福音という名の魔薬

 第拾話「空転するプライド、そして」

 シンジ達が大海原で水泳に勤しんでいる頃、
 霧島マナはジオフロントにあるネルフ中央病院を訪れていた。
 検査入院していた秋月スズネが無事退院できると決まったので、その出迎えと、既に治療の為に長期の入院をする事が決まった他の知り合いのお見舞いの為である。
「退院おめでとう。」
「ありがと。あ〜、やっと帰れる。」
 ネルフ職員とその関係者だけしか来ない病院なので、その声は思い切り目立ったが、敢えて何か言って来るような人物もいないようだ。
「ところで、お見舞いはもう終わったの?」
「ええ。スズネの検査が終わるまで時間かかるって聞いたから。」
「そっか。それじゃ、また今度にしよう。」
 マナの知り合い……トライデントの元テストパイロット達はスズネにとっても知り合いである。二人とも同僚だったのだから当然と言えば当然だが。
 地上へと向かうエスカレーターで、スズネはマナにもっとも関係ある二人について聞いてみた。マナの親友とでも言うべき仲間の事を。
「ところで、ムサシ君とケイタ君は元気?」
 その途端に、マナの顔が曇ってしまう。
「ケイタはたいした事なかったけど、ムサシは全治三ヶ月だって……。」
 しかも、その怪我はマナが負わせたものなのだ。気が重くなっても仕方がない。
 例え、恩人とも言うべきシンジに誤解して襲いかかったのを止めた結果だとしても。
「でも完治するんでしょ? 死ななかっただけマシじゃない。」
 スズネの言い草にカチンときて睨みつけたマナだが、寂しそうな横顔を見て後悔した。
 確かに、おとなしく入院していれば後遺症の心配もなく完治するのは、かなりマシな方なのだ。
 彼女の双子の姉を始めとする何十人もの仲間達が、あの基地での地獄のような日々の中で次々と命を落としていったのだから……。
 検査だけで退院ができた者は、スズネを入れて16名。これには通院治療で充分なケアが可能な軽傷者を含む。
 入院の必要はあるが、長くても数ヶ月もあれば完治する見込みの者13名。
 命は取り止めたが、快癒まで数年はかかる上に後遺症が残る恐れがある者5名。
 これが、シンジとマナが協力して救出した者達の内訳であった。
 早期退院が決まった16名のうち中学生相当の年齢である13人は、第3新東京市立第壱中学校への通学準備で忙殺され始めていた。……現在夏休みである事を利用して、新学期が始まるまでに何とか授業の内容が理解できるようになる事を求められていたのだ。
 また、年齢的には中学校を卒業している3人(スズネを含む)は、ネルフでの勤務の傍ら基礎学力の学習を義務付けられる事と決まった。
 そして、あくまで希望者のみを対象としてだが、彼らはネルフで“ある任務”に就く為の訓練を始めていた。
 その任務とは、ネルフが誇る使徒迎撃用汎用支援兵器エヴァンゲリオン・パペットの操縦である。
 試作型トライデントと違いパイロットの安全性に多大な配慮がなされた設計と、その任務が自分達を助けてくれたシンジを援護する仕事だと知った彼らは、全員が喜んで任務を希望した……という経緯をシンジが知るのは後々のことであった。



 新横須賀に到着したアスカを待っていたモノは、ネルフ保安諜報部所属の黒服10人と軽装甲セダン3台だけであった。
「ちょっと、これだけしかいないの!? 加持さんはどこ!? ミサトは!?」
 シンジ達に遅れること3時間余り。
 かなり戦場から離れた所まで飛ばされていたアスカを救出した艦隊は、すぐに新横須賀に向かう事になった(ただし、数隻が救助活動を継続するため残留した)のだが……
 先行した連中の全員がアスカを待っていなかったのだ。
「先にネルフ本部へ戻っているとの事です。」
 自分の荷物をシンジに預けた結果、着替えが無くてプラグスーツのままで5時間近くを過ごしたのも腹立たしいが、自分を待たずにさっさと帰ったのも許せない。
 オマケにシャワーすらロクに浴びる事ができず、渡されたのはミネラルウォーターのボトルと洗面器とタオルだけ。……しかし、それでも他に救助された兵士達にはそれすらも無いのを知ってるだけに何も言えなかった。
「覚えてなさいよ、サード。そしてミサト……」
 その怒りは、第六使徒戦がシンジとミサトの活躍で勝利に終わったと聞いた時に感じた怒りと混じり合って深く静かに燻り始めたのだった……。



 本当は新横須賀港でアスカの到着を待つつもりだったシンジだが、リツコが伝えたゲンドウの命令でネルフ本部に呼び戻される事となった。
『早く戻れ。』
 と。
 駄目押しに、リツコが次の使徒の出現時期が予測し切れないので近いうちに次が襲来するかもしれないとMAGIが判断している……と補足した事で、シンジも本部への帰還命令を納得せざるを得なかったのだ。
『惣流さん、怒ってるだろうなぁ……。』
 と暗い顔になりつつも。


 そして、第3新東京に戻ってから5時間後。
 シンジはジオフロントに降りるゲートの前でアスカが来るのを待っていた。
 アスカの荷物は全部シンジが預かっているので、それではネルフ本部に入るのに困るだろうと配慮した結果である。
 ゲンドウの命令に反しない範囲ではギリギリの選択と言えた。
 そんな彼の目の前に、肩を怒らせた少女が見事な身体の曲線を際立たせるような真紅のピッタリとした服…プラグスーツ…を着てズカズカと歩いて来る。
「ごめん。あの……これ……」
 シンジが差し出す荷物を無言で手からもぎ取ったアスカは、怒りに満ちた視線で睨みつけてくる。
「中、覗いたんじゃないでしょうね。」
「そ、そんな事しないよ。」
 腰は引けてるが視線は逸らさずシンジは正直に言った。
 アスカはバッグの中に自分がプラグスーツに着替える際に脱いだ服や下着が入っているのを気にしていたのだが、シンジにわざわざそんな物を見る気は無い。
 ……ちょっと頼めば喜んで幾らでも見せてくれる女の子が何人もいるのもあるが、家で洗濯をする時には否応無く目にするので下着ぐらいなら見慣れてしまっているのだ。
 ただし、“下着姿の女の子”は未だに見慣れているとは言い難いのだが……。
 それに、他人に勝手に荷物を開けられたら嫌な事ぐらいは分かる。
 そういう点では、シンジは決して鈍くは無かったし、敢えて嫌われるような事をしたがる性格でもなかったのだ。
「そう。」
「それじゃ。今日は本当にゴメン。」
 改めて頭を下げて立ち去ろうとしたシンジを、アスカは呼び止める。
「待ちなさいよ!」
 が、先手を打って謝られた為に怒りを爆発させる事もできず、かと言って何故呼び止めたのか自分でも判然としてないアスカは、咄嗟にもっともらしい理由を考えついた。
「道案内しなさい。男ならレディーのエスコートぐらいは当然でしょ。」
「う、うん。分かった。」
 シンジは少し考えた後、最初に案内するべき場所を決めた。
 それは……
 シャワー室だった……。


 シャワーで海水の残滓を洗い落とし、お気に入りのサマードレスに着替えたアスカの機嫌は多少改善していた。
 更に、ここにくるまでにミサトが空母オーヴァー・ザ・レインボウの艦長に撃たれて全治2週間の怪我を負った事や、シンジが“上からの命令”で、やむなく本部に戻った事情を聞き出し、置いてきぼりにされた恨みは薄れていた。……それで完全に許せるほどアスカは人間ができちゃいなかったが。
「ところで、アタシの弐号機はどこ?」
「リツコさんがケイジに運ぶって言ってたけど、どのケイジかまでは分かんない。」
 その返事を聞いて、アスカは大きく溜息をついた。
「使えないわね、アンタ。すぐに調べなさい。」
 ただ、溜息をつきたいのはシンジの方も同じである。何時の間にか秘書かマネージャーみたいに顎でこき使われているのが心楽しい訳も無い。
「今すぐには無理だよ……」
 ボヤくシンジを、アスカは
「いいえ。今すぐ、やるのよ。」
 迫力で押し切った。
 携帯電話で自分付きの秘書を呼び出しながら、シンジは素朴な質問をしてみた。
「ところで、着任の挨拶とかしなくていいの?」
「あ…」
 すっかり忘れていたと顔に大写しで掲示したが、すぐに取り繕うアスカ。
「あんたが色々言うから、つい忘れちゃったじゃないの。すぐ案内して。」
 勿論、責任転嫁も忘れない。
「ご、ごめん。分かったよ。」
 それでもシンジは我慢強くアスカに接するのだった。
 このところ明らかに増えた微笑みを浮かべて。


 ネルフ本部・司令公務室。
 ここに父であるネルフ総司令 碇ゲンドウがいると聞いたシンジは、アスカを案内してやって来ていた。
 シンジ自身、あまり入った事の無い部屋に。
 ドア横のインターホンを押すと、無愛想な声がスピーカーから流れてきた。
「何の用だ?」
「あ、あの……惣流さん、連れて来たんだけど……」
 消え入りそうな声でマイクに向けて話すシンジ。父親に対する苦手意識はまだまだ克服できてないようだ。
「入れ。」
 それに対するゲンドウの返事は簡潔で誤解しようの無いものであった。
 ドアのロックが解除されているのを確かめたシンジ達は、揃って威圧感の満ちた暗く広い部屋の中へと足を踏み入れた。
「エヴァ弐号機パイロット セカンドチルドレン 惣流・アスカ・ラングレーただ今着任いたしました。」
 このまま見本にしたいような完璧な敬礼を見せたアスカを、ゲンドウはお決まりの口元を組んだ両手で隠すポーズで執務机から見据えて言う。
「ご苦労。詳しくはそこのシンジに聞け、以上だ。」
「どういう事、父さん!?」
 省略し過ぎな発言に、シンジの目が点になる。
「説明を受けろ。」
 そして、アスカの目も……。
「早く行け。私は忙しい。」
 追い立てられるように部屋を出たシンジ達は、思わず顔を見合せたのだった。
「何よ、あれ。あんなのがココの司令なの?」
「う、うん……」
「あんなのが父親なんて、運が無いわね……。」
 こればかりは、アスカは本気でシンジに同情した。
「あ…あはは……」
 そして、そんなアスカにシンジは笑う事でしか返事を返せなかったのだった。
 何故なら、既に絶句していたのだから。
 ただ、一言ゲンドウの為に弁護をしておくと、彼と冬月は先の使徒戦の後始末について国連やアメリカと折衝している最中で、本当に忙しかったのだった……。


 このまま廊下で立ち話をするのも何だからとシンジ用の執務室に案内されたアスカは、部屋の中を覗くやいなや思い切り怒鳴りつけた。
「どうしてあんたがこんな立派な部屋持ってるのよ!」
 そこは一流企業の重役室もかくやという趣味の良い内装の執務室であったからだ。
「えと、それは僕が事務仕事もしなきゃならないからなんだけど……もしかして惣流さんもやりたいの?」
「どうしてアタシがそんな仕事をしなきゃいけないのよ!」
「だから、これで問題ないんじゃないかな?」
 感覚が微妙にズレているのに気付いたアスカは、ともかく落ち着こうと出されたお茶に手を伸ばす。
「な、なによこれ!?」
 しかし、それは……紅茶でもコーヒーでも無く、慣れない味はアスカを戸惑わせた。
 何せ、それは、日本茶だったのだから。
「ミズホさん。頼んでおいた事調べてくれた?」
「はい。弐号機パペットは四番ケイジに搬入されたそうです。……それと、シンジ様に緊急の書類が廻って来ております。目をお通し下さい。」
 秘書から差し出されたファイルケースを受け取り軽く文面を見たシンジは、それが目の前にいる少女と無関係な物ではない事に気付いた。
「父さんが言ってたの、これだったんだ……。」
 そう。
 アスカがここネルフ本部で行なうべき仕事、待遇、住居や支給品などの詳細が其処には記載されていたのだ。
「ええと……惣流さん。」
「何?」
「これに目を通して欲しいんだけど。」
 仕事内容と待遇に関する書類を選り分け、手渡すシンジ。
 だが、アスカは一目見ただけで眉根を寄せた。 
 渡された書類を突っ返して、不機嫌そうに命令する。
「読み上げて。」
 そう。漢字が多くて読めなかったのだ。
「え?」
「いいから、読み上げて。」
 再度要請されて、ようやくシンジは書類の内容を音読し始めたのであった。
 時折、アスカが書類の内容に関する質問をしてくるのに答えながら。

「まあまあね。」
 ドイツにいた時よりも待遇が良くなってると補足を入れられた事で気を良くしたアスカは、書類にロクに目を通さずにサインをした。
 ドイツ支部の最高傑作と謳われ、持ち上げられてきた彼女ではあるが……
 その実“成功した実験動物”に過ぎないと見られていたと分かっていないのは、果たして幸せなのだろうか。
 監視役の養父母には養育費という名の給料が渡されていたが、アスカに手渡されていたのは小遣い銭程度だし、実験や訓練が元で怪我や病気になっても保証は無く、最悪の時は廃棄されて死体はネルフが資料にする契約文書すら存在した。
 今回の契約更改で今までより少しはマシになるにしても、多少問題の出そうな点もちらほらとありそうだったのだが……
 本人がこれで良いと言っているものを止めるほどシンジはアスカに義理がある訳では無かった。
「さて、弐号機見に行くわよ。案内して。」
「ち、ちょっと待って。」
「何よ。まだ何かあるの?」
 思い通りに動かない相手にイラついて、不機嫌な返事をしたアスカだったが、
「惣流さんが住む所、どうするの? 何か希望あるなら聞いておくけど。」
 シンジが聞いてきた事は、さすがに答えずに済ませられるような内容では無かった。
「そうね。うるさい連中がいない所がいいかな。後はどうでも良いわ。」
「(それなら、あそこが良いかな。まだ空室のはずだし……)分かった。手配しとく。」
 シンジは自分付き秘書の白石ミズホに必要な書類を取り寄せて貰うよう頼むと、アスカに引きずられるように自分の執務室から連れ出されたのだった……。



 ネルフ本部地下にある四番ケイジ。
 ここにドイツから搬入されたばかりのエヴァンゲリオン・パペット弐号機は、装甲が剥されて内部機器が剥き出しになって鎮座していた。
「どういう事よ、これ! アタシの弐号機に何してるのよ!」
 それを見るなり飛び出した少女は、手近な整備員に怒鳴り散らして迷惑がられている。
「失礼ですが、どなた様ですか?」
 その様子を見かねてか、主任ぽい人がスパナを手に進み出て来る。油汚れの目立つ中堅どころの技術屋という感じの人物だ。
「アタシは、弐号機パイロットの惣流・アスカ・ラングレーよ! 知らないなんて無知もいいとこね!」
 ……整備屋に喧嘩を売るとは良い度胸である。整備不良などの不手際に怒るなら未だマシだが、最初からこう喧嘩腰では彼等が整備に気合いを入れる気が失せるのに気付かないのだろうか……。
 その答えはYES。
 アスカは、そういうのに『気付かないように』育てられたのだ。
 彼女を育てた連中が最も都合の良い時に“壊れる”ように。
「あ、ご苦労様です。惣流さんも挨拶しといた方が……」
 慌てて駆け寄って整備主任に頭を下げるシンジの態度に、しかめ面になっていた整備員達の顔も緩んだ。
「何でよ!」
「色々お世話になるからだけど。」
 シンジは元々敵を作りたくない性格だし、整備員たちもシンジを最前線で戦わせている引け目もあって、かなり受けが良かった。
 いや、整備員だけじゃなくネルフのスタッフの大部分がシンジに好意的だった。
 ……勿論やっかむ人間もいたが、ネルフ本部内では今のところ少数意見である。
「アタシは選ばれたチルドレンなのよ! 何でこんなヤツらにへいこらしなきゃいけないのよ!」
 ただ、ここまで言われれば同様の好意をアスカにも向けるのは困難である。
「僕らはそうだけど、この人達はこの人達で出来る事、得意な事で僕達を支えてくれてるんだから……」
「そんなの仕事だから当たり前でしょう。」
 だが、アスカはバッサリとシンジの意見を切って捨てた。
「それでも……」
「あ〜、はいはい。分かったわよ、もう。」
 それでもしつこく食い下がるシンジに、遂にアスカも折れた。
『……言い争いしてるのが馬鹿らしくなったのよ。
 …………決して、こいつの言ってる事の方が正しいと感じたんじゃない。』
 と、アスカは自分で自分に言い訳して
「よろしく。」
 会心の作り笑顔を浮かべて頭を下げたのだった。
 モヤモヤした気分がどことなく軽くなったのに気付かずに……。


 ケイジに始まって……発令所……訓練室……実験室……職員食堂……病院施設……地下大浴場……自販機スペース幾つか……ジオフロントからの出入り口数個所などなど、シンジはアスカを連れてネルフ本部施設内でアスカが用があると思われる場所全てをざっと案内してから自分の執務室へと戻って来た。
「観光案内は終わり? ……ホント見応えが無かったけど。」
「仕方ないよ。見映えは二の次だしね、ここ。」
 それに、今回案内したのは仕事場と生活必需施設である。一般人ならいざ知らず、ネルフのドイツ支部で訓練を重ねてきたアスカにしてみれば、施設内に目新しい物が無くても当然ともいえる。
「で、わざわざ戻って来たという事は何か用があるんでしょ?」
「うん。そろそろ準備ができてると思う。」
 そう言いつつ室内に入ったシンジは、
「ミズホさん、用意できてる?」
「はい、シンジ様。」
 執務机の上に載せられている書類の束に気が付いた。
「惣流さんは其処で待っててくれる?」
 執務室内に設けられた応接セットのソファーを指差したシンジは、書類の隅々にまで目を通してから裁可の判を押していく。
 それは、アスカの住民登録の書類と住居貸与の手続きと第3新東京市立第壱中学校への編入手続きの書類などなど……全てアスカに関係する書類であった。
「ちょっと、何やってるのよ! このアタシをほったらかしで良い度胸じゃない!」
 最初の3分ほどは、アスカは歩き疲れたのかおとなしく座っていたのだが、次第に退屈が募ってきたのか文句を言ってくる。
「ご、ごめん。でも、これ惣流さんの関係書類だし、今やっておかないと不味いものもあるから……。」
「アタシの!? ちょっと、見せなさいよ!」
 自分を差し置いて作業してたと思ったら、実は自分に関る事をやっていたと言われて驚いたアスカは、慌ててソファーから立ち上がってシンジの目の前に駆け寄って書類の一枚を取り上げた。
 が、
 やはり読めなかった。
 ……漢字が多くて。
「何の書類?」
 そこで、読むのをとっとと諦めて安易にシンジに訊いてきた。
「これは……惣流さん用のIDカードの新規発行申請書だね。今のカードだとビジター扱いみたいだから出入りとか色々制限厳しいんだ。」
 保安上の理由で他のネルフ支部で発行されたIDカードでは如何なる階級のIDでも必ずビジター(外来者)扱いになるようになっており、アスカの今のIDでは発令所やケイジなどの機密に関る施設に一人で赴く事は不可能であった。
 と、分かったのは先程二人で一通り回ってみた成果である。
「こっちは?」
「これは惣流さんが今日から住む所の使用申請書。これを出しとかないと基地施設の無断使用で処罰されかねないから。」
 今からホテルや何かに泊まるのでなければ、確かに今日中に必要なものであろう。
 後回しにさせてホテルに宿泊するのは、お小遣いが残り少ないアスカとしては避けたいところなので納得した事にする。
「じゃ、こっちは?」
「これは、惣流さんの第3新東京市立第壱中学校への編入手続きの書類だけど。」
 中学校の編入手続きと聞いて、アスカの眉がピクッと動いた。
「何で今更中学校なんかに行かなきゃならないのよ! アタシは大学出てるのよ!」
「え?」
 驚きの声を上げたシンジを、自分の言った事を信用してないと思って睨もうとしたアスカであったが、
「へぇ、凄いんだね。」
 素直に感心されて、肩透かしを食った。
「そう、凄いでしょ。」
 ニコニコとした視線に我知らず赤くなりながらも、ちょっとだけ良い気分になる。
「だからコレはいらないでしょ?」
 アスカは編入書類を取り上げようと手を伸ばすが、そうする前にシンジの手が書類の上に置かれた。
「……そういう訳にもいかないみたいだよ。」
「何でよ!」
「日本には義務教育ってものがあって、ある一定の年齢の人は学校に行かなきゃならないんだ。」
 シンジが学校を休むと、義務教育の何たるかについて延々と説教され、折檻されていたので、この事は頭にこびりついていたのだ。……ゼーレやゲンドウがシンジを『計画』に使い易くなるように、絶えず心の生傷を抉る場である学校から逃げないよう洗脳されていたとも言う。
「それで?」
 喧嘩腰一歩手前の態度で訊いてくるアスカに、シンジは溜息をつきながら答えた。
「惣流さんの契約書類に、平時には日本の法令を遵守する義務を負うってあったよね。」
「確かにあったわね。それがどうしたって……あ!」
 13歳にして大学を出ているのは伊達で無く、アスカの頭の回転は決して鈍く無い。
「迂闊だったわ。……そう来られるとはね。」 
 臍を噛むアスカだが、サインしてしまったモノは今更仕方ない。
 と、諦められるほどアスカは人間ができちゃいなかった。
「今すぐ契約を変更しなさい!」
 机を両手でバンと叩いて迫るアスカにシンジは怯むが、物事にはできる事とできない事がある。
「もう上に提出しちゃったから無理だと……」
「それでも、やるのよ!」
 怒り顔で睨みつつ至近距離へと迫るアスカであったが、突如どこからかグウという大きな音が鳴り響いた。
 怒りでは無く、恥ずかしさで顔を真っ赤に染めたアスカの姿に、シンジは先程発生した音の理由を正確に悟った。
「ご、ごめん。大事な話の最中に。もう少ししたら終わると思うから先に食堂行っててくれる?」
 そんなシンジのフォローにアスカは素直じゃない言葉で応じた。
「ったく、そういう事はさっき食堂の前通った時に言えば良いのに。ホント、気が利かないんだから。」
 ただ、さっきと比べたら格段に柔らかくなった視線で一瞥すると、アスカはクルリと踵を返した。
「あ、職員食堂への行き方覚えてる?」
「アタシを誰だと思ってるの。問題無いわ。」
 手をヒラヒラと振って、執務室を出て行くアスカ。
 礼儀も何もあったもんじゃない態度だが、同年代の少女に畏まった挨拶をされても困る気分のシンジとしては敢えて注意をしようとは思わなかったのだった。
 ……他の部屋でもこの調子だと困るんじゃないかな、とは思ったが。



 シンジが書類事務を終えてネルフ職員食堂についた頃には、其処に居る数少ない客の一人の前に置かれたトレイに大盛りに盛られていた食事は、その大半が当人の若くて健康な胃袋の中へと消えていた。
 ちなみに、客が少ないのは今現在が食事時を些か外れた午後4時半過ぎだからで、別に値段に比べて不味いとか量が少ないとかではない。……まあ、取り立てて美味しいとも言えないレベルではあるが。
 色々なゴタゴタのせいで抜いていた昼食の分を埋め合せて気分が落ち着いたアスカに、
「惣流さんの言ってた契約の変更だけど、ある程度なら良いって。」
 シンジは朗報を持って来た。
「ホント!?」
 喜色を露わにするアスカに、シンジも微笑みを浮かべる。
「うん。」
 それを勝ち取る為に、シンジがリツコの個人的に行なっている実験に付き合わされる事になったのを気付かせない為にも。
 それに自分のやった事で誰かが喜んでくれるのは、やはり嬉しいというのもある。
 ……リツコの実験がどんなものだか想像すると顔が引きつりそうになるが。
「で、ある程度ってどこまでよ?」
「それなんだけど、変更を希望する点をまとめて書面にしておいて貰えるかな?」
 リツコの口利きで優しそうな老人…冬月副司令…の仕事と仕事の合間に何とか話を聞いて貰ったら、変更希望を書面で提出するようにと指示が出たのだ。
「分かったわ。締め切りはいつ?」
「はっきりとは訊いてないけど、早い方が良いと思う。」
 そう言いながらテーブルの上に置いたものは、アスカの契約書類のコピーだった。
「振り仮名を付けたのとドイツ語に翻訳して貰ったのと両方用意しといたけど、惣流さんは平仮名と片仮名は読める?」
「馬鹿にしないでよ! ……そりゃ、難しい漢字は読めないかもしれないけど、ひらがなやカタカナぐらいは読めるわよ。」
 勢いに任せて日本語の読解に難があることを自ら暴露してしまったアスカは、照れ隠しもあってか別の面でシンジを責め立てた。
「それより、こんな事ができるんならできるってさっさと言いなさいよ!」
 アスカが指差したのはドイツ語版の文書である。
「ドイツ語版寄越せって言われなかったし、僕に読めって言ったから読み上げたら『その内容で良い』って言ったからてっきり……」
 シンジの言い訳は筋道立っており、アスカに付け入る隙を与えない。
 語尾が微妙に震えているのが、アスカの迫力のせいであるのは間違い無いが。
「……分かったわよ。できるだけ早く提出すれば良いのね?」
 溜息と共に闘気を鎮め、アスカは目の前の食事の残りを片付ける作業に戻った。
 とにかく、シンジが自分の為に尽力してくれたのは間違い無いし、そういう相手に怒りをぶつけるほど精神状態が悪い訳でもない。
 ……素直に礼を言えるほど可愛い性格をしてないのも確かだが。
 シンジが自分用に買ってきた食事が菓子パン一個と牛乳だったのを見て
「貧乏くさいわね〜。」
 と言いそうになったが、どうでも良い事なので言わない事にして、自分の食事をマナー良く食べる事に専念したのだった。
 更にどうでも良い事であるが、シンジが来る前と来た後のアスカの食事のスピードは倍ほども差があった。だからどうという訳ではないが……。


 同じぐらいに食事を終え、食器をカウンターに返した二人は、またもやシンジの道案内でジオフロントの一角へと向かっていた。
「どこに行く気?」
「うん。惣流さんの部屋だけど。」
 ネルフ本部施設と地下通路で繋がっている地下居住区画のF区第6ブロックの通路を、アスカを先導したシンジは歩いて行く。
「ところで、何でパイロットのあんたが事務手続きや道案内なんかしてるわけ?」
 問われたシンジは苦笑を浮かべながら、執務室と秘書を与えられた時の事を思い出す。
「『何かを自分の思い通りにして欲しかったら、その分仕事するなりなんなりしろ』って言われたんだ。」
 そう。シンジの事務仕事は彼が希望したトライデントの元テストパイロットを助け、充分な治療を施す事の代償として課せられていたのだ。
 お願いしただけで希望が叶えられるのではなく自分でも苦労する事で、自分の頼みがどれほど面倒事を増やしたかを理解させられたシンジだが、同時に誰かの役に立つ実感と喜びを持てたので気分的には負担と感じていなかった。
 ……もっとも、その皺寄せは主に学校の勉強にいってしまっているのだが。
「ふ〜ん、そうなんだ。」
 ドイツ支部ではパイロット以外の仕事はしてなかった……というより、パイロットとしての仕事に役立ちそうな事以外はさせて貰えなかったアスカが、これが日独の流儀の違いかと感心する。
 ……もっとも、ネルフのドイツ支部は人種差別と謂れ無き白人優越主義の権化の巣窟であり、汚らしく忌まわしい混血の実験動物に大事な研究を邪魔されたくないという意識が先に立っていただけなのであるが。
「この部屋だけど、開けて貰えるかな?」
 言いつつ懐から出したカードをアスカに渡すシンジ。
「これ、何……もしかして、アタシのIDカード?」
「うん。部屋の鍵にもなるから急いで発行して貰ったんだ。あ、古い方は明日には使えなくなるから気をつけて。」
 24号と番号がついたその部屋を、アスカは貰ったIDカードで解錠し開けた。
「ここで良いわ。」
 部屋の戸口で振り返り、礼を言おうとしたが言い出せずにいるアスカに、シンジは柔らかく微笑みかけた。
「ちょっと部屋に入って良いかな?」
 何故か断ろうとする気が起きず、思わず肯いてしまうアスカ。
 その御言葉に甘え、玄関に上がったシンジは壁に設置された機械を指差した。
「これがホームセキュリティ装置。これに登録されたIDカード以外で外からドアが開けなくなるようにできるよ。」
「ふうん。」
「それでも不安なら、そこにチェーンロックもあるから使って。」
 ドアの側に設置されている鎖と金具を見て、アスカはちょっとだけ気遣いに感謝する。
「後、家具や惣流さんの荷物類は運び込んであるはずだけど、もし足りなかったら言ってくれれば対処するから。」
「分かったわ。その時はお願い。」
 ごく自然な返事の口調の変化にシンジは気付かず、部屋の隅々へと感覚を広げていた。
『盗聴器や盗撮機材の類は仕掛けられて無いみたい……か。さすがに父さん達も警備を強化したみたいだね。』
 シンジが部屋一杯に広げた弱めのATフィールドが何かに見張られている感覚、つまり侵害されている感覚を察知できなかったので、多分拙い仕掛けは無いだろうと見当をつけて捜索を終わらせる。
 ただ、その行為は、人間の中で最も使徒に近い存在であるエヴァ・チルドレンのアスカにとっては別の意味も持っていた。
「(何、この感じ……)そ、そろそろ帰ってくれない。アタシ、早く寝たいんだけど。」
 不自然に赤面して息も少々荒くなってきているアスカの姿を見て、シンジは己の失策を悟った。
「(……忘れてた。ここは惣流さんの言う通り早く帰らないと。)じゃ、僕はこれで。」
 慌てて部屋を辞去するシンジに思わず手を伸ばそうとしたアスカだが、寸前で気付いて手を止める。
 ドアが閉まって相手に聞こえなくなったであろう時になって、やっとアスカの口から言い出せなかった言葉が零れ出した。
「……今日はありがと。」
 と。



 アスカの部屋を立ち去ったシンジは、
『弱ったなぁ。綾波の時みたいにならなきゃ良いけど……。』
 猛反省しつつトボトボと歩いていた。
 前回ATフィールドを盗聴器を探すのに使用した時には、影響を受けたらしい人がいなかったように見えたので油断してしまったのだ。
 ……実際には、レイや使徒っ娘の皆様には若干ながらも効果を及ぼしていたのだが、それにシンジが気付かなかっただけである。
 夜毎求められるのが日課ぽくなっていた事もあって、問題が顕在化しなかったのだ。
 ただ、今更悩んでも仕方ない問題ではあるし、拙い事態になったとも限らない。
 とにかく今日の仕事は終わったので、そろそろ帰宅する事にする。
 彼の帰りを待ち侘びる少女達がいる我が家へと……。



 シンジが帰った後、アスカはまずは戸締りをしてから、備えつけの家具類をチェックしていた。
「……ったく、何なのよアイツは。何でああもへらへら笑ってられるのよ。」
 ベッド、タンス、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、電話、テーブル、椅子……当座暮らすには充分と言えない事もないぐらいの家具と家電機器が用意されていたのに、これまた少しだけ感謝する。
 それでも腹立ちにも似た気分は全然鎮まらない。
 何故か訳も無くシンジの顔が浮かび、その度に『何でこんな奴の事を思い浮かべなきゃいけないのよ』と頭を振って別の事を考えようとするが中々上手くいかない。
「身体の調子もおかしいし。……やっぱり疲れてるのかな。」
 アスカは敵意や蔑視や打算の目で見られる事には慣れており、そんな周りを拒絶しながら生きてきた。だが、反面、他人の好意には以前のシンジ同様慣れていなかった。
 ドイツ支部がアスカに施してた“教育”で培われた刺々しさにも関らず、打算抜きの好意を向けてくれる包容力のある相手なぞ、そうそういるものではないからである。
 どことなく悶々とした気分を抱えていては寝るにも寝られないので、アスカは自分が知る唯一の解消法を行うべくトイレへと向かった。
 洋式の便座に座り、右手を股間へと伸ばす。
 左手はいつもの癖で口にあてたのだが、すぐに思い直して胸の膨らみを包み込むように触る。ここは養父母と同居してた家ではなく、一人暮らしの部屋なのだ。少しぐらい大きな声を出したところで問題はないだろう。
 それでも片付きが良いようにトイレでするところが習慣というものなのだろうが……。
「や……凄っ……いつもより……んっ……」
 親がいない時にだけできた胸も同時に弄った行為の記憶よりも、今回の方が断然気持ち良い波が次々押し寄せて来るのに溺れそうになるアスカ。
「か…加持さん……そこ、いい……」
 いつも通りに想い人の顔を想像して、彼に触られてると妄想する事で更なる昂ぶりを体内から引き出していく。
 やらしい唇の入り口を粘つくよだれを絡めながら撫でさする。
 止めに固くなった胸の頂きとやらしい唇の上にある肉芽を二本の指で摘む瞬間、アスカの目蓋の裏に浮かんだ影は加持ではなく、何故かシンジの笑顔だった。
「!」
 硬直し伸びる手足。意味をなさない絶叫を絞り出す咽喉。
 思考が真っ白に染まる一瞬が過ぎた後は、気だるい脱力が襲ってきた。
「……何であんなヤツの事が頭に浮かぶのよ。」
 今までやってきた中でも一番気持ち良かったかもと頭の隅で考えると共に、釈然としない気分が早くも漂いだすのを自覚したアスカであった……。




 翌日、シンジはリツコの個人的な実験に付き合うべくネルフ本部の地下深くにある階層へと赴いていた。
 かつて人工進化研究所と呼ばれていた場所。
 其処の一室にリツコのプライベート・ラボは存在した。
「ここよ。」
 同行するのはリツコ一人だけ。
 この実験を行なう為に激務をこなして時間的余裕を無理に作ったせいだろうか、リツコの目は赤く充血し、息は栄養ドリンク特有の鼻につく匂いをさせていた。
 実験室の中には雑多な機械が整然と並び、電源が入れられるのを今か今かと待ち侘びているようにシンジは感じて気圧される。
「何をしてるの、早く入って。」
 しかし、リツコは勿論容赦しない。
「は、はい。」
 内心脅えながらもシンジは自分から虎口へと歩み入ったのだった。
「と、ところでリツコさん。今日はどんな実験をするんですか?」
「そうね。シンジ君が相手だから脳神経に細工するのは止めた方が良いし……」
『僕が相手じゃなかったらやる気だったんですか。』
 …とは怖くて訊けないシンジ。
「新開発した各種治療薬も病気になってないんじゃ使いようがないし……臨床試験段階手前のヤツが丁度あるけど、それ以前の問題ね。」
『手…手前って……』
 いつのまにか問答無用で手足どころか胴体や首までを拘束されてしまったため、助けでも来ない限りはもう逃げられない。
「改造手術もする訳にいかないから……」
 小声の、しかしバッチリと聞こえる呟きにシンジが後悔を覚え始めた頃……
「今回は思考操縦システムのデータ取りに協力して貰います。」
 いつもの顔に戻ったリツコは、今日の実験のお題を宣告した。
 あたかも、判決文を読み上げるかのように。

 数時間がかりで神経をボロボロに消耗し、疲労でふらふらになったシンジはようやく放免された。
「ご苦労様。良いデータが取れたわ。……できればアスカやレイ達にもデータ取りを頼んで相互比較をしたいところね。」
 最後の一時間はLCLを投与された状態での操縦で、シンジは膝の上に乗ったリツコと繋がったまま繊細なコントロールをするという拷問紛いの行為を強要されたのだ。
 疲労困憊しても仕方が無い……というか、気絶してないだけ凄いと言える。
「あらシンジ君。もう帰って良いのよ?」
 拘束を解かれても椅子の上で荒い息を吐き続けているシンジに帰宅を勧めるが、とてもじゃないが疲れて立てそうに無い様子だ。
 それを見かねてか、リツコは医療用具を詰め込んだカバンの中から一本のアンプルを取り出した。
「あんまり疲れてるようだから、実験中のとても良く効く栄養剤を打ってあげるわ。さ、腕を出して。」
 無針注射器へアンプルを装填するのをシンジはどこか他人事のように見守っていた。
 ……目の前の辛い現実から逃避してしまったのである。
 数瞬後。
「あ、あれ……身体が何か軽いや。」
 椅子から立てないほど疲労困憊していたのが嘘のように、シンジは椅子から軽やかに立ち上がった。
「今日はもう帰って寝た方が良いわ。栄養剤は打ったけど身体は疲れてるはずだから。」
「はい、ありがとうございます。」
 深々と礼をするシンジを、探求心に満ちた視線で観察してからリツコは言う。
「何か身体に異常を感じたらすぐに知らせて。私の携帯の番号は知ってるわね。」
「あ、はい。それじゃ失礼します。」
 決して無償の親切ではなく、これも一種の実験なのだとシンジが気付いているかどうかは分からないが、リツコは科学に魂を売り渡した者特有のイッちゃった目をしてシンジを送り出したのだった。
 口元に見た者の心胆を寒からしめる笑みを浮かべて……。



 その頃のアスカは……
「良くできてる契約事項よね。ちょっと文面を見ただけじゃ問題点が見つからないようになってるわ。」
 アスカが改めて見直して気になった点は、
『平時には日本の法令を遵守する義務を負う。』
『一度承諾した事柄を後で蒸し返して慰謝料などを請求してはいけない。』
『ネルフの機材を使用する場合、原則として上官の許可を必要とする。』
『機材などを意図的に破壊したとみなされる場合、給料から修理費相当を差し引く。』
『当人が未成年である事を考慮して保護監察を行なう担当者を置く。なお、親権者が監督下に置いている場合はこれを免除する。』
 以上の5点であった。
 ついでに、ドイツ支部時代の契約書も取り寄せて見たのであるが……それは、今回の契約内容と比べる気も起きないほどお粗末なものであった。
「……確かに、これでも良くはなってるのよね。」
 それに目を通した途端、人権などというモノを認めていないかの如き内容に思わず吐き気を覚えたほどの怒りが込み上げてきた。
 しかも、その契約書へ勝手にサインをしたのは自分でもママ(実母)でも実父でもなくて、ママが入院した後に親権を握った現在の養父母であった。
 どちらが自分の事を尊重してくれているかは比べるまでもない。
「ともかく、この文言だけじゃ判断できないわ。関係しそうな法令にネルフ本部の内規まで調べないと……。」
 と口に出したところでげっそりとした。
「今日は徹夜かな……」
 必要な法令集に内規文書などを取り寄せ、更には辞書と首っ引きで契約文のチェックとなると、その手間は想像を絶するものがある。
「とにかく、アイツに注文しとかないと。」
 しかし、今更面倒だからやらないと言うのも負けたみたいで悔しいので、必要なものを揃えるべくシンジの元へと向かうアスカであった……。



 かつては人工進化研究所と呼ばれていた場所の廊下をゲンドウは歩いていた。
 ネルフ本部の深層に位置するここに自由に出入りできるIDを持つ者は、僅かに数人。
 MAGIの完全管理下にあるここの秘匿性の高さを利用して、ゲンドウは余人に知らせる事のできない医療処置をここで受けていた。
 どれぐらい秘匿性が高いかと言うと、この処置を受けている事を人類補完委員会……つまり、ゼーレにすらも知らせていないほどである。
 ここでのゲンドウの動きは、記録に残されなかったり記録が自動的に改竄されるようになっており、直接誰かに尾行されでもしない限りは露見する危険は少ない。
 ただ、そんなゲンドウの様子を監視モニター越しに見守る人間がいた。
「あの人の動きは予想通り。シンジ君は私が教えた道順で外に向かっているから……この分だと10分以内に接触する可能性は70%ぐらいかしら。」
 念の為に接触予定地点を人工進化研究所の外、シンジが問題なく出入りできる場所に設定してある。
 計算外だったのは、意外とシンジの足が早い事である。
 ゲンドウとシンジの二人が素直に真っ直ぐそれぞれの執務室に向かう事を前提とした穴の多い作戦ではあるが、それゆえに計ったのが自分だと悟られる可能性は少ない。
 今のゲンドウとシンジが直接会ったらどうなるかのデータを持っていないだけに尚更だし、いざとなったらしらばっくれれば良い事である。
 現在のところ、シンジのATフィールドが男性に対して何らかの効果を及ぼしたという結果は報告されていないのだから。


 そのシンジは、廊下の途中でアスカに捕まっていた。
「ちょっと良い?」
「何?」
 呼び止めたシンジの目を覗き込んでしまったアスカの息は一瞬完全に止まった。
 自分の意志を無視して伸ばしそうになった手を慌てて制して、
「ここの内規と日本の法律、すぐに揃えて欲しいんだけど。」
 本来の用件の方を口にした。
「うん。できるだけ早く届けさせるって事で良いかな?」
「え、ええ。それで良いわ。」
 訳も無くキスしたくなったり抱き締めたくなる自分の手綱を引き締めて、アスカは表面上だけでも平静を装う。
「ところで、惣流さんって英語はできる?」
 透明感を感じる微笑みを浮かべて訊いてくるシンジにドキッとしながらも、
「当たり前でしょ? こんなローカルな島国の言葉よりよっぽど役に立つわよ。で、それが何?」
 何とか憎まれ口を叩いていつもの調子を保とうとするアスカ。
「うん。もしかしたら英語版のヤツとかあるかもしれないから、惣流さんならそっちの方が読み易いかな……とか思って。」
「(こいつ、意外と気が利くわね……)じゃ、手に入ったら届けて。」
 このままここにいると妙な気分になる…と逃げ支度にかかったアスカは、目の前に不機嫌そうなグラサン姿の男が立っているのに気付いた。
「シンジ、そこで何をしている?」
 シンジを見下す男。彼こそは、ネルフ総司令にしてシンジの父親 碇ゲンドウ。
「父さん……」
「何をしている…と聞いている。」
 アスカを眼中の外に置いての質問であったが、
「惣流さんから頼まれものを……」
 そう聞いてアスカに視線を向けるゲンドウ。
 しかし、その視線はすぐにシンジへと戻された。
「そうか。では来い。」
「ちょ、ちょっと待って父さん。」
「何だ、まだ用が終わってないのか?」
 事態の急な展開に戸惑うシンジに、ゲンドウは相変わらずの口調で告げる。
「そ、そうじゃないけど、その……」
「問題無い。来い。」
 そう告げて立ち去るゲンドウは、シンジが付いて来る事を確信しているかのように後ろも振り向かず歩いて行った。
「じゃ、じゃあ惣流さん、また……」
 その期待に違わず、シンジは父の後を追いかけて小走りに駆け去ったのであった。
「なんなのよ、あれ……」
 目を点にしたアスカをその場に残して……。


 その頃、リツコの個人用研究室には綾波レイが訪ねて来ていた。
「これが今週分の薬、今回のは前回と処方も用法も一緒よ。」
 幼い頃から実験体紛いの扱いを受けてきたレイは、薬剤の力を借りなければ健康人並みの生活を送る事ができない。肌の色素の薄さ一つを例に取ってみても、市販されているものより高性能な紫外線防御膏薬…要するに強力な日焼け止め…が無ければ、日光に長時間晒されているだけでも火傷しかねないのである。
 そんな彼女の為にも、リツコは激務の合間を縫って各種薬剤の改良や新薬の情報収集に勤しんでいた。
 毎週用意している薬は、その研究成果でもある。
「そう。」
 手渡された紙袋の他にも、レイの手には布に包まれた包みが携えられている。
 レイにしては珍しく妙に周りをキョロキョロと気にしている様子に、内心ガッツポーズをするリツコ。
「何か探しもの?」
「碇君がこっちに来たと聞いたのですが。」
 レイはここに来る前に手弁当をシンジに届けようと執務室の方へと寄って来ていた。
 が、不在だったので直接渡すべくここまで持って来ていたのだ。
「ああ、シンジ君。シンジ君なら、もう帰ったわよ。」
「そう。」
 返事を受け取るとすぐに部屋を出ようとしたレイの足は、次のリツコの一言でピタリと止まった。
「今シンジ君がどこらへんにいるか探してあげましょうか? ネルフ内にいるなら10秒で探せるわ。」
 と言いつつキーボードを操りMAGIに必要な指示を打ち込むリツコを振り返ると、視界内にあるモニターの一つにゲンドウに連れられたシンジの姿が映った。
「(司令も碇君も雰囲気、変。)……どこ?」
「第3ケイジ近くの通路ね。」
 聞いた途端、レイは弾かれたような勢いで部屋を飛び出して行った。
 何か良く分からない衝動に駆られて。
『計画通り……かしら。いえ、まだまだ油断はできないわね。』
 笑みのカタチに緩みそうになる表情を引き締め、リツコは事態の経過をモニター越しに観察し始めたのであった……。


 近くにあった部屋…パイロット用の更衣室…に入るゲンドウの後に続いたシンジは、父が戸口近くに立ったままなのに気付いて足を止めた。
「どうした、早く入れ。」
 それでも、ぶっきらぼうに促されて入室したシンジの後ろでドアがロックされる。
「え? ……父さん?」
 入り口を背にしたゲンドウの様子がいつもとは違うのを見て、かすかに期待しながらも恐れおののくシンジ。
「良く見ると……ユイに似ているな……」
 両手を広げジリジリと迫るゲンドウの姿に、シンジの足は石になったかのように動かない。……いや、動けない。
「と、父さん……怖いよ……目が……」
「そうか。」
 言われてサングラスを取るゲンドウ。
 しかし、血走ってギラギラ燃えている目は、サングラスで隠れていた方がまだマシと言えた。
 次いで上着を脱ぐゲンドウの姿にシンジは言い知れぬ不安感を覚え、何とか脱出できる隙を必死で模索し始めたのであった。


 訳の分からない切迫感に背中を押されて、紅眼の少女は教えられた第3ケイジ近くの人気が少ない通路を走っていた。
 そうしたら、ちょうど通りがかった人の姿が目に入ったので、
「碇君はどこ?」
 其処にいた見知らぬ少女に碇君の居場所を尋ねてみる。
「あっち。司令に連れてかれたわよ。」
 知らないなら知らないで……とも思って発した質問だったが、幸運にも目撃者だったようだ。
「そう、司令が……。ありがと。」
 自己紹介をする時間さえ惜しんで、少女はアスカの指した方へと駆けて行った。
「何なのよ、アレ……(アルビノなんて珍しいわね。それにここで同年代の人がいるってのも珍しいわね。もしかしてアレもチルドレンの一人かしら……)」
 目を丸くするもう一人の少女を後に残して。


 通路を走っていると、何やら物音が聞こえてきたので立ち止まる。
 そして、耳を澄ますと、何やら争っているような物音が聞こえてきた。
 音を頼りに場所を探ると、どうやら右手の方にあるドアの向うからするようだ。
「やだよ。父さん、離してよ……。」
「問題ない。すぐに終わる。」
 一方の声がシンジの、もう一方がゲンドウの声だと気付いたレイはドアを開けようとする。シンジよりもランクが高い……ゲンドウに準ずる保安レベルのレイのIDを読み取り機にかけると、扉はあっさりと開いた。
 そこには、
 長椅子の上に押し倒されているシンジと、
 上半身裸になってシンジの上に圧し掛かっているゲンドウの姿があった。
 その光景を目の当たりにして動きを凍らせるレイ。
 周囲の事など気にせずシンジの着衣を剥こうと躍起になっているゲンドウの努力は、破り取られ散乱している衣類が如実に示している。
 シンジの抵抗はズボンを死守するだけで精一杯で、脱出するどころかTシャツすらも守り切れていない。
 そんな中、
「あ、綾波……」
 何とか逃げ道を探して儚い抵抗を続けるシンジがドアが開いたのを知ってそちらを見ると、そこにレイが立ちすくんでるのを認めた。
「ん、レイの事か? ……あんなユイの出来損ないのコピーの事など関係無い。」
 だが、シンジの抵抗を抑えつける事に夢中になっているゲンドウはレイが居るのに気付かず心無い暴言を吐き出す。
 耳から否応無く聞こえてきた言葉を頭が理解するのを拒んで、レイはただ無力に立ち尽くす。
「そ、そんな。違うよ父さん!」
 全力でゲンドウの言った事を否定するシンジ。
 しかし、既に暴走しているゲンドウは聞く耳を持たない。
「私が愛してるのはシンジ、お前の方だ。ユイの身代わりのレイじゃなくてな。」
 自分を生み出したはずの男が、自分に生きる意味と目的を与えてくれたはずの男が吐く言葉の毒が、理解が及ぶにつれてレイの全身を確実に蝕んでいく。
『そう……私は必要ないのね。』
 意気消沈してとぼとぼと去るレイを見たシンジの身体に、強烈なパワーが湧いてきた。
「父さん、離してよ!」
 今までも全力で抗っていたが、それ以上の…火事場の馬鹿力とでもいうべきほどの力で自分から引き剥がすと、シンジは急いでレイを追った。
「待て、シン……ぐわっ!」
 ベルトを弛めていたせいでひっくりコケた父親には構わずドアを出たシンジは、走り去ろうとするレイを追って駆け出す。
 後には、更衣室の床に無様に転がる髭面のおっさんだけが残された。
 カメラ越しに一部始終を見守りニヤリとしたリツコ以外には気にされずに……。

 エレベータに駆け込み“閉”ボタンを押すレイ
 閉じる扉
 閉まる扉に全力で突撃して何とか身体を挟める事に成功するシンジ
 異物を感知して開くドア
「良かった、間に合って。」
 息を切らして、でも微笑むシンジの脇を抜けてエレベータを出ようとするレイの腕をシンジが掴んで引き止めると、二人の前で扉は閉まった。
「……どうして?(何故追って来たの?)」
 ポツリと呟くレイをそのまま後ろから抱き締めたシンジは、耳元で囁く。
「綾波が泣いてたから。」
「……どうして?(私は要らない存在のはずなのに……)」
 二本の腕だけではなく、展開されているシンジのATフィールドにも優しく抱き留められ、困惑するレイ。
「綾波がいてくれないと悲しいから……かな? 後は勝手に身体が動いてた。」
「私……いて……いいの?」
「居て良いんじゃなくて、居て欲しいんだけど、僕じゃ贅沢だよね(たくさん女の子に手出ししてるんだもの。行くななんて言える資格無いよね……)。」
 レイを腕から放して自嘲の笑みを浮かべるシンジを、レイはヒタと見据える。
「(あの時も『いて欲しい』って言ってた。だったら……)碇君は、私が欲しいの?」
「……うん。」
 迷いつつも正直に披露されたシンジの本音に触れて、レイの表情は涙を流しながらも笑顔へとゆっくりと変わる。
『ATフィールド越しに感じる……碇君の心……暖かい……。そう、私は碇君に必要とされてるのね。だったら、私は碇君のモノ。今から碇君だけのモノになるの。』
 無言でシンジの胸に飛び込んだレイは、改めて優しく……今度は正面から抱き締められて、唇を奪われた。
 唇を触れ合せるだけのキスで、感極まって全身をシンジに預けたレイ。
 しかし、
 ……無機質な音が二人きりの時間の終わりを告げる。
 エレベータが上端へと到着したのだ。
「(このまま家に帰るのは僕の服が無いから拙いだろうし、だからって何時までもここにいるのも拙いかな……)場所、移動するけど良い?」
「ええ、問題無いわ(碇君の行く所ならどこでも良い。)。」
 返事を聞いたシンジは、エレベータのボタンを押す。
 今度は自分の執務室のある階層へと向かう為に。
 ただ、まだシンジは自覚していなかった。
 自らの今の状態を……。
 ネルフ本部は、その広さに比べて人が少ない。
 そのせいか執務室に行くまでに他人と出会う事は無かった。
 しかし、
「シンジ様、お帰りなさいませ。」
 執務室には、彼の留守を預かる秘書 白石ミズホがいるという事を失念していた。
 そして……
 彼女の声がいつもより艶っぽさを増していた事にも、
 彼の後ろをついてきたレイの足元に何やら雫が滴り始めているのにも、
 この時点では気付いていなかったのだった。
「ミズホさん、着替え用意してくれる?」
「はい、シンジ様。」
 しかし、用意された着替えが男物だけではなく、女物も二人分用意されたのを見て、いぶかしむシンジ。
「え、ええっと……これは?」
 女物の服が畳まれた山…上に女性もの下着があるので区別し易いのだ…を指差すシンジに、ミズホは平然と答える。
「私達の分でございます。」
「私“たち”? ……え?」
 明らかな秋波にようやく気付いて数歩後退るシンジの背中に、レイの胸の膨らみが押し付けられる。いや、自分からくっつきに行く。
 自ら飛び込んできた愛しい人の背中にピトッと縋り付くレイ。
 そうすると当然ながら密着度が高まり、特に意識しなくとも自然と身体の一部分が固さをどんどん増してズボンの布を押し上げていく。
「それとも、私では御不満ですか?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ! 僕の女性関係は知ってるよね。」
 至極真面目に不安気に落ち込む素振りのミズホに、シンジの当惑はますます強まる。
「はい。全てとは言いませんが、だいたいのところは。」
 シンジ付きの秘書であり、常識的な物の見方ができる彼女は、ある面ではシンジ以上に詳しくシンジの女性関係を把握しているほどである。
 もっとも、当人が既に関係している以外の多数の女の子からも片思いされているのにほとんど気付いていないというほど超鈍感という特殊条件もあるが……。
「だったら……」
「シンジ様が私を受け入れて下さるか否か。問題はそれだけでございます。」
 他は全て些事と割り切ったミズホの表情と、布越しに伝わって来るレイの体温にシンジの意志はあっさりと押し流された。
「これからよろしく、ミズホさん。」
 今の自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべたシンジは、ミズホとレイの二人がかりでしなだれかかられて床へと沈められていったのだった……。



「碇の奴、遅いな。」
 人の良さそうな顔に激務の疲労を滲ませながら、冬月は司令公務室のゲンドウの執務机に山積した書類の束を見下ろして溜息をついた。
『予定では10分前には着いているはず。また書類仕事を全部ワシに押しつけるつもりなんじゃないだろうな……』
 心楽しくないが有り得そうな推測を組み立てると冬月は端末を操作してゲンドウが現在居る場所を調べた。
「どれ……」
 特に機密性の高い部署にいる場合でなければ、ネルフ内……いや、第3新東京市内に居る限りはMAGIによる検索は有効である。もし、見つけられなくても失探した個所と時間の記録さえあれば冬月にはゲンドウの居場所を推測可能だ。
 冬月だけは、ゲンドウの企図している全ての計画を知っているのだから……。
 さして時間もかからずにMAGIがゲンドウが第3パイロット更衣室内にいる事を報告してくる。ただ、更衣室という場所柄もあってか画像や音声までは出て来ない。
 ……副司令の強権を発動すれば可能だが、今するべきだとは思えない。
「やれやれ、面倒をかけてくれる。」
 そう言って、冬月は仕方なく腰を上げた。
 今後の折衝事や事務仕事にゲンドウがいないのは大幅な戦力ダウンなのだから……。

 第3パイロット更衣室は、エヴァ・パペット部隊の数が順調に増えた時の為に用意している施設であり、現在のところはほとんど使われていない。
 故にこそ、総司令が半裸で十数分も呆然としていても気付かれ難いのだろう。
「おい、碇……」
 冬月も幾ら何でも様子がおかしいと見て取って恐る恐る話しかけるが、ゲンドウは周囲の様子がまるで眼中に無いとでも言わんばかりにブツブツ小声で何やら呟くばかりで反応しない。
「……ユイ……私はいらない父親なのか……」
 呟きを聞いた冬月は、事情は知らないながらも僅かに同情し、しかしながら心を鬼にして揺り起こす。
「おい、しっかりしろ碇。」
 何度も何度も肩を揺すると、ようやくゲンドウの目の焦点が現実に合わさってきた。
「……冬月先生。」
「何があったかは聞かん。だが、今はこんな場所で呆けてる場合ではないだろう。……ユイ君の為にも。」
 “ユイの為”……この魔法のキーワードを聞かされたゲンドウは急速にいつもの傲然さを取り戻す。
「すみません冬月先生。……状況は?」
 問われた冬月は、腕時計で時間を確認してから頭の中でスケジュールを再構築する。
「16分後に委員会からの連絡が来る予定だ。後はどうにかなる。」
「そうですか……。赤木博士に連絡してMAGIの記録からここで起こった事についての記録を削除、ダミーに替えるよう伝えてくれ。」
 立ち直ったゲンドウはさっそく証拠隠滅を指示し、脱ぎ捨てた服を集め始めた。
「(やれやれ。また後始末はワシか。)わかった、やっておこう。」
 こうしてゲンドウは狂熱後の虚脱状態から脱して職務に復帰した。
 しかし、彼の前途には長くて険しい茨の道が敷き詰められているのだった……。



 とても満足そうな笑顔で眠る二人の身体を簡単に拭いてから来客用のソファーに寝かせて、シンジは自分の身繕いを始めた。
『そういえば、ミズホさんの様子がおかしかったのって……やっぱりエヴァが発動してたせいかなぁ……。』
 特に何もしなくとも自分に好意を持ってくれる相手がいるという事を信じられない少年は、自らの偏見から正しい解答へと辿り着く。
『だったら……今回の父さんの事だって……いや、今まで男に言い寄られた事無いから違うかな……されても困るんだけど……。』
 あの時の尋常じゃないゲンドウの目を思い出して、両手で自分を抱き締めてブルブル震えるシンジ。
 しかし、シンジはいつもと違う要因に思い当たった。
「もしかして!」
 言われた通りに、いつもと違う異常な事件…『父に襲われた』事をリツコに電話で報告したシンジは、自分が墓穴を掘ったと気付かなかった。
 事件を馬鹿正直に報告した結果、件の栄養剤を注射されてから男の前に放り出される実験をされてしまう事に……。
 その実験結果については、辛うじてシンジは貞操を守り切ったとだけ記しておこう。

 二人を何とか起こして、ミズホにアスカの注文した物の調達と配送を任せたシンジは、寝惚けて自分に抱きつきっぱなしのレイを苦労して着替えさせて家路についた。
 勿論、レイ同伴である。
 そして、レイのアパートとコンフォートに向かう分かれ道で、レイは迷わずシンジの行く方向……コンフォートの方へと付いて来た。
「あれ? 今日は寄ってくの?」
「駄目なの?」
 上目遣いでジッと見つめる無言の懇願に、シンジは速やかに白旗を揚げた。
「いや、そうじゃないけど……御飯、人数分あるかな……。」
 いやに所帯じみた心配をしつつ、シンジはレイと共に我が家へと帰ったのだった。



 その翌日の朝。
「おはよう、シンジ君。」
「おにいちゃん、おはよう♪」
「おはよう、シンジさん。」
 いつも通りの時間に起きて新聞と手紙類を回収しに行ったシンジは、妹分のハルナとお隣の二人組とばったり出会った。
 戦略自衛隊で早起きが身体に叩き込まれているマナとスズネ、そして家事を担当してた都合で早起きが習慣化しているハルナは、シンジが前夜に可愛がり過ぎなければ寝起きは良い。
 ちなみに、ミサトやレイは寝起きの悪い方の代表で、ギリギリまで往生際悪く布団から出るのを渋るので、この時間に姿を見る事は珍しい。
「おはよう、みんな。……ランニングか何か?」
 三人とも長袖のトレーナーの上下に身を固めており、早朝の若干弱まった暑気でも少し走れば汗が出てきそうだ。
「うん。これからとっくんするんだよ♪」
「へえ、頑張ってね。ご飯とお風呂用意しとくよ。」
「ありがとっ、シンジ君。」
 元戦略自衛隊組二人とハルナは、シンジに見送られて駆け出した。
 トレーニングのメニューを朝食前までに終わらせる為に……。

 食事を終えたら、夏休みだからのんびりとできる。……と思いきや、僕と綾波はネルフに出勤しなくちゃいけなかったりする。僕は訓練と事務処理、綾波は訓練と零号機の調整だそうだ。
 そして、マナとハルナは二学期に向け猛勉強中だ。
 戦自のコネで転入したマナの基礎学力は実に低空飛行だ。……僕も人の事を言えるほど成績が良い訳じゃないけど、マナの場合小学生レベルの知識すら教えられていないモノが多かったので、基礎からやり直しを強いられているらしい。
 ハルナの元々の成績は優秀だけど、いかんせん元は小学2年生。学力が身体の成長に追いついたら一緒に僕と学校に行けると言ったら、俄然やる気が出たのかメキメキと実力を伸ばしてはいたけど……。それでも5〜6年分の授業内容を学ぶのは少々骨が折れるらしく、まだ芳しい結果は聞いていない。……今度やるテストで良い点取れるようなら、転入届の書類用意しとかないとね。
 朝食と並行して用意した自分と綾波の分のお弁当を手早く詰めてから、残りを残留組の惣菜としてラッピングして冷蔵庫に入れる。……もし、食べてないようなら夕食のおかずにすれば良いから問題無いっと。
 出勤時間に余裕のある日ならおやつも作り置きできるんだけど、今日は残念ながら其処までしてる時間的な余裕は無い。
 と考えてるウチに、そろそろ走らないとバスに間に合わない時間だ。
 僕は冷房の効いたマンションを出て、綾波とバス停までの競走を始めたのだった……。



 ネルフ本部・司令公務室。
 夜通し行なわれた国連や委員会との折衝も一段落着き、ゲンドウはコーヒーで咽喉を潤していた。
「まさか、委員会が事件を知っていたとはな。」
 そのゲンドウの横から疲れた声を漏らすのは冬月。
「ああ。相当優秀なスパイが潜り込んでいるらしいな。」
 無論、誰がスパイをしたかは調べさせているのだが、今回の件では対処が後手に回ったのもあって犯人を絞る事すらもできていない。
「もっとも、今回の事件の原因が赤木君の薬のせいだという事で話がまとまったのは幸運だったがな。」
「記録を消した理由も体裁が悪いので外聞をはばかったと言ったら、簡単に納得していただけましたからな。……もっとも、御老人方には大笑いされましたが。」
 机に肘を着き、両手を口の前で組んだお馴染みのポーズで漏らした笑みは、この男には珍しく苦笑であった。
「……しかし、良いのか? 赤木君の薬のデータを御老人方に提供して。」
 今回の事件の引金となったであろう“栄養剤”のデータと、今後の実験データはゼーレに提供される事に決まっていた。今回の実験データがゼーレの手に渡る事での不利益よりも、ここで提供を拒む事の方が不利益が大きいとゲンドウが判断した結果である。
「ここで御老人方と対立しても我々に益は無い。彼等を敵に回したら我々は二ヶ月も持たないからな……資金的に。」
 ネルフ本部は慢性的に資金不足である。
 人材に金を使っているというのもあるが、随所に設置した兵装ビルやエヴァ・パペットなどの対使徒兵器の配備、人類の最先端の技術を投入しても未解明部分の方が多い使徒やエヴァの解析などなど……金が幾らあっても足りない状態なのだ。
「金、か。」
「ああ。幸い、御老人方も『計画』を進めるには金がかかるとは承知している。我々がシナリオから降りぬ限りは必要な資金は出してくれるだろうさ。」
 ニヤリと凶悪な笑みを浮かべつつ、ゲンドウは次なる交渉相手からの電話を待った。
 『計画』を少しでも前に進める為に。



 お昼時。
 シンジの執務室では、シンジ一人が留守番がてら食事をしようと弁当箱を鞄から出してお茶の用意をしていた。
 ちなみに、秘書のミズホは外で食事である。
 そんな所に、
「入るわよ。」
 いきなりドアを開けて入って来たのはアスカだった。
「な、なんだよ、いきなり。」
「ちゃんと声かけたじゃないの。それより、ほら。」
 声をかけたのとほぼ同時にドアを開かれてズカズカ入って来られては入室許可の意味も何も無いと思うが、そういう本音は口に出さず差し出された書類を受け取るシンジ。
「いちおう上に提出しとくけど、全部このまま通るとは期待しないでくれると有り難いんだけど……。」
 アスカの提出した契約の変更希望に軽く目を通したシンジは、自分がちょっと問題あるかな……と思った個所全部が修正されてるのに感心したが、それだけに一筋縄ではいかないだろう事を予測してげんなりした。
「分かってるわよ、そんなこと。」
 バンと机を両手で叩き不機嫌そうに答えるアスカのお腹が、美味しそうな香りに釣られてまたもや大きな音で鳴る。
「え、えっと……食べる? 僕、まだ手をつけてないから。」
 恥ずかしさで真っ赤になって睨みつけてくるアスカの視線に言い様の無い居心地の悪さを感じたシンジは、泣く泣く自分の弁当を差し出した。
「ま、まあ……アンタがそんなに勧めるなら食べてあげるわ(加持さんが認めた味ってどんなのかしら……)。」
 素直じゃない言葉でオススメに従い、シンジの弁当に箸を伸ばすアスカ。
 日本で育った実の母親の影響か、たいていの日本人よりも上手い箸捌きでまずは白い御飯を口にする。
『……確かに美味しいわね。さすがに弁当だから冷めてるけど、それでもここの食堂の御飯よりも美味しいんじゃないかしら。』
 良く噛み締めつつ味を確かめるアスカ。まるでどこぞの食通のような態度だ。
 次はおかずの中でも一番目立つハンバーグへと箸を伸ばす。
 一口目を口にしたアスカは、奇妙な事に気付いた。
 美味しい事は美味しい。
 いや、かなり美味しい方の部類だろう。
 だが、しかし……それだけではなく、妙な懐かしさを覚えたのだ。
 次いで二口目、
「……嘘、まさか、そんな……」
 味をつぶさに確かめながら味わうと、脳裏に思い当たる懐かしい味がある。
 三口目を口にする。
 上にかかっている手製ソースの味といい、ハンバーグそのものの味といい……
 それは、アスカの記憶にあるそれと何から何まで同じだった。
 違うのは皿に載ってるのと弁当箱に入っている事ぐらいのものだ。
「間違い無いわ……ママの味だ……。」
 知らずに込み上げて来る涙を気にもせず、アスカはシンジに詰め寄った。
「このハンバーグの作り方、誰に教わったの!? 教えなさい!」
 首根っこを持ってガクガクと揺らしながら訊ねるアスカ。
「え、ええと……これは……」
 シンジも答えようとはするが、呼吸が苦しくて言葉が出て来ない。
「く…苦し……手……離して……」
「分かったわよ。離してあげるから、ちゃんと教えなさいよ。」
 蒼白になった顔色を見て流石に手を離したアスカは、むせている少年にさっそく答えを迫る。
「……ゴホッ……このハンバーグは、僕が小さい頃食べてたのの味を思い出して色々試して再現してみたモノなんだけど。」
「あんたが小さい頃に食べてた味!(どういう事よ、それ。アタシはアンタと会った覚えないわよ!)」
 ますます混乱するアスカだが、その頭脳はフル回転でこの謎を解き始めた。
『……こいつの名字は“碇”だから、こいつの母親って“東方の三賢者”の碇ユイかもしれないわね。確か東方の三賢者は互いに仲が良かったって聞いた事があるから、もしかしたら、こいつの母親がママの友達だったって事は充分有り得るわね。』
 導き出した仮説の裏付けを取る為に、ある質問をするアスカ。
「あんたの母親って、もしかして碇ユイって言うんじゃないでしょうね。」
「……うん。知ってるの?」
 驚きを顔に出すシンジに、アスカは呆れ顔で答えた。
「東方の女三賢者とまで言われたうちの一人、碇ユイの名前は有名よ。特に、ここネルフではね。」
「そうなんだ……。」
 忘れていた……いや、忘れていたい記憶に何かが引っ掛かったのか俯くシンジ。
「それに、ママの友達だったらしいから……。」
 シンジはやり取りの内容からアスカの母親が既にこの世にいないのを悟り、アスカは知識としてシンジの母親であるユイが死去してるのを知っていた事から、場は重い沈黙が支配した。
 痛い沈黙に耐えかねたシンジが、明るく装ってるとバレバレな声で言う。
「え、えっと……良かったらさ、今度作った時にでも持って来ようか、ハンバーグ。」
「そ、そうね。そうして貰えると嬉しいかな。」
 ぎこちなく返事を返す様子は、事情を知らない者から見るとコチコチに緊張した初々しい恋人同士に見えない事も無い。
 しかし、内実はというと、互いの心の傷口に気付いて触れまいと努めているだけであるのを互いこそが良く知っていたのだった……。
 ただ一つハッキリと言える事は、今日この時から『シンジの作ったハンバーグ』がアスカの大好物となった事であった。


 夕方、シンジの訓練が終わるのを待っていたレイと一緒に帰路につくと、シンジは珍しくレイから汗の匂いがしてくるのに気が付いた。
 良く見ると、着てる物も昨日から変わらない着た切り雀である。
「あれ? 綾波、着替え持って来てないの?」
 ある意味無神経な質問であったが、レイは顔色一つ変えずに答える。
「ええ。……どうしてそういうこと聞くの?」
 純粋な疑問を返されたのに、シンジの方がいたたまれなくなりながら、
「……うん。綾波から汗の匂いがしたから、珍しいかなって。」
 それでもちゃんと理由を答える。
「碇君は汗の匂いが嫌なの?」
「嫌って訳じゃないけど、着替えはちゃんとした方が良いと思うよ。」
「分かったわ。」
 シンジの意見を聞いたレイは、即座に自分のアパートへと向かった。
「え?」
 いつもと違う帰り道を採ったレイに戸惑いながらも、シンジはその後を追いかける。
「綾波?」
「問題無いわ。」
 説明の労を省いて家路を急ぐレイは、いつもは使わない瓦礫の合間をすり抜ける近道を使ってまで走る。
 一気に廃アパートの4階まで駆け上がり、鍵などかかってない自室に駆け込むと思い切り良く着衣を脱ぎ散らかした。
「綾波、入るよ。」
 遅れて到着し、ドアの前から声をかけてきたシンジに、
「ええ、構わないわ。」
 シャワー室へと向かいながら返事をするレイ。
 返事を聞いて扉を開けたシンジの目に飛び込んできたのは殺風景な部屋と白い裸身。
「……え?」
 散々見慣れているはずなのに、またもや赤面するシンジを後に残して、レイはシンジの視界外へと無造作に歩いて行ったのだった。

 シャワーと石鹸で汗を流したレイは、手持ち無沙汰に待ってるシンジを一瞥してから鞄に下着を詰め込み始めた。
 ……タオルで水気を拭き取っただけの姿で。
「え、えっと……その……」
 手伝って良いのかどうか……いや、そもそもここにいても良いのか迷うシンジのうろたえる様を不思議そうに見るレイ。
「どうかしたの?」
「(どうかしたの…って、このままじゃ本当にどうにかなりそう……)いや、そんなに着替え詰めてどうするのかなって?」
 明らかに話題のすり替えだが、レイは素直に疑問に答える。
「碇君の家に泊まるの。」
 さも当然のように。
 それを聞いて黙って考え込むシンジを見て不安になったレイが涙目になる。
「駄目なの?」
 しかし、シンジの考えていた事を伝えると、レイの泣き顔は一挙に笑顔へと変じた。
「……そうじゃなくて、この際だからウチに引越して貰った方が良いかな……とか考えたんだけど。」
 と。
 その日は結局、二人で持てる限りの着替えをシンジの家に運ぶ事で話がまとまった。
 引越すと一口で言っても、正式にそうするには許可を貰うやら書類仕事するやらの煩雑な手続きがついてくるのは目に見えていたのだから……。



 次の日の朝、
 碇家のドアを叩いた来客は、
「おはよう。」
 パリッとしたネルフの高級士官用の正装に身を固めたミサトだった。
「おはようございます。」
 普段とのあまりの落差に呆然とするが、何とか挨拶できたシンジに続いてミサトの訪問に気付いた少女達からも口々に挨拶が出る。
「仕事で第二東京まで行って来るわ。帰りは遅くならないと思うけど、先に食べてて良いわよ。」
「はい。」
 見送りに手を振ると、ミサトはすぐに踵を返した。
「あれ? ミサトさん、朝食は?」
「ちょっち、食べてる暇無いの。ごめんね。」
「行ってらっしゃい。」
 漂ってくる食欲をそそる香りに後ろ髪を引かれながらも、ミサトは誘惑を振り切って出勤していった。
 睡魔の誘惑とギリギリの線で妥協した代償に空きっ腹を抱えて……。

「分かったわ。」
 シンジの家で食卓を囲んでいるうちの一人、霧島マナは今朝のミサトからどことなしに違和感を感じていたが、ようやくその理由に思い当たった。
「何が分かったんだい、マナ。」
「葛城さんの階級、三佐に昇進してたのよ。」
「そう。」
 無関心に箸を動かすのはレイ。彼女にとっては目の前にある御馳走より、どうでも良い事なのだろう。
「ねえ、おにいちゃん。おいわいしようよ。」
「あ、それ賛成。」
 ハルナの意見にスズネが即座に賛成する。
「……そうだね、それも良いかも。」
 シンジが賛成した事でようやく関心を持ったのか、
「お祝いって何?」
 どういう事なのか訊いてくるレイ。
「嬉しいことを皆で喜ぶこと……かな。あれ、上手く言えないや。」
「そう……。」
「そうだ! 綾波の引越しの許可が出たら、一緒に祝おうよ。」
「引越し…碇君と一緒……問題無いわ。」
 シンジの思いつきに変わらぬ口調で答えるレイ。でも、何故か口元が綻んでいる。
「一緒って事は、ここに引っ越して来るの?」
「う、うん。……そういう事になると思うけど。」
 ライバルが思い人の側に来る事に良い顔はできないが、あの部屋の惨状を見た後では反対もできない。マナは口から出掛けた文句を咽喉の奥に引っ込めた。
「レイおねえちゃんもくるんだ! これからよろしくね。」
「ええ、よろしく。」
 ハルナの無邪気な喜びように場が明るくなるが、
「でも、まだ許可出た訳じゃないから……」
 他ならぬシンジの冷静な指摘で一気に盛り下がった。
 真っ暗とは言えないながらも湿っぽくなったのを嫌って、シンジは約束した。
「できるだけの事はするよ。だから、みんなはパーティーの準備を進めてて。」
「分かったわ。」
「まかせといて、おにいちゃん♪」
「了解っ。」
「そう。……約束。」
 その場に居る少女4人の協力を取り付けて、シンジは更に協力を求めるべき人物や招待した方が良い人物について考え始めるのだった……。



 シンジがネルフに出勤したら、まず最初に自分の執務室に顔を出す。
 そこで本日の予定や連絡事項を伝達してもらうのだ。
「シンジ様、これが本日の書類です。」
「ありがとう。」
 日々山積された書類と格闘しているゲンドウや冬月、いやミサトなどから見ても羨ましくなるほどの薄さのファイルケースを受け取ったシンジは軽く中身に目を通す。
「本日は午前10時からシンクロテスト、昼からは自由となっております。」
 ちなみに自由とは、仕事や自主的訓練をせずに早退しても良いという意味である。
「自由時間? ……確か戦技訓練じゃなかった?」
「葛城三佐が出張中ですので中止になりました。」
 言われてなるほどと思ったシンジは特に追求しなかった。
 確かに午後に身体が空いていた方が色々都合が良いからだ。
 そうと決まれば、シンクロテストまで1時間少々ある時間の余裕を使って、やっておくべき事をやっておこうと決心した。
 まずは、レイの引越しの件である。
 この事についての責任者を調べると、何と総司令のゲンドウ本人だと分かったので、仕方なく父に電話をかける。……一昨日の件もあって、直接会う勇気がどうしても持てないのだ。
「父さん、今時間良い?」
「何の用だ。」
「綾波の事なんだけど……」
「言ってみろ。」
「あのアパートじゃあんまりだから僕のとこで預かりたいんだけど……」
「……お前の所か?」
「……うん。」
「(くっ……ここで許可を出さないのは簡単だが、それではレイにますます拒絶されかねん。それでは“計画”にも支障が出よう……。仕方ない……いや、待てよ。ここはシンジを利用しよう。)条件がある。」
「何、父さん。」
「先日の事件のことだが……あれの原因が分かった。」
 そう言われればシンジにも心当たりは一つしかない。
「え?」
「赤木博士の作ったあの“薬”だ。」
 シンジはやっぱりと思いながらも、父親がわざわざその問題を持ち出して来た事を警戒して緊張した。
「今回の件を認める代わりに、その薬の検証実験に協力しろ。」
 が、警戒したからといってどうなるモノでもなかった。
 出された条件を飲むか飲まないか、ただそれだけの話なのだから。
「う……うん。」
 思い切り気は進まないが、レイの為にシンジは仕方なく承諾する。
「あと、レイにも今回の事件の原因を説明しておけ。」
 薬で血迷ったという事にしておけば傷口は小さくできるだろう。今まで通りとはいかずとも関係修復の芽は残せるかもしれない…と、ゲンドウは考えたのだ。
「……うん。」
 それにもシンジは肯く。別に問題がある条件に聞こえなかったからだ。
「言う事は以上だ。」
 シンジが条件を全て承諾したのに満足してゲンドウは電話を切り、受話器の代わりに万年筆を取った。
 レイの住所変更に関する手続きをシンジに委任する旨を書面にしたためるべく……。


 首尾良くレイの引越しの許可が取れたので、それに関する手続き書類を揃えるように頼んでから、シンジはファイルケース片手にアスカの部屋へと向かった。
 で、当の部屋の前に来てから、予め電話でもかけておけば良かったかと後悔した。
 だが、既に遅いし、そもそも相手の電話番号も知らないと思い直して、シンジは戸口に設置されているインターフォンの呼び出しボタンを押した。
 1度目を押してからきっかり1分待って、また押す。
 これを3度繰り返したところで、インターホンのスピーカーから不機嫌な声が流れてきた。
「誰?」
「ええと、碇だけど……」
 おずおずと伝えた声は、
「で、朝っぱらから何の用?」
 更に不機嫌さが20%増量された声に遮られた。
「うん……ええっと……惣流さんの契約の変更した後の書類がきてるから……早く届けた方が良いと思って……」
 用件を聞いたアスカは、『もっとシャキシャキ喋りなさいよ』という本音はひとまず置いといて、
「じゃあ、5分……いえ10分待ってなさい!」
 横柄に言い捨ててインターホンを切った。

 それから16分後、アスカの部屋の扉は開かれ、廊下で待ちぼうけを食っていたシンジは招き入れられた。
「遅いよ、惣流さん……」
 シンジが小声でぼやいたのを聞きとがめ、
「レディーの身だしなみには時間がかかるのよ。」
 澄まして言い訳するアスカ。勿論、文句を言う男の方が狭量なのだと言わんばかりの態度だ。
「それで、書類の事なんだけど……」
 触らぬ神に祟り無しと決め込んで反論は差し控え、シンジはさっそく用件の方に移る。
「今回は日本語版の本式の書類と一緒に、内容説明用のドイツ語版と振り仮名付きの日本語版もつけてあるから。」
「へぇ、一応学習能力はあるのね。」
 親切に毒舌で報いておいて、アスカはシンジの差し出す書類を受け取った。
「ダンケ。」
「え? それって何?」
 アスカの言った言葉が理解できず聞き返したシンジの質問を
「何でも無いわよ。……で、提出期限はいつ?」
 強引にはぐらかして話題を転換するアスカ。
 良く見れば微妙に頬が赤いが、鈍感なシンジは全然気付いていない。
「今日中なら大丈夫だって。……あと、『譲歩できる所はしてるから、これで納得しないならドイツ時代の契約を継続する。』って但し書きが付いてたから。」
「何ですって!」
 聞き捨てならない台詞を聞いていきりたつが、そもそもアスカの出した条件が全部飲まれているのならば怒る必要は無いと思い直す。
「じゃあ、今からチェックするから。」
「それじゃ、僕はこれで。」
 ホッと一息ついて辞去するシンジに構わず、アスカは書類の文言のチェックを開始したのだった。



 プラグスーツに着替え、LCL錠剤を飲む。
 そうすると、シンジの体内で何かがうねる感覚が起き、実験室内にATフィールドの発する微かな光が満ち溢れた。
「ATフィールド展開を確認。波動パターンオレンジ。」
「ハーモニクス正常。暴走、ありません。」
 オペレーター達の声が、実験の経過……いや、シンジの身体の状態を次々と数値化して記録していく。
「シンクロ率61.43%……新記録です!」
 管制室内にどよめきが支配する。
 どれもが喜びの声だ。
 ちなみに、実験室と管制室は遠く離れており、カメラなどの各種観測機器越しにのみシンジを見られるようになっている。
 これは、シンジのATフィールド対策の為であった。
「LCL錠剤を服用しないで行なった実験の方でも24.04%のシンクロ率。たいしたものだわ。」
「ハーモニクス、シンクロ率もアスカに迫ってますね。」
 アスカのシンクロテストは昨日行なわれ、69.83%をマークしていた。ただし、LCL錠剤無しでは全くシンクロできなかったのだが。
 ちなみに、シンジ・アスカ・レイの三人は別々にシンクロテストを受ける事になっている。でないと、少々目のやり場に困る情景が展開される危険があるのだ。
「これを才能というのかしら。」
「凄いですね。まるでエヴァを飲む為に生まれてきた子供ですね。」
 マヤの感想にリツコは冷静にツッコミを入れた。
「逆よ。恐らく、エヴァ初号機が完全にシンジ君に合わせて調合されたのよ。」
 私の理解の及ばないレベルでね……と、唇を噛むリツコだが、黙って白旗を揚げる気は無い。必ずエヴァの本質を掴んで見せると誓う彼女の内心は燃えていた。
「次、シンジ君に試験薬A−2を投与。」
「はっ。」
 マジックハンドが無針注射器に装填された薬剤をシンジの腕に注射する。
 シンジは内心嫌だったが、ここで逆らってレイの引越しがご破算になったり、リツコの逆鱗に触れるのはもっと嫌なので仕方なく耐える。
「協力者を入れて。」
 いっそ、サンプルと言った方がスッキリするんじゃないと言わんばかりに冷たい口調でのリツコの指示に即応できたのは、やはり慣れてるマヤだった。
「はい、先輩。」
 隣室に待機して貰っていた志願者4人……男2人、女2人の割合……が実験室内に招き入れられ、シンジのATフィールドの影響下に置かれる。
 すると、データ計測用の特殊な動き難い服を着て重いケーブルを引きずった4人がじりじりとシンジを包囲し迫り始めた。
 すぐに飛びかからないのは、できるだけ抵抗するように予め言ってあるからだ。
 しかし、理性での抵抗も物理的な抵抗も挫くほどに誘惑が凄いのだろう。
 包囲の輪は着実に狭まっていた。
「前回と同じ量だと男女の両方に効果があるのね……なら、量を増やせばどうかしら。」
 更に注射が行なわれると、女性二人はその場で踏み止まれるようになったが、男二人は目に見えて興奮を増してシンジに踊りかかった。
「実験終了。電気ショック急いで。」
 シンジに襲いかかってきた男達は、ケーブルを通してスタンガンに匹敵する高圧電流を流され、あっさりと気絶した。
「ご苦労様、シンジ君。怪我は無い?」
「は、はい。あの……その人達は……」
「気絶してるだけよ。心配無いわ。」
 断言するリツコに、シンジはやっとホッとした。
「いつも通り、シンジ君のATフィールドが平常値に戻るまではそこに居てもらうわ。」
「はい。」
 いつもなら数時間もすれば自然と治まるのだけど、今回はどうなるんだろうと心配するシンジであったが、心配してどうなるものでもないので口には出さない。
 結果から言えば、3時間後にATフィールドと薬剤の影響は治まり、シンジの心配はひとまず杞憂となった。
「リツコさんとマヤさん、そこに居ます?」
 実験がひとまず終了してシンジが医療用ベッドから解放されると、シンジは実験室内にあるだろうマイクを通して呼びかけた。
「いるわよ。何か用?」
 スピーカーから聞こえてきたのは忙しいのか幾分邪険な口調だが、とりあえず話を聞く気はあるようだ。
「あの……今日……ミサトさんの昇進記念って事でパーティーするんですけど、良かったら……その……」
 リツコの声にびびって腰が引けているシンジは、それでも用件を言い切った。
「御呼ばれって事?」
「は、はい。」
 ちょっとだけ考えたリツコは、即座に利点と欠点を計算し、結論を出す。
「そうね、ご招待を受けさせていただくわ。マヤはどうするの?」
「は、はい。喜んで(先輩といっしょだし、シンジ君のお弁当は美味しかったし)。」
 食事はネルフの食堂、寝泊りもネルフ内の部屋、洗濯はコインランドリーという生活が半年近く続いている師弟である。シンジの誘いでおおっぴらに骨休めできるのは歓迎すべき事であろう。
「そうと決まれば、今夜までにデータのまとめ、終わらせるわよ。」
「お〜。」
 リツコの決定に管制室の面々は気合いの入らない声で答えたが……
「今日のノルマが終了した者から第二種待機に入っていいわ。」
 目の前にニンジンをぶら下げられて、
「ハッ!」
 思い切り気合いの入った返事を返し、眼前の課題をこなし始めた。
 ちなみに、第二種待機とは、使徒襲来を含む不測の事態が起こらない限り自宅待機という一種の休養である。
 無論、明日には平常通りに出勤しなくてはならないのだろうが、それでも魅力ある餌には違いない。
 何せ、第三使徒が来襲してきてからこっち、技術開発部に所属している者の多くが一月に一回も家に帰れれば良い方って生活を強いられているのだから……。



「サードチルドレンは居る?」
 シンクロテストを終え、ようやく執務室に戻って来たシンジを訪ねて来たのは、濃い目の金髪と青い目をした少女だった。
 クォーター、つまり外人の血の方が濃い彼女の外見的特徴は西欧風のメリハリの利いた顔の造作と体型に主に現れているが、東洋人に多く見られる肌の木目細かさも併せ持っている。混血の強み…と言うか、良い面が現れているのだろう。
 という様に外見的には美少女と言っても大半の人には文句無く通るであろうが、性格の方はと言うと……付き合うには少々難がある。と、シンジは思う。
 しかし、基本的に明白な敵意を向けられない限りは微笑み返すしかできない不器用な彼は、つっけんどんな態度のアスカにもにこやかに応対していた。
 恐らくは、嫌われまいとしてシンジが身につけた長年の習性なのだろう。
「うん。何か困った事でもできたの?」
 そんなシンジと何度か話すうちに、アスカの言葉の刺も若干ながら抜けてきたようだ。
「そうじゃなくて、ちょっと訊きたい事があるのよ。」
 しかし、強引な態度自体はまだまだ健在で、シンジの承諾を待たずに書類を机の上に広げた。
 その説明用の振り仮名付き日本語文書の赤線を引いた場所……
『当人が2015年8月18日までに日本の義務教育終了相当の学力がある事を証明した場合、通学の義務を免除する。』
 という項目を指し示して、
「ほら、ここよ。8月18日にどういう意味があるのよ。」
 シンジの回答を迫った。
 それを聞いて考え込むシンジだが、机に置いてあるカレンダーを見て謎が解けた。
「うちの学校って8月20日から二学期になるから、多分手続きとかするギリギリの期限だと思うよ。」
「ふうん。ま、いいわ。」
 丁寧に説明されたら納得したのか、次なる気になる事を訊いてくるアスカ。
「で、本当に向うにこれ以上譲歩する気、無いの?」
 胡乱な目で睨みつけるアスカだが、そんな事をされてもシンジには権限が無いので譲歩しようが無い。
 彼には添付されていた書類を見せるぐらいしかできる事はなかった。
「……本当みたいね。」
 ドイツ語部分はシンジには読めなかったのだが、要するに日独両方の言葉で今朝シンジが言った事が書かれているだけであった。
「……仕っ方無いわね〜。サインするわよ。」
「いいの?」
「しょうがないでしょ。これにサインしなきゃ“あの条件”で契約続行よ。それに比べれば、まだマシだわ。」
 心底嫌そうな顔をしたアスカは、シンジからボールペンを受け取り、雇用契約書にサインをした。
 ちなみに、他に変更された項目は、
『機材などを意図的に破壊したとみなされる場合、罰則として給料から修理費相当を差し引く事も有り得る。』
『当人が未成年である事を考慮して保護監察を行なう担当者を置く。相手方の承諾があれば、当人が担当者を指名する事もできる。』
 の2点であった。
 当座の用事が済んだところで、シンジは気付いた。
「ところで、惣流さんはミサトさんとは知り合いだったよね。」
 目の前の人物も誘っておくべき立場の人間であることを。
「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」
「今夜、ミサトさんの昇進記念パーティーやるんだけど、惣流さんも来る?」
「へぇ〜。ミサト、昇進したんだ……。いいわ、行ってあげようじゃないの。」
 胸を張って偉そうに承知したアスカは、それでも大事な問題に気付いた。
「で、会場どこ?」
「僕の家なんだけど、場所知らないだろうから午後6時にここで良い?」
「良いわよ。……くれぐれも遅れないでよ。分かった?」
「う…うん。」
 しかし、アスカはきっちりと“自分が”遅刻する事を未だ知らなかったのだった……。


 書類事務を終え、買い出しを終え、パーティーの下準備を手伝ってから自分の執務室へと戻って来たシンジは、待ち合わせに4分遅れでやって来たアスカと秘書のミズホを連れて家路についた。
 交通機関は、当初は電車のつもりだったのだが、ミズホが保安諜報部の黒塗りセダンを1台回して貰ったので、それに乗っての出陣と相成った。
「しっかし、貧乏臭い車ね。どうせならリムジンとか豪華なの使えば良いのに。」
「仕方ないよ。そういう所に使うより、もっとお金を使うべき場所があるんだから。」
 格式だの何だのを気にしなきゃならない立場ならともかく、ただの…とは言えないながらも中学生にはリムジンは不似合いだろうとシンジは感じていた。
 かと言って、今乗ってるライフル弾ぐらいなら難無く止められる装甲を持つ軽装甲セダンが自分達に似合っているかと問われれば答えに窮するのだが。
 やがて、車がコンフォートの前に着くと、シンジは送って来てくれた人達に礼を言って降りた。
 そうして、先頭に立って自室へと案内する。
 こっそりと携帯電話のボタンを押してから……。
「入っていいよ。」
 ドアの施錠を自らのIDカードで開け、同行者を促すシンジ。
「入ってあげようじゃないの。」
 打てば響くタイミングで足を踏み入れたアスカに向けて、幾つもの炸裂音が響き、頭上から紙テープが降ってきた。
「キャアッ! な、なに……なんなの!?」
 不意打ちに悲鳴を上げながらも、アスカの身体は瞬時に臨戦体制に切り替わる。
 その彼女が見たものは……
 クラッカーを持つ数人の少女達と、『歓迎、惣流・アスカ・ラングレー様』と書かれた垂れ幕であった。ご丁寧に振り仮名まで振ってあるところが芸が細かい。
「え?」
「惣流さんが来てくれるっていうから、一緒に惣流さんの歓迎会もしようってなったんだけど……迷惑かな?」
 豆鉄砲を食らった鳩みたいなアスカにシンジがおずおずと告げると、
「何かついでみたいなのが嫌だけど、ここまでされたら帰る訳にもいかないでしょ。」
 苦笑を浮かべながらも、どことなく嬉しそうに言うアスカ。
 互いに簡単な自己紹介をしてから、今日の主賓の一人は無事に碇家へと招き入れられたのであった。


 アタシは面白くない。
 この歓迎会とやらの事じゃない。
 アタシの横で何くれとなく世話を焼いてくれている真面目で人の良さそうな少女…確か洞木ヒカリとか言ったっけ…の事でもない。
 いっしょにファーストチルドレン…綾波レイ…の引っ越し祝いをやってるのも、ちょっとは癪に障るけど許容範囲内だ。
 主賓の一人にしてここに集まる予定のメンバーの中ではアタシの唯一の知り合いであるミサトが未だ来ていないのも、まあ許せる。
 加持さんが『忙しいから今日は来れない。すまん』と断りを入れていたというのも、仕方ないと諦める事ぐらいはできる。
 ミサトの友人代表って事で遅れてやってきた赤木リツコって人と伊吹マヤって人がアタシが大皿ごと手元に確保したハンバーグを食べようとしたのも、未だ許せる。……本当に食べられた訳じゃないし。
 アタシが面白くないってのは、ひたすらヤツの事だ。
 碇シンジ。
 サードチルドレン。
 そう、アイツの事だ。
 アタシがファーストに「仲良くやりましょ」って言っても『命令があればそうするわ』なんて返されたというのに、アイツが『これから一緒に戦うんだから、僕も仲良くした方が良いと思うよ』と言った途端に『よろしく』だなんて……もしかして馬鹿にしてる?
 あのべったりと甘えているハルナとかいうのとか、シンジとじゃれてるのか手伝いをしてるのか分からないマナやスズネとかいうのは言うに及ばず、ファーストやヒカリ…リツコやマヤまでもがアイツに一目置いてるようなのが気に食わない。
 アイツらはアタシがこのパーティーの主賓の一人とか言ってるけれど、アタシの目は誤魔化されない。
 このパーティーの真の主役はアイツだ。
 間違い無い。
 そう。アタシは今むかっ腹が立っているに違いない。
 じゃなきゃ何で……アイツから目が離せないのか説明がつかないし……。
 横目でチラチラとアイツを常に視界の片隅に置きながら、アタシはそれでも初めての歓迎会とやらを楽しんで…そう、確かに楽しんでいたのだった……。


「ただいま〜。……あれ? 皆揃ってどうしたのよ?」
 ミサトがいつも通りシンジの部屋に入ってきて玄関を潜ると、足首に極細のワイヤーが引っ掛かった。
「え?」
 対ゲリラ戦の訓練を思い出して身を固くするミサトは、すかさずバックステップしようとするが何かが炸裂する音の方が彼女の身のこなしよりも早かった。
〈パ…パンパンパン…パパパパパパパンッ!!〉
 それは……数十発の癇癪玉が破裂し、薬玉が割れる音であった。
 そして、舞い散る色取り取りの紙吹雪。
 垂れ幕には『ミサトさん、昇進おめでとう』の文字。
「え? え?」
 ミサトが状況を把握し切れずに混乱から立て直れないでいる間に、ダイニングやらリビングやらから出迎えに来る面々。
「おかえりなさい。」
「あんた、ちょっと遅いわよ。」
 などと言いつつ出て来たシンジ達の視線は、ミサトでは無くてその後ろの方へと釘付けとなった。
「カティー……さん。」
「よろしく。」
 そこには予想もしてなかった人物……無愛想な白人の美女がニコリともせずに突っ立っていたのだから。

「しっかし、リツコまで来てるとわね〜。」
 ビールのジョッキを傾けつつ、妙な感心をするミサト。
「あら、邪魔だったかしら。」
 それに、こちらはコップに注いだビールをちびちび飲んでるリツコ。
 ちなみに、両方とも今日の午後に何とか設置が間に合ったビアサーバーから注いだもので、シンジがまだ不慣れなせいか泡の出具合があまり良くない。
「そうじゃないけど、良く来る時間あったわね。」
 今、技術開発部は修羅場じゃかなかったしらん…と考えるミサトの記憶は正しい。
「せっかくのシンジ君のお誘いだから、時間を作ったのよ。」
 ただ、適度の休息は、根詰めて働き詰めをするよりも効果があるのは事実だ。
 例え睡眠時間が足りていても、息抜きが無ければ就労効率が落ちるのは当たり前。
 その辺の理屈が分からないリツコではないのだ。
 ……もっとも、最近はやるべき事が多過ぎて、口実が無ければ休息どころじゃない気分なのも確かなのだが。
「マヤもシンジ君の料理が食べられるって喜んでたし。」
 JA事件の時のお弁当が好評だったのに気を良くしたのか、シンジは益々料理に力を入れていた。と言っても、高価な食材や珍しい食材に手を出したり、目新しい料理を作ろうとするのでは無く、身近な食材や家庭料理をいかに美味しく食べてもらうか…や、冷めても美味しい弁当の作り方の研究などをしてる所がらしいと言えるだろうか。
 そのこだわりはネルフの職員食堂を超える味となって現れていた。
 これで味を落とさずに量をこなせるようになれば家庭料理の店を開けるようになるかもしれないが、シンジの体力と熟練度ではまだまだ遠い先の話である。
「ところで、昇進したのにあんまり嬉しそうじゃないわね。葛城三佐。」
「やめてよ、リツコ。……そりゃ、認められるのは嬉しいけどさ。」
 言いつつジョッキの中身を飲み干したミサトの前に置かれたのは別のジョッキ。
 しかも、数回でコツを掴んできたのか泡の量も温度も飲み頃の一品であった。
「あれ? ……夕食時にはビールは一杯までじゃなかったっけ?」
 皮肉を言いつつも、シンジの気が変わらないうちにとさっさと手を伸ばしてジョッキを確保するミサト。
 そんな態度にクスリと笑いながら応じるシンジ。
「今日はパーティーだから、特別に無しです。後、今日飲み食いした分の代金は請求しませんから存分に楽しんで下さいね。」
 言われて満面の笑みを湛えるミサト。
「さっすがシンちゃん! 話せるわ〜。明日以降の制限も外してくれると、お姉さんもっと嬉しいんだけど。」
 にこやかに密着してアレだのコレだのをすりつけるミサトであったが、茹蛸みたいに赤くなりつつもシンジは理性を総動員して踏み止まる。
「……怪我が治るまでは我慢して下さい。」
 深酒が怪我に良い訳は無いのだから……。
「そんなぁ〜。」
 シンジのにべもない返事に落胆するミサトであったが、それなら今晩中に飲めるだけ飲もうと開き直って飲むピッチを上げ始めたのであった。

 そのシンジは、ミサトから解放されたと思ったら、今度は飛び入りの客人…カティー・ジーベック“大尉”に捕まっていた。
「ところで、ここにいる全員が恋人か?」
 そして、唐突に切り出された話題はシンジを思い切り慌てさせた。
「ち、違いますよ。…………全員じゃないです。」
 言い難そうに、それでも目を逸らさず言い切ったシンジの目を見返し、
「そうか。で、誰がそうなのだ?」
 虚偽答弁を許さぬ迫力で迫るカティー。
 しかし、改めて威圧するまでも無く、シンジにその手の嘘を吐く才能は決定的に欠如していた。
「ハルナとヒカリと綾波とマナとスズネとミズホさん…それとカティーさんです。」
 そう。馬鹿正直に全部バラしてしまったのだ。
「そうか。」
「……あと、恋人って訳じゃないんですけど、ミサトさんとリツコさんからは訓練とか言って手解きを受けてます。」
 更に聞いていない事までもを……。
「良く正直に言ってくれた。」
 が、そういう態度こそ彼女が相手では正解なのだろう。
 カティーの視線からようやく険が取れた。
「しかし、正直呆れたがな。」
 幾ら一人じゃ身が持たないと悟っていたとはいえ、まさか御同輩が既に6人もいると思わなかったカティーの笑みは苦い。
 その苦さはシンジが注いでくれたビールの苦味と混じって気分が滅入りそうになったのだが、シンジが全員を満足させられるようなら何も言わないでおこうと思い直す。
 自分一人でシンジを満足させる事ができないのであれば、他に何人いたところで一緒だと、カティーは改めて諦めの境地に至ったのだ……。
「そういえば、カティーさんってどうしてここにいるんですか? 確か、太平洋艦隊は先日出港したはずじゃ……。」
 確かにシンジが指摘した通り、国連太平洋艦隊も旗艦たるオーヴァー・ザ・レインボウもとっくの昔に出港して、残っているのは修理が必要な艦ぐらいである。
 軍事力の出番は、使徒が襲来してきてる今日の状況でも相変わらず多いのだから……。
 つくづく人間とは因業な生き物である。
「それなんだが、実は私は本日付けでネルフに出向となったのだ。」
「え? 本当ですか?」
「無論だ。私は嘘は言わん。本日からネルフ本部の作戦部の部長を任されている。」
 そう言われても、シンジには納得し難い。
「それじゃ、ミサトさんは……。」
 そこは昨日まではミサトが座っていた席だったのだから……。
「ああ。彼女は新設される機動部隊の部隊長になる。前線指揮は今まで通り彼女が行なう事になるが、彼女が手が離せない時などは我々作戦部が指揮を代行する。」
 何時の間にか聞き耳を立てている聴衆に向かって説明を終えたカティーは、
「他に質問は無いか? 無ければ仕事の話はこの辺で終わらせるぞ。」
 と逆に質問するが、急に言われてもそうそう出て来るものじゃない。
「……無いようだな。では、改めて乾杯といこう。」
「いったい何に乾杯するわけ?」
 やぶ睨みするアスカに……いや、この場にいる全員に、カティーは至極真面目な顔で告げた。
「人類の未来に。」
 と。
 無論、異論は出なかった。

 ……結局、その晩、念の為に2個用意していたビールの10リットル入りのタンクが空にされ、焼酎や日本酒など5升が空けられた。……が、その代わりミサトを始めとして付き合わされた多くの人間が二日酔いになったのは言うまでもない。
 その被害は中学生であるはずのシンジ達にまで波及し、その煽りで朝食はお茶漬けと自家製の御新香だけという質素なものとなった……。



 飲むは歌うは騒ぐは…などという宴会を生まれて初めて体験し、散々騒いで楽しんでから自室に朝帰りしたアスカは、ガランとした室内を見て呟いた。
「一人…なんだな……アタシ。」



福音という名の魔薬
第拾話 終幕



 薬は元々1話当たりのサイズが大きいのですが、それが今回は2話分相当……洒落にならない分量です(苦笑)。最後まで読んでいただき感謝です。
 今回は、きのとはじめさん、峯田太郎さん、【ラグナロック】さん、道化師さん、闇乃棄黒夜さんに見直しへの協力や助言をいただいております。どうもありがとうございました。

 さて、恒例の注釈コーナーは、作中で説明し切れてないものについて幾つかを記しておきます。……まあ、こんなものを付けなきゃならない事が未熟の証明のなのですが。
 アスカの契約書類が当初ドイツ語版や英語版を用意していない状態だったのは、アスカ自身が『自分は日本語ができる。』と断言していた為です。ま、確かに会話の方はほぼ完璧なんですが……。
 ちなみに、アスカが逆上しかけたドイツ支部との契約内容ですが……
『ネルフが当該人物に対して行った行為で何らかの損害が発生しても、ネルフは一切の保証を行なわない。』
『当該人物はネルフの命令に逆らうことは許されず、違反した場合は処罰される。』
『当該人物はネルフの資料であり、死亡した場合でも勝手に埋葬してはならない。』
『当該人物が医者にかかる場合、ネルフの関連施設以外を利用してはならない。』
 と、こんな感じです。
 また、シンジのハンバーグのレシピは、元々はお嬢様のユイが一人暮しを始めるのを心配したキョウコが自分の得意料理のレシピの幾つかを教えた中の一つでした。

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