○某月某日―――

とある場所でガキを拾った。
名前は、あまのぎんじ…天野銀次だ。
とりあえず面倒を見ることになった。
何かあった時、役立つかもしんねーから、一応観察記録をつけとくことにした。
多分、1週間に1度とか、1ヶ月に1度とかの割合になるだろう。
俺、面倒なこと嫌いだし。



○某月某日―――

このガキ、めちゃくちゃ食いやがる。
小せぇナリして俺より食うんじゃねぇか?
食費が馬鹿になんねぇ。



○某月某日―――

銀次はあっという間に近所のガキどもと仲良くなった。
ボーッとしてる奴だと思ったが、周囲のウケは良いらしい。
どっかで菓子でももらってくりゃあ、俺の財布が少し楽になるのによ…。



○某月某日―――

銀次が一週間ぶりに帰ってきた。
すげーじゃん、記録更新だ。
銀次は方向オンチっぽい。前も4日間ばかし迷子になっていた。
今回は、どうやらかくれんぼをしているうちに、そのまま迷ったらしい。
今日で一週間、流石に洒落になんねー。
仕方なく探しに行った。あいつの居そうな場所は大体見当がつく。
探し始めて2時間で発見。
食いもんは、道行く人からおこぼれをもらったり適当にゴミを漁ったらしい。野良イヌかよ…。
それにしても、俺がこんなに簡単に見つけられたってのに、銀次のダチどもは一体どこ探してたんだ?



○某月某日―――

銀次がどっかから雑誌を拾ってきやがった。
最近いろんなものに興味を示す。色々聞きたがるし、知りたがる。何にでも好奇心を覚える時期なのだろう。しつけをするには良い機会だ。明日からは、この世界で生き抜くために色々とレクチャーしてやろうと思う。
銀次が拾ってきた雑誌には、各国の著名な彫刻や建築物が載っていた。
少し…遊んでみる。
有名なルーブル美術館のミロのビーナスと、アメリカの自由の女神像を取り違えて教えてやった。極めつけに、自由の女神の手にある松明をソフトクリームだと教え込む。
あいつは感心して聞いていた。おもしれぇー。
いつ、誰が間違いを訂正してくれるか楽しみだ。



○某月某日―――

銀次がダチと喧嘩して帰ってきやがった。



○某月某日―――

まだ昨日のことを引きずってやがるらしい。めんどくせぇ―――。




簡単に作った食事をトレイの上に乗せると、天子峰は背後のドアを振り返って溜息をついた。銀次は昨日から奥の部屋に閉じこもったまま何も食べていない。食べるのが生き甲斐であるかのような銀次がハンストとは、友人との喧嘩は余程こたえたらしい。

もう一度溜息をついて、トレイを片手にドアの前に立つ。

きっかり三度、ドアを叩いてみても返事はなかった。

「おい、銀次ィ」

やはり反応はない。

「開けねーとぶっ殺すぞ」

ドアには内側から鍵がかかっている。

「俺が待てねー性格だってのは知ってるよなぁ?」

壊さない程度にドアを蹴る。

「マジで怒らせんなよ?」

脅すような口調を作って呼び掛けてみても結果は同じだった。

薄いベニヤの合板製のドアだ。蹴破るのは簡単だが、敢えて待つ。

子供の扱いなど慣れたものではないのだが、幼いとはいえ無理矢理こじ開けて、心の中に土足で入り込むような真似はしたくなかった。貧民街で最低ランクの生活を送っているとはいえ、それぐらいのルールは心得ている。

30分、ドアの向こうは沈黙するばかりだ。

「銀次」

焦れた様子を表に出さないよう声を掛ける。

「腹…減ってんだろ?満腹になりゃあ、少しは良い考えが浮かぶもんだぜ?」

巧い説得の仕方だとは自分でも思えなかったが、しばらくして鍵の外れる小さな金属音が響いた。

おずおずと心の内を晒すように、扉はゆっくりと内側に開かれていく。立ち尽くした銀次の俯いた顔が徐々に上がって、泣きはらした真っ赤な目が、静かに天子峰の姿を写し出した。

「まず食え。話はそれからだ」

すっかり冷めてしまった食べ物をおとなしく受け取り、小さな銀次はこっくりと頷いた。

頷いたものの、戸惑うような素振りを見せるだけで次の行動に移らない。

天子峰は銀次の頭を撫でてから、肩に手をやって軽く押した。一応食卓にしているテーブルの方には行かず、今まで銀次が篭っていた部屋に導く。

寝室として使っている狭い部屋は、男所帯らしく物が散乱しているが、明るい部屋よりもこの雑多な薄暗さが落ち着かせる。

椅子ではなく小さなベッドに銀次を座らせ、食べ始めるのを見届けてから隣に腰を降ろす。

いつもは欠食児童よろしくがつがつと食べるのだが、今日に限っては静かにゆっくりと食べていた。だが、虚ろな目を見ると、おそらく味もなにも分かっていない。

決して美味ではないだろうが、銀次は文句も言わずに食べている。

それを見下ろしながら、天子峰は言葉を探した。

昨日、銀次とその友達の間に何があったのか、本人は何も話さなかったが天子峰は大体知っている。外の世界と違って、子供同士の喧嘩に親がしゃしゃり出てくることはまずないのだが、たまたま目撃していた近所の住人が親切にも教えてくれたのだ。

全くもって、銀次は周囲の連中に評判が良い。

喧嘩の原因はたわいもないことだ。

日常の生活の中で、どこにでも起きるようなものでしかない。

第三者から見れば、下らないと一言で切り捨てられるような出来事ではあるが、当事者にとっては、しかもそれが経験値の少ない子供にとっては、簡単に割り切れるものではないだろう。

どう諭したものか、話し始める糸口を探して、関係のない事柄を口にする。

「うまいか?」

「うん」

「正直に言えよ、銀次ィ」

「美味しいよぉ…」

返事は素直に返ってくる。銀次は大分おちついたようだった。

食べ終わるのを見計らって、本格的に話し始める。

「んじゃ、本題に入るぜ」

敢えて向かい合わず、目線も合わせない。銀次に気を遣っているというより、天子峰にとってもその方が楽だ。

「何があったか知らねぇが、こーなっちまってるってことは、お前、自分の方が少しでも悪かったって思ってるんだろ?」

子供の喧嘩は大体が一方的なものではない。お互いに何かしら悪い所があったのだろう。

「…う…ん」

「なら、さっさと謝ってきな」

「でも…」

「時間が経つと余計言いづらくなるもんだぜ?」

「でもっ、向こうだってっ」

弾かれたように銀次が天子峰を見上げた。何かを訴えるように、真っ直ぐな瞳を向けてくる。銀次の膝に置かれたままのトレイの上に乗った食器が、銀次の動きに合わせて触れ合い、硬い音を立てた。

「どっちかが折れなきゃない時もあんのさ」

「…」

「意地張り出したら、そいつとはずっとそのまんまさ。お前が一歩踏み出すことで、そいつも歩み寄ってくるかもしんねー」

我ながら偉そうな台詞を吐いているものだと、天子峰は心の中で自分を嘲った。

無法地帯の無限城で、正論や理屈なんてものを笑い飛ばしている天子峰が、子供の前だからとはいえ、よくこんなことをほざいているものだ。

天子峰の言葉は、必ずしも全てが己に照らし合わせた本心ではない。

それが銀次の心にどう響き、どういう形を成していくかは知らぬことだ。自分の考えを押し付けるような真似は、厚かましいことだと天子峰は思っている。

鵜呑みにすることなく、様々な言葉を聞いて、自分で見て感じて、判断していけばいい。

自分もそうであったし、銀次もそうあればいい。

だが、天子峰にも一つだけ伝えておきたいことがあった。

自分の元にいる以上、守って欲しいことが一つだけある。

それを伝えるには、今回の事は良いきっかけになりそうだった。

「意地を張るのは簡単なことさ。こんな時、自分から折れてやるのはすげぇストレスになる。けど、お前は自然にそういことが出来るような奴になれよ」

そう言って、ようやく銀次の方に顔を向ける。

澄んだ瞳と真正面からぶつかったが、天子峰は今度はそれを受け流しはしなかった。

天子峰の言葉の全てを忘れてもいい、ただこのことだけ覚えていてくれたなら。

「いつも言ってんだろ、『ダチは裏切るな』ってな」

「うん」

銀次は強く頷いた。

天子峰の出番はここまでだ。

あとは、銀次が自分で何らかの結果を出すだろう。

話しは終わりだと言わんばかりに、あっさりと立ち上がり、銀次の膝の上に乗ったトレイを手に取る。

片付けようと入り口に向かった天子峰のシャツを、小さな力が引っ張った。

振り返ると、銀次の手が引き止めるように握りしめている。

「甘えんじゃねー…」

「うん…」

答えながら手は離れない。天子峰も振り払おうとはしなかった。

「銀次」

「俺…明日、行ってくる」

「ああ…。そうしな」

しばらくして小さな手は天子峰から離れた。




○某月某日―――

嬉しそうな顔して帰ってきやがった。
仲直りできたらしい。良かった、一安心だ。
…って、何で俺が喜んでんだよ。



簡易なノートに綴られた日記はそこで途切れる。

最後のページに『雷帝』という走り書きを残して―――。




書きなぐったような短い単語を、複雑な思いを抱えながら目に留め、天子峰はノートを閉じた。

感傷に浸るなど、らしくない。

昔の物はほとんど処分してしまったはずなのに、どうしてこれだけ残っていたのか。貧相ともいえるアパートの一室には、パソコンとデスク、必要最低限の家具の他には、余分なものは何もない。

『これは余分なモノではない』と、頭のどこかで捨てるのを躊躇う気持ちがあったのだろう。

まるで大切な宝物とでも言いたげに、引出しの奥へ収められていたノートは、端々が擦り切れてはいるものの、目立った痛みはなかった。

変色してしまった表紙に、子供の頭を撫でるかのようにそっと触れて、天子峰はテーブルの上にそれを置こうとした。

雲の切れ間から僅かに覗く光はテーブルの上にまで及び、半分を暖かな日溜りの世界に変えている。敢えてテーブルの日陰の部分ではなく、照らし出された場所にそれを置いてしまったのは、無意識からの行動であったのだろうか。

ノートから手を離して、自分の手を見つめる。

手の甲を見れば明らかに皺の数も増え張りもなくなってきている。

「…年とった、な」

誰に語るでもなく呟く。

年齢のためだけでなく、若い頃にやった数々の無茶が、衰えとなって表面に出てきているのだろう。

過去を振り返ったりするのは、そのせいだろうか。

決して良い暮らしぶりではなかった上に、日常のすぐ隣にはリアルな死がてぐすねを引いていた。他者から見れば禄でもない人生だと言うだろう。

若さに任せて、勢いばかりを頼みに、日々をただ突っ走るようにして過ごしていた。

汚点も失敗も、挫折も悔恨も数えきれない。

しかし、今になってこのノートを読み返してみると、一緒に暮らした相手のことを語る文字は、何と楽しげなのだろう。

当たり前すぎて確認することもなかった思い。失うことなど微塵も疑っていない、恐れを抱くことすらない日常。

大切なものは失って初めてその重みを知るというが、今、胸に去来する感情は様々なものが入り混じって言葉にならない。

ただ、言いようのない喪失感だけが、じわりと広がる毒のように脳裏を蝕んでいく。

「そろそろ…行くか」

見上げれば、空は急速に鈍色へとその姿を変えつつあった。

この分では、いずれ雨が降り出すだろう。雷も光るかもしれない。

稲光は、そのまま雷帝へのイメージに直結する。

だが、思い出されるのは、帝王の光を宿した雷帝の姿よりも、まだ天子峰に全幅の信頼を寄せていた頃の、幼い銀次の姿ばかりだ。

忘れてしまうには、その過去はあまりに優しく楽しくて、思い出として昇華させてしまうには、あまりにも苦い。

天子峰は、差し向かいにある誰も座ったことのない椅子に手を伸ばし、背もたれに掛けてあるジャケットを手に取った。

緩慢な動作で立ち上がると、ジャケットを羽織りドアへと向かう。

途中、ポケットに手をやって中に入ったものの存在を確かめた。

目的地は新宿。

裏新宿と呼ばれる、天子峰にとっては馴染みの地帯に、旧知の人物が構える喫茶店がある。

銀次が、今現在の相棒とよく居りびたっている場所のはずだ。

顔を合わせる可能性は大いにある。

会えるのを期待しているのか、それとも怖れているのか。



雨が降り出していた。

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