップさんは顔をあげて僕の顔を見た。
「私はとても悪いことをしました。あなたに軽蔑されても仕方ないと思います」

ああ、それで体をあずけてきてたんだね。覗き見男に。軽率な男に。
名前も知らない、好きでもなんでもない男に抱かれることで、自分を罰するつもりだったのかな。
僕も嫌な奴だ。真っ先に考えたことはそんなことだった。

僕らはしばし無言でいた。
リップさんは僕の中の怒りを感じたんだと思う。ただ黙って立っていた。
僕はといえば自分の中の怒りをどうしたものかと悩んでいた。

いや、ここは原点に立ち戻って考えよう。
僕はリップさんが好きだ。彼女の重荷を分かち合いたかった。
名前を聞いてくれないことが寂しかった。

で、彼女は自分が背負っている重荷を、とにかく口にしてくれたわけだ。
そりゃ理由も不明だし、それでどうなったのかも不明だけどさ。

僕は、彼女に応えるべきだ。

僕はあらためてリップさんを抱きしめた。
「軽蔑しない。きっと何か理由があったんだろうと思うから。理由はなんなの?」
「…ごめんなさい。それは言えません」
リップさんの答えはきっぱりとしていた。
それは今まで弓を前に散々悩んできた態度とはまた違って、毅然としたものだった。
「でも、それは人を撃つような理由じゃなかったと思います。
 その時の私にはそのことがわからなかった。ただ追いつめられて撃ってしまった」
そして再びリップさんの口調は絞り出すような苦しげな声に変わる。
「そして人を傷つけたんです。しかも…私は、それを楽しんでいました。的を撃つことを」
的を撃つか。さっき僕も楽しかったもんな。ふとそう思った。
ああ、それでリップさんは泣いたのか。得意げな僕にかつての自分を見たから。なるほどね。

「私はもう二度と弓を持つべきじゃないと思うんです。でも好きなんです、アーチェリーが。
 だからあなたの姿を自分に重ねて楽しんでいた。あなたに私の代わりをして欲しかった。
 けどけど、的を撃つあなたを見て…」
その先は言わなくていい。だから僕は唇で彼女の口をふさいだ。
リップさんは驚いたように目を見開いた。それでもって、僕は一瞬で口を離した。
いやなにせ、そーしないと、そのままディープキスから押し倒しそうだったし。
男として、ねえ。

「ありがとう、話してくれて」
僕はそう言った。
「すっごく辛い話だったと思うのに、見ず知らずの僕に話してくれて」
そしてリップさんを抱きしめる。
「僕は何も知らない一般人だから言うよ。君は悪くない。沢山反省した。
 だからきっと許される。少なくとも僕は許す」
しっかりと一言一言断言した。これが別れのつもりだったから。

「君の弓を撃つ姿は綺麗だった。僕は本当に好きだった。
 いつかまた、弓を撃って欲しい。君ならきっとできるから」
そしてぱっと体を離す。
涙で崩れた目と顔のまま、呆然としているリップさんの顔を目に焼き付けた。
それから笑ってみせた。なるべく彼女を力づけられるような、そんな笑顔を。
できたかわかんないけど。

そして僕は一目散にテントから走り出た。もう二度とリップさんには会わないつもりだった。
それはもちろん彼女を軽蔑したからじゃない。
リップさんは僕の名前を知らない。知らないままでいるべきじゃないかって気がしたからだ。
名前も知らない、でも半月ずっと一緒に居た人間に、自分の罪を告白して許してもらえた。
それってさ、うまく言えないけど、「解消」ってやつになると思わない?
わかんないけどさ。何が正しいかなんて。
ただ僕は直感タイプだって何回か言ったろ、ね?

それでもう走ったよ。どこまでもどこまでも。
リップさんは僕の名前も知らないまま、でも僕はリップさんが好きだった、そう思いながら。

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