日差しは暖かいものの、風を少々冷たいと感じるそんな日に、カラスの歓迎を受けながら一人の男が無限城にやってきた。


勝手知ったる、といった様子で、連絡も案内もなしに訪れた士度は、MAKUBEXに会うなり、仕事の都合で笑師を貸してほしいと頼んだ。

何の前置きもなく、話の核心をいきなり持ってくるところが、何ともこの男らしい。

一見無礼とも思える態度だが、それは裏表のない清々しさを感じさせる。

しかし、それに対するMAKUBEXの第一声は、意外にも実に冷ややかなものだった。

「ちょっと士度。それ以前に後ろのカラスたち、何とかしてよ」

「あ……ああ。すまん」

「煩くて、君の声も聞こえないじゃないか」

士度の背後には、数え切れないほどのカラスたちが犇いていた。

これらが全て、無限城に戻ってきた士度を出迎えたカラスというわけである。

自分勝手に泣き喚いているカラスたちは、可愛らしい小鳥の囀りとは大きく違って、頭が痛くなるほどやかましい。

MAKUBEXの傍らで、朔羅も笑師も唖然とした表情のまま、カラスの群れを見上げている。

「これなら、どさくさに紛れて悪口言っても聞き取れまへんな〜」

「あら……。笑師、世の中には『地獄耳』という単語があるのよ?」

面と向かって士度を非難したりはしないが、朔羅の台詞にも少なからず棘がある。

確かに、士度にとって、カラスたちは大事な仲間なのかもしれない。

しかし、その仲間に対する親愛の情はともかく、屋内にまで連れてこられては、流石に迷惑というものだ。

「大人しくて、賢い奴らなんだがな」

「散った羽の掃除まで、君が責任もってちゃんとやってくれるの?」

「本当。後の掃除が大変ね」

「手伝いますよって、朔羅はん」

MAKUBEXたちの指摘通り、もう既にかなりの量の羽が散っている。

タイル張りの床に、黒い羽がわさわさと積もっている光景は、相当不気味だ。

しかし、MAKUBEXの口調が冷たいのは、それだけが原因ではなかった。

「ともかく、パソコン類にだけは近づけないでね」

「本当。動物の毛や羽は、精密機械には天敵ですものね」

「士度君、気にすることあらへん。ワイが気合いれて掃除するさかい。掃除機、どこやったかいな〜?」

辛うじて、笑師だけは士度のよき理解者らしい。

士度は三人の会話を黙って聞いていたが、やおらカラスたちを振り返ると、何事かを囁いた。

途端に、カラスは整然と入口に向かい、外へと飛び出し始める。

得意の獣笛か何かで命令したのだろう。

一糸乱れぬ統制ぶりに、MAKUBEXたちは少しの感心と、多大なる安堵の表情を浮かべた。

ようやくまともに話ができる。

士度がすごい能力を有しているのは分かるが、こんな時に披露してほしくない。

最後の一羽の羽ばたきが聞こえなくなってから、ようやくMAKUBEXは切り出した。

「それで、笑師がどうしたって?」

実のところ、カラスの鳴き声のせいで、MAKUBEXは『笑師』という単語しか聞き取れていなかったのであった。




どこかウキウキとしながら、士度にくっついていく笑師を見送って、数日が経った。

二人の行き先は、軍艦島。

ミロのビーナスのレプリカを入手するのが仕事だそうだ。

仕事の詳細について、士度は何も話さなかったが、劉孟焔という男の情報を欲しがった時点で、MAKUBEXにはピンときた。

麻薬の密売が絡んだ、相当危険な仕事になるだろう。

笑師もそれを理解していたはずだが、その足取りには不安など微塵も見えず、どちらかといえばスキップでもしそうなくらいに弾んでいた。

士度の役に立てるのが、単純に嬉しいのだろう。

しかし、当人の浮かれっぷりに対して、笑師を欠いたVOLTSは、それと逆の反応を見せた。

いなくなってみて、初めてその人の存在を重く感じるというが、笑師が出て行った穴は、思いの他大きかったらしい。

ムードメーカーを自任していただけあって、側にいないと一気に気の抜けた空気が流れる。

いればいたで煩いくらいなのだが、早く帰ってこないかと、無意識に誰もが同じことを呟いた。

十兵衛は一見いつもと変わりなかったが、ますます口数が減って、見回りばかり何度も繰り返している。

冷静さを崩すことのあまりない朔羅まで、どことなく落ち着かないらしい。

この二人に限らず、VOLTS全体で会話が少なくなった。

日常に物足りなさを感じるのだ。

うっすらと滲む欠落感が、普段の生活にまで影響を与えている。

無限城の住人としては、珍しい現象だった。

VOLTSのメンバーは、『別れ』に対しては少なからず耐性がある。

中でも、あの雷帝が無限城を去ったという、劇的な『別れ』を体験している者は、特にそれが顕著だった。

余程のことがない限り、心が揺らぐことはない。

だが、笑師が不在となっている今、何故かそうした者に限って、余計に生彩を欠いていた。

あの時に比べれば、今回のことは些細なことでしかないというのに、どうにも調子が悪い。

居場所を他に求めた雷帝と違って、笑師は仕事が終ればここへ帰ってくる。

その確信があるからこそ、笑師の帰りを黙って待っていられるわけだが、この消沈した空気は、実際に笑師が戻ってくるまで収まりそうになかった。

「静かだね」

パソコンから目を離し、MAKUBEXはそのまま上体を後ろに倒した。

常にそこに置いてあるクッションが、衝撃を吸収して、MAKUBEXの体を優しく受け止める。

朔羅がどこからか入手してきた大きなクッションは、独特の柔らかい感触で、その上に寝転がっていると、まるで簡易ソファの上にでもいるかのような感覚だ。

クッションのすぐ下が、冷たい床であることなど、綺麗さっぱり忘れさせてくれる。

無防備に寝転がるMAKUBEXに、隣にひっそりと控えていた朔羅が微笑みかけた。

「静かだと、作業がはかどって良いんじゃないかしら?」

「確かにはかどってはいるけどね」

「何か問題でも?」

朔羅が微妙な声音で囁きかける。

「分かってるくせに……朔羅」

少し拗ねたような顔をしてみせると、朔羅が暖かい手を差し伸べてくれる。

あやすように頭を撫でる優しい手に、MAKUBEXはゆっくりと目を閉じた。

朔羅が小さく呟くのが聞こえる。

「そうね。少し静かすぎるわね……」

「……うん」

もう少し忙しければ、こんなことを考える暇もなかっただろうに、笑師が出かけた後の無限城は、いたって平穏だった。

ベルトラインの連中が襲ってくるでもなく、小グループ同士の小競り合いもない。

VOLTSに属する者は、喧嘩っ早い人間が多いもので、つまらないことでもよく諍いを起こすことが多かったが、それすらもぱったりと件数が減った。

騒動を諌める側の人間が一人減っている状況だというのに、いつも喧嘩腰の連中が殊更騒ぎを起こすでもなく、逆に大人しくなっているというのは、奇妙なものだ。

笑師の不在という状況は、喧嘩しか能のない単細胞な連中の間にも、何かしら影響を与えているのだろうか。

そんなわけで、平和なのは結構なことなのだが、暇な時間があればあるほど、物足りなさを意識してしまう。

朔羅の手をやんわりと制して、MAKUBEXは上体を起こした。

そのまま立ち上がると、きっちり正座した朔羅に視線を向けて、小さく囁く。

「こんな会話をしていたことは、笑師にはナイショだよ」

そう言うと、朔羅が笑い声をたてて頷いた。

「そうね。言わない方が良いかもしれないわね」

「きっと調子に乗るだろうからね」

元々お調子者の笑師を、これ以上調子に乗せると、どこまで行ってしまうか分からない。

それはそれで笑いのネタになるかもしれないが、こんな会話を本人に知られるというのは、照れ臭いものだ。

それに、言葉には出さずとも笑師はきっと理解している。

愛すべき道化師は、お茶目なサングラスの奥で、しっかりと周囲と自分とを見つめているはずなのだ。

『笑師にはナイショ』という、二人だけの秘密を確認し合うと、MAKUBEXはパソコンの前に戻り、システムを自動制御に切り替えた。

「MAKUBEX?」

「ちょっと気分転換に、外の空気を吸ってくるよ」

「それなら私も……」

「すぐに戻ってくるから、朔羅は待ってて。何かあったら、携帯で呼び出して構わないから」

朔羅が頷くのを見届けて、MAKUBEXは部屋を後にした。

廊下に出ると、上階へ向かう幾つかのエレベーターのうち、半端な場所に設けられているエレベーターを選んで、その前に立つ。

『IL』を巡る一連の事件の時、銀次がMAKUBEXを追いかけたエレベーターが、これだったそうだ。

随分昔から停止したままだったのだが、銀次が電撃を叩き込んで、無理矢理動かしてからは、機能をしっかりと果たしている。

あの強力な電撃をきっかけに、接触不良が直っただけかもしれないが、状況が状況だっただけに、何となく運命的なものを感じないでもない。

少しだけ感傷に浸ると、MAKUBEXはエレベーターに乗り込み、上を目指した。

エレベーターといっても、無限城の最上階までは繋がっていない。

上がれるのは、このロウアータウンと呼ばれる範囲内での最上階だ。

エレベーターが停止しドアが開くと、いっぱいの光がMAKUBEXを包み込んだ。

元は何に使われていたスペースだったのか、温室を思わせる全面ガラス張りの屋内は、ここが無限城の一部であることを忘れさせる。

そこを横切り、綺麗だが脆そうなガラスの扉を開けると、強い風が吹き付けてMAKUBEXの髪を揺らした。

今日は殊のほか風が強い。

気を付けなければ、頭に巻いたバンダナまで吹き飛ばされてしまいそうだ。

陽はまだ高く、時折鳩の群れが羽ばたいて、光を遮る。

風が強いため少々肌寒いが、それでも十分に心地良い。

ここは、MAKUBEXがとても気に入っている場所の一つであった。

無限城の裾野に広がる裏新宿も、もっと外側の世界までも、ここなら直に自分の目で見渡すことができる。

小さく見える景色の中に、人はちゃんと存在して、それぞれが生活しているのだろう。

玩具のように見えていても、揺るぎない存在感を示すその光景に、ずっと憧れともいえる感情を抱いてきた。

「後ろ向きな考えは、もう捨てなきゃ……って分かってはいるけど」

屋上の、ぎりぎりの縁まで来て、MAKUBEXはすぐ足元を見下ろした。

眩暈がするほど高い。

高所恐怖症の者なら、足が竦んで動けなくなるか、吸い込まれるように足を踏み出してしまうかのどちらかであろう。

さして恐怖は感じない。

無造作に座り込んで、足を投げ出す。



少し体を反らせて上向くと、遥かな塔が見えた。

これほどの高所にいるというのに、無限城全体から見れば、まだまだ低い位置でしかない。

バビロン・シティの頂上から見下ろせば、MAKUBEXの存在など、取るに足らないちっぽけなものとして映ることだろう。

MAKUBEXの眼が不気味な塔を映し、しかしその視線はすぐに外された。

澄み切った空の色に彩られた瞳が、西南の方角へ向けられる。

「あっちの方かな……」

ここからだと、軍艦島はこの方角だろうか。

笑師と士度のことだから、心配することはないのだろうが、それでも手の届かない場所にいるという不安を、全て拭い去ることはできない。

そして、胸にわだかまっている思いは一つではなかった。

複雑な感情が混ざり合う。

笑師が行くと言った時、小さな棘が突き刺さったかのような、そんな感覚を覚えた。


この無限城でしか生きられない人間もいる―――。


その言葉がじわりと脳裏に染み込んだ。

そうした存在を、実際に見てきたMAKUBEXは、自らも深い疑念を抱えたままだ。

果たして『自分』は本当に存在しているのか。

バビロン・シティの謎に迫ったが故に、知ることとなってしまった数々の事柄は、解き明かす度に新たな謎を重ね、今もMAKUBEXを苛んでいる。

「僕も……」

無意識に小さな呟きが漏れた。

「僕も自由に『外』に出てみたい……な」

声に出すと、尚更思いが募る。

MAKUBEXは、一度として外の世界に出たことがない。

出ようと思えば、出られるのかもしれない。

可能性はゼロではないはずだ。

しかし、知ってしまった事実を繋ぎ合わせていくと、その可能性はどんどん閉ざされていく。

『無限城の神』、MAKUBEXがそう呼んでいる何者かによって、組み上げられたシナリオ。

そのために用意された数々のパーツ。

全ては予めプログラムされていて、自分さえもそのパーツの一つにすぎないのではないか。

自分の意思で行っているはずの行動も思考も、こうして苦悩していることさえ、全てが誰かの手によって意図的に仕組まれたものかもしれない。

或いは、個人の存在さえも、この半仮想空間で作り上げられたものでしか――。

その疑問にはまだ解答が出ず、不安と恐怖と、どうしようもないもどかしさは今も残っている。

MAKUBEXのみならず、この無限城に関わる全ての者に、大なり小なり降りかかってくる疑問だろう。

想像もしない誰かによって、運命を勝手に握られていることになるのだ。

この問い掛けを突きつけられて、全くの平静でいられる者は、どこかが壊れているに違いない。

かつてMAKUBEXがその疑問を語った時、塔の白い住人は、意味深な瞳でただ微笑むだけだった。

黒き死神は、つまらなさそうな瞳で、興味がないと断言した。

隻腕の鬼神は、肉食獣のような隻眼で、下らないと吐き捨てた。

MAKUBEXの語った内容に関して、誰一人として無関係ではなかっただろうに、まるで他人事だ。

自分以外の何ものにも責任を負わず、刹那的な道を生きる彼らにとっては、そんな疑問など、どうでもいいことなのかもしれない。

あんな態度を貫いた方が、何に縛られることもなく、気楽に生きていけるだろう。

だが、何もかもを切り捨てるような、そんな淡白すぎる生き方を、MAKUBEXは望んでいない。

軽く頭を振って、一向に進展のない思考を追い出す。

俯いたMAKUBEXに、下から強い風が吹き付け、小柄な体が僅かに揺らいだ。

落ちるほどではないせよ、こんな場所でバランスを崩すのは危険極まりない。

「そないなトコにおったら、危ないで。MAKUBEXはん」

何の前触れもなく、背後から声が掛かった。

独特の関西弁。

この無限城において、『悪魔の少年王』とまで称されるMAKUBEXを相手に、こんな陽気な口調で話し掛けてくる者は一人しかいない。

こだわりのサングラスで素顔を隠した道化師を、MAKUBEXはゆっくりと振り返った。

立ち上がりもせず、首だけを曲げて見上げるMAKUBEXに、笑師が呑気な笑顔を見せる。

しかし、それに対してMAKUBEXは笑顔で応えようとはしなかった。

帰還を喜ぶ挨拶さえもない。

リーダーの意外な反応に、笑師が小首を傾げる。

「MAKUBEXはん?」

「……」

ほんの数瞬、MAKUBEXは人形のように固まった表情で笑師を見上げていたが、やがて小さく溜息をつくと、抑揚のない声で言った。

「何の真似だい、鏡君?」

その台詞に笑師の表情が引きつり、みるみるうちにその輪郭が朧げになると、次の瞬間には姿そのものが砕け散った。

ガラスが割れるような、高音の不協和音が重なり合い、笑師の姿を映していたものが、透明な破片と化して光を乱反射させる。

ガラスの欠片が舞い散るその向こうに、白い影があった。

気さくな印象を与える笑師とは、雰囲気が180度違う。

氷を思わせる容貌に、気障なスーツを巧みに着こなして、鏡が立っていた。

軽薄さを感じさせる声が、MAKUBEXの耳に届く。

「気付いたかい? 自信があったんだけどな」

「よく出来てるよ。……悪趣味だけど」

「わざわざ、声のデータも用意したのにねぇ」

どういう原理を利用してか、鏡が作り出した笑師の姿は、本物そっくりの形を持つばかりでなく、本物そっくりの声まで再現してみせた。

驚いたことに、ガラスが砕け散るその瞬間までは、確かに立体的な質感までをも備えていたはずである。

それが、実際は平面に映した像でしかなかったとは。

直前まで虚像だと気付かせない、それほどのリアル感だった。

それは鏡本人の能力なのか、或いはこれも無限城の力を利用したものだろうか。

「何か用?」

「そっけないな。暫く俺に会えなかったんで、拗ねているのかい?」

「どこをどうしたら、そういう発想に辿り付くんだよ?」

冷静に否定すると、鏡は気にした素振りもなく、MAKUBEXのすぐ隣に歩み寄ってきた。

どこか他人を見下すような瞳が、面白そうに眼下に広がる街を一瞥し、そのままの瞳がMAKUBEXに向けられる。

ガラスのように現実味のない、しかし底知れないものを感じさせる奇妙な瞳と、MAKUBEXの、宇宙の理さえ読み解く青い瞳とが、暫しの間ぶつかりあった。

「淋しそうだね、MAKUBEX」

「……」

鏡の口元が笑いの形に歪んで、何気ない言葉が含みのあるものへと変貌する。

裏にどんな意図を込めているのか、鏡の言葉は尚も続いた。

「何もこんな時に出て行かなくてもいいのにねぇ」

敢えて名前を出さないものの、それは確実に笑師のことを指している。

MAKUBEXは、鏡から視線を外して、前方を見据えた。

気を付けないと、この塔の住人は、言葉巧みに人の心を掻き回す。

彼が武器としているガラスの欠片のように、その唇から導き出される言葉は、人の心の奥底に突き刺さり、いつまでも癒えない小さな痛みを与え続けるのだろう。

致命傷には程遠くとも、常に負い続けることになる微細な苦痛は、少しずつ精神を蝕み続けるに違いない。

慎重に単語を選びながら、MAKUBEXは答えた。

「笑師に許可を出したのは、僕自身だよ。君が気に掛けることじゃない。それに、出歩くなら却って今の方が好都合さ。無限城は静かなものだからね」

「静か? そりゃ、そうさ。今は……ね」

思わせぶりなことを言う鏡に、MAKUBEXが僅かに顔を顰める。

鏡の台詞は、まるでこの無限城でこれから起こる全ての事象を、熟知しているかのようだ。

問い詰めてみたいのはやまやまだが、この男はきっと、意味深な単語を並べるだけで、核心に迫ることは何一つ漏らさないに違いない。

一見、MAKUBEXに従っているかのように見えていても、そんな一般的なカテゴリーに収まるような存在ではなかった。

奇妙な『観察者』は、最期までこの立場を貫き通すのだろう。

「MAKUBEX、俺が言いたいのはそんなことじゃないんだ」

「まだ、その話を続けるつもりなの? 僕はもう興味がないんだけど」

つまらなさそうに言うと、鏡が腰を屈めて、やや斜め上から興味ありげに覗き込んできた。

「君の心情も理解しないで、外に出て行くなんて……結構酷いなって思ってさ」

「鏡君!」

遮るように、MAKUBEXは強い語調で名を呼んだ。

塔の白い住人には、全てお見通しというわけか。

MAKUBEXが心の奥底に抱える、不安も哀しみも、そして笑師に対してのほんの少しの妬みも。

だからといって、敢えて表面には出さずに黙っていることを、おせっかいにも引き出そうとするのは、迷惑な話だ。

「変なことを言い出さないでくれないかな、鏡君」

「でも、ほんの少しだけ思ったりしない? 帰ってこないんじゃないかって」

「……っ」

「雷帝も、弦の花月も、ビーストマスターも、『外』の世界に居場所を見つけた」

笑師もまた、そうだと言いたいのだろうか。

雷帝を始めとして、笑師も朔羅も皆が無限城から去っていき、ただ一人MAKUBEXだけが取り残される、そんな未来もあり得るのだと。

ここから出ることの叶わぬ者は、無限城が不毛な廃墟と化しても、永劫に囚われ続ける。

そんな、MAKUBEXを悩ませ続けた夢が脳裏でちらつく。

だがもう、それに捕われて自滅したりはしない。

そう決めた。

抗い続けていくのだと――。

「ねぇ? MAKUBEX」

鏡が真っ直ぐに視線を合わせながら、優雅に微笑む。

人の神経を逆撫でするような笑みだ。

何もかもを知り尽くしている者の余裕なのだろうか、その態度は、混迷の中を彷徨う者にとって、あまりにも腹立たしい。

軽く唇を噛み締める。

こんな行動も、鏡にとってはおそらくただの暇つぶしだ。

それと分かっているなら、いちいち付き合ってやる義理はない。

「鏡君。悪魔の囁きでも気取ってみるつもり?」

MAKUBEXの鋭い視線に、鏡が禍々しい笑みを浮かべる。

それまでの、上辺だけは優しい微笑みが、まるで夢ででもあったかのように、鏡は狂気をはらんだ微笑のまま、僅かに後退した。

その鏡の体に、無数の皹が走る。

瞬きする間もなく、鏡という男の姿を形作っていた像は粉々に砕け散った。

どこで入れ替わったのか、初めから鏡像だったのか、砕けたガラスは途端に色を失って、風に吹き飛ばされるかのように、舞い上がって消えていく。

虚構の笑師が消えた時と、まったく同じ現象だった。

「まだまだ『観察』のし甲斐があるね。暫く楽しめそうだよ」

その声は、どこか遠くから聞こえた。

こちらから姿は見えなくとも、鏡はどこからか見ているのだろう。

夢と現実を自由に行き来するかのような、白い『観察者』は、いつもその存在自体が希薄だった。

ガラスの欠片が織り成す光の乱舞が、幻想的な光景を見せながら、儚く消えていく。

思わず酔いしれるほどに、とても綺麗なものだと思うのだが、どうしてこうも苛立ちを覚えるのだろう。

鏡が作り出した光景だから、という理由だけではない。

砕けたガラスは優美なだけで何の役にも立たず、何の価値もなく、何も残すことなく、ただ消えていく。

それでいながら、光を弾いて己の存在を主張する様は、まるで自分こそが勝者なのだと誇示しているかのようだ。

そのことが、『鏡』という人間そのものを連想させるからこそ、この光景がいくら華麗であろうとも感銘を受けないのかもしれなかった。

Piriririri……。

見た目には魅了するような、光の輪舞を遮るように、無粋な電子音が鳴った。

MAKUBEXのポケットで、携帯電話が着信を知らせている。

慌ててそれをポケットから取り出す頃には、鏡がそこにいたという痕跡はすっかり消え去っていた。

「もしもし?」

『MAKUBEXね?』

受話器の向こうから、春の花を思わせるような、柔らかな女性の声がした。

鏡が残していった後味の悪さが、少しだけ浄化されるような気がする。

『早く下りてきて。笑師が帰ってきたの』

朔羅の声はそう続けた。

小さな鈴を転がすような、どこか弾んだ響きの口調に、MAKUBEXも自分の口元が綻ぶことを自覚する。

暖かくて安心する心地良い声、ほんの短い会話だけで、まるで魔法のようにMAKUBEXの沈んだ心を浮上させてくれる。

「すぐ戻るよ」

『早くね』

通話ボタンを押して通信を終了すると、MAKUBEXは立ち上がった。

すぐに戻ろうとはせず、その場に暫し立ち尽くし、吹き抜ける風に誘われるように瞼を閉じる。

朔羅の言葉に含まれていた名前に対し、安堵と嬉しさを感じる一方で、複雑な思いが僅かに揺れていた。

心の中にざわめき続けるものたちを、少しずつ静めていく。

笑師と直接顔を合わせた時、心の奥底に引っかかっているものが、溢れ出してしまわないように。

静かな湖面に小波が寄るように、まだほんの少しだけ揺れる感情を、落ち着かせようと耳を澄ます。

吹き上げてくる風の音の中に、鳥の羽ばたきをしっかり聞き取れるくらに平静を取り戻し、それからMAKUBEXはゆっくりと瞳を開いた。

小生意気とも取れる、『無限城の少年王』の表情を浮かべて、その場を離れる。

朔羅たちが待っている地下へ、MAKUBEXは戻り始めた。




部屋に戻ると、そこはさながら小さな宴会のような賑わいを見せていた。

帰ってきたばかりの笑師を中心に、朔羅や十兵衛たちは土産話を楽しそうに聞いている。

その足元には、土産物らしきものが大量に散らばっていた。

笑師は、ここに到るまでにも、VOLTS幹部以外のメンバーや、馴染みの子供たちに土産を渡して歩いてきたらしい。

床に散乱する土産物たちの輪の外には、相当な数の空袋が一まとめにしてあった。

季節に合わないサンタクロースのような大きな袋を担いで、笑師が皆に少しずつ土産を手渡す図が、容易に想像できる。

MAKUBEXが戻ってきたのに気がついて、笑師がハイテンポな関西弁を一時中断し、改まった態度を取った。

「笑師春樹、ただいま戻りましてん」

独特な関西訛りで言われると、かしこまった台詞も、どこか笑いを誘うものに感じられる。

「思ったよりも早かったね、笑師」

言いながら側に寄ると、記憶にない香りがした。

笑師からも、その周りの土産物からも、無限城ではあまり縁のない潮の匂いがする。

MAKUBEXの考えを読み取ったかのように、笑師が土産物を指差した。

「土産、ぎょーさん買うてきました」

得意げに、笑師が胸を張った。

「軍艦島から鯨に乗って沖縄まで行って、そんで買い物タイムですわ。士度君は世話になってるお屋敷のお嬢さんに土産を買うて。因みにGBのお二人さんは、極貧で土産すらも買えんで、ほんまに気の毒やったわ」

仕事自体は大変なものだっただろうに、笑師はそのことには触れず、楽しい話題のみを持ち出す。

笑師らしいユーモアを織り交ぜた話を聞いていると、本当に観光だけを楽しんできたかのようだ。

仕事での苦労話は、いずれ違う席で話すつもりなのだろう。

「それで、これらは笑師が買ってきた御土産なんだね?」

「随分買ってきたのだな」

「結構お金もかかったんじゃないかしら?」

「士度君、奮発してくれはりましてな〜」

士度は口数が少なくて無愛想な男だが、こうしたことでは潔い。

依頼人からもらった仕事料の内、協力料として、相当な額を笑師に渡してくれたのだろう。

士度の計らいに感心しつつ、改めて見渡してみると、土産物はやたら食べ物が多い。

ポストカードやキーホルダーなど、土産としては定番でも、いまいち実用性のないものは何も買ってきていないようだ。

笑師は変なところでしっかりしている。

「これ、お酒?」

無色透明な液体で満たされた数本の瓶を、MAKUBEXは興味深そうに眺めた。

「これは十兵衛はん限定でんな。かなり強い酒やから」

沖縄名物の焼酎だろうか、それならアルコール度数はかなり高いはずだ。

「今夜は呑み明かしまっせ。十兵衛はん」

「ふ……よかろう。とことん付き合うぞ」

笑師と十兵衛が、今夜の酒宴を約束し合い、大人の男の顔で笑いあっている。

MAKUBEXとて、アルコールを経験していないわけではない。

無限城のような特殊な環境下で育ってきたのだ、子供にとってタブーとされる煙草も酒も、手にしたところで誰も咎める者はいない。

しかし、それでも他の無限城育ちの者たちに比べれば、そうしたものに触れ合う機会はかなり少なかったように思う。

ゲン爺の教育が行き届いていたことと、MAKUBEX自身がそうしたものにあまり興味を持たなかったことが良い作用として働いたようだ。

今現在に至っては、MAKUBEXの食生活を、朔羅がしっかり管理しているので、まかり間違ってもアルコールを手にすることなどありえない。

MAKUBEXが、笑師や十兵衛の輪に加われるのは、6年後か。

或いは4年後くらいには参加していられるかもしれない。

しかし、どちらにせよまだまだ遠い未来のことと思える。

こうした時だけは、ほんの少し疎外感を感じないでもない。

MAKUBEX以外の幹部たちは、もうとっくに少年の階段を上りきって、次の段階を進んでいる。

「朔羅はんも少しどうです?」

「私は……遠慮するわ。酔い潰れた貴方たちを介抱してあげるわね」

笑顔で冷静な指摘をする朔羅に、笑師が頭を掻きながら苦笑する。

十兵衛は、過去に痛い目でも見ているのか、僅かに表情を強張らせた。

どうやら、限界までハメを外して宴会、とはいかないようだ。

「それなら外で呑んでくれば? それなら際限なく呑めるだろ?」

ばつの悪そうな二人に、MAKUBEXが適当に選択肢を示す。

詳しい場所までは知らないが、笑師はたまにどこかで楽しくやっているらしい。

VOLTSのメンバーの中でも、比較的年齢が上の者たちとの会話を聞いていると、それなりに店の名前にも詳しいようだ。

「打ち上げも兼ねて、行ってきたら?」

MAKUBEXの言葉に、意外にも笑師は激しく首を振った。

「せっかく帰ってきたんや。やっぱりウチが一番落ち着きますわ」

笑師の主張に、他の二人も同調する。

「そうだな。外ではゆっくり呑めん。積もる話もあることだし、ウチが一番だ」

「ウチで呑んでいてくれた方が、何かと都合が良いのよ。仮に十兵衛が暴れても、仮に十兵衛が寒いギャグを飛ばしても、仮に十兵衛が語りに入っても、仮に十兵衛が意味不明なことをし始めても、誰にも迷惑かけないし」

「姉者……」

朔羅の言葉に、十兵衛が頭を抱える。

かつての悪業や、忘れてしまいたい秘密を、さらりとばらされてしまったらしい。

「ふーん。十兵衛って前科もちなんだ」

「い……いや、MAKUBEX、俺は……」

「言い逃れできへんで〜。ワイが証人になったる」

しどろもどろに言い訳しようとする十兵衛に、笑師が止めをさす。

身内から恥を晒され、証言まで飛び出しては、もう隠すことなどできない。

「それにしても、無限城のことを指して『ウチ』と呼ぶ、か……。よくよく考えるとすごい話だよね。一般的なイメージとはかけ離れてるよ」

外の社会からは、消し去ることのできない汚点として見られている場所、それが無法地帯『無限城』だ。

『ウチに帰る』と言って、その場所が無限城を指しているなど、普通ならありえない。

外の世界でうっかりそんなことを口にしたものなら、白い目を向けられることだろう。

普通なら、そんな状態に嫌気が差して当たり前だ。

そんな理由を抱えて、ここから去って行った者も存在する。

「ちゃいますわ」

「?」

「無限城が『ウチ』なんやなくて、MAKUBEXはんがいて、朔羅はんがいて、VOLTSの皆がいる場所が、『ウチ』なんや」

「え……」

その言葉に、鏡が残していった台詞が、MAKUBRXの中で冷たく反響し始める。

笑師とてここを離れていくかもしれない―――バビロン・シティの住人は、もっともらしい顔をして、数ある可能性の中で一番嫌な道の一つを口にした。

在り得ない話ではなく、いかにも在り得そうな可能性。

信頼という絆でその可能性を否定し続けるMAKUBEXを嘲笑うかのように、鏡は無責任に現実を突きつけた。

そして今、何の含みも持たず、さも当然のように、笑師が鏡の言葉を虚言と変えていく。

鏡とMAKUBEXの会話など、知っているはずもないだろうに、何故こんな言葉が、この瞬間に出てくるのだろう。

「笑師……」

「そうでっしゃろ、MAKUBEXはん」

その語りかけに対して、すぐには言葉が出なかった。

そんなMAKUBEXに、当たり前のことを口にしただけだ、と笑師の表情が語っている。

少し視線をずらしてみれば、朔羅も十兵衛も、穏やかに微笑んでいた。

言葉に出して確認するまでもない、それはごく自然なことなのだ、とでも言いたげに。

「そっか……」

そう呟いて、MAKUBEXは笑顔を見せた。

笑師の、ごく普通の言葉に対して、やはり何の飾り気もない言葉を捜す。


「お帰り、笑師」

「はいな」



「話を割ってすまないが、俺の名が出ないのはどういうことだ?」

「VOLTSの皆てゆーたやん。まーまー、酒でも呑んで機嫌直したって」

おまけ

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