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喫茶店を出て、士度はマドカの半歩手前を、歩調を合わせて歩き始めた。

盲導犬のモーツァルトが士度の行き先を見て、それから主人であるマドカを導いていく。

士度がマドカの家に身を寄せてからそれ程の時間は経過していないが、初めのうちは一緒に歩くのもぎくしゃくとしていた士度が、今はもう慣れたものだ。

マドカの方は当初から気にしてはいなかったが、士度にとっては盲目の少女と一緒に歩くのは勿論初めてで、それどころか女の子と一緒に歩くということすら経験のないことだった。

目が見えないことを除けば、他は一般の人と変わりがないとはいえ、意識するなというのは無理なことだ。気を使おうにも、どこに気をつければ良いかも分からない。

気を使いすぎても本人には失礼なことかと思えば、その境界線を模索するのに随分かかった。

表面には出さずとも、自分でも滑稽なくらい心中取り乱すことが多かったのだが、マドカの目が見えないことが幸いしたのか、それとも分かっていて知らぬふりをしてくれたのか、マドカも周囲の者達も、黙って士度が環境に慣れるのを待っていてくれた。

今はこうして気を使いすぎることもなく、かといって気配りは怠らずに、2人で街中を歩くことができる。

「士度さん」

小鳥のような声で呼びかけられて、足を止めずにそちらを見ると、戸惑いがちの顔が士度を見上げていた。

「なんだかすみません。我侭を言ってしまって」

目が見えないはずなのに、しっかりと視線を合わせてくる。並外れた音感と聴力の為せる技か、こうしていると盲目なのが嘘のようだ。

「このくらいのことは我侭のうちに入らねぇさ。めいっぱい喜んでくれりゃ、俺も―――…」

安心したように微笑むマドカに、士度はそれ以上言葉がつげなかった。

言えなかった言葉の代わりに、距離を縮める。

それにマドカが気付いたのかどうか、彼女の笑顔は見たこともないくらい華やかだった。




予想通り桜並木は物凄い人の数だった。

薄桃色の雲のような満開の桜の下を、様々な人々が酔いしれながら歩き過ぎる。

士度に手渡された小さな桜の花を、指で大きさや感触を確かめつつマドカは呟いた。

「賑やかですね」

「ハメを外しすぎてる連中もいるがな」

「でも皆さん楽しそうです」

奥の方ではすっかりできあがった大学生と思しき男達が騒いでいる。一升瓶を抱えて踊る者もいれば、それを囃し立てる者、ひたすら食べ飲む者、奇妙な扮装をして皆を笑わせる者、無礼講とはよく言うが、もう滅茶苦茶だ。

「お酒の匂いもしますね」

「まだ日も暮れてないってのにな…まぁ、こういう場ではつきものだ」

酒は憂いの玉箒。

日々の苦労や不安を、アルコールをもって忘れたいというのは、いつの時代でも変わらない。

「それに、いろんな匂いが混じってます」

やや上向き加減でマドカは目を閉じ、音や香りや、感じ取れる全ての情報を受け取ろうと心を澄ませた。一陣の風が吹いて、立ちすくむマドカの髪を揺らし、その上から桜の花びらが降り注ぐ。

世話人の心遣いか、桜色のワンピースを着たマドカは、舞い散る桜吹雪に溶け込んでしまいそうな程に可憐だ。

士度だけでなく、道行く人や、たまたま目に留めた宴会中の人達までもが暖かい視線を送ってくる。

無理矢理にでも人目を惹きつける派手さはないが、マドカの清楚で柔らかな物腰は、小さくても懸命に咲く花のようで人々の心を捉えて離さない。姿形の造作だけではなく、優しく健気で、それでいて女性ならではの強さを備え持っている。

心根の豊かさがそのまま、外見にも立ち居振舞いにも、そして彼女が奏でる旋律にも素直に表れてくるのだろう。

「花見の雰囲気は分かったか?」

「はい。ありがとうございます、士度さん」

黙っていればマドカはこのまま何時間でもそうしていそうだ。それは士度にとって決して迷惑なことではなかったが、もう一つ、マドカに“見せたい”ものがある。

士度がここを選んだ理由がそれだった。

「じゃ…こっちだ」

「士度さん…?」

桜並木の奥へと足を向けた士度に、マドカは怪訝な表情を作ったが、モーツァルトに導かれるまま士度の後を追った。

「どこへ行くんですか?」

「すぐだ」

桜の花びらが、2人を引きとめようとするかのように降りかかる。

士度が足を止めたのは、花びらの雨から抜けて10分程経った場所だった。

花見客の喧騒が少し遠くに聞こえる。それ程離れた場所ではない。

人気がなくなったせいか、アルコールや食べ物の匂いが途切れたせいか、空気が静かに澄んでいるような気がする。

何も言わない士度に首を傾げたマドカは、ふと異変に気が付いた。

桜の雨よりもずっと鮮烈に、あくまでも気品と典雅さを持って、マドカの感覚に訴えかけてくるものがある。

「…匂いが…変わった…」

「分かるか?」

「甘い香り…」

「沈丁花さ」

マドカには見えないが、その場所には純白、あるいは赤紫の小さな花をつけた沈丁花が群生していた。

花盛りの時季は過ぎかけているが、まだまだ馥郁たる香りを辺りに漂わせている。濃い緑の葉の上に小さな花が鞠のように密集しているのが愛らしい。

沈丁花は千里の彼方までその芳香を漂わせるといわれ、千里香とも呼ばれる。目の見えないマドカのために、士度が選んだ場所がここだったのだ。

上品な甘い香りが2人の全身を包み込む。

マドカは甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

呼吸する度に体の中まで香りで満たされるような気がする。永遠に自分の目で見ることのない情景、それが脳裏にはっきりと浮かんでくるような錯覚さえ覚えた。

マドカは音楽を奏でることによって、人々の心に目では見えない素晴らしいものを伝えようとしているが、この花は香りを放つことでやはり人の心に何かを抱かせる。

視覚を必要としない感動、稀有なことのように思えるそれが、本当はこんなに身近にも存在するのだと、士度は理解しているからこそマドカをここに連れてきたのだろう。

予想通りの桜狩の楽しさと、予想もしていなかった瑞香の饗宴。

「マドカ…?」

無言のマドカに、士度が僅かに恐る恐る問い掛ける。

「…気に入らなかったか?」

「違うんです…嬉しくて。なんて…なんて言っていいのか…」

おそらく士度はマドカのために色々考えを巡らせ、様々な選択肢を用意した後、最もマドカが喜びそうなプレゼントを選んだのだろう。

プレゼントそのものも、無論嬉しいが、士度がマドカのためにと選んでくれたことが何よりも一番の贈り物だ。

嬉しさに溢れそうになる涙を拭って、マドカは微笑んだ。

「バスケット、開けますね」

見えなくとも士度が笑っているのが感じ取れた。

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