福音という名の魔薬
第六話「レイ、心のありか」 第三使徒襲来より22日前。 「起動開始。」 ネルフ本部・第2実験場にて、エヴァンゲリオン零号機の起動実験が開始された。 「主電源全回路接続。」 「主電源接続完了。起動用システム作動開始。」 ゲンドウの命令を受けて、リツコが指示を出し、マヤがシステムを作動させると、オレンジイエローに塗られた零号機に光が灯る。 実験が始まったのだ。 「稼動電圧、臨界点まであと0.5……0.2……突破。」 拘束具で壁面に固定されたままの零号機を、ゲンドウ、冬月、リツコのトップ3が実験管制室から見下ろしている。 「起動システム第2段階へ移行。」 「パイロット接合に入ります。」 「零号機体内LCL、規定水準をクリアー。」 「システムフェーズ2、スタート。」 「零号機、仮想ボディ形成開始。」 「擬似内骨格形成開始。装甲外骨格の応力、置換開始。」 「仮想ボディ神経系形成確認。」 ちなみに、零号機は他のパペットとは違い、パイロットのATフィールドを用いて機体内に満たされたLCLから擬似的な肉体を構成する特異な方式を採用している。 「全回路正常。」 よって、零号機の機械装置はパイロット保護、通信装置、機体情報検知、仮想ボディの構成と稼動に必要な電力供給系統などに限られていた。 「初期コンタクト異常無し。」 「左右腕部まで仮想ボディ形成。」 それを証左するかのように両腕の装甲部に設置された緑色のマーカーライトが光る。 「仮想ボディ形成完了。」 「チェック2550までリストクリアー。」 「第3次接続準備。」 零号機が顔を上げる。その視線の先には、彼女を見据えるゲンドウがいる。 「2580までクリアー。」 「絶対境界線まであと0.9……0.7……0.5……0.4……0.3……」 その時、異変が起こった。 パシンと言う音と共に 「パルス逆流!」 シンクログラフが一気に下降線を辿り、 「第3ステージに異常発生!」 苦悶にもがきだす零号機。 「仮想ボディがエントリープラグからの信号を拒絶し始めています。」 そして、次々途切れて行く神経接続。 「コンタクト停止。6番までの回路を開いて。」 その状況に、リツコは実験を中止する為の措置を指示するが、 「駄目です! 信号が届きません!」 マヤからの返答は絶望的なものであった。 もがき続けた末、遂に拘束具を壁から引き剥がす零号機。 「零号機、制御不能!」 悲鳴混じりの報告が、起動実験の失敗を何よりも雄弁に語っていた。 「実験中止。電源を落とせ。」 ことここに至って、遂にゲンドウも実験中止の命を下す。 非常用の電源切断レバーが引かれ、アンビリカルケーブルが零号機から外れ落ちた。 「零号機、予備電源に切り替わりました。」 「完全停止まで後35秒。」 すると頭を抱えていた零号機は、突然コントロール・ルームに拳を叩きつけた。 何度も、何度も、何度も…… その度に120mm戦車砲弾どころかエヴァ・パペットの体当たりでさえも難無く撥ね返せる筈のコントロール・ルームの特殊防弾ガラスにヒビが入るが、それを正面から見据えたままゲンドウは動かない。 「危険です。下がってください。」 リツコの勧めにも微動だにしなかったゲンドウであったが、 「オートエジェクション、作動します。」 零号機の背中の装甲を固定している爆砕ボルトが作動し、脱出システムが作動した事で顔色が変わった。 「いかん!(今レイに死なれては計画が!)」 「特殊ベークライト、急いで!」 射出され、天井に激突した後、推力を失って墜落するエントリープラグ。 「レイ!(くっ! レスキューを待つより、俺が直接助けに行った方が早い!)」 言いざま、身を翻し緊急用エレベータへと急ぐゲンドウ。 確かに、未だに暴れてる零号機がちゃんと鎮まったのを確認しないと動くに動けない正規のレスキュー・チームより、零号機が暴れてようが何してようが構わず突入できる個人の方が初動の素早さにおいて圧倒的に有利である。 ……無茶とも言うが。 ついでに言えば、正規のレスキュー隊員ならばこの状況で装備するであろう耐熱防護服を着る手間を惜しんでいる為、圧倒的に身軽だというのも大きい。 ……蛮勇とも言うが。 エントリープラグが撃ち出された後、なおも暴れる零号機に実験室の壁から特殊ベークライトが噴射され、その体躯を固めていく。 同時に、零号機の予備電源が尽き、そのまま動かなくなった。 レスキューチームの到着を待つ事無く、ゲンドウが自らの手でレイを救出しに急ぐ。 エントリープラグの非常開閉ハッチのノブを持ったゲンドウは、あまりの熱さにのけぞり、眼鏡を床に落とす。 液状にする為かなりの高温にしていた特殊ベークライトにエントリープラグの一部が触れていた為、ハッチも熱されていたのだ。 だが、それでも再度挑戦する。 無謀な事に素手で。 掌から湯気を上げて火傷しながら、それでもレバーを捻り、ハッチを開くゲンドウ。 「レイ、大丈夫か。……レイ。」 そのゲンドウに、操縦席に座っていたレイは弱々しく肯いた。 「そうか……(これで計画が続行できる。今3人目に移行している暇は無いからな。しかし、レイの負傷の程度によっては、予備を使う事も考えておかねば……)」 足元で熱されたLCLに浸かっていたゲンドウの眼鏡が静かに割れた……。 一部始終を見ているリツコの視線の先で……。 なお、この後レイと二人仲良くレスキュー・チームに運ばれたゲンドウが、掌だけではなく、両足にも軽い火傷を負っていた事は言うまでも無いであろう。 そして、現在…… 第四使徒襲来から一週間あまりが経過したある日。 薄暗い青い照明の下、特殊ベークライトによって凍結されている零号機の発掘作業が進められていた。 「綾波レイ14歳。マルドゥックの報告書によって選ばれた最初の被験者、ファーストチルドレン。エヴァンゲリオン零号機パイロット。過去の経歴は白紙。全て抹消済み。」 リツコが誰にともなく呟くと、 「で、先の実験の事故原因はどうだったの?」 隣に居たミサトが質問してくる。 「いまだ不明。……ただし、推定ではパイロットの精神的不安定が第一原因と考えられるわ。」 「精神的に不安定? あのレイが?」 情緒的な起伏に乏しく常に沈着冷静と信じられているレイが動揺する…と、にわかには信じられず、驚きの声を上げるミサト。 「ええ。彼女にしては信じられないぐらい乱れたのよ。」 「何があったの?」 ミサトの視線の先には、クレーンで運び出される壊れたエントリープラグと、プラグ挿入口に挿し込まれている十字架型の停止信号プラグがある。 「わからないわ。……でも……まさか(あの時、暴走する前、零号機はゲンドウさんを見ていたように見えた……)。」 「何か心当たりがあるの?」 「いえ……そんなはずがないわ(きっと気のせいね。考え過ぎよ。)。」 リツコは自分の心に浮かんだ考えを速攻で否定する言葉を発した。 あたかも、自分に言い聞かせるかのように……。 その日の夕方。 実験室というよりは医務室と言った方が良い雰囲気の部屋にシンジ、ヒカリ、ハルナの3人はいた。 「リツコさん、こうで良いですか?」 シンジは自分が刺した針の具合を恐る恐る確認しながら固定している。 「ええ良いわ。上手くなったわね、シンジ君。」 「いえ、リツコさんの教え方が上手いからだと思いますよ。」 「3日で人間に試せるぐらいになったのは凄いわ。シンジ君ができるようになったのは注射だけだけど、注射のコツを掴むのはなかなか難しいのよ。」 シンジが刺した針は、ヒカリとハルナの左腕の中ほどに刺され、そこから赤い液体が吸い出されている。 ……仰々しく言ったが、要は献血用の機械に採血されているだけであった。 「ところで、今回は何cc取るんですか?」 「本当は幾らでも欲しい……と言いたいとこなんだけど、今回は200ccで良いわ。」 ちなみに採血用の針を刺す係はシンジである。 そうしないと彼女らのATフィールドを無力化できないのだ。……もっと個人的に親密になれば別なのかもしれないが。 よって、急遽シンジはリツコにビシバシ注射の仕方を叩き込まれる事になったのだ。 「それにしても最高のサンプルね。ありがたいわ。」 「サンプル……ですか?」 ちょっとだけシンジの目に不信感が混じるが、 「ええ。日本赤十字と交渉した結果、洞木さんが以前…使徒と融合する前…に献血した血液を入手できたのよ。今回の血液と比較すれば、使徒の様々な事が分かるはずよ。」 リツコがサンプルと言ってるのが採血した血液の事だと悟って、気を取り直した。 「でぇリツコ、今のトコどこまで分かってるわけ?」 この実験……もとい、資料集めに付き合って傍観していたミサトが訊いて来る。 「マヤ、解析データを出して。」 「はい、先輩。」 が、 マヤが操作して端末の画面に表示させたのは『601』という数字だけだった。 「何、これ?」 「解析不能を示すコードナンバー。実際、使徒に関して分かっている事はあまりにも少ないわ。この子……ハルナちゃんがあそこまで非常識な破壊力を振るう事ができる仕組みも動力原理も未解明。使徒の元々の身体の性質や構成素材を調べようにも、破片すらロクに入手できてない現状では無理。遺伝子パターンの詳しい解析はこれからだけど……現状では99%以上が人間の遺伝子と一致してると言う結果が出てるわ。」 「きゅ…きゅうじゅう……きゅうパーセント以上、ですか?」 今の話が聞こえたのか、ヒカリが口を挟む。自分たちの身体の事なので放っては置けなかったのだろう。 「ええ。……私見だけど、あなた達は遺伝子的にも構成素材的にも、ほぼ『人間』と同じだと思うわ(シンジ君のエヴァの性質を考えると……ね。)。恐らく子供を作るにも支障は無いはずだわ。」 「こ……子供!?」 ヒカリが真っ赤になって固まった。恐らく想像してしまったのだろう。 「ねぇ、おにいちゃん。こどもってどうやってつくるの?」 そして、リツコの台詞がお父さんの答えに窮する質問ベスト3には入るだろう台詞を引き出してしまった。 「え、えっと……」 困惑するシンジは助けを求めて周囲を見回すが、 そこには、 同情の目で見ているリツコと、 面白がって見ているミサトと、 硬直しているヒカリとマヤしかいなかった。 「(うっ……結局、僕が言うしか無いのかな……)えと、子供を作る方法は……」 しかし、シンジがどもりつつも説明を始めると、 「あなた達が毎晩ヤってる事よ。」 ミサトがズバッと核心を突く発言をかました。 しばし、沈黙が流れる。 痛い、沈黙が…… 「「不潔よ〜!!!」」 ユニゾンで破壊力を増した音波攻撃が、ちょうど二人に挟まれる位置にいたシンジを直撃し、朦朧とさせる。 と同時に、ようやく意味を悟ったハルナの顔も真っ赤に染まる。 年長者二人はとっさに耳を手で押えたものの、少なからぬダメージを受けたようで、そのまま頭を抱えて座り込んでしまっている。 『マ、マヤだけじゃなかったのね……まだ耳の奥が痛いわ。』 『……ったく、ミサトったらロクな事しないんだから。』 そんな中、真っ先に再起動を果たしたのはシンジだった。 「……ハルナ、大丈夫?」 「うん、おにいちゃん……」 シンジは素早く機械を見、採血が終わってるのを確かめた後、針を慎重に抜いた。 抜いた後に手早く絆創膏を張り、 「ハルナはゆっくり休んでて。」 と言って、次はヒカリの元へ行く。 「ヒカリの方も終わってるね。針外すから動かないで。」 話しかけられてようやく我に返ったヒカリは、 「う、うん……」 と言って神妙にしている。頬が赤いままなのはお約束だが。 ヒカリにも教えられた通りの処置を済ませると、シンジは部屋の中を改めて見回した。 リツコとミサトは床に座り込んでおり、マヤは椅子に座ったまま硬直している。 「(う、放っとく訳にもいかないかな……)ヒカリもここで休んでて。」 「うん、分かった。」 献血慣れしているヒカリは、採血して直ぐは下手に動かない方が良いのを熟知しているので、素直に指示に従った。 「だ、大丈夫、伊吹さん。」 未だ硬直しっ放しのマヤの肩を後ろから揺さぶると、マヤの頭が力無くシンジの胸に収まる格好になる。 「えっ(なに? この安心感……)。」 恐る恐る上を見ると、そこにはシンジの顔が…… 『何故、悲鳴が出ないの? ……何故、嫌じゃないの?』 予め身構えていなかった事、マヤがシンジの能力…誘惑…に反応し易い体質になっている事、シンジが女顔の美少年でマヤの警戒心を喚起し難い事によって、いつもなら覚えるはずの不快感よりも心地好さの方が先に立っていた。 「ええ、大丈夫よ(シンジ君みたいな子になら、こうされてても良いかも……)。」 故に堕ちかかっていた。 もし、目を閉じ、半開きになったマヤの唇にシンジが覆い被さるようにキスしたら、それでもうなし崩しにヤってしまえるかもしれないというぐらい堕ちかかっていた。 しかし…… 「あ、リツコさん。大丈夫ですか。」 「何とかね。」 「じゃあ、伊吹さん運ぶの手伝ってくれますか? 具合悪そうなので。」 シンジは、そんな事には全然気付いていなかった。 「分かったわ。シンジ君は頭の方お願い。」 「はい。」 長椅子に横たえられながら、マヤは安堵すると共に心にうっすらと涙を浮かべていた。 ……二人の使徒っ娘が得物を出そうかどうか迷っていたのも知らずに。 ……尊敬する先輩が、シンジのお相手(使徒への生贄)候補のリストに自分の名を追加した事にも気付かずに。 「さて、ミサト。この始末どうつけるつもりかしら。」 マヤが安置されてる間にそうっと実験室を出て行こうとしていたミサトは、背後からかけられた絶対零度の声音で凍りついた。 「じょ、じょ…ちょっとした冗談よ〜。」 「そう。でも、そのちょっとした冗談でここの機材が壊れてたらどうする気? ミサトの給料じゃ一生かかっても返せないようなものまであるのよ。」 「う……」 実際、二人の使徒っ娘のどちらかが暴れただけでネルフ本部を壊滅させられる事は周知の事実であり、この二人に発給されているIDも“無理矢理押し入られて余計な被害を出すよりは余程マシ”との高度な政治的判断によって出されてるものだったりする。 作戦部の部長であるなら、その程度の事は考慮する必要はあるのだが……今回のミサトは、近所のお姉さんとして年下の子たちをからかう意識が勝っていたようだ。 もっとも、それは相手も解っており、深刻な事態は今まで起こっていない……。 それは、文字通りの裸の付き合いで親しみ易さを培ってる努力の成果であった。そのせいでシンジはミサトの倍以上の気苦労を重ねているが、まあ細かい事である。 「う……ゴミン。」 ……結局、ミサトがここに居る全員にレストランで夕食を奢る事に決まり、軽くなってしまった財布に涙する事になったのだった。 翌日の学校、体育の時間。 男子は校庭でバスケットボール、女子はプールで水泳を行なっていた。 ……と言っても、男子の補欠や見学の面々はバスケの試合なんかよりもプールの方に注目していたが。 「みんな、ええ乳しとんなぁ〜。」 思わず零す本音。 「なんか鈴原って目付きやらしい〜。」 それをそれなりに離れてるにも関らず、何となく察知する女子達。 「お、センセ。なに熱心な眼で見てんねん。」 そんな中、シンジもまたプールの方を見ていた。 「いや、別に……」 迫るトウジに対して言葉を濁すシンジであったが、 「綾波かぁ、ひょっとして?」 「ち、違うよ。」 トウジに被さるように現れたケンスケに図星を突かれて狼狽するシンジ。 「まったまた〜。あやしい、な。」 「綾波の胸、綾波の太もも、「綾波のふくらはぎ」」 妖しげな節回しでじりじり迫るトウジとケンスケの背後には、 『転校生が綾波とくっつけば、後の連中は諦めて独占状態は解消されるだろう。』 という無言の応援が後押しをしつつ様子をうかがっている。 「だ、だからそんなんじゃないって。」 「だったら何で見てたんだよ。」 「ワイの目は誤魔化されへん。」 しつこく迫る二人に、シンジは観念して胸の内を少しだけ明かした。 「どうしてアイツ、いつも独りなんだろうって思ってさ。」 うろたえてる顔から、考え込む表情になって。 二人は座り直し、 「ま、そない言うたら、一年の時に転校してきてからずっと友達いてないな。」 思い出しながらトウジは言う。 「何となく、近寄り難いんだよ。」 これはケンスケの評。 「ホンマは性格悪いんちゃうか?」 「エヴァのパイロット同士じゃないの? シンジが一番よく知ってるんじゃないの?」 「そりゃそうや。」 「ほとんど口、聞かないから。」 だから、シンジにはトウジの発言を否定するだけの情報は無かったが、それは何となく違うような気がしていたのだった。 放課後、起動実験の準備中。 エヴァ零号機のケイジの近くにエヴァ・パペット初号機も準備されていた。 ……もしもの場合の被害を軽減する為である。 そして、万一の時の為にシンジもケイジ内で待機する事になっていた。 「あの、今日これから再起動の実験だよね。」 アンビリカルブリッジを渡るレイに勇気を出して話しかけるシンジ。 「今度は上手く行くといいね。」 しかし、レイは何も返事をしない。 「ねえ、綾波は怖くないの? また、あの零号機に乗るのが。」 そのせいかどうか、シンジは話題の聞き方を間違えたかもしれない。 「どうして?」 「前の実験で大怪我したんだって聞いたから、心配になって。」 その質問には表情を変えず少し考え、言う。 「あなた碇司令の子供でしょ。」 「うん。」 「信じられないの、お父さんの仕事が?」 「当たり前だよ! あんな父親なんて!」 ま、確かにシンジの立場では無理も無い。10年も劣悪な環境に放り出し、今になって利用価値が出来たから『来い』と書いた手紙一つで呼び寄せ、謝罪も何もしない父をどうやれば信用できるだろうか。 しかし、レイにとっては違った。 『親子……私には無い堅い絆があるのに!』 シンジに向き直り、怒りに燃えた赤い眼で睨み、レイの右手が鋭く閃いた。 小気味良い音を立て、シンジの頬が鳴る。 見事な平手打ちだ。一発で左頬が赤く染まっている。 レイはそのままスタスタ立ち去った。 もはや、シンジなぞ眼中に無いかのように。 シンジが邪魔にならないようにケイジの隅に引き篭もり、それでも気になって零号機の方をちらちら見ていると、自分が乗る零号機のエントリープラグを自分の目で確かめていたレイに歩み寄る人物がいた。 碇ゲンドウである。 『父さんも……綾波も……笑ってる……』 二人が楽しそうに談笑する姿を、シンジは信じられないモノを見る目で見ていた。 「シンジ君。起動実験スタートするわよ。」 「はい。」 インターフェースから聞こえてきた音声にシンジが答えると、ゲンドウはここを離れていき、レイは零号機に搭乗した。 もう間も無くで始まる。 ……今回の起動実験は、 「仮想ボディ形成完了。」 「チェック2550までリストクリアー。」 「第3次接続準備。」 零号機が顔を上げる。その視線の先には、彼女を見据えるゲンドウが、視界の片隅にはシンジとエヴァ・パペットがある。 「2580までクリアー。」 「絶対境界線まであと0.9……0.7……0.5……0.4……0.3…………」 実験は…… 「…………0.2………………」 「零号機ATフィールドにノイズ発生!」 「仮想ボディ輪郭を維持できません!」 「このままでは爆発の危険性が!」 爆発と言っても、零号機の仮想ボディを形成しているATフィールドの出力の数十%が光と熱になって飛び散るというだけである。せいぜいがN2地雷程度の破壊力しかない。 いや、手をこまねいていてはN2兵器並みの爆発が起きるかもしれないと言い直そう。 「主電源カット!」 アンビリカルケーブルが切り離され、零号機は今度は暴走せず停止した。 「ちょっとリツコ! 今度は大丈夫だって言わなかった!」 「確かに大丈夫かもしれないとは言ったわ。でも、結果は見ての通りよ。」 ミサトの抗議に内心凹みつつ、表面上は冷静に返答するリツコ。 「あんたねぇ〜、作戦立てる身になってみなさいよ。こんな強力な戦力が何時までも使えないんじゃ、宝の持ち腐れってもんよ。」 「ミサト、あなたこそレイの立場になって考えてみたら? ……ごめんなさいね、レイ。直ぐに原因を調べるわ。」 言われて気付いたミサトも謝る。 「……ごめん、レイ。」 「いえ。本当の事ですから(暴走はしなかったけど、動かなかった。サードはこうなると知っていたの? 分からない……けど……)。」 「今日の起動実験は中止よ。MAGIで全ての要素を洗い出すのに2日はかかるわ。」 「はい……」 レイは今になってジンと痛み出した右手を見つめつつ、シンジを叩いた事を少しだけ後悔し始めていたのだった。 「で、リツコ。なんであんたが来てる訳?」 「あら、いけなかったかしら?」 「いけないも何も、あんたがここに来てたら起動実験の失敗原因の追求が…」 ミサトの糾弾を断ち切るが如く、 「もうMAGIにかけてるわ。後は結果待ち。」 きっぱりと言い切るリツコ。 ただ、ここはそういう喧嘩をする場としてはあまり相応しくない。 何せ、葛城家ではなくシンジの部屋のダイニングルームであるからだ。 であるからして、 「そういう話は御飯を食べてからにしてくれませんか?」 真面目な顔で睨む少女も、もくもくと夢中になって食べてる少女も、 「え、えっと……ヒカリも落ちついて。」 場を宥めようと必死になる少年も居る。 喧嘩などしたら、直接関係の無い他人様にまで迷惑がかかってしまうのだ。 とばっちりを出すのを避けるには、ミサトの家で続きを続行すれば良いのだけど、そうするにはあまりに目の前に並んだ御馳走が惜しい。 ミサトはともかく、リツコも普段は家庭料理と疎遠な食生活を送っているのだから。 「ごめんなさいね。」 「ゴメン、シンちゃん。」 二人は自分の前に盛られたお膳に箸を伸ばし、そこでリツコは硬直した。 「これ、誰が作ったの?」 「あ、はい。僕ですけど……」 「良い仕事してるわね。ミサトに爪の垢でも煎じて飲ませたいぐらいだわ。」 美味いのだ、滅茶苦茶。 そのまま店で出しても通用するかもしれないぐらいにまで、シンジの料理の腕はここ一ヶ月で急速に磨かれてきていた。……まあ、本格的に料理人をするには体力の方が不足しているだろうが。 「ちょ……どういう意味よ!」 「そのままの意味よ。」 あんまりな発言ではあるが、ミサトを除くその場の全員は深々と肯いた。……ペンペンもである。 数の暴力には流石のミサトも勝てず、がっくりと肩を落としたのであった。 ……ここでミサトが素直に負けを認めるのは、材料費(月毎に後払い、実費のみ)さえ出せば美味しい家庭料理が食べ放題という今の極楽な環境を手放す気になれないのも理由である。かなり情け無い理由だが。 「ところで、零号機の起動失敗って、シンちゃんのアレが原因じゃないの?」 食後のお茶を楽しむ一同の前に爆弾を置いたのは、またしてもミサトであった。 「いえ、それは無いわね。」 「何でよ!」 「真っ先に調べたもの。結果は99.97%の確率で否定。シンジ君に責任は無いわ。」 そりゃ、起動試験前に揉めてたら目立つだろう。シンジは改めて赤面した。 「そう……じゃ……」 「原因は不明。ハードウェアなのか、ソフトウェアなのか、それとも……」 「それとも?」 「レイ自身に問題があるか、よ。」 そう言った時、リツコはハッとした。 「…あ、忘れるとこだったわ。シンジ君、頼みがあるの。」 そして、自分のハンドバッグをゴソゴソと漁りだす。 「何ですか?」 「綾波レイの更新カード。渡しそびれたままになってて、悪いんだけど本部に行く前に彼女の所へ届けてくれないかしら。」 探し出されたのは、レイ用のセキュリティ・カードだった。 「はい。」 受け取ったカードを見つめるシンジに、缶ビールを結構なピッチで開けているミサトのからかいの速射砲がヒットする。 「どうしちゃったの? レイの写真をじいっと見ちゃったりして。」 と、 「おにいちゃん……」 「碇君?」 二人の使徒っ娘の闘気もグイグイと増していく。酔っ払いの戯言と受け流せる空気は、そこにはもう無かった。 「あ、いや。」 「ひょっとしてシンちゃん。」 「違うよっ!」 真相はどうであれ、そういう事にしておかねば命にかかわる。 「まったまた照れちゃったりしてさぁ……。レイのウチに行くオフィシャルな口実が出来てチャンスじゃない。」 「からかわないでよ、もう。」 膨れて座るシンジに笑うミサトであったが、 「すぐムキになって、からかい甲斐のあるヤツ。」 「ミサトと同じね。」 鋭いツッコミにギャフンと言わされてしまった。 「僕はただ……同じエヴァのパイロットなのに、綾波のこと、良くわからなくて。」 それで空気が変わったからか、自然と出たシンジの本音に、 「いい子よ、とても。あなたのお父さんに似て、とても不器用だけど。」 リツコもほぼ本音で答える。 『これで、あの人が気にかけてなければ……いえ、これは愚痴ね。』 内心自嘲の笑みを漏らし、髪をかきむしりつつ。 「不器用って何がですか?」 「生きることが。」 その晩の戦いは、熾烈を極めた……と隣室の住人で訓練アドバイザーの葛城女史は後に語ったという。……全ては噂であるが。 翌朝、シンジは一人でレイが住むという旧市街のマンモス団地に地図を片手にやって来ていた。 解体工事の音が響き渡り、行き交う人も無い……まるでビルの墓場に。 なお、一緒に行きたがってた二人はシンジを攻めるのについ夢中になって、寝床から起きて来れない身体になっていた。 ……要するに、やり過ぎて身体に力が入らない状態…自業自得…である。 そんな同居人たちを何故置いて来たのかと言うと、セキュリティ・カードはネルフに出入りする時の身分証明だけではなく、買い物や電車の乗車などにも使える多目的カードである為、更新分のカードが無いと生活にすら支障が出る恐れがあったからだ。 幸い、本日は日曜日である。 学校が無いからゆっくり寝かせておけば良い……と、シンジは安易に考えていた。 カードを渡したら直ぐに帰るつもりだったし。 廊下にゴミが転がり、窓ガラスさえ嵌まっていない所がある廃屋同然の集合住宅。 その一室、402号室に『綾波』の表札がかかっていた。 シンジはインターホンを押すが、壊れてるのか、それとも電池が切れているのか音はしなかった。 意を決してノブを捻って見ると、鍵がかかっておらずドアは簡単に開いた。 「ごめんください。」 言いつつ中を観察すると、郵便受けには貯まった手紙の束が転がっていた。 「ごめんください、碇だけど。」 それなりに大きい声を出したのに、家人の反応は無い。 そこでシンジは……耳を澄まして中の音を聞いてみる事にした。 幸いドア越しじゃないので多少はっきりしない音でも聞き取れるかと思えば……解体工事の音が五月蝿くて良く聞こえなかった。 「綾波、いないのかい?」 さすがにそこらへんに置いていって良いもので無いので、玄関口で何度か呼ばわっていると、全裸にバスタオル、スリッパ履きという凄まじく大胆な格好で彼女は現れた。 「何の用?」 幾らシンジでも、とっさには言葉が出なかった。 「あ、あのあの……」 「用が無いなら帰って。」 「よ、用ならあるよ。」 慌てて言うと、 「そう。じゃ、入って。」 レイは非常に無防備にもそのままクルリと自室の奥へと消えた。 「(うわ……じゃなくて)お、お邪魔…します。」 こうして、シンジはレイの部屋へと第一歩を記したのだった。 ……玄関口で靴を脱いで。 そして、レイが一足先に向かった部屋で見たものは…… コンクリ打ちっぱなしの部屋。 冷蔵庫の横にあるダンボールに入った血染めの包帯。 栄養剤各種に水の入ったビーカー。 カロリー補給飲料の空き缶が詰まったビニール袋。 飾り気の無い椅子。 下着の干してあるハンガーラック。 よく分からない大きなダンボール箱。 血のついた枕のあるベッド。 ベッドの上に散乱している制服。 ベッドの脇に脱いである靴。 引き出しから何か白い物が見え隠れしているタンス。 タンスの上に置かれた数冊の本と眼鏡。 とても殺風景で生活感の希薄な部屋だった。 ……バスタオルで水気を拭き取っているレイ本人から出来得る限り目を逸らして見たレイの部屋はそんな感じの空間だった。 シンジはその中でもタンスの上に置かれた眼鏡が気になり、訊ねてみた。 「これ、綾波の?」 不幸な事には、シンジが指差す為にタンスに近付いており、なおかつ、レイの目線からはシンジがその眼鏡を今にも手に取ろうとしているように見えた事である。 ツカツカと近寄って来るレイ。 「あ、あの……綾波?」 そのままの姿勢で固まるシンジ。 ……ここまで経験を積んできたにも関らず、まだこういう場面で慌てふためく事のできる彼は、ある意味とても稀有な少年であった。 回りくどい言い方をしたが、つまりはレイの普通の女の子なら隠すであろう場所が見えてしまい……そこに目が釘付けになってしまったのである。 シンジに手をかけ、眼鏡を取り上げようとエイと手を伸ばす。 ……と、 「わぁぁぁぁ。」 ガタタン。 レイがバランスを崩して後ろに倒れ込み、シンジを巻き込み、シンジがタンスの引き出しに足を引っ掛け、折り重なった二人の回りに純白の下着を撒き散らした。 むにゅ 何かシンジの左手が気持ち良い弾力のものを掴んでいた。 むにゅむにゅ 構図としてはシンジがレイを押し倒しているようにしか見えない態勢だ。 むにゅむにゅむにゅ じっと見ている視線が合う。シンジの黒い目とレイの赤い目が。 むにゅむにゅむにゅむにゅ しばらくの沈黙の時間の末、 「どいてくれる。」 感情のこめられてないかのようにも聞こえる声に、シンジは漸く現状を把握した。 「ご、ごめん! あ、あ、あの……大丈夫、身体……(うわ、やっちゃった。……早く直さないとなぁ、この癖。)」 シンジは慌ててレイの上からどいて立ち上がりつつ、心密かにこの手癖の悪さをどうにかしようと思い決めた。 『良く考えれば、サードは眼鏡を取る態勢じゃなかった。それに今の言葉……あの時の台詞はサードのものなの?』 第三使徒が来た時、重傷を負って倒れた自分を助けようと必死になっていた声を、レイは温もりと共におぼろげに覚えていた。 そんな事を想っていると…… ふと、レイはある事に気が付いた。 「これは、なに?」 「それって……」 赤面するシンジ。それはそうだろう。レイは隠す事無く自らの湿り気を帯びた場所を指差しているのだから。 ちなみに、バスタオルは床に落ち、身体を隠すという役割をとうに放棄している。 「知ってるの?」 「う……うん。」 しばしの時が流れる……。 無言で見つめ続けるレイの瞳の圧力に、遂にシンジは屈した。 「それは女の子が男の子を受け入れようとする時に出るものだって……リツコさんが言ってた。」 「そう、赤木博士が……すると、私はあなたを受け入れようとしてるって事なのね?」 「そ、そうなる……かな。」 『碇司令には感じない感覚……これは何? 何故サードに触れたいの?』 そのままどこかから湧き出す欲求に従ってシンジに抱きつくレイ。 「身体が熱くてぼうっとしてくる……これはどうして?」 シンジの右手を自らの胸へと左手で誘導し、そっと手を添える。 「何故私、ドキドキしているの?」 「そ、それは……その……」 「何故?」 ここで答えをちょっと工夫すれば、そのままレイの身体を貪る事など簡単であろうが、シンジにそんな事が出来るはずも無い。 ……するような人間なら、既にクラスの女子の大半と関係を持ってるだろうし。 「ぼ、僕は…女の子の事は詳しくないから……誰か、別の女の人にでも聞いた方が良いんじゃないかな?」 「そう……。」 ともかくもシンジは相手が納得してくれた“らしい”スキに、頼まれていた用事を済ませることにした。 「はい、これ。綾波の更新カード。」 「え?」 「リツコさんに頼まれたんだ。じゃっ。」 何が何だか分からないという風情のレイの手にICカードを握らせて、シンジは一目散にこの何時暴発してしまうか分からない危険地帯から遁走した。 目と手に忘れ難い余韻を覚えつつ……。 帰った後、シンジが平謝りに謝る場面もあったが、おおむねこの日の残りは平凡で平和に過ぎたのであった。 ……シンジにとっては。 一方、レイの部屋では…… 家主が自分の身体を持て余していた。 『これは何? サードに会ってから、触れられてから体調がおかしい。』 身体が火照ったまま一向に治まらず、冷水のシャワーを浴びても直ぐに元の木阿弥に戻る……という蛇の生殺し状態に置かれていたのだ。 『サードは別の女の人に聞けと言っていた。パイロットの体調管理は赤木博士の仕事。赤木博士はサードにも色々教えている。』 結論、赤木リツコ博士に聞いてみるのが適当。 その決断が導く未来は、果たして如何なるものであろうか。 少なくとも、電話をかける前のレイには分からなかったのであった。 「もしもし、あ、レイ? ……どうしたの、こんな早くに。」 赤木リツコほど忙しい人間は、普通は携帯電話にリアルタイムで出ないのであるが、今朝は何か連絡が来るかもしれないと思って比較的余裕のある職務(途中で手を休めても大事無い作業)を入れておいたのだ。 業務をある程度自分で組む事のできる者にしかできない裏技である。 「サードチルドレンには感じたものを、碇司令には感じないのはどうして?」 単刀直入ではあるが、リツコには何かが起こったのだと分かった。何故なら……そういう事になることを期待してシンジにカードを持って行かせたのだから。 「どういう風に感じたの?」 「身体の芯が熱くなって、触れたくなって……」 「(期待以上の成果ね。ちょっと後押ししてあげようかしら。)それは、シンジ君に好意を持っているからよ。異性として……ね。」 「異性?」 「異なる性……生殖の相手……あなたにとっては男って事ね。」 「そう……サードは…」 「あ、それと、一言忠告してあげるけど、自分を番号で呼ばれたくないなら相手の名前をちゃんと呼んであげなさい。じゃ。」 電話を切ったリツコは、MAGIに記録を残さず今回の記録を(盗聴器の分を含めて)綺麗さっぱり消去した。 『これでレイはシンジ君のモノ……あの人には渡さないわ。』 口元だけを歪めて笑いつつ、リツコは残りの書類を片付けにかかったのだった。それはもう軽やかに……。 碇司令の息子。サードチルドレン。碇君……。 そこまで考えたところで、またもや身体が火照りだした。 本当に、私の身体は男を…碇君…を求めているのだろうか? 分からない。 でも、一つ言える事は…… 碇君に会いたいって事。 私には碇君が住んでいる所は分からない。 けれど、学校に行きさえすれば碇君に会える。 それは確実。 火照る身体をベッドに横たえ、私はその時を待ち焦がれた。 とろ火で身体の芯をじっくりと焙られる感覚に耐えながら……。 翌日。 月曜日。 第3新東京市立第壱中学校の2年A組の教室は、朝からちょっとした騒ぎに包まれていた。 「うっしゃ、これは売れるぞ〜!」 喜び勇んでケンスケが撮っているもの、それは…… 頬を桜色に染め、艶っぽい溜息をつく綾波レイの姿であった。 いつもの無表情ですら、生写真の売り上げは常にトップ10入りしている飛び切りの美少女……つまりは素材が良いのだ。それに夢見心地の表情が加わったとしたら、まさに鬼に金棒、アスカにロンギヌスの槍である。 ネルフに没収されてしまった軍放出品のキャンプセット一式を買い戻して余りある利益が出るかもしれない。 ケンスケはクラスの女子が眉をひそめるほど撮って撮って撮りまくった。 そんなこんなでレイにとっては長い長い7分間が過ぎ、とうとう待ち人がやってきた。 「碇君……。」 ポツリと呟いたレイに、 「おい、また碇だとよ。」「なんであいつばっかり。」「そんな、綾波さん相手だと勝ち目が……」「何とかならないのか。」「負けてられないわ。」「綾波さんは渡さん。」 等々、ざわざわと外野の声が誘発されて、教室内は喧騒の坩堝に陥った。 問題なのは、いつもなら場を仕切って鎮める2−Aの良心回路 洞木ヒカリまでが、 『あの綾波さんがあんな顔をするなんて、いったい碇君は何をやったの?』 と自らの物思いに耽っていて機能していない事だ。 「い…碇君……」 「なに、綾波。」 ふらふらの足でシンジに歩み寄ったレイが、そのまま相手の右肩に頭を置く格好で身体を預けた。 「あ、綾波……す、凄い熱……それに汗……」 「碇君……昨日の…続き……」 途切れ途切れつっかえながら訴えるレイの身体の感触と周囲で盛り上がる敵意と嫉妬を今は無視して、シンジは放心状態のヒカリに話しかけた。 「洞木さん。」 反応が無いので、もう一度呼ばわる。今度は大きく。 「洞木さん!」 「はっ! はい!」 大声で自分の名前を言われてビクッとなるヒカリ。 「綾波が具合悪いみたいだから保健室に連れてく。その後ネルフに行かなきゃならないかもしれないから、僕らの事は早退にしといてくれる?」 そこまで聞いて、ヒカリもようやく落ち着いて物が考えられるようになった。 「分かった。……ほら、みんな静かにして! 道を開けてあげて!」 いつものようにヒカリがクラスの皆を仕切って、まとまりと秩序を取り戻す。 後でどういう事態になるかは未だ分からないにせよ、2−Aでの騒ぎはこうして終息したのだった。 シンジは、保健室へと向かう道すがらリツコに受けた注意を思い出していた。 エヴァ・チルドレンや使徒っ娘は普通の医者にかかっちゃ駄目だという指示を。 ……実際には第3新東京市立第壱中学校の保険医はネルフが派遣しており、見せたとしても問題にならないのだが、そこまでシンジが事前に知っている筈が無い。 「どうしよう。どこかで休ませないと……」 肩を貸している綾波が、立っているのすらおぼつかない状態になってきているのだ。 ただ、荒い息をつく彼女が汗とは別のモノで下着をベットリと濡らしているのまでは気付いていないが。 それだからこそ、結果的に自分を追い込む選択肢を選んでしまうのだ。 『そうだ。ミサトさんから、僕用の部屋が学校に用意してあるって聞いてたっけ。』 シンジの場合、本部にいちいち戻らずとも、必要な個人用装備さえ整えれば使徒戦を行なえるので、もしもの時に備えて学校にプラグスーツを始めとする装備一式を保管してある部屋が用意されているのだ。 『確か……護衛の人達の待機所の一つを改装したから、仮眠用のベッドもシャワーもトイレもあるって言ってたけど……』 ベッドがあるなら綾波を休ませるのに丁度良い。そう考えたシンジは必ずしも間違ってはいなかった。 この状態のレイをそこらへんの男の毒牙の前に放り出す気が無ければ、シンジが選べる選択肢なぞ既に僅少になってしまっていたのだから……。 滅多に人が来ない一角。 使徒戦開始以来の疎開で生徒数が減り、当分使う予定の無くなった一角。 そこのある一室の扉を自分のIDカードで開いて、シンジはやっと一息ついた。 「入るよ、綾波。」 「うん……」 かなり意識が朦朧としてきてるらしいが、それでもシンジが促すと部屋の中へと足を運んでくれた。……肩を貸してるので、一緒にであるが。 ベッドに腰掛けるように並んで座り(肩を貸したままなので自然とそうなるのだ)、懐から携帯電話を出す。 「今、リツコさんに電話するけど……何か欲しいものある?」 レイは、電話を持ってるシンジの腕をそっと押え、言った。 「碇君。」 「え?」 「碇君が、欲しいの。」 ここに来てようやく、シンジはレイの身体から立ち昇るほのかな牝の芳香に気付いた。 「そ、そ、そ、そ、それは……」 「駄目なの?(私が人間じゃないから?)」 捨てられる子犬が縋るような目。 「え、えと……」 「私じゃ、駄目なの?(私が造られたモノだから?)」 悲しげで真っ直ぐな目でじっと見つめてくる娘を、 「そ、そうじゃないよ! ただ……」 放って置けるほどには、 「ただ?」 「僕で良いのかな……とか、思って。」 突き放せるほどには、シンジは強くなかった。 いや、そういう強さは持ち合せていなかった。 「碇君が、良いの。」 「え、えと……僕、たくさん女の子に手、出してるから綾波には…」 「そう、私はいらないのね。」 「そうじゃなくって…」 「何なの?」 「それに、僕……多分、もう人間じゃないし。」 「え?(私と同じ悩み?)」 レイの中で、更にナニかがうねった。 「だから、綾波は身体を大事にした方…」 「いや。碇君が良い。」 シンジの言葉を断ち切って、抱きついたレイは、何か暖かなものに包まれた。 『これはATフィールド……これが碇君の心?』 心ごと抱き止められ、一晩じっくり炙られて敏感さが増している身体の感じるところを絶妙に撫でられ、制服を丁寧に脱がされながら、レイはおねだりする。 「碇君を受け入れたい。ひとつになりたいの。」 「分かった。僕に任せてくれる?」 コクリと肯くレイ。 指で丹念に身をほぐされ、まだ毛も生えていないそこにシンジのモノが入って来た時、身体の奥から滲み出す充足感に飲まれ、レイは生まれてから2度目になる極みに達した。 『あの時は凄く怖かったのに、今回は嬉しくて幸せなだけ……え、あの時って何時?』 純潔の証である破瓜の血を確かに流しながら。 レイが極みに達した後、シンジはしばらくじっとしていた。 『私が碇君という鋳型で形作られる……私の身体が碇君で満たされる……身体の真ん中に芯が入った感じ。不思議な感じ……でも、嫌じゃない。』 「動くよ。痛かったら言って。」 再び無言で肯く。 はらわたを引きずり出されるんじゃないかという苦痛と、それを上回る気持ち良さがレイの心と身体に襲いかかった。 シンジが出入りするたび、シンジの両手が双丘を揉みしだくたび、翻弄されるレイ。 そうして…… レイが何度極まったか分からないぐらいの時間が過ぎ、 『そろそろ出そうだから、抜かなきゃ。』 シンジが自分のモノをレイから抜き出そうとした時、 遂にレイの反撃がクリーンヒットした。 つまり、抜き出される直前に、シンジに抱きついたのだ。 「え、あ…」 その結果、 シンジの出した白く濁った液体で、レイがいっぱいに満たされたのである。 「あたたかい……」 無意識に浮かべた笑みを浮かべつつ、レイはシンジに抱きついたまま眠りについた。 「困ったな、これじゃ帰れないや……」 どことなく嬉しそうな顔で、シンジは何とか携帯電話を手元に持ってこようと悪戦苦闘を始めるのだった。 胸の中で気持ち良さそうに身も心も預けているレイの眠りを妨げないように苦労しながら……。 シンジにしがみついて離れないレイが目を覚ました時には、もう夜になっていた。 「もうこんな時間か……」 今が19時を過ぎた時間だと自己主張している腕時計を見て、軽い溜息をつくシンジ。 「どうしたの?」 「僕の同居人……家族みたいな人達に綾波を紹介するつもりだったんだけど……明日にする?」 綾波は、首を横に振ると、 「行きましょう。」 と言ってさっそく出ていこうとするが…… 「その前に身体洗って服着ないと。」 と言われて足を止めた。 全裸の上に情事の跡も生々しい、そのままの綾波が僕に振り返る。 う、何か僕の一部も元気になったみたいだけど、この際無視だ。 「あ、そっちにシャワーあるから。」 部屋の間取りは綾波が寝ている間にある程度把握してある。 ……まるで何かのホテルみたいだ。 綾波がシャワー室へと消えた後、僕は当座の着替えを求めて部屋を漁り出す。 僕の控え室だから、もしかしたら僕の着替えぐらいはあるかもしれないからだ。 「え……と……タオルと着替え……」 でも、備えつけのクローゼットの中を覗いて絶句した。 そこには、女子用の制服がズラリと並んでいたからである。 「こ……これ……は……」 洋服掛けに各種サイズ取り揃え、50着以上が並んでいるのは、壮観というより何か間抜けな感じがしたが、気にしてはいられない。 「……と、いう事は……まさか……」 タンスの一つを開けると、そこには純白の下着類が未開封のビニール袋に入れられたまま沢山詰め込まれていた。これもサイズはまちまちだ。 「やっぱり……。……父さん……何考えてるんだろう。僕、全然分からないよ。」 そう。何をどう考えても僕が女生徒を連れ込んだ時の為の着替えにしか見えないのだ。 今回は有り難いんだけど……。 もしかして、暗に『やれ』とか言ってるんだろうか? 綾波が脱いだ服に書いてあるサイズ表示を参考に、同じサイズのを用意する。 制服だけじゃなく下着も。 ちなみに、僕の着替えは一つだけあった金属製のロッカーの中で見つかった。 「碇君?」 そんなこんなしてると、綾波が身体を洗い終えたみたいで僕の前に立っていた。 どこも隠さず、とても自然体で。 「あ、綾波。これ使って。」 大きめのバスタオルを手渡すと、コクンと小さく肯く綾波。 「着替えはそこにあるから。」 またしても、綾波は小さくコクンと肯く。 それを見てから、僕もシャワーを浴びに行った。 ……そして、 僕も身体を一通り手早く洗い終えてシャワー室から出て来ると、着替えを済ませていた綾波がベッドの隅にちょこんと腰掛けていた。 「ごめん、お待たせ。……もうちょっと待ってくれる?」 無言で肯く綾波の前で、やり難かったけど僕は着替え終え、 「行こう、綾波。」 首肯で返事をする同行者と共にこの部屋を後にした。 もしかしたら、長い付き合いになるのかも……との奇妙な予感に捕われつつ……。 学校の守衛さんに見つかったが、相手がシンジだと分かると事無きを得た。 「ちっ。上からの命令じゃなきゃ、こんな時間まで女の子とイチャイチャしてるガキなんぞ親呼び出してこってり叱って貰うのに……。」 と、その若い守衛は小声でボヤいていたが、指示通りにそれをしなかったのは賢明といえるであろう。何の気まぐれか、呼び出しに応じてゲンドウが来てしまった日には、彼の人生がどうなるか……火を見るよりも明らかである。 それから、シンジの家へ向かい夜道を行く。 シンジにとってはいつもの帰り道、されどレイにとっては初めて行く道を。 そんな最中、道中無言のままに耐えられなくなってきたシンジは、ある質問をした。 「綾波はどうしてエヴァを飲んだの?」 ある意味、本質的な問いを。 「絆だから(約束の時、無に還るのが私の使命。生まれた理由……)。」 レイの返事は短く重く淀み無く、かつ……それ以上の追求を拒んでいた。 再び沈黙が流れる。 今度は、さっきまでと違い暗く重苦しい沈黙が。 その空気を破ったのは、何とかこの雰囲気をどうにかしようと話題を必死に頭の中で考えているシンジではなく、レイの方からだった。 「碇君は?」 「え?」 「碇君はどうして?」 質問の意味をやっと読み取れたシンジは、少し考えて自分の中で言葉を捜す。 「僕は……僕がいて良い場所、いたいと思う場所、僕にとって大事な人を守る為かな。」 自分の心境をできるだけ正確に伝える為に。 「そう。」 「ハルナやヒカリやミサトさんやリツコさんや……勿論、綾波も。」 「そう……(私も入っているのね。守りたい人に。)」 何故かは分からないが、レイは自分の身体が羽根のように軽くなるような気がした。 「最初は、怪我してた綾波を何とか助けたいと思ったからなんだけど。」 「えっ?」 耳に届いた瞬間には何の事だか良く理解できなかったが……言葉が脳に届き意味が翻訳されると、レイの顔面はボンッと真紅に染まった。 「どうして、そう思ったの?」 「そうしたかったからじゃ、駄目かな?」 至近距離で炸裂した極上の微笑みに、レイの思考能力は麻痺していった。 『碇君にとっては自然なことなの? それとも……私に好意を持ってくれたの?』 どっちであっても素敵な事だと思いつつ、レイは歩調を合わせてくれるシンジに迷惑をかけないよう必死に歩いた。 ……気を抜くと、シンジにもたれかかって動けなくなりそうだったから。 それは、嫌だったから。 「ただいま。」 「おかえりなさい、おにいちゃん。」 「おかえりなさい、碇君。」 ドアを開けたシンジは、その直後にハルナとヒカリの待ち伏せに会った。 ……どうやら、玄関先でじっと待っていたらしい。 「あ、シンちゃん。お邪魔してるわよ。」 「は、はい。」 更に奥からはミサトの声がする。どうやら、いつも通り夕食を食べに来てるのだろう。 ……こうまでハルナたちの反応が素早いのは、食卓に張り詰めた雰囲気に耐え切れなくなったミサトが、マンションを警護しているガードからシンジが来たという報告を漏らしたせいで、決して玄関先でずっと待ちっぱなしであった訳ではない。 「ところで……」 ヒカリがもの問いたげに視線を動かしたのを察して 「綾波、入って良いよ。」 シンジは身体を横にずらして後ろの人間が通り易くした。 「お邪魔します。」 「いらっしゃい。」 「いらっしゃい、綾波さん。……どういう事、碇君?」 躾の良さを示すかの如く反射的に挨拶を返した二人は、事情の説明をシンジに求めた。 「うん。それは……」 口を開きかけたところで、小さな音が鳴った。 「あ……」 真っ赤になって俯いた事で、音の主が知れた。……ヒカリだ。 「ご、ごめん。……話は夕食の後で良い?」 「う、うん。」 「それと、待っててくれてありがとう、みんな。」 使徒と融合した事で食事を摂る必要が実は無くなっているハルナとヒカリは、シンジの微笑みだけで既にお腹一杯になった気がしたのだった。 「綾波さん。食べられないものってある?」 「肉。……嫌いだから。」 「良かった。今日はお魚にしてて。」 すっかり冷めてしまっていた食事はヒカリ、ハルナ……そしてシンジの手によって温め直され、改めて食卓に並べられた。4人分が。 そう。レイという予定外のお客様が増えたせいで数が足りなくなったのだ。 それで、どうしたのかと言うと……シンジの為に用意されていた食事を、そのままレイに供したのだ。 ただ、それだと当然シンジの食べる分が無くなる。 それをどう都合するかについては、 「ハルナがおにいちゃんにたべさせてあげる。」 と発言した事で、 「それは良い考えね。どう、やってみたら?」 「い、碇君がそれで良いなら。」 一気に解決したのである。 「「「「「いただきます。」」」」」 食卓に着いた5人の挨拶を合図に、 「ぷっはぁ〜。やっぱ、一日はこれの為にあるものよね。」 さっそく缶ビールをあおるミサト。まるで乾杯のノリだ。 「おにいちゃん、はいあ〜ん。」 「碇君、はい。」 「おにいちゃん、おいしい?」 「碇君、どう?」 「うん。美味しいよ。」 両隣に陣取った二人の少女に代わる代わる食事を箸で口に運ばれ、断る術も無くただただ味わうシンジの眼の前に、箸でニンジンを摘んだままのレイがじっとシンジを見つめていた。 「なに、綾波?」 「私も碇君に食べてもらうの。」 聞きようによっては危ない発言であるが、 「おっ、大胆! ほら、お姉さんに遠慮せず、やっちゃいなさい。」 聞き咎めたのは酔っ払い寸前のミサトだけであった。 しかし、ミサトの露骨な表現にはレイを除く全員が気がついた。 「ミ、ミサトさんっ。」 「あの……碇君……その…………」 とっても聞き難そうに、でも聞きたがっているだろうヒカリ。 「おにいちゃん。ハルナとヒカリおねえちゃんだけじゃ、やなの?」 ズバッと切り込んでくるハルナに、 「そう。私だけじゃ、無いのね。」 ジッと視線の針で突き刺して来るレイ。 「え、えと……」 まさに四面楚歌である。 ……誰にも同情されはしないだろうが。 「ご、ごめん。……見捨てるのが嫌だったんだ。良くない事だとは思うんだけど……」 追い詰められ、やっとポツリポツリと語り出した心情に皆が耳を傾けている。 「……話して良い?」 無言で肯くレイを確認してから、シンジは教室以降の出来事について説明した。 「綾波だけど、日曜日にカードを渡しに行った時に多分僕のエヴァ能力の影響を受けたんだと思う。今日の朝会った時には具合が悪く見えるぐらい興奮してたみたいなんだ。」 シンジの推測を交えて。 「休ませようと思ったんだけど、そのまま……」 言葉を濁すシンジをハルナは容赦無く追求する。 「シンジおにいちゃん、このひとともしちゃったの?」 「う、うん。」 『碇君を女の子と二人きりにするのは危険ね。気をつけておかないと……』 ヒカリが心密かに誓う横で、 「碇君。私、邪魔なの?」 思い詰め、シンジを上目遣いで見つめ続けるレイ。 「そ、そんな事無いよ!」 「そうなの?」 「う、うん。ハルナもヒカリもレイも僕にとっては大事な人だから。随分勝手な事言ってると自分でも思うけど……。」 真面目なシンジの告白を、 「ま、今更一人や二人増えたぐらいで目くじら立ててもしょうがないんじゃない? 現にもう二人も恋人にしてるんだし。それに、シンジ君が手出ししてるのはレイだけに限った事でないでしょ?」 ミサトが激烈に混ぜっ返す。 そういうミサト自身もシンジの訓練教官として彼女らの前で何度もあられもない姿を晒していたりするのだから、説得力も抜群だ。 「「あ、あう……(そ、そう言えば……)」」 「そうなの?」 「ええ。だから、考え直すなら今のうちよ、レイ(シンジ君は加持みたいな浮気者って訳じゃないけど、苦労するのは目に見えてるもんね。)。」 「必要ないわ。」 せっかくのミサトの助言は、即答であっさりと却下された。 「あっそ。……で、お二人さんはどうするの?」 水を向けられたハルナとヒカリは戸惑い沈黙してはいるが、その思いは一つである。 「えと……これからは、綾波もいっしょって事で……どうかな?」 シンジの提案にとうとう3人が首肯した。 「(訓練……いえ、リツコが言う調教の成果ってヤツかな。まだまだだけどね。)で、これからどうするの?」 顔を見合せる一同に、ミサトはこう提案した。 「それなら、今からレイの歓迎会にしない?」 「僕は良いけど……。」 「うん。ハルナもいい。」 「碇君がそう言うなら……」 お二人さんはナニやら想像してるのか、早くも頬を染めている。 「私、ここにいて良いの?」 「うん。いて欲しいんだ。綾波もハルナもヒカリも……ミサトさんも。」 極上の微笑みを振り撒くシンジに、女性陣の理性は総崩れの兆しを見せていた。 『マジやばいわね。シンジ君、このままじゃ稀代の女たらしになっちゃうわ。』 でも、立場上どころか個人的にもそれを是正してあげようという気が薄れてきているのを、ミサトは自覚していなかったのであった……。 翌日、レイとヒカリはシンジと連れ立ってシンジの部屋から登校した。 歓迎会が延長に延長を重ねられ、ミサトを除く3人が朝まで立つ事すら難しいほどイカされてしまったのが泊まりになった原因である。……なお、ミサトはシンジが寝るまで健在で、この晩唯一まともにシンジに「おやすみ」と言えた女性となった。 現役中学生としてはとても推奨しかねる行動ではあるが、シンジの場合は親どころか国連がそれを承認して……いや、半ば強要しているのだ。 当の本人達が納得していれば、文句を言える公権力は存在していない。 ……レイにまでシンジの手が及んだ事を知ったらゲンドウは舌打ちしただろうが、それに対して何らかの手を打つかどうかはまた別の話であった。 途中立ち寄ったレイの部屋を見てヒカリが真剣にシンジの部屋への引越しを勧めたが、 「絆だから……」 と言って断ったり、 昨日、あれからの事を同級生に訊かれたレイがあっさりしゃべりそうになったので、シンジがネルフの機密だと慌てて釘を刺したり、 ケンスケの露店で、昨日のレイを写した写真が記録的な売り上げをマークした……とかのちょっととした事件は起こったが、学校生活はおおむね平和に過ぎたのであった。 そして、放課後。 ケイジでは、再度の起動実験の用意が進められていた。 「ところでリツコ、前回の実験の失敗原因って分かったの?」 そんな中、整備員や研究員への指示が一段落してホッとしているリツコにミサトが背後から訊いてきた。 「ハードウェアにもソフトウェアにも問題は見つからなかったわ。とすると……」 だが、質問を予期していたリツコが、奇襲されたにも関わらず淀み無く返す。 「レイ本人か……」 「ええ。間違いないわ。」 「それは厄介ね。」 「どうかしら。今度は上手くいくかもね。」 「リツコ、どうしてそう気楽に! ……って、ああ、なるほど。……何か知ってるの?」 確かにレイの心境が変化する要因に心当たりがあったミサトは、ちょっと探りを入れてみるが…… 「さあ。今日のレイの顔、何か吹っ切れたように見えるだけよ。」 実際にはMAGIを駆使して事情のあらましを理解しているのを、リツコはおくびにも出さずサラリと流す。 「確かにね。じゃ、ちょっとハッパかけて来るわ。」 向かうは、アンビリカルブリッジ上の零号機の近くで話をしているらしいプラグスーツ姿の男女の元へであった。 「レイ、ちょっと良い?」 「何でしょう、葛城一尉。」 シンジとの談笑を中断させられたレイは、不機嫌そうな無表情で応じる。 「作戦部からの通達よ。今回の起動試験に失敗したら、零号機は当分使わないわ。」 ミサトもそれに負けず劣らずの仏頂面で言い切る。 「何故ですか?」 「この前の失敗の原因、聞いたわね。」 それには無言で肯くレイ。 「ウチの予算も人員も無限じゃないの。こうも失敗が続くようだと、起動実験にかかる分の費用や手間を他に回せって声を押えられなくなるのよ。」 唇を噛み締めて黙って耐えているレイ。 反論はできない。 確かにミサトの言っている事は正論だからだ。 辛そうにしているレイを庇おうと口を挟もうとしたシンジを手で制して、ミサトは更に言葉を続けた。 「だから、今回で成功させちゃいなさい。外野に何にも言わせないようにね。」 一転して優しい視線を注ぐミサトに、レイは困惑する。 「シンジ君も私も応援してるわ。頑張ってね。」 肩をポンと優しく叩いて、ミサトは踵を返す。 『……こんなもので良かったかしら。もっと研究の余地があるかもね……』 内心、今回のやり方について反省と検討を重ねつつ……。 零号機のエントリープラグ内に設置された操縦席に座り、私が改めて最終チェックを繰り返していると、碇司令の号令で起動実験が開始された。 自分の身体が広がり、零号機という大きな甲冑の隅々に行き渡る。 エントリープラグにある私の身体の感覚が希薄になって、零号機の頭の天辺、指の一本一本、足の爪先に至るまでが知覚できる。 ここまでは、前にも成功した。 見えるようになった目で、ケイジ内を見回す。どこかにいる筈の碇君を探す為。 ……いた。 零号機の単眼で見た碇君は、こちらを……零号機を……私を見守ってくれているように見えた。 更にケイジ内を見回すと、こちらを見下ろす位置の窓に碇司令の姿が見える。 サングラスで表情は分からないけど、多分優しい目をしてると思う。 初号機パペット。葛城一尉の機体。私が暴走した時の為に待機してる機体。 今回、彼女は遠隔操縦じゃなくて直接パペットに乗り込んでいる。もしもの時は、身体を張ってでも被害を食い止める気なのかもしれない。 そう考えたら、両肩に重いものが圧し掛かってきたような気がした。 ……でも、嫌じゃない。 それは、必要とされている事、期待されている事を意味していたから。 再び視線を碇司令に……そして、碇君に戻す。 碇君は私を守ると言ってくれた。 なら…… 私は…… 「あなたは、私が、守る。」 私も、大事な人を……碇君を守る! 「絶対境界線突破! エヴァ零号機起動します!」 これまでの失敗が嘘のように零号機の全機能がスムーズに立ち上がると、ケイジ内がエヴァの駆動音すら掻き消すほどの歓声に包まれたのが聞こえる。 ……通信? こんな時に? 通信は実験管制室からだった。 「よくやった、レイ。」 通信はそれだけで切れた。 誰の声かは直ぐ分かった。碇司令の声だ。 褒められたの、私? 司令に褒められるのは初めてだから良く分からないけど、少なくとも嫌じゃない。 嬉しいというのは、こういう気持ちを指すのだろうか? 「起動実験終了。零号機停止手順、開始!」 「了解、停止手順開始します。」 そして、正式な停止手続きが粛々と進められる。 零号機を満たした私の身体がLCLへと還元されていく。 私の身体が再びエントリープラグの中のちっぽけな身体に縮んでいく。 目が、ケイジ内では無く、エントリープラグ内を映す。 「エントリープラグ排水。」 プラグ内に満ちていたLCLが、潮が引くように足元へと水位が下がっていく。 「エントリープラグ排出、停止信号プラグ挿入。」 専用クレーンで引き出されるエントリープラグの動きを身体にかかる荷重移動で察しながら、代わりに十字架を模した停止信号プラグが零号機に挿入される音を聞く。 「エントリープラグ、操縦者乗降位置に固定。」 クレーンがアンビリカルブリッジの適切な位置へとエントリープラグを運び、外部からの遠隔操作でハッチが開かれると、そこには思いがけない人がいた。 「おめでとう、レイ(良かった、無事で……無事に成功して……)。」 そこには、笑顔の碇君が出迎えていてくれたのだ。 「え?」 『でも、これで綾波も戦場に出るようになるだろうから……良かったと言い切るには抵抗があるけどね。』 ただ、結構複雑な笑顔に見えたけど。 「……ごめんなさい。こういう時どんな顔をすれば良いのかわからないの。」 「笑えばいいと思うよ(綾波が嬉しいんなら、ね。)。」 その返事を聞いて何とか笑顔を作ろうとするが、なかなか上手くいってくれない。 でも、碇君の顔を見てると……自然と口元が緩む気がする……これは何? レイを見つめているシンジと傍から見守っていた人間たちには、戸惑いを浮かべていたレイの表情がゆっくりと微笑みに変わっていったように見えたのだった……。 福音という名の魔薬 第六話 終幕 TV版の5話に当たる話ですが、題名と同じく片鱗しか残ってません(汗)。 レイがシンジを呼ぶ名前は、碇司令の息子→サード(サードチルドレン)→碇君 と、この話だけで三段スライド変化します(笑)。……違和感なきゃ良いけど。 あと、今回もきのとさん、峯田さん、【ラグナロック】さんに見直しへの協力や助言をいただいております。どうもありがとうございました。 |
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