「魔弾の射手」 序編
「なかなかうまくいかないものだねえ」
教頭室で少佐はドクとシュレ相手に、いつものように笑いながら言った。
「アーカードが彼女を守っているなんて、想像もしていなかったよ」
「どうやってたらしこんだんでしょうねー、インテグラ先生」
シュレはいつものようにニコニコ笑っていた。
「しかしアーカードとはやっかいですぞ」
ドクは反対におどおどしている。
「こうなったら彼女を使ってみようかねえ」
少佐はなんでもない口調でさらりと言った。
「インテグラもまさか彼女とは想像もしていまい」
「それに先生優しいから、彼女が自分を狙っているって気が付いても
今まで見たいに叩きのめせなんて言えないでしょうからねえ」
少佐は満足そうに足元に座り込んでいるシュレの頭を叩いた。
「むしろ私は自分の大切な生徒が、自分を狙ったと知った時の彼女の顔が見たいね」
「僕、撮影係しましょーか」
…こうして一人の女生徒の運命が、彼女とはなんの関係もない場所で決められた。
*
リップ委員長の本名はリップヴァーン・ウィンクルという。
その名はとある世界ではとても有名な名前だった。その世界とはアーチェリー。
彼女の天才的な腕は高校生にしてすでに全国レベルで有名だった。
国内の競技ではもはや敵はおらず、やがては世界にはばたくことも当然だと目されていた。
しかしアーチェリーは金のかかるスポーツだ。弓だけで20万、矢で数万、簡単に出て行く。
リップの家は決して金持ちとは言えなかった。むしろ貧乏だった。
父の古い弓を使って、それでも競技会で勝利をおさめていた彼女に目を付け、
ヘルシング学園から彼女をスカウトに来たのが少佐だった。
彼は学園をアーチェリーの方面でアピールしたいと熱心にリップの家族を口説いた。
学費も用具の費用もすべて負担する。そんな都合のよすぎる話も
彼の弁舌にかかると疑問の余地を挟む間もなく、みな納得してしまった。
リップ本人だけはあまりに事態がうまく進むことが不安だったのだけど、
彼女は元々気弱な性格だと自覚していたから、考えすぎなんだろうと思っていた。
*
ヘルシング学園に入学してみると、案の定アーチェリー部とは名ばかりの、校庭の隅の一画が
提供されただけだった。部員募集もせず、君一人の練習に専念しろと言われた。
だからリップは一人で矢を打ち続けた。打ち続けられることが幸運なのだと思いながら。
それにアーチェリーを離れたところで、素晴らしい人たちに出会えた。例えばインテグラ先生だ。
先生は綺麗でいつも自信に満ちていて、リップにないものを沢山持っていた。
担任としても優秀で、何の因果かクラス委員長などに選ばれてしまった自分のことを
いつもさりげなく励まし、フォローしてくれた。
そしてもう一人。美術の大尉先生。いつからかはわからないけれど、リップは
先生の授業を心待ちにしている自分に気が付いた。次は先生をずっと目で追っている自分に。
バレンタインの日、必死で勇気をふりしぼってチョコレートを差し出した自分に
大尉先生はエーデルワイスの写真をくれた。そして頭をかるく叩いて去っていった。
それだけだったけど、その後にはまた何も変化のない日が続いたけれど、リップは幸せだった。
それで、より一層アーチェリーの練習にも励む日々が続いていた。
*
そんなある日。彼女は教頭室に呼び出された。そこには教頭である少佐先生と、
理科教師で副教頭のドク先生と、生徒会長のシュレさんが居た。
「リップ君、弓のほうは順調かね?」
少佐先生は入学を薦めに来た時の熱心さとは裏腹に、その後は競技会がある時だけ
これこれこういう大会に出場するようにという指示を一方的に与えるだけだった。
だから今日もその用事だと思ってやってきた。でもドク先生や生徒会長がいるのはなぜだろう?
「はい、先生」
リップは緊張して震える声で答えた。彼女の上がり症はいつまでたっても治らない。
ただ弓を打つ瞬間だけ、とある儀式をして気を落ち着かせることができるだけだ。
三人はそれぞれに意味ありげな視線でリップをじっと見つめている。
なにかいつもと様子が違う。リップは不安にかられながら口を開いた。
「あの、教頭先生、今日はなんのご用でしょうか?」
「君の弓の能力は素晴らしいね。リップ君。さすがは「魔弾」、まさしく伝説の魔の猟師だ」
…! リップはおどろいた。彼女が弓を打つ際、心を落ち着けるためにしていること、
それが魔弾の射手から作られた歌の一節を唱えることだった。
だから彼女の弓は魔弾と呼ばれていた。
まさか教頭先生が知っていたなんて。
「は、はいっ、少佐先生っ」
おどろきのあまり、どもりながらもリップは答えた。
「そこで、今回も君に是非出場して欲しい競技があるんだよ。標的はこれだ」
少佐はすっと二枚の写真を取り出して見せた。
そこに写っていたのはインテグラ先生と同級生のアーカードさん!
リップは真っ青になってカタカタ震えながら教頭先生の顔を凝視した。
「いや別に殺してくれってわけじゃないんだよ。ただちょっと驚かしてくれればいい。
遠くから撃ってもらうつもりだし、練習用の矢なら死ぬことなんてないだろう?」
「そ、そんな、む、無理です。どんな遠くからでも、万が一顔にでも当たったら…」
「君の腕ならそんなことにはならないだろう。ちょっと体をかすめる程度でいいんだ」
「君は現代のウィリアム・テルってわけさ」
シュレ生徒会長が軽い口調で言う。いつもにこやかで明るい生徒会長の素顔がこれだなんて。
リップは自分の信じてきたものがすべて崩れ去っていくような感覚に陥っていた。
「大恩ある教頭先生の頼みを、まさか断るなんてしないでしょう?」
ドク先生がいやらしい顔で笑う。そうだ、断ったら私はすべてを失ってしまう。
真っ白になった頭の中を、現実だけが浸食していった。
「彼も君には期待しているんだよ」
止めを刺すように少佐はすっと手を挙げる。後ろのドアから現れたのは大尉先生だった。
いつもと同じ無表情でリップのことを見つめている。
あのとき、チョコレートを受け取ってくれた時と同じ顔で。
「そうだよね、大尉先生」
少佐の言葉に大尉先生は無言のまま、無表情のまま、リップを見つめたまま、首を縦に振った。
「あ、あ、あああぁ…」
リップは膝から崩れ落ちた。
私は断れない。逃げられない。やるしかないんだ。
自分がアーチェリーと引き替えに、自分自身の魂まで売り渡してしまっていたことを、
ようやく気が付かされた。
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