携帯電話の受信記録を確認して、切れ長の青い眼は強い不快感をあらわにした。 着信はゼロ。 電源を切る指にも苛立ちが見て取れる。 携帯電話を乱暴にカウンターに転がし、手はそのまま目の前に置かれたコーヒーカップに伸ばされた。 「チッ…シケてやがる」 低く毒づき、苦い液体を喉に流し込む。言葉もコーヒーを飲む動作も、若者らしく粗雑だが、どこかしら教育の行き届いた印象を感じさせるのは、彼の体に流れる異国の血のせいだろうか。 カップをソーサーに戻すと、聡明な瑠璃色を宿した瞳は、独特の透明感を閃かせ、光溢れる窓の外へと向けられた。 店内の照明は十分に明るいが、屋外のそれは更に強い。 日に日に厳しくなりつつある陽光に加えて、ビルやアスファルトの照り返しのため、明るいを通り越して眩しいくらいだ。 季節は既に冷たい風を北へと追いやり、暖かな日差しと穏やかな空気が世界を包んでいる。人々が浮き足立つ時季だ。 道行く人々の足取りは軽く、表情もどことなく楽しげに見える。閉塞感すら覚える寒い季節が終わりを告げるこの時季は、始まりの季節と呼ばれるに相応しく、人々の心に期待感を呼び覚ますのだ。 しかし、恨めしく窓の外を眺める青い瞳は、いまだに凍えた空を映し出しているかのようだった。 微かに沈んだ青い色というのは、激情よりは理性を、情熱よりは冷厳さを連想させるが故に、その色で瞳を彩る人間の印象さえも、本人の意思とは無関係に決定づけてしまうことがある。まして黒髪に整った顔立ちともなれば、彼を目にする者のイメージはおのずと固まってくるであろう。 そして、事実彼からは人を寄せ付けない刺々しい空気が感じられた。鋭利な刃物のような視線は、臆病者には強すぎ、力を過信する者には挑戦的とさえ受け止められるかもしれない。 「……」 差し込む光のせいでより一層深さを増した瞳を、隠すようにサングラスを掛け直す。 色の濃いサングラスを通しても尚、己の存在を主張してくる陽光に、不快指数はまたも上昇の傾向を見せた。 四季の運行に置き去りにされたかのような雰囲気を纏いつかせ、一人孤独にコーヒーをあおる。 その視線の先を、何が楽しいのか黄色い声を弾ませながら数人の女子高生が通り過ぎた。甲高い笑い声に舌打ちする間もなく、若いカップルが腕を組んで歩き去る。 暖かい芽吹きの女神の到来に、誰しも理由がなくとも浮かれた気分になるのだ。 しかし、取り残された者にとっては目の毒である。 しかも、そこに追い討ちをかける者がいた。 「うわっ、このクッキー夏実ちゃんが作ったの?!」 「そうなのだ♪」 何の悩みもなさそうな声が、癇に障る。 「すごい、すごい!!美味しそうだねっ!!食べてもいーの?」 「うん、試食してみて」 いつもより余計に苦く感じるコーヒーを啜る背後で、常に頭の中身は春爛漫といった感じの声が響き渡る。 「美味しい!!美味しーよっ!!さすが夏実ちゃん!!」 「ありがと銀ちゃん♪マスターにもっ」 「俺もぉ…?」 嬉しそうな会話の中に、迷惑そうな響きの声が混じった。 しかしそんな事くらいでは、2人の明るいエネルギーには太刀打ちするどころか、水を差すことにすらならない。 陽気は全てを飲み込まんと勢いづいて、季節感にはあまり縁がない店主を辛くも取り込んだ後、ついに最後の標的に向かってその手を伸ばし始めた。 「蛮ちゃん、蛮ちゃんも食べなよ。美味しいよっ♪」 「銀次ィ…」 カウンターについた蛮の手がカタカタと震えていた。入り口の方に向いたままの俯いた顔は、何かを耐えるように歪んでいる。 「どったの、蛮ちゃん?ほら、ほらぁ」 可愛らしい小皿に盛られたクッキーを差し出し、銀次が無邪気に進める。 どこかで何かが切れる音がした。 バキッ…!! 硬いもので硬いものを殴るような音が店内に響き、次の瞬間、頭に直撃を受けた銀次が床にめりこんでいた。 「…あにすんだよ、蛮ちゃん」 抗議の声にも力がない。しかし、そんな状態でもクッキーをこぼさないあたりが見事だ。 「てめーの無駄なテンションがムカツク」 端から見ればあまりの所業だが、この2人にとってはいつものことだ。 「これっ、ぬ…抜けないよーっ」 床にめりこんだまま抜け出せずにもがいている銀次を無視し、蛮は椅子に座り直して煙草を手に取った。 荒々しい手つきで火を点けると、絶妙のタイミングで目の前に灰皿が滑ってくる。 「着信ゼロか?干上がっちまうな。気の毒だが借金は棒引きにはしねーぞ」 シビアな店主が、携帯電話を指差してシビアな台詞を吐く。 奪還屋を営む2人にとって、携帯電話は生命線の一つだ。依頼主は仲介屋を通すことも、直接やってくることもあるが、大きな仕事はともかく細々とした依頼は携帯電話を通して初めの接触があることが多い。 最近、名を知られるようになってきたものの、広い世間での奪還屋の認知度は当然低く、黙って座っていては仕事はやってこない。 故にここ数日で、ビラ張りやビラ配りなど、一応の宣伝活動をしてみたのだが、この有様というわけだ。 住所不定な上に、定期的な収入がないとくれば、仕事の依頼が舞い込んでこない限り、どんどん財布は軽くなっていく。底をついたらどうしようもない。 日々の生活や将来のことについて、蛮がごくまっとうに苦悩していたというのに、相棒は暢気に女の子とクッキーを食っている。 蛮でなくとも怒るであろう。 「どっかにウマイ話転がってねーかな」 「駄目だよ、蛮ちゃん。今のご時世、ウマイ話イコールやばい話だって」 ようやく床の呪縛から抜け出して復活した銀次が、感心にもぶちまけなかったクッキーをカウンターに戻して、勢い良く蛮に詰め寄る。 「こんな時だけまともなこと言うんじゃねぇ」 「だっていつも酷い目にあうじゃん」 銀次の指摘はストレートに蛮の図星を突いた。 蛮は銀次と違って勘だけを頼りに思いつきの行動はあまりしていない。何をするにせよ一応の根拠や計算はあり、しかもその判断は一般的に見てもそう間違ってはいないはずだ。だが、どうしてか悪い展開に陥ってしまうことが多いのは何故だろうか。 その一方で、考えなしの行動が大半を占めているはずの銀次は、自分なりの判断に従って行動すれば意外と結果は最良の状態に行き着いたりする。それは無限城の中だけにとどまらない。 人生、運だけが全てではないとはいえ、もって生まれた幸運の数は平等ではないということか。 しかし、それと分かっていても、人間は図星を指されると怒るものである。 「うるせーなっ!!全部俺のせいだってかよ?じゃあお前、何か良い考えでもあんのかよ。言えるもんなら言ってみろ」 「ぐ…っ」 今度は銀次が言葉に詰まる。 頭脳労働をほぼ全般任せっきりの身としては、反論する余地がない。たちまち形勢は逆転してしまう。 銀次の運の良さは、蛮が無意識のうちに整えてしまうお膳立てによる所も大きいのだ。それがなければ、銀次の幸運とて半減してしまうであろう。 要するに、この2人どっちもどっちなのだ。 「お前ら、いがみ合ってる場合じゃねーんだろ」 波児の言葉が重く圧し掛かる。蛮が飲んでいたコーヒーとて、ツケという形でありがたくいただいているものだ。 2人が仲良く脱力した所に、来客を告げる鈴の音がした。 「いらっしゃませー!!」 夏実の元気な声が迎える。 入ってきたのは、小柄な少女と長身の若い男、そして少女の傍らにぴったりと寄り添う犬だった。 「こんにちは」 「よう」 「あっ、マドカちゃん、士度っ!!」 いち早く銀次が反応する。 「近くまで来たので、寄ってみたんです」 「どこか行くの?」 匂いを嗅ぎ付けたのか、銀次の目はマドカの手に抱えられたものに吸い付いていた。小ぶりのバスケットの中からは甘いお菓子の匂いがする。 「はい、お花見に」 嬉しそうに笑うその瞳は動かない。 ヴァイオリンの奪還依頼を通して知り合った少女は全盲だ。目が見えないというだけで他は何ら異常もなく、それだけに容貌の可愛らしさも相まって少しだけ切ない気持ちにさせられる。 「桜が満開なんですって♪」 花見の席で食べるつもりなのだろう、お菓子と暖かい思いのたくさん詰まったバスケットを、マドカは大事そうに抱きしめた。 店に居合わせた4人が4人とも僅かに複雑な表情を見せる。こんな笑顔を見せられて胸に去来する思いは一つだ。 その目に見せてあげることができたなら―――…。 言葉に詰まってしまった銀次を見やり、蛮は場を繋ぐために話を逸らした。 「おい、サルまわし」 「何だよ」 ぶっきらぼうな呼びかけに、同じくらい無愛想な返事が戻ってくる。 「動物使って穴場見つけてあんだろうな。ちゃーんとエスコートしろよ?」 この2人、一見仲が悪そうなのだが、最近では微妙に噛み合うようになってきている。 「そんなことは百も承知だ。てめーに言われるまでもねぇよ」 士度の答えにマドカが微笑む。 花見に行くこと自体、もちろん嬉しいのだろうが、士度と一緒なら何十倍にも嬉しさが膨らむのだろう。 世界のマエストロとして輝かしい道を歩むマドカだが、彼女が一際輝いて見えるのはきっとこういう瞬間だ。 「ずっと行ってみたいと思っていたんです。一度も行ったことがなかったので」 暗い影も見せずに喜ぶマドカを見て、いつの間にか銀次の表情にも穏やかさが戻ってきていた。 「そっか、楽しんできてね」 「はい」 |
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