福音という名の魔薬
第拾伍話「使徒の価値は」 エヴァ・チルドレンは多忙である。 使徒が襲来したら否応無く戦闘に駆り出されるだけではなく、義務教育と言う名の学業や日々の戦闘訓練など種々様々な業務をこなすよう求められていた。 その中でも、特出して多忙なのはサードチルドレンである碇シンジである。 彼は、彼だけは、普通の訓練や学校の他に、他の2人のチルドレンや7人の使徒能力者の生活の面倒を見る家事労働、性欲を満足させる特殊活動をしなければならなかった。 それに加えて、彼が手を出してしまった……いや、彼のモノになりたがって寄って来ては増える一方の女性達をも相手しなければならなかった。 これだけでも、並みの人間ならば赤玉が出たり、腎虚になったり、手が回らなくて関係が破綻したりするのだろうが、シンジは非凡というか(エヴァ能力のせいで)人間離れした性技を頼りに何とか綱渡りを続けていた。 何故こうも女性達の方から集まって来るかと言うと、一言で言えばシンジの周りの女性達が傍目にも実に生き生きとして幸せそうに見えるからである。 また、非公式の情報ではあるが、シンジに抱かれるとプロポーションが良くなるらしいとか、身体の調子が良くなるらしいとか、肌がすべすべつやつやになるらしいとの噂が飛び交っているのも、恐らくは増加傾向に一役買っているのだろう。 そんな訳で、碇シンジのここ最近の日常生活は、女性達が流す汗と汁とで、どっピンクに染め上げられていたのだった……。 だが、そんな彼にもピンク色に染められていない時間というのは存在する。 夢も見ずに深い眠りについている短い睡眠時間のかなりの部分。 家事労働に携わっている時のほとんど。 授業時間の半ば以上。 射撃や車両運転など、通常分野各種の戦闘訓練の最中。 そして…… 「なあ、センセ。今日、ゲーセンでも行かへんか?」 数少ない男の友人からの誘い。 「……うん。用意して来るから先に行ってて。」 シンジは今日の予定を思い返した後、何とか時間が捻出できそうだと判断して肯く。 ちなみに“用意”とは、代わりの逢瀬の時間を後日に用意すると確約してから、それなりの時間をかけて相手をする予定だった女の子達3人を速攻で悦楽の天国へと御招待する事である。 「おう。はよ来いや。」 ケンスケを誘って行きつけのゲームセンターに向かったトウジ達にシンジが合流したのは、彼等が校門を出てから僅か10分後の事だった……。 欧州のとある古城の地下にある一室。 「この頃の碇の動きは目に余る。」 12枚の黒い石版の姿をした立体映像達は、またもや秘密の会合を開いていた。 「しかし、奴の代わりができる人材などそうはいない。」 「それに、現在の所は使徒撃退も“計画”も順調だ。懲罰を科す程の失点も無い。」 苦々しく吐き捨てる声に、 「第3新東京の警備戦力強化、対人戦力整備、兵装ビルの全方位展開、各国支部の独立性と引き換えの各国支部で起きた事に対する免責要求……どれも拒否は難しい。」 他の声も渋々ながら同意する。 「さよう。我々の崇高な計画を、それを理解できぬ下賎な輩に邪魔される訳にはいかんからな。少々不本意だが、多少の不都合には目を瞑らざるをえんよ。」 「それに、所詮は奴が裏切った時の保険が少々高くつくだけに過ぎん。黄色いサルが当初の予定より余計に何匹死のうと構う事では無い。」 「ああ、シナリオは修正範囲内だ。全く問題は無い。」 「ただ、日本政府がこれ以上馬鹿をしないよう、鈴以外のモノもつけた方が良いな。」 「“鈴”以外…と言うと、あの男か?」 「よかろう。念を入れるに越した事は無い。」 01と番号が付された黒い板が結論を述べると、議論は締め括られた。 「では、シナリオ通りに。」 彼ら特有のお決まりの台詞を唱和する事で。 夕暮れに染まる繁華街の路上で、 「しっかし意外やったなぁ〜。こげにセンセがゲームが上手いたぁ。」 割りと得意なレースゲームで負けたトウジが、悔しがりながらもシンジを褒め称える。 「格ゲーとかシューティングなんかは駄目みたいだけどね。」 こっちはしっかりと自分の得意分野のゲームでは打ち負かしたケンスケが、それでも最近出た体感筐体を使った対戦型ロボット戦闘ゲームではあわやというところまで追い込まれて密かに冷や汗を流していた。 「……バイクとかの運転は…訓練でやってるから。」 照れて早足になりながらも上手い理由を打ち明けるシンジ。 「そうか、それでか。ところで、何か食ってかへんか? 俺ぁもう腹が減って腹が減ってかなわんのや……。」 トウジは説明にあっさり納得して買い食いに誘うが、 「ご、ごめん……。今日、夕飯作るって言ってきてあるから……。」 シンジはおいそれと誘いに乗れなかった。 ……あんまり予定を変えると後の埋め合せも大変なのだ。 「なんや、センセがメシ作ってんのか。大変やなぁ……。」 「じゃ、俺達食いに行くから。」 軽い挨拶で別れ、いつもは通らないちょっとした外れの道を歩く。 『えっと……確かお肉と野菜は足りてるはずだから魚類が少し欲しいかな。牛乳と卵は昨日買って来たばかりだし……』 そんな事を考えながらしばらく歩いていると、シンジの視界を数人の男女が横切った。 「……え?」 見間違いでなければ、高校生ぐらいの5〜6人の男が壱中の制服を着た女子を取り囲んで薄暗い路地裏に連れ込んだように見えた。 「た…大変だ。」 シンジは人影が消えた路地裏へと近付き、まずは自分の心配が杞憂かどうかを確かめる事にした。……勘違いしてましたじゃ、目も当てられない騒ぎになりかねないから。 だが、そんな配慮も見るからにガラの悪い男達が内気そうで可愛い女の子が嫌そうにもがいているのを無理矢理引きずって近くの建物へ連れ込もうとしている光景を見て何処かに吹き飛んだ。 「そ、その娘を放せっ!!」 シンジが肺活量の限りを尽くした叫びは、意図通りに男達の注意を引き、女の子が連れ込まれる作業を一時中断させた。 「あん? なんだオメエ。」 「この女の彼氏って訳か?」 着ている者の良識を疑わせるゴテゴテ改造された学ランに身を固めた男達が剣呑な目でシンジを威圧してくる。 「……ち、違います……。」 それに震えながらか細い声で答えたのは、捕まってる女の子だった。 「わははははは。なんだ、お呼びでないんじゃないか。」 「怪我しないうちに帰りな。お前みたいなの相手するほど暇じゃないんだ。」 シンジは思わず怯みそうになるのを堪えて踏み止まり、男達の隙を窺う。 「……っの、生意気なガキめ!」 たかが数十秒の睨み合いで痺れを切らした男の一人が、シンジに鉄拳を振るう。 舐めてかかってるのか大振りなパンチを半身になって避け、無様に体勢を崩した敵の足を引っ掛けて転ばせてから、シンジは女の子を抑えてる男に駆け寄って体当たりする。 「ぐぼっ!」 不意を討たれて胃液を戻す男の手から逃れた少女に、シンジは叫ぶ。 「逃げて!」 「……で、でも。」 「いいから、早く!」 躊躇する彼女を言葉で後押しするように強い語調で諭すと、少女は素直に逃げて行く。 勿論、男達は阻止しようと動こうとしたのだが、めちゃくちゃに両手を振り回して牽制するシンジが邪魔で追いかけ損なった。 ただ、格闘術は護身用程度にかじっただけのシンジが、素人に毛が生えた程度の技量だとはいえ5人もの敵を相手にして長く持ち堪えられる訳も無い。 しかも、他人を逃がす為に自分の体力を度外視して暴れたのである。 当然ながら…… さしたる時間もかからず捕まえられ、袋叩きにされてしまった。 ──少女を逃がす時間だけは辛うじて作れたようだが。 「ちっ、手間かけさせてくれる。」 ズタボロにされ地面を舐めさせられたシンジに、 「服が汚れちまったじゃねえか。」 汚い唾と、 「それに、せっかくのお楽しみがパーだぜ。」 人間としての品位が疑われる言葉が吐きかけられる。 「慰謝料とクリーニング代、安くないぜぇ……へへへへへ。」 更に性根が汚い台詞を言いつつ血塗れのシンジを爪先で蹴り転がした時、そいつらの命運は……尽きた。 一閃。 シンジを暗殺しようとしていたテロリスト集団をようやく片付けて駆けつけたスズネが放つ手加減一切抜きでの腕の一振り、ただそれだけで、そいつら全員がビルの壁に貼り付く赤黒い醜悪なレリーフと化した。 助け手の姿を驚いた目で見ているシンジの視線に、スズネは小さくうめいた。 「……軽蔑……した?」 悲しみを湛える瞳を見て、シンジは身体の痛みでしかめてしまいそうな表情を可能な限り綻ばせ、笑顔に変える。 「……助け…て……く…れ……て……あり…が……と…」 意識が暗転してしまう前に……。 「報告は聞いたか?」 以前と比べると片付くようになってきた機動部隊長の執務机に、書類の束を持って来た作戦部長が問いかけると、 「ええ。ったく、人類を守ってくれてるシンジ君になんて事するのよ。」 ミサトは溜息を吐きつつカティーに答える。 ここ3週間、公平に見て保安諜報部は良く働いていた。 だが、しかし、彼等は最近一気に増えた人口や先の騒ぎで流入した大量の銃火器を用いたテロに対応する為に忙殺されており、せっかく要員が増えたにも関らず肝心要のチルドレンのガードに回せる人数は限られていた。 ……同時に幾つもの組織が狙って来たら、対応が難しくなるぐらいに。 今回の場合は、シンジを痛めつけたチンピラの他に重武装したテロリストが3グループも時間差で襲って来たので、充分に対応できなかったのだ。 「無知は罪…というところか。」 「それ以前の問題よ。」 既に少女から詳しい事情を聴取している為、殺された少年達への同情はカティーにもミサトにも無い。少女を多人数で脅していたこと、以前から同様の手口で強姦事件を繰り返していたことが判明したので同情する気が失せたのだ。 「ところで、シンジ君の怪我は?」 「シズクが来て治療済みだ。」 しかも、シンジに常人ならば全治3ヶ月に相当する怪我を負わせたのである。 その一点だけでも充分死刑に値する罪なのだ。……全人類の存続を危うくしたが故に。 「こんな時に限って司令と副司令が留守とはね。」 「そうだな(南極、其処に何があるのか知らんが…な)。」 噂の男達は、毒々しい赤紫色に染まった海に塩の柱が林立する、かつては南極大陸が存在した場所を航行していた。 「いかなる生命の存在も許さない死の世界、南極。……いや、地獄と言うべきかな。」 8隻の軍艦…空母1、重巡洋艦1、駆逐艦6…で構成された艦隊は、生き物どころか波一つ見えない海面を自ら掻き分け波立たせて航走して行く。 「だが、我々人類はここに立っている。生物として、生きたままだ。」 空母の飛行甲板上には、カバーが掛けられた長大な棒状のモノが多数のワイヤーで固定されて大部分を占領している。 「科学の力で守られているからな。」 それを見下ろせる場所、僚艦というかこの小艦隊の旗艦である重巡洋艦の艦橋の展望室に、ゲンドウと冬月はいた。 「科学は人の力だよ。」 暗緑色の空と赤紫色の海が一望に見渡せる、見晴らしの良い展望室に。 「その傲慢が15年前の悲劇、セカンドインパクトを引き起こしたのだ。……結果、このありさまだ。与えられた罰にしてはあまりに大き過ぎる。まさに死海そのものだよ。」 皮肉混じりに嘆息する冬月に、 「だが、原罪の汚れ無き、浄化された世界だ。」 ゲンドウが表向きというかゼーレに盗み聞きされていても良い答え方をする。 「俺は、罪にまみれても、人が生きている世界を望むよ。」 そのゲンドウの答えを聞き、冬月は思わず呟かずにはいられなかった。 自分はこういう所で呟くだけなら今更咎められるような事は無いと知ってるだけに。 そんな滑稽劇を、緊急連絡が打ち切った。 「報告します。ネルフ本部より入電。インド洋上空、衛星軌道上に、使徒、発見。」 という連絡が……。 自らに接近したサーチ衛星をATフィールドを用いた荷重攻撃で破壊し、身体の一部を切り離して落下させるという手段で爆撃する今回の使徒は、かなりの難物だった。 「たいした破壊力ね。さっすがATフィールド。」 感心混じりのミサトの台詞を 「落下のエネルギーをも利用しています。使徒そのものが爆弾みたいなものですね。」 マヤが科学的観点から補足する。 分離した小片にもATフィールドを展開して摩擦熱による欠損を防いだ結果、大型隕石に匹敵する破壊力を実現しているのだと。 「とりあえず初弾は太平洋に大外れ。で、2時間後の第2射がそこ。確実に誤差修正しているわ。」 今のところは両方とも海に落ちているが、リツコの推論でもMAGIの計算でもこの調子であと何発か落とされれば第3新東京に直撃するだろうと予測していた。 「学習してるって事か。」 そして、ミサトの勘も同じ結論に至っていた。 「N2航空爆雷も効果ありません。」 国連軍による対宙攻撃が不発に終わったと日向が報告する。 それは、ただ失敗というだけでは済まなかった。 「以後、使徒の消息は不明です。」 「ジャミングか。厄介な技を身に付けたものだ。」 青葉が結果を、カティーが手段に言及した通り、使徒が強力な電波妨害を発するようになり、光学的手段以外の観測が事実上不可能になってしまったのだ。 「それに……ったく、好き勝手放題言ってくれちゃって。人類のピンチなんだからちゃっちゃとシンジ君を打ち上げてくれても良いじゃないの。」 各国の宇宙開発センターに問い合せたら有人機の打ち上げには最短で2ヶ月はかかるとの答えを返されて愚痴るミサトに、マヤがポロッと漏らしてしまった。 「技術部で製作中のロケットならいけるんじゃないですか? ね、先輩。」 「ホントっ! さっすがリツコ。」 もうこうなっては隠せる事でもない。リツコは後輩に鋭い視線を注ぎつつ白状した。 「確かに複座型宇宙船は開発してるわ。でも、ちょっと問題があるの。」 リツコの表情に険が窺える理由は、恐らく『こんなこともあろうかと…』と言い出すタイミングを計っていたのと無関係ではあるまい。 「問題ですか? でも、シンジ君を衛星軌道上に打ち上げるだけなら充分な能力があったはずですけど……。」 その鋭い視線の意味に気付かないマヤは、自分が墓穴を掘ったのにも気付いていない。 リツコの言葉の含みに気が付いたカティーとミサトは、マヤが逃げられないよう両脇から忍び寄って両腕をガシッと固定してしまった。 「シンジ君に使徒を迎撃してもらうには、お相手も一緒に打ち上げないとね。」 目以外に満面の笑顔を浮かべたリツコの説明で、マヤは自分がどんな事態にのこのこ踏み込んでしまったのかようやく理解した。 「そ、そんな先輩……」 愕然とするマヤ。……どうやら驚きで言葉が続けられないようだ。 「赤木博士、それは……」 そのマヤ本人に代わって執り成そうとした青葉も、 「青葉君、使徒撃退はネルフの最優先事項です。それに、発案者には責任を取って貰わないと。危険な事は全部シンジ君に任せ切りでは大人の面目が立たないでしょう。」 そう真正面から正論攻撃を受けてはどうしようもない。 真面目で責任感が強いマヤなだけに、精神的に逃げ道を塞がれてしまったのだ。 「それに加えて、電波妨害で遠隔操縦ができないから、誰か技術に詳しい人間が乗って操作する必要があるわ。……シンジ君を見殺しにするんじゃなきゃね。」 尊敬する先輩に駄目押しの止めを刺され、マヤは滂沱の涙を流したのだった……。 それから僅か1時間後、 「第3射、駿河湾に落下しました!」 青葉が使徒の攻撃が今回も逸れたと告げた時、 「レイ、いいわね。」 「はい。」 ミサトの意志確認にレイが是と告げた時、 「零号機発進!」 それが作戦開始の号砲であった。 エヴァ零号機…綾波レイの巨大なる鎧にして肉体…が、摩天楼群を地下に収納して戦闘態勢に移行した第3新東京市に姿を現す。 「第5特殊リフト、スタンバイ!」 「地上迎撃班は作戦通りロケットの護衛だ。猫の子1匹通すな!」 念の為に第3新東京の各所に配され、使徒からの攻撃に備えていた面々…アスカ、ハルナ、ヒカリ、マナ、スズネ、コトネ…がそのまま零号機とロケットを守る位置へと移動する。……人間を守る為の戦いに赴く戦士達を、同じ人間から攻撃されるのに備えて守らなければならないというのは皮肉であったが。 そうして可能な限りの安全を確保してから、 「第5特殊リフト、リフトアップ!」 科学が生み出した白き尖塔を地上へと送り出す。 「エヴァ零号機、第5特殊リフト横に移動。」 全員が固唾を飲んで見守る中、エルトリウムと名付けられていたロケットは、ゆっくりとその勇姿を地上に現した。 「レイ、金具を持ったらATフィールドでロケット全体を保護して。でなければ射出前に崩壊してしまうわ。」 「了解。」 ロケットの中ほどに取って付けたように付いてる取っ手を持ったレイは、即座に赤いATフィールドでロケットを包む。 「シンジ君、マヤ…覚悟は良い?」 プラグスーツ姿のシンジとマヤが画面に呼び出されると、涙を滲ませ座席に固定されたマヤがそれでも首を縦に振る。 「良いも何も……これをしなきゃ凄い被害が出るんでしょ……やりますよ。」 「そう。じゃ、しっかり口を閉じててね。舌、噛むから。」 ミサトが言葉を切るのと入れ替わる様に、リツコがレイに指示を飛ばす。 「レイ、シミュレーターでの訓練通りで良いわ。軌道誤差に気を付けて。」 「了解。」 答えたレイは…零号機は、自分の身長と同じぐらい…若干高いぐらい…の全長を持つロケットを、あろう事か持ち上げ、両腕で身体と並行になるよう構えた。 膝を曲げ、バネを溜める。 「零号機、投擲体勢!」 その姿勢は、槍投げに酷似していた。 「使徒の予測軌道出ます! フライトコントロールデータ、零号機並びにエルトリウムに送信完了!」 真剣に、厳しい表情になるレイ。 今、彼女にマヤだけではなく愛しいシンジの命も委ねられているのだ。 「カウントダウン開始します。10……9……8……7……6…」 ゆっくりと零号機の右腕が後ろに引かれていく。 ロケット側のアシストパワーユニットが起動し、有線で繋がっていた電力や通信などのケーブルが切り離される。 「…5……4……3……2……1……」 添えていた左手が槍…いや、ロケットから離れる。 そして、 「発進!!」 ミサトの号令と同時に、レイは身体の捻りを利してロケットを投げ上げた。 ATフィールドで保護したままで…… 「第1段ロケット自動点火確認!」 「エルトリウムは既に秒速7qに達しています!」 青葉の報告に多くのスタッフは耳を疑う。 もう少し加速すれば優に軌道投入できるほどの速度で投擲してしまったのだから。瞬間的にかかった荷重は10Gや20Gでは利かないだろう。……普通なら。 「良く壊れませんね……」 科学的常識に照らし合せて耳を疑っていた中の一人、日向の呟きに、 「ATフィールドの力ね。恐らく異相空間で摩擦と慣性に干渉しているんだわ。」 リツコが冷静に科学的な推測を述べる。 ただ、理論的には不可能ではないと見当をつけていた人間でも、いざ現実にこの方式での打ち上げを目の当たりにした時のインパクトはかなり大きいようだが。 「観測データの収集と解析、急いで!」 協力体制にある世界各地の天文台で光学観測を行ったデータを有線通信回線で送って貰い、MAGIで解析して使徒と宇宙船“エルトリウム”の軌道を割り出す。 使徒の強力なジャミング下では、軌道を一周して来てレーザー通信回線が設定できるようにならなければ、エルトリウムが本当に無事かどうかすらも確かめる術が無い。 だからこそ、今は誰もが無駄口を叩かずに自分の為すべき仕事を片付けていた。 ぬか喜びをしている暇も、心配に浸る余裕も、彼等には残されていないのだから……。 あのレバーを…緊急脱出レバーを引けば、この状況から逃れられる。 レバーを引きさえすれば緊急脱出用ロケットがオービターを地上に連れ帰ってくれる。 そうしたら貞操をシンジ君に捧げなくて済む。 ……でも……そうしたら……たくさん被害が出る。 今回の使徒の攻撃方法からすると、被害が第3新東京市だけに留まるとは考え難い。 今のところ3発とも海上に逸れているが、次こそは地上に落ちるかもしれない。 しかも、着弾地点が判明してからでは避難は手遅れな上、何処へ避難すれば安全なのか事前に分からないのだ。 故に被害を防ぐには早急に使徒を殲滅するしか手が無く、ロケットの故障でも無いのに脱出レバーを引いたならば、この使徒がこの先殺した人は自分が殺したも同じになる。 ……だから、手が動かない。 随分長い間躊躇っていたように思えたけど、ロケットの打ち上げの行程を考えればほんの数分間に過ぎない時間が過ぎ、機体を震わせる小さな爆発が緊急脱出用ロケットが自動操作で分離された事を知らせてくれる。 ……逃げる手段は、もう…無い。 それと同時に今まで存在を忘れていた慣性が戻って来て私の身体を座席に押しつけ、肺の中の空気を無理矢理押し出す。全体の輪郭が崩れたせいで、今までロケットを外界と隔離して保護していたATフィールドの異相空間が破れたのだろう。 「くふっ。」 呻くと同時に、もう一つだけ逃げる手が残されているのを思いつく。 けど…… 「大丈夫ですか、伊吹さん。」 それまで静かに隣の席でお客さんに徹していたシンジ君が心配そうな声をかけてくれた瞬間、それを使う気が何処かにお出かけしてしまった。 「大丈夫、任せて。」 横目でちらりと見たらシンジ君も平気そうには見えない。それでも弱音を吐くより先に気遣ってくれた事に何となく胸の中が温かくなる。 「はい。」 今回の作戦では宇宙飛行のセオリーを無視して、取り敢えず高度200qのパーキング軌道とも呼ばれる低高度で円形の衛星軌道に乗せてから何日間かかけて慎重に軌道変更するのではなく、いきなり目標軌道まで上昇するなどという理論限界に挑戦するかの如き真似をしているので、とてもじゃないが悠長にしている暇は無い。 備えつけの操縦桿に似たポインティングデバイスを動かして、さっそく軌道要素の点検にかかる。 ……もう少しGが軽ければキーボードが使えるんだけど。 幾らレイと零号機でも一分の狂い無く投擲することなど出来る訳も無く、予定していた進路に戻すべくメインブースターが自動操縦システムの指示通りに奮闘している。 ……どうやら手出ししなくても大丈夫みたいね。 天体位置を光学観測する事による進路の自動補正などと言う稀有な芸をこなし続けている機載コンピュータ…実はパペットに搭載されているのと同型…には何の異常も無く、軌道のズレはメインブースターが自動操縦で普通に補正できる範囲内に収まっている。 これは非常に幸運だった。 何せ、使徒の持つ非常識な──いや、現代宇宙技術の水準からすると桁外れの軌道変更能力を考慮すると、次の1周の軌道要素ぐらいしか予測できなかったのだ。 一度で目標の軌道に乗せられる見込みがないなら、寧ろ最初からロケット打ち上げ作戦なんかやらない方がマシな状況だったのだから……。 ……そろそろね。 ガクンッ 機械の見えざる手によって縦横無尽の大活躍を見せたメインブースターが切り離されると、宇宙船エルトリウム号の中は静寂が支配する無重力の世界となった。 高度500q、目標の予測軌道にまで到達したのだ。 「シンジ君、ATフィールド、お願いできるかな?」 「あ、はい。」 シンジ君はLCL錠剤を口に含んだけど、何か起こったようには見えない。 ……もっとも、シンジ君のATフィールドが目視できるほどの強度で展開される事は滅多に無いみたいだけど。 「次、其処のレバー引いて。」 作戦直前に丸暗記した作戦要綱を思い出して指示したら、 「はい。」 シンジ君は素直に言われた通りのレバーを引いてくれる。すると、宇宙船後部に接続してあるユニットの上下左右からたくさんの水滴と化したLCLが少しずつ噴出する。 後は待つだけ…… そう思っていると、シンジ君の方から話しかけてきてくれた。 「マヤさん、もし嫌ならここで帰っても良いですよ。……後ろのLCL散布ユニットを分離してくれれば、後は僕が何とかしますから。」 もしかして、迷ってたの見透かされちゃったかな。 「でも、それだとシンジ君はどうするの? 地上に帰れないんじゃ?」 「使徒に何とかして貰います。作戦通り僕に気付いてくれれば、殺さないでいてくれると思いますし。」 それは盲点だったわ。 ……正直、不確定要素が多過ぎるとは思うけど。 「ところで、何でそういう事訊くの?」 私が嫌そうにしてたから? それとも、私が嫌だから? 何となく背中に冷水を浴びせられた感じ。 両腕で自分を抱え込んでうずくまりたくなるぐらい嫌な気分。 頭がガンガンとナニかに叩かれているみたい……。 「仕方ないとか、他に方法が無いとか、そんな選択はさせたくないんです。……僕が、そうだったから。」 でも、ちょっと困ったような透明感のある微笑みを向けられて、さっきまで感じていた寒さは一気に氷解し、不快感は全部綺麗さっぱり拭い去られた。 代わりに身体の芯からポカポカ温かくなってくる気がする。 「ありがとう。でも、この船もあった方が良いでしょ。使徒が必ず見つけてくれると限らないんだし……ね。」 ……シンジ君になら、良いかも。 「ありがとう、マヤさん。」 シンジ君のはにかみ混じりの満面の笑みを至近距離で見せられ、私の意識は押し寄せる気持ち良さで恍惚としてしまって一瞬途切れた。 ……やだ、もう湿ってきちゃってる。 今すぐシートベルトを外してシンジ君の胸にしなだれかかりたい誘惑を使命感と責任感を総動員して何とか耐え忍びながら、私はコンソールパネルの中からキーボードを出して次の作業の準備に取りかかったのだった……。 その手順も5分とかからず終了し、私達はいよいよ宇宙遊泳を開始した。 使徒が来た時に船を壊されない用心なんだけど、そのおかげで地球が肉眼で眺められるのだから少し楽しみ。 「シンジ君、準備は良い?」 宇宙服のヘルメットに仕込まれている短距離用の無線からは、返事じゃなくて雑音だけが返って来た。 ……使徒のジャミングってこんな距離の通信にも効くんだ。 使徒の力を甘く見ていたのを反省しつつ、私はシートベルトを外して身を乗り出し、ヘルメットのバイザーをシンジ君のと接触させた。 ……無重力だし、狭いしで、結構苦労したのは秘密。 「シンジ君、準備は良い?」 そうしてから改めて訊ねると同時に、自分でもシンジ君の装備をチェックする。 シートに埋め込まれていたバックパック…2時間分の空気と電力が入ってる…は装着してあるし、ヘルメットの気密にも問題は無いようだ。バイザーも勿論閉まってる。 「はい、大丈夫みたいです。」 大事な事だが、命綱もちゃんと結んであるようだ。 「通信機の設定を有線モードにして。」 シンジ君に言いながら、自分もヘルメット内蔵の通信機の設定を有線モードにする。 「はい。」 ちなみに、通信ケーブルは命綱に編み込んであり、改めて繋ぎ直す心配は無い。 「じゃあ、そろそろ空気を抜くわ。全部抜けたら外に出るわよ。」 自席に戻り、安全タグを引き抜いてハンドルを回すと気圧計の針が下降線を辿る。 それにつれて室内が断熱冷却でひんやりと冷えてきた。 空気を抜いてる間に残りの装備を再確認する。 命綱が切れた時なんかの非常時に噴射して移動する為のジェットガンと、照明や発光信号などに使うライト、スーツの気密が破れた時の為の応急修理シールと接着剤である。 ……全部大丈夫みたい。 気圧計が数分かけて0を指したのを確認して、私は宇宙船の回転を半自動モード…コンピュータの補助付きの手動操縦…で噴射して止める。 ……失敗して何度か小刻みに噴射し直したのは秘密。 それからハッチを開け、私は船の外へと身を乗り出した。 狭く心細いながらも人間の生存条件を辛うじて確保してくれるカプセルから、人間が生きていくには余りに過酷な真空の外界へと。 「うわぁ……」 そうしたら、眼前の光景に目を奪われてしまった。 星が…星の群れが……いっぱい………というか、星の海って…こんな眺めのことを言うんだ……。 「マヤさん、どうかしたんですか?」 しばらく絶句してたら、ヘルメット内のスピーカーがシンジ君の心配そうな声を伝えてきた。 「星が綺麗で……ごめんね、今出るから。」 ……自分だけ見とれてたらシンジ君に悪いものね。早く避けてシンジ君にも見せてあげないと。 宇宙船の外壁伝いに外に出る。 船体表面の突起物を頼りに、今にも虚空に漂いだしそうな自分の身体を出入り口から何とか退かせると、後を追ってシンジ君もハッチから顔を出した。 「凄っ……」 私が見たものをシンジ君も見て同じ様に絶句したのが何となく嬉しい。 銀河、星々の大河…… ふと見ると、シンジ君は何時の間にか正面じゃない方を……左下の方を見てる。 いったい何を見て…… でも、直ぐに理解できた。 ……地球って、本当に青かったのね。 写真じゃ分からない迫力というか存在感が、私の心を揺さぶる。 「エルトリウム、応答して! シンジ君! マヤ! 返事して!」 呆然と見惚れていた私……恐らくシンジ君も……を我に返らせたのは、鼓膜を震わす切迫した叫びだった。 ……幾ら身体を支えるのにほとんど力を入れなくて良い場所だとはいえ、良く手を離さずにいられたわね。 「ミサトさん……」 船本体に積んであるレーザー通信装置を介して地上から届けられた声に、シンジ君が思わず声を漏らす。 「こちら宇宙船エルトリウム。乗員2名は無事。予定通り作戦を遂行中です。」 簡潔にまとめた状況報告の返事は、やはり簡潔なものだった。 「そちらと使徒の進路は予定通りよ。何かあったら連絡するわね。」 通信は其処で途切れた。けど、どうせ聴かれているんだろうな……と思うと、胸の中でわだかまってるモヤモヤが咽喉につかえて出て来なくなる。いざ自分がされる側になったら、恥ずかしいというか居たたまれない気持ちになるんだと、ようやく実感できた。 ……シンジ君って、こんな状況の中戦ってきたのね。 「使徒、増速! 予測軌道上を3倍のスピードで進行中!」 ……どうやら、物思いもゆっくりとさせて貰えないみたいね。 「使徒、爆撃予測地点を通過! 投下物、確認できません!」 日向さんの声が作戦目的の一つが達成できた事を教えてくれる。 「しっかりね、二人とも。」 そう励まされた時、私達の両の目は、愉快と言うか奇妙と言うか作り主の感性を疑う物体を目にしたのだった……。 「これが……使徒……なんですか?」 呆気にとられてるようなシンジ君の声。うん、何となく分かる。 「ええ。そうみたい。」 どんどんどんどん大きくなる使徒が近くまで来たかな〜と見えた時、私は突起を蹴って船尾の方……使徒がいる方……に飛び出した。 「マヤさん!」 シンジ君が慌てて半身だけ乗り出していたハッチから出て来る。 ああ、そんなに慌てると……案の定、虚空でキリキリ舞いしちゃってる。 訓練内容に無重力下での運動についての項目は無かったから無理も無いけど。 「ごめんね、後で必ず助けるから。」 それは私も同じで、ああなったシンジ君を助けるのは私にもできない。 もっとハッキリ言うと、私自身も命綱を手繰らないと船に帰り着く自信なんて無い。 横から見ると薄っぺらい使徒の手みたいな部分が私の方に伸びて来た時、覚悟はできてた筈なのに怖くなって目を閉じた。 ……何、ナニ、この感じ ……例えて言うなら、粘液質の何かが全身の毛穴やもろもろの穴から入って来る感じ ……打ち上げ前に施された浣腸にも似てる気がする感じ ……ヤダ、こんなの ……でも、何故か ……凄く気持ち良い ……ああ、そうか ……シンジ君のATフィールド、使徒が融けてきてるから効能が増してるんだわ ……段々、混ざるのが嫌じゃなくなってくる ……気持ちが良くなってくる ……離れててもこんなに温かくて気持ち良いなら、直接触れてみたらどうなるだろう 自分のか使徒のかもう分からない衝動に素直になってキリキリ舞いしているシンジ君に近付くと、そのまま抱き付いた。 「マヤさん、ありがとう。」 凄く暖かい波動。 とても綺麗な魂の音色。 穏やかで優しい心の領域。 そんなシンジ君のATフィールドに包まれているのをハッキリ感じ取れるようになった時、私の身体の内側から何か熱いものが噴き出して股間を濡らすのを感じた。 プラグスーツは緊縮性があり気体は通さないが液体は通す。まさに宇宙服の為にあるような素材でできているが、その必要性から普通の宇宙服になら用意されている股間の採尿装置は無く、代わりに非常に伸縮性が高くなるよう生地を調整してある。 着たままでもできるように……ってね。 だから、濡らしちゃったりなんかしたら真空に晒されてるせいで途端に蒸発して、その気化熱で凍傷になるんじゃないかと心配したんだけど……どうやら、その心配は無いようね。これもATフィールドのおかげかしら。 ……それにしても、星空の下で抱き締められるってのはロマンチックで素敵だけど、キスが後回しってのは残念だわ。 「マヤさん、良い?」 絶え間無く悦びに震え、喘ぎ声しか出せなくなってる咽喉の代わりに小さく肯くと、シンジ君は私の背中に回してた手を滑らせてお尻を撫でてきた。 腕に込められた力も増し、小刻みに身体を擦り合わせて前の方も刺激してくる。 特に私の胸の辺りとか、逞しい膨らみが押しつけられてるところとか。 ……嘘っ、まだ気持ち良くなるの!? シンジ君のスーツとの間にびちゃびちゃする液体が溜まり、一部が水滴になって飛び散るのを待ってたように、シンジ君が腰を一度離し……密着させた。 特殊布越しに、私の中に突き入れてきたのだ。 ……不潔、と言う暇も無かった。 痛い? いえ、気持ち良い! 私の理性も今までの常識も全部、圧倒的な快感に押し流されて消えていく。 シンジ君に、 好きになった男の人に愛して貰うのがこんなに素敵な事だったなんて……。 シンジ君が傍にいてくれるなら、他には何もいらない。 そう強く確信した時、私の意識は光に溶けていったのだった……。 『あれ、おかしいな。手応えはあったと思ったんだけど……。』 いつもなら聞こえて来る使徒殲滅の知らせが一向に来ないのをいぶかしみながら、シンジはマヤの肢体に更なる悦楽を注ぎ込むべく気合を入れ直す。 無重力だし、空気は無いし、お互いヘルメットを被ったままだし、腰にロープを繋いでるしで、やり難い事は確かだけど、それでもやれる事は色々ある。 そんな彼が、マヤがジャミングを切り忘れたせいで使徒確認用のセンサーも長距離用の通信機も使えなかっただけで使徒殲滅はとっくに終わっていたと知るのは、ミサトとリツコに師事し、数多の実戦で鍛え上げた技術の粋を縦横に駆使してマヤをメロメロになるまで散々玩弄した挙句のことであった……。 シンジが衛星軌道上でサハクィエルと激戦を繰り広げている頃、地上ではもう一つの戦いが続いていた。 「第3新東京に居るネルフに所属していない戦略自衛隊員に最優先の出頭命令! 期限は10分! 並びにそれ以外の人間に改めて避難勧告!」 発令所全体に響き渡るミサトの指令に、 「はいっ!」 日向以下のオペレータが、市内各所に設置されたスピーカーから避難勧告と出頭命令をジオフロント内を含む第3新東京全域に放送する。 「保安部に連絡。第2、第4、第6中隊は拠点制圧戦準備。第1、第3、第5中隊は引き続きシェルターの警護を宜しくと伝えてくれ。」 ちなみに、ネルフ保安部の一個中隊は戦自の普通科の編成と同じくおよそ200名で構成されている。つまり、3個中隊とは戦自からの移籍組の半分という意味であった。 「了解!」 普段ならマヤの座る席に着いて市内各所の兵装ビルの用意をしながら出したカティーの指示を受け、青葉が市内各方面に展開している部隊への通達を始める。 「リツコ、テロリストの拠点……特定できた?」 ミサトの求めに応じてスクリーンに映し出された市内の地図に、赤い点が51箇所表示される。 「ええ、予測の8割ほどは特定できてるわ。後の場所は敵の出方次第ね。」 其処が、テロリストの拠点…根城や武器庫などであるのだ。 よくもまあ、これだけ大量のテロリストが入国できたものである。……日本政府の作為と言うか黙認が無ければ、とても無理だろう。 「上手く燻り出されてくれれば良いけど……」 「それは望み薄ね。皆無じゃないかもしれないけど。」 用心深いスパイやテロリストなら息を潜めて潜伏する事も、MAGIや監視の目を逃れてアジトを移す事もできると仮定しておいた方が後の対処がし易くなる。 「ならば、敵を減らす算段をするべきだな。」 其処に横合いからカティーが口を挟んで来た。 「何か、手……あるの?」 「今まで“処理”してきた連中のおよそ70%が宗教関連の狂信者だ。なら、上を味方につければ良い。」 「なるほど…ね。」 「でも、当座の役には立たないわね。まずは厄介者に退場してもらいましょ。」 「そうだな。部隊の配置、兵装ビルの準備、完了してるぞ。」 おまけに使徒戦の最中なので民間人の避難は終了しており、予め拉致されて人質にでもされてない限りは無関係な人間の人命が危険に晒される恐れは無い。 「ありがと。……正直、普通科の部隊だけじゃなくて機甲科とか爆撃機隊とかも欲しいとこだけど……この際、贅沢言ってられないわね。」 もっとも、機甲科…戦車部隊にまで出張って来られては、テロリストの側がやってられない気分になるだろうが。 「あなた達が居るだけでも充分贅沢よ。」 ただ、リツコには、ミサトの希望は本当に贅沢だと聞こえ、溜息を吐いた。 何せ、使徒能力者の戦力は一人で戦車師団を凌駕すると見なされるのだから……。 「じゃあ、私も出るからここの指揮お願いね。」 ちなみに、ミサトの他にマナとスズネも掃討作戦には参加する事になっており、さぞかし馬鹿者どもに絶望の苦杯を舐めさせるだろうと期待されていた。 「任された。」 その遣り取りの3時間後、予め発見されていたテロリストのアジトは、兵装ビルからの的確で苛烈な砲撃と、ライフル弾を防ぐ事ができる戦闘服と防盾を装備した精鋭部隊による強硬突入で完全に壊滅させられ、ネルフ保安部は声高らかに凱歌を挙げた。 しかし、それでもなお、市内各所にしぶとく隠れ潜む連中は当初の予測通り多数存在していたのである。 「ふつつかものですが、末永くよろしくお願いしますね、シンジ君。」 船内に戻り、空気バルブを捻り、気圧が1に戻るや否や遮光バイザーを開けて新鮮な空気を堪能した直後に発せられたマヤの台詞に、シンジは一瞬動きを凍らせた。 だが、直ぐに満面の笑顔になる。 「こちらこそよろしく、マヤさん。」 そのまま二人の唇は吸い寄せられるように近付き…… ……触れ合う直前で硬質な音がして阻まれた。 二人が被っているヘルメットのせいで。 『邪魔よ、この無粋なヘルメット! こんなもの誰が作ったのよ! ……私だったわ。』 腹立ちを技術屋に思い切りぶつけようとしたが、実はこのヘルメットは自分が設計したものだったと思い出して落ち込むマヤ。 余程に腹立たしかったのだろう。落胆も、また激しかった。 しかし、 「キスは地上に戻ってからで良いかな?」 困ったようなシンジの微笑み一つでマヤの機嫌はあっさりと回復した。 「ええ。」 しかし、マヤはキスだけでは済まないだろうとまでは気付いていなかった。 ……もっとも、気付いていたら喜ぶような女へと変えられてしまっていたのだが。 「ところでシンジ君、今回の作戦で出たデブリ(宇宙のゴミ)、回収していきたいんだけど、良い?」 逸る心を抑えて言い出した事は、生真面目なマヤに似合う律儀な内容だった。 「あ、はい。良いですよ。」 マヤは自らのATフィールドを船の周囲に展開して、凍ったLCLや人工衛星の破片などを回収して大気圏で燃え尽きる様に投げ落とすという清掃活動を軌道2周分行った。 そうした後、宇宙船エルトリウム号は青く輝く惑星へと帰っていったのだった。 シンジとマヤの二人を乗せて……。 照明が消されて真っ暗な、とある重巡洋艦の一室。 その部屋の中を僅かに照らす老人達のほのかに光る姿が、会議の卓を囲むようにして下座に位置する2人の男と相対していた。 「まずは、ご苦労……と言っておこう。」 議長席に座るキールがねぎらいらしき言葉で口火を切ると、 「しかし、暗号変換しているとはいえ、無線通信で我等を呼び出すとは…血迷ったか?」 「まさか、なすべき事も解らぬほど耄碌したのではあるまいな。」 「我々とて暇では無いのだ。下らぬ用事で呼びつけたのなら、ただでは済まさぬぞ。」 他の委員から早速に罵声が矢継ぎ早に飛び交う。 その全てを向けられたゲンドウは、視線を隠すサングラスの威力を借りて鉄面皮の薄笑いで跳ね返した。そして…… 「最近、エヴァ・チルドレンを暗殺しようとする動きが活発になってきております。」 小うるさい虫の羽音など意に介さないとでも言いたげに自分の主張を語り出した。 「調査を行った結果、その半数以上がキリスト教系の組織……つまりは、我々の事を神に逆らう凶賊と見なしているらしいのです。」 「それが、どうしたのかね。」 回りくどい言い方に、委員の一人が不快感を露わにした。 が、 「あの怪生物を、あなたがたが『使徒』……“Angel”と呼称し、個々に天使と呼ばれるモノの名を付けているのが彼等…キリスト教徒の強硬派が敵対してくる原因だと思われます。」 そう言った途端、委員会の全員が不愉快さを全開にしてゲンドウを睨む。 「碇、我々のせい……だと言うつもりか?」 ついでに、ゲンドウの左後方に立っている冬月も睨まれる。 「いえ、誤解が生じていると言いたいのです。あの怪生物は地球上で進化したものとは考えられず、従って宇宙…天より降り来たりしモノ……つまりは、天より使わされたモノという意味で『使徒』と名付けたと言う我々の意図が彼等には伝わっていないのでは無いかと愚考致しておるのですよ。」 矛盾が起きぬ程度に都合の良さそうな事を述べるゲンドウの詭弁に、 「何を言う碇! 我々はう…」 委員の一人が激昂して口を滑らせかけるが、 「待て! 碇の言う事は間違ってない!」 キール議長が慌てて遮った。 盗聴される危険が高い無線通信で彼らの秘事…裏死海文書の存在…を口外してしまうのは危険過ぎるのだ。どんな暗号でさえも完璧だと言い切ることはできないが故に。 「それで、結局何が言いたいのだ。」 「まさか、我等を非難する為だけの目的で呼び出した訳ではあるまい。」 事情を察してか、ゲンドウの主張を変えさせようと言う論調は鳴りを潜めたが、それでも委員達の不快感は治まらない。いや、寧ろ大幅に増している。 「あなたがたの方から宗教界に働きかけて戴きたいのですよ。アレらが人間を滅ぼそうとする悪魔だと……ね。」 「そういうのはキサマの役目では無いか!」 「私も冬月も既にそちらも御存知の事情でしばらく身動きが取れません。ただ、この問題は早いうちに対応しておいた方がコストも少なくて済みます。」 「結局は金勘定か! これだから東洋のサルどもは度し難い。」 「金も時間も、節約できる所は節約した方が互いの為かと。それに、万一にもエヴァ・チルドレンが害される事があっては……。」 「よかろう。」 遂に、キールが妥協を決した。 ここでゲンドウの要請に首肯せず様々なものを犠牲にする事は、彼等の“計画”の遂行にとって得策では無い……いや、下手をすれば“計画”そのものが破綻しかねないと気付かされてしまったのだ。 「碇、この貸し……安くは無いぞ。」 僅かにゲンドウが頷いたのを確認したキールは、 「では、後は委員会の仕事だ。」 いつもの台詞で些か変則的な会議を締めくくり、急ごしらえの議場から姿を消した。 立体映像で投影された自分達の姿を。 この会議の3日後、全世界に存在するほとんど全てに近い宗教が、『使徒』の事を“悪魔”“堕天使”“天魔仏敵”“厄神”等々……とにかく、神に逆らい人を滅ぼそうとする邪悪の使者であると発表した。 特にキリスト教徒に対しては、使徒各個体に付けられた名称は『キリスト教の宗教会議で堕天使であると認定されている』ものを使っていると故事来歴を引っ張り出して主張した事もあって、当初に予想されていたよりも遥かに少ない混乱で『使徒』が堕天使であると受け入れられた。……今までに襲来してきた『使徒』と呼ばれているモノの姿形が、世間様一般に流布している天使像から大きく掛け離れていたことも幸いしたのであろうか。 とにかく、この宗教令の一斉発布を機に、第3新東京市における狂信的な破滅主義者の活動は、その勢いを大幅に減じてゆく事になったのだった……。 福音という名の魔薬 第拾伍話 終幕 今回はいつもよりもかな〜り短めです。……それでも、このサイズ(苦笑)。 宇宙飛行は着陸(着水?)するまでだという気分も確かにあるのですが、マヤが使徒能力を身につけたからには波乱が起きそうも無いので省略しました。耐熱タイルが剥がれてようが、推進剤が尽きてようが、果てはカプセル捨てて生身で大気圏突入しようが、全部あっさり処理されるんじゃ山場の作りようが無いですしね。 ではでは、そろそろ今回のスペシャル・サンクス・コーナー。 峯田太郎さん、きのとはじめさん、【ラグナロック】さん、道化師さん、闇乃棄黒夜さん、老幻さん、様々な御意見と見直しへの御協力まことに有難うございました。 ☆突発薬エヴァ豆知識 当時のローマ教皇ザカリアスのもとで行なわれた745年の宗教会議において、聖書によって正当な地位を与えられたミカエル、ガブリエル、ラファエルを除いた天使は尽く堕天の烙印を押されたそうです。いや、マジで(苦笑)。 |
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