福音という名の魔薬
第弐拾四話「敵なるは誰ぞ」 煌びやかで広大な邸宅の一室。 落ち着いた調度が揃えられた応接室に、中年男達と老人達が集まり角突き合せていた。 「何度も言うようだが、使徒は我々人類共通の脅威である! だから、我々にも使徒撃退を行えるよう、あなた方にも協力していただきたい!」 その面々が着席している長卓の上座に座る癖っ毛の男が、最も下座に座らされているサングラスをかけたままの顎鬚の男に演説調で訴えかける。 「ならば、まずは頻発するテロリストの侵入を阻止していただきたいものですな。」 しかし、断片的な情報しか与えられてない一般民衆には効果絶大な言葉も、特務機関ネルフに君臨するゲンドウには通用しなかった。 「それなら第3新東京市周辺の統帥権を返上したまえ。権限も無いのに規制するなんて無理を言われても困るな。日本は法治国家なのだから。」 ただ、鯉墨首相も負けてはいない。 即座に自分に都合の良くなるよう要求を出してくるが、ゲンドウはサングラスの助けを借りた鉄面皮で冷静に跳ね返す。 「その割には我々の与り知らない戦自隊員や政府関係者が随分と第3に来られているようですな。彼らの応対に割いている手間が省ければ、こちらも随分と助かるのですが。」 首相のモノのみならず、応接室に集まっている大臣病患者達……鯉墨政権の閣僚達の敵意に満ちた視線の束を物ともせずに放たれた言葉の矢で、座が一瞬シンと静まり返る。 「証拠はあるのかね!?」 痛いところを突かれたのを絶叫調で誤魔化し、詰問する鯉墨首相。 「同行を願った方々に身分を明かしていただいてます。何度も照会したはずですが?」 それを、ゲンドウはあっさり受け流す。 「それは全部テロリストの嘘だと何度も説明してるだろう! 分からん人だなぁ。」 しかし、鯉墨首相は自分、もしくは自分の部下が送り込んだスパイをあっさりと見捨てる発言を言い切った。 血も涙も無く、責任を取らされるのを忌避して。 まあ、捕まったスパイが見捨てられるのは世の常だから、さして酷いと言う事も無いとも言えるのだが。 「それに、テロリストが持ち込んでいる武器も問題ですな。日本どころか、銃社会のアメリカでさえ所持が制限されている銃器が幾つも押収されてます。……まずは武器の流入をきちんと規制していただくのが先決かと。」 だから、その点で深く突っ込むのは避け、銃刀法という日本の国内法の実施が不徹底である点について皮肉り気味に要望を出す。 「それはこちらも努力している。それより、そちらの技術協力体制についてはどうなっているんだね。要求をするだけして、そちらからは何も出さないなんて馬鹿な話を聞くとでも思ってるのかね。」 一瞬言葉に詰まった鯉墨首相だが、手元にある役人作成のアンチョコに目をやって、すぐさま体勢を立て直す。 ちなみに、日本政府が行なっている努力は、第3新東京市“から”持ち出される武器の摘発であって、流入する武器については黙認状態だったりするのではあるが。 「エヴァ・パペットについてはドイツ支部から、プラグスーツについてはアメリカ支部から基礎データの提供を受けている筈ですな? 本部基地で使用されている兵器群については主に既存の物を使用していますし、新規に設計したものについては既にそちらも御存知の筈です。これ以上付け加えるべき事があるとは思えませんな。」 が、ゲンドウは事実でもって迎撃し、付け入る隙を与えない。 当然ながら第1級の秘匿兵器の存在は口に出さないし、本部で実際に使用している兵器と提供されたデータの性能に大きな開きがあるのにも触れはしないが。 「あの“エヴァンゲリオン”についてはどうなんだね!?」 「それには人類補完委員会の許可が必要です。私の一存では、とても……。」 更に語気荒く迫る首相の要求を、ゲンドウは一刀両断で跳ねつける。 国家がエヴァを保有する事にゼーレが良い顔をしない事が分かっているから、自信満々で拒絶しても大丈夫だと見切っているのだ。 ゼーレの犬に過ぎない鯉墨首相に押し切る度胸も矜持も無いだろうし、万一そう出たなら、それを理由にゼーレに排除を要請する事すら可能である。 「ぐっ……。」 案の定、断腸の面持ちで深追いを断念した鯉墨首相であるが、こちらもただで起きるほど可愛い男でも無い。 「では、それ以外の兵器なら提供していただくのに問題はありませんな?」 いざ実力行使となれば容易には対抗し難い戦力であるエヴァ・パペットに対抗できる戦力を、他ならぬネルフ本部に建造させようと言うのである。 しばし目を閉じて黙考したゲンドウの答えは…… 「充分な代金と部品供給が確保できるのであれば、前向きに検討致しましょう。使徒迎撃に支障が出ない範囲でよろしければ。」 その申し出を奇貨として、補給などの安全を確保する作戦であった。 これで後々に起こるであろう武力衝突では多少苦しくなるが、補給線が断ち切られたままにだったり、支援企業などに圧力や攻撃がかけられるよりはマシだと判断したのだ。 「賢明なご英断、感服しました。」 内心どう思っているのかは知れないが、見た目には素直な感情の発露に見えるかもしれない表情で頭を下げた鯉墨首相にゲンドウは鷹揚に頷き返す。 「問題無い。我らが協力するのは人類の利益になりますからな。」 真の事情を知る者には凄まじく皮肉な意味にも取れる言葉だが、字義通り素直に受け取れば快く協力を約する台詞を口にしながら。 「では、さっそく本部に持ち帰って計画を進めさせていただきます。よろしいですな?」 「いえいえ。ここの設備をお貸ししますから、どうぞゆっくりなさって行って下さい。歓迎のパーティーの一つも開いてはおりませぬし。」 話が穏便に済んだ気配を察して、とっとと引き上げようとしたゲンドウを留めようとする鯉墨首相ではあるが、 「早急に各部署の調整を行なわねば、あなた方にお売りするパペットの建造が大幅に遅れますので。……それに、私は人に仇なす使徒が二度と出現しなくなるまで祝宴の類は控えております。」 こうまで言われては、彼ですら無理に引き止める事はできなかった。 勿論、ゲンドウの両脇を固めてる警護官に命ずれば身柄は拘束できるだろうが、それではせっかく取りつけたエヴァ・パペットの売買の約束が反故になってしまう。 「そうですか。では、今後の緊密な協力を願ってますよ。」 言外に約束を反故にしたらただじゃ置かないぞと言いつつ、それでも表面上はにこやかに退出するゲンドウを送り出す首相と、鉄面皮を遂に崩さず自力で窮地を脱したゲンドウのどちらが今回の交渉の勝者であるかは分からなかった。 ただ、後でパペットの建造費が“実費”で1機12兆円だと聞かされた鯉墨首相の顔がとんでもなくしかめられ、口をひょっとこの如く尖らせた事だけは確かであった。 「カ、カ、カ、カ、カスミさん。帰りにゲ、ゲームセンターにでも寄りませんか?」 可哀想なぐらいコチコチに固まったケンスケが、薄っぺらい通学鞄を肩に担ぐような感じで持ったカスミを呼び止めると、 「ああ、ええで。今日は別な用事があらへんからな。」 黒髪をふわっとたなびかせて振り向いたカスミは、いとも気安く誘いをOKした。 『い、いやった〜! きょ、今日はどうしようかな?』 内心ガッツポーズを作って快哉を上げるケンスケだが、実はこれが始めてOKを貰ったと言う訳では無い。 以前助けられたお礼にと食事に奢ったのを皮切りにして、遊びに誘ってもあまり断られないようになってはいた。 しかし、遊園地や動物園や映画みたいなモロにデートコースっぽい場所に行くのは『ワイの趣味やない。』とにべもなく断られていたし、さりげなく手を繋ごうとしても絶妙に間を外されて果たせずにいた。 「じゃ、じゃあ、はりきって行きましょう!」 とは言え、未だはっきりと断られた訳では無いと気を取り直し、薔薇色の幸せな夢に浸るケンスケであった。 黒雲が月光を隠したぬばたまの闇夜。 「どうやら碇は解放されたようだな。」 更に深い闇を孕んだ古城の地下にある石室に、 「引き換えにパペット3機の提供を約束させるとは、あの男もなかなかやるものだな。」 12個の黒い石の姿をした微かな光が言の葉を交していた。 「だが、やつらが作った人形など児戯に過ぎん。御使いの力を得し者達が出てくれば、ひとたまりもあるまい。」 「我らのエヴァ・パペットとは違ってな。」 「“槍”の複製作業も全て順調に進んでいる。我々に負ける要素は無いよ。」 「誰が叛旗を翻したとしても、な。」 事態がここまで進んだ以上、今更“計画”を白紙に戻す事はできないし、幹部の一人や二人が脱落したとしても“計画”に致命的な損害を被る恐れも無い。 だからこそ、一時期は主導権と利権を争い暗闘を繰り広げていたゼーレの12使徒は揺るぎ無い結束を取り戻していた。 人類補完計画が発動する“約束の日”が終わるまでの同盟関係を。 「それより、“手綱”からの報告はどうした? その為にわざわざ碇を穴倉から引っ張り出させたのだろう?」 「その事だが、報告では強力な精神障壁の為に心を読み取る事ができなかったとある。」 「ちっ、役立たずめ。」 「出来損ないは、やはり出来損ないだな。」 次々罵声を吐く他の者達を制して、01と番号が割り振られたモノリスが発言する。 「その原因がアダムである可能性は?」 「もしアダムの力で心理探査を拒絶したなら、何らかのATフィールド波長が検出されているはずだ。有り得ん話だよ。」 松代支部や北京支部、それに第2東京市に設置されたATフィールド・センサーが反応していない以上は、使徒の力で防いだ可能性は無いと言って良いのだ。 「と、すると何らかの方法で防壁を構築していると見るべきだな。」 「厄介な……それでは拷問しても情報を引き出せるかどうか分からんではないか。」 「ならば仕方ない。今回も奴に猶予をくれてやるとしよう。」 01と書かれたモノリスが結論を下すと、残る全員も賛同の声を上げる。 「どうせ“約束の日”までの命。存分に働いて貰うとしよう。」 酷薄な笑い混じりの声を。 「ところで、“手綱”と“飼い犬”を第3新東京に送り込んだらどうだ? 碇は駄目でも他の連中なら何とかなるかもしれんぞ。」 モノリスの一つが出した提案に、 「連中を使い捨てにする気か?」 別のモノリスが疑義を呈するが、 「今となっては日本政府を抑えるのにアレらを使う必要は無い。ならば、別の有効な使い道をするべきであろう。」 「情報収集では、あの“鈴”にも匹敵する連中だからな。」 そうとまで説明されて、敢えて反対を続けようとする人間はここにはいなかった。 手駒をいちいち気遣うような性根では、この席に座り続ける事はできないのだ。 「よかろう。ネルフ本部に増派する監査員の一員として、彼らを遣わそう。」 スパイにとっては死地に等しい禁域と化した第3新東京への派遣を無造作に決めたモノリス達は、目も鼻も口も無いが、確かに笑い合った。 「我らの理想の為に。」 後ろ手にナイフを隠し、 「我らが神の高みに登る為に。」 互いの腹の底を探り合い、 「人類が楽園に生まれ変わる為に。」 されど、共通の利益を獲得せんと、 「選ばれし者達の偉大なる王国の為に。」 秘密の盟約を結んだ同志であるが故に。 「我らゼーレのシナリオ通りに。」 最後に12の黒い石版が老人の声でそう唱和し、闇に消えた。 声も、姿も。 最初から何も無かったかのように。 と、遠い空の下で人生の時間の大半を使い尽くした12人の老人達が不健全で自己中心的な権謀術数に身を焦がしている頃、極東の小国にある盆地の街の地下では電脳に宿りし3人の科学者と人間の領域を踏み越えた3人の科学者が議論を戦わせていた。 「これについては、こんなもので良いかしら。」 議題は、焦眉の急となってきている第3新東京市の防衛能力の向上についてであった。 「ええ、上出来ですわ。時間があれば、もう少し凝った物も設計できたんですけど。」 それも対使徒ではなく、対人用の装備の充実である。 「それは仕方ないわね。今、求められているのは開発期間と製作時間の短縮、それに動作の確実性ですもの。こだわりに回してる余裕は無いわ。」 それで既存の兵器や車両などを改修して配備したりしているのだが、新規設計しなければ要求水準を満たせない事も残念ながら多かった。 何せ、仮想敵との物量差は絶望的と言って良いほどなのだから。 「先輩! 攻撃衛星の試案、どうですか?」 だからこそ、打つ事のできる手は惜しまず打って置くのだ。 「もう少し機能を絞り込む必要があるわね。うちの第1号衛星は、ちょっと機能を詰め込み過ぎて使い勝手が悪いから。」 「はい。」 出来得る限り最良の手になるよう試行錯誤を重ねつつ、可能な限り最短で整えられるよう使徒能力者の能力を活用すると言う裏技すらも駆使しながら。 「しかし、これだけ用意しても未だ足りないんですの? 既にテロリストどころか軍隊が攻めて来ても大丈夫になってるでしょうに。」 現在のネルフ本部は最新式の武器を装備した大隊規模の戦車部隊と連隊規模の機械化歩兵部隊を保有しており、第3新東京要塞の防衛施設の分を加味すれば旅団級の戦闘力を発揮すると期待されていた。 しかし、目標を達成するには、まだまだ不足であった。 何せ…… 「目標は戦略自衛隊が総出で押しかけて来ても、通常戦力だけでお引取り願えるだけの戦力の構築よ。」 敵の侵攻は、最低でも数万人規模になると予測されているのだから。 「では、戦闘ヘリなど如何かしら? パイロットなら人工知能で代用できますでしょ?」 ガンシップとも呼ばれる攻撃ヘリは、戦車の天敵と呼ばれるほど有効な兵器である。 「本部のECMの影響下で飛行兵器を運用するのは危険過ぎるわ。それにアフガンの例を見ても分かるように、山岳戦で戦闘ヘリは絶対的な戦闘力を発揮できないわ。」 しかし、攻撃ヘリは、見通しの良い砂漠や草原などの地形であればともかく、森林や山岳のような起伏に富んだ遮蔽物の多い地形では、携帯式の対空ミサイルなどで武装した歩兵に対して充分な有利さを発揮する兵器だとは言えなかった。 つまりは、第3新東京付近で運用するには少々効率が良くない兵器なのだ。 「開発と運用にかかる手間も考えると、見合せるのが無難なとこね。」 それにパイロットを人工知能で代用するとしても、旅客機のオートパイロットでさえ開発が一筋縄ではいかない事を思うと、戦闘用の飛行制御プログラムの構築に待ち受ける困難は想像できる範囲内だけでも測り知れないほどである。 幾ら天才科学者が揃っていると言っても、とてもではないが短期間で実用段階に漕ぎ着ける事ができる見込みは無い。 ゆえに開発計画は凍結され、葬り去られた。 他の幾つもの兵器開発計画と同様に。 「他に意見はある?」 「対空防衛システムに高出力レーザー砲を用意するのはどうでしょう?」 「……反対する理由は無いわね。ただ、防空用にするなら威力よりも命中精度と起動時間の短縮、それに連射能力を優先するべきね。」 「分かりましたわ。それは、任せて貰ってもよろしいですわ。」 「では、その件はマリィさんにお願いするとして……」 「知能化機雷の開発は、どこまで進んでいますの?」 機雷を知能化するのはコスト的には割高になって上手くないのだが、常日頃から機雷を敷設しておけない以上、戦闘時の省力化と言う意味で有効な手段だと考えられていた。 「だいたい終わってるわ。後は生産ラインの確立だけってとこね。」 「なら、地雷の方も知能化するってのはどうかしら? ちょうどやってみたいアイディアがあるのよ。」 「では、それはキョウコさんに任せるわ。」 バイオコンピュータに意識を移した3人…ユイ、キョウコ、ナオコと、使徒を身に宿したリツコとマヤ、それにエヴァの力を得ているマリィと言う女科学者6人組がチームを結成してからの半月あまりで、普通の連中なら数年がかりでようやく実現できるような代物を多数開発し、実戦配備にまで扱ぎ付けていた。 「キラー衛星への対処はどうなってますか?」 「既に処置済みよ。偵察衛星と通信衛星、それに攻撃衛星については、いつでもこちらの支配下に組み入れられるわ。」 それだけに飽き足らず、彼女らは既に色々な所へ密かに手を出していた。 例えば、アメリカ国防総省。 例えば、クレムリン。 例えば、ネルフ支部。 今や、ネルフ本部に攻撃してくる能力を持つ機関の行動の全ては、ネットワーク上から恒常的に監視されていた。例え、いきなりICBMを全弾撃ち込むみたいな真似をされたとしても、対応が間に合うように、と。 だが、最も大きな懸念材料は別にあった。 「それよりも、ロンギヌスの槍の解析は進んでますの?」 今は地下のリリスに突き刺され、再生を抑えている槍に似た形状のモノ。 「時間が足りな過ぎるわ。今あれについて分かっているのは、南極で使用された時の記録にあった傷が全て消えていることぐらいね。」 恐らくは、アダムやリリス、そして使徒と同様に先史文明の遺物であるモノ。 「敵がリリスに何かをするとは考え難いのが救いですわ。何をするにもリリスは要ですから、敵も下手に手出しはできないはず。……地球ごと自殺したいと言うのでなければ。」 既に明らかになっている効果から考えると、使徒を制御する為の道具ではなかったかと類推されているモノ。 「地球ごと自殺するなら、彼らにはもっと簡単な手段が幾つもあるはずですわね。……それに、彼らがリリスに手出しして来るとしても、“今の”リリスへの干渉なら致命的な事態にはなりませんですわ。」 「確かに今のリリスは脱け殻も同然ね。……あの娘達と同じに。」 「では、今回はここまでにしておきましょう。みんな、頑張ってね。」 謎めいた言葉を残し、いささか風変わりな技術部の最高幹部会は閉幕した。 ゼーレの言う“約束の時”が到来するまでに、それぞれがなすべき事をなす為に。 急に転校が決まってしまいました。 養父は私がサングラスをかけた髭のおじさんの心を読めなかったからだと内心咎め立ててたけれど、口に出しては既に転校手続きが済んだと言っただけ。 今夜にでも転居先に向かわなくてはならないと言われてしまったので、残念だけど知り合いの方々に御挨拶する暇もありません。 ……と言っても、親しいお友達なんていないんだけど。 他人の心を覗ける……いえ、見せられてしまう力があるせいで、周りに人がいない方が気が休まるから。 溜息を吐きながら、必要最低限の荷物を急いでまとめる。 残りは後で送って貰えるらしいけど、大事な物はできれば持って行きたいから。 最後にお気に入りの詩集を入れて、私はバッグを閉じた。 第3新東京市って、どんな所なんだろうと思いながら。 いつものように家族の様に想っている人達を僕の部屋でもてなす。 いつものように談笑し、 いつものように食事をふるまい、 いつものように一緒にお風呂に入り、 いつものように一緒に床に入る。 毎日交代で。 今、穏やかで暖かい毎日が続いてる事を僕の方が信じられない。 都合の良い夢なんかじゃないかって。 目が覚めたら、長野の先生の家の庭にある離れで布団にくるまって震えているんじゃないだろうか。 ……そう思う時もある。 でも、夢だとしたら随分リアルで不思議な夢だ。 僕の知らない、知りようも無い事が次々と現れてくるのだから……。 「冬月、留守中変わった事はあったか?」 第2東京から戻るや否や、ゲンドウは状況把握の為に冬月が淡々と事務処理をこなしている執務室へと赴いていた。 「ゼーレの監査員として、あの“手綱”がやって来るそうだ。」 その質問に、作業の手を休めず、ゲンドウの方を向きもせずに答える冬月。 「そうか。……“飼い犬”の方は?」 「壱中への転入手続きが済んでいる。ゼーレの肝煎りだからな、断れんよ。」 ゼーレとの全面対決を覚悟でもしない限り、正式な手続きで派遣された新規補充人員を断る事などできるはずもない。 「問題無い。他には?」 その辺りの事情はゲンドウも分かっているので特に咎め立てたりはせず、自分が知っておかねばならない事が他にあるかどうか問う。 「新横須賀に第7師団、三島と裾野に第10師団の先遣隊が到着している。……名目は使徒対策の増援だそうだ。」 関東周辺に置いてある戦略自衛隊の部隊だけではネルフ本部を攻略するには兵力不足と見て他の地域からわざわざ部隊を派遣して来たのだろうが……ここまで露骨だと、いっそ潔いぐらいである。 「そうか。」 だが、これぐらいの展開は余裕で予想の範疇内なので今更慌てるような事では無い。 「あと、シンジ君の事だが……シンクロテストの結果が思わしくない上、人数の自然増加が鈍っている。」 しかし、報告の続きは、到底無視できるような内容では無かった。 「なんだと! ……MAGIの判断は?」 思わず大声で聞き返してしまってから、状況が悪化してるとは限らないかもしれないと素早く気を取り直してマギによる分析結果を訊く。 「このままでいくと、現状で安定する可能性が高いそうだ。」 だが、やはり予想通りの思わしくない答えが返ってきた。 「……まずいな(Xデーまで、あと何日も無いと言うのに……)。」 これから先の使徒戦に多大な影響が出かねない状態に陥っている、と。 「だが、俺にはどうする事もできんよ。」 勿論ながら、この状況を打開する手段が無い訳では無い。 「ああ、分かっている。」 ただし、その手段が実行可能な人物は、現状では一人しかいない。 「邪魔をした。」 その唯一の適任者は冬月に一声かけて執務室を去ろうとしたのだが、そうは問屋が卸さなかった。 「碇、ついでだから其処の書類を処理しておいてくれ。早い方が良い。」 山積になった書類の束を指差され、ゲンドウは苦笑いする。 「このカート借りますよ、先生。」 棚の横に常備してある手押し車を自分で用意しながら。 摩天楼の灯が水面に映って、まるで湖の中にもう一つの街があるように見える。 列車の中から見た夜の第3新東京は、とても幻想的な姿で私を迎え入れてくれた。 何か良い事がありそうな気がする。 ……私に予知の能力は無いんだけれど。 景色に見惚れていたら、何時の間にか終着駅に着いてたみたいで、車掌さんが列車内部を見回っていた。 それに急かされたような気分で、私は荷物を抱えて列車を降りた。 新しい生活の第一歩を。 改札口をくぐる時、何か嫌な感じがした。 ナメクジが身体の隅々まで這いまわっているような、そんな感じ。 ……これは? 嫌な感じはすぐに消えたけど、鳥肌が立って震えが止まらない。 改札口を抜けた所で何だろうと首を捻っていると、他の人は何とも感じていなさそうな事に気が付いた。 「行くぞ。」 ……養父が、呼んでる。 考えがまとまらないでいる私の頭に、ふと閃くものがあった。 あそこで、心を読まれたんじゃないかと。 ……でも、誰が私なんかの心を読もうとしたのだろう? 調べた所によると、今日、転校生が来るらしい。 今までのパターン通りだとすると、女子……しかも、けっこう美人の女の子が来るんだろうけど、そろそろ男の転校生も欲しいよなぁ。 他の男子が“あの”碇だけなんて、居心地悪いと言うか何と言うかだから。 そんな事を思っていたら、担任のボケかけた…いや、もしかしたら本当にボケてるのかもしれない…先生に連れられて見慣れない女子が教室に入って来た。 なんだ。やっぱり今回も女か。……そんな気はしてたんだよなぁ。 「山岸マユミです。短い間になると思いますが、よろしくお願いします。」 黒板に自分の名前を大きく書いたその女子は、両手を下ろしたままの状態で組み、ペコリと頭を下げた。 縁の無い眼鏡の奥に気弱そうな瞳が見え、口元の左下にホクロがあって、髪は黒のセミロング……見た感じ、おとなしい文学少女ってとこか。 カスミさんには負けるけど、割りと美人の方だって言っても良いかな。 この子の写真もけっこう売れそうだな。 良し、警戒されないうちにバンバン撮っておこう。 着てるのが、うちの制服じゃないってのもポイント高いだろうしね。 上手くいけば数日でデート代1回分くらいは稼げるだろうし。 ……さすがに、今、堂々とカメラ持ち出すと他の連中に余計な入れ知恵をされそうだから慎重にいかないとね。 俺は手持ちのフィルムの数を脳裏で数えながら、シャッターチャンスの到来を虎視眈々と待ち構えたのだった。 色々な学校に転校しましたが、ここみたいに転校生慣れ…と言うんでしょうか…をしているクラスに転入したのは初めてです。 他の学校なら必ずと言って良いほど行われる恒例行事である質問攻めも無く、すぐにクラスの一員と認めて下さったみたいです。 ……微妙に一線を引かれているような気もするけど、いきなり皆さんの仲間入りするのも難しいし、人の輪の中に入って行くのが苦手な私としては強引に引っ張り込まれるよりも気疲れしないで済みますが。 私の席は最前列の一番右端。隣の席には洞木ヒカリさんが座っています。 洞木さんは、クラス委員長をしている頼りになりそうな人で、学校の事とかを手際良く教えて下さいました。 優しそうな人ですけど、何を考えてるのか分からないので少し不安です。 ……変な意味じゃないんですけど。 洞木さんの他にも、考えが感じ取れない人がこのクラスには何人かいます。 あのサングラスをかけた髭のおじさんとは違う感じの精神防壁を張っているのか、それとも実はロボットなので思考が読めないのかまでは分かりませんけど。 それに妙に男子の数が少ないのも気にかかります。 この教室に2人だけしかいない、心が読めない方…眼鏡をかけてない方…の男子が私を見ているみたいなのも気になります。 ……もしかして、一目惚れしたんでしょうか? そんなはず無いですね。私みたいなのに……。 何故か出て来た溜息を押し殺すと、私は意識を授業の内容へと向けた。 え? セカンドインパクトの時の苦労話ですか? 確か、数学の授業だったはずじゃ? そんな私の困惑をよそに、他の皆はそれぞれに勝手な事をやってるようでした。 え? これって良くある事なんですか? 『またかよ』とか、言ってる声も“聞こえた”ので、多分そうなんでしょうけど……。 でも、1回ぐらいは聞いておきましょう。 意外と面白い事が分かるかもしれませんし。 そう気を取り直し、私は改めて授業に耳を傾けたのでした。 碇シンジは困惑していた。 それはもう、困惑していた。 会ったばかりと言うか、転入して来たばかりのクラスメイトの面倒を見ろと言う内容のメールが届いたからだ。 『はぁ。何だろう、いきなり。』 それも、父…ネルフ総司令たる碇ゲンドウから。 『……父さんだって、今が授業中と知ってるはずなのに。』 しかも、授業中に。 『急いで連絡しなきゃならなかったのかな? まあ、いいや。とにかく山岸さんと話をしてみよう。』 シンジは効果抜群の子守唄と成り果てた授業が終わるのを待ち、さっそくマユミの席へと向かった。 ……シンジらしくも無い行動力だが、逡巡しているうちに別の用事に追われて言いつけが守れなくなると、もっと気が進まない仕事を押し付けられてしまうからで、別に自主的に行動的になった訳では無い。 「あ、あの……初めまして。碇シンジって言います。……よろしく。」 おどおどと話しかけてきて初対面の少女に軽く頭を下げるシンジに、マユミは手元の本に注いでいた視線を上げて自分も慌てて頭を下げる。 「ご、ごめんなさい。……こちらこそよろしくお願いします。」 「ところで……あ、あの……や、山岸さんて、ネルフの関係者なの?」 目を見開いて首をすくめるマユミを見て、シンジは焦って謝り倒す。 「ゴ、ゴメン。こんな事、突然聞いて。」 だが、彼が謝るのは少しだけ早かった。 「なんで知ってるんですか?」 彼女は、本当にネルフに所属していたのだから。 「父さん…ううん、司令から僕に山岸さんの面倒を見ろって連絡が……。」 正直に全部話す攻撃を受けたマユミは、意外な台詞に脳が一瞬漂白された。 「え?」 いや、考えたくない事が頭をよぎってしまったのかもしれない。 自分が早晩シンジの“餌”となるだろうと思われている事を。 無意識にだろうか、しかめられた眉根を察して再び焦るシンジ。 「ゴ、ゴメン。……ネ、ネルフ関係の事で困ったら相談に乗るから。それだけだから。」 それだけ言い捨てて逃げるように自分の席に戻って行ったシンジを、 「あ……」 マユミは呆然と見送った。 シンジが何を思って謝っているのか分からないはずなのに、何となく良く分かるような感じが、心の何処からか湧いて来るのを感じながら……。 金属製の大きな台に転がされているくすんだ金属の残骸を、何台もの作業用ロボットが取り囲んで何やら作業に勤しんでいた。 「そう。そこはそれで良いわ。……そっちの太陽電池板は、もう使えないわね。」 無人の工場を支配する若き女帝の呟きに、忠実な下僕と化した工業用ロボット達が敏感に反応し、その意を正確に実現しようと奮闘する。 感動とうそ寒い心地を同時に感じさせる未来的っぽい光景ではあったが、そんなものに戦慄する見学人などは始めからここにはいない。 この工場は、資材の搬入に始まって、部品の搬出、果てはロボットの整備まで人力を使用しないと言う、ほぼ全自動の工場であった。 その為か、人間が立ち入る必要が無いよう考慮されたこの工場に入場できるのは、やはり人間ではない存在だけであった。 そう。例えば、白衣を身にまとい、管制室の高みから窓越しに全体を見下ろすうら若き女帝……ネルフ本部基地の機能の大半を掌握する魔女……使徒イロウルの力を身に付けた科学者、赤木リツコのような。 ちなみに、この工場で何をやっているかと言うと……衛星軌道上から密かに回収した人工衛星の分解処理である。 ネルフ本部が秘密裏に打ち上げた第1号衛星やその後に打ち上げた偵察衛星には、地上から探知できないよう高度なステルス能力が与えられている。 だが、必要充分な能力を発揮するステルス機能を人工衛星に搭載するには、結構な費用と技術…そして製作期間が必要なので、普段は動かさない攻撃衛星や非常時の回線の確保に使う予定の通信衛星などは、宇宙のゴミと呼ばれるスペースデブリに偽装して待機させる事になった。 具体的に言うと、寿命を終えたり故障したりして放棄されていた人工衛星と似たような形に外形を整えたネルフの衛星とこっそり交換したのだ。 で、本物はネルフ本部に持ち帰り、使えそうな部品を回収していると言う訳である。 しかし、 「でも、どの部品も劣化が激しいわね。今度からディラックの海に捨てたままにして貰おうかしら。……いえ、単なる資材としてなら、辛うじて使い物になるわね。」 問題は、予め計算していたよりも遥かに使えそうな物が少なかった事にある。 それどころか、人工衛星の成れの果てには、原子炉を搭載していたり、長年の放射線に晒されていたりで普通の人間には有害な物質が多量に含まれており、処理作業と再利用の難易度を一桁ほど跳ね上げていた。 ここで人間が働いていないのは、そういう有害物質に貴重な人員を晒すのは得策では無いと言う理由である。 「さて、残ったジャンクの始末はミサトとジーベック中佐に後で手伝って貰うとして、これをどうするか決めないとね。」 ひときわ大きい溜息を吐いたリツコの視線の先には、回収した人工衛星の残骸から無事に取り外された原子炉と核弾頭が横たえられていたのだった……。 いったん気になり出すと凄く気になってしまう。 後ろの方が。 音にならない粘つく水音が、荒い吐息が、私の後ろの方から“聞こえて”くる。 授業中なのに、制服の裾から中に侵入した手が敏感な所を悪戯している情景がありありと“見えて”しまう。 極上のチーズみたいな独特の甘酸っぱい香りが鼻腔を満たす……いえ、そうと感じてしまっているだけで、実際にはそんな匂いはしない事に私は気付いた。 すると、今、舌に感じている苦みと臭みは何? だ、だめ…… 怖い…… 後ろで、いったい何が起こっているのだろう? こんなに強い思考の波を感じるのは、初め…て…… 抑え切れない好奇心が恐怖を押し切って私の視線を動かす。 目立たないよう横を向き、横目で後ろを眺める。 だけど、皆ちゃんと席に着いて授業を受けていた。 ……どういう、こと? てっきり、以前に興味本位で見てしまったHな本で読んだ……いえ、それよりもっと凄い事が起こっているんだと思ったのに。 どうして? どうして、みんな普通に授業を受けているの? その時、眼鏡越しに見える普通の授業風景に重なって、淫靡な世界が広がった。 何人かを残して、自慰行為に夢中になっている光景が……。 「え?」 「ちょっと、山岸さん大丈夫?」 思わず声に出してしまった私の方を向いた洞木さんが、隣の席から私の顔を覗き込む。 洞木さんは根が真面目なのか、みんなのように自分のスカートの中に手を入れていないみたい。 「ご、ごめんなさい。大丈夫です。」 慌てて正面を向いて顔を伏せたのですが、心臓がドキドキいってるのが止まってくれません。鮮明なHの場面も目の奥に焼きついて消えてくれません。 ……何故? 何故、見てないのに? 目蓋を閉じても見えてしまう事で、ようやく気がつきました。 何人かが普通に見えた理由も。 これって、みんなが今考えている事だったんですね。 それを、私が“見て”しまって…… しかも……その内容が、約1名…眼鏡をかけた男子…以外全員ほぼ同じだったのが災いしたのか、私まで煽りを受けて意識が飛びそうになってしまいました。 これがエヴァ初号機の“力”なのでしょうか? こんなクラスで情報を集めて来いだなんて……養父も酷いです。 マユミは両手で自分の両肩を抱き締める様な姿勢で、辛うじて甘やかな衝撃が背筋を無遠慮に爆走していくのに耐えた。 唇を噛み切りそうなほど食い縛りながら……。 様々な色の明かりに照らされた大きな部屋の中にそびえ立つ、半ば壁に埋まった塔。 その中腹に位置する3つの張り出しに据え置かれた人造の賢者。 彼女らの事を、ネルフでは聖書の故事になぞらえ、MAGIと呼んでいた。 《N2弾道ミサイルの設計、終わりましたわ。》 そのうちの1台、マギ・メルキオールの発言は、他の2台のマギを困惑に陥れた。 《……そこまでしなきゃならないの、ユイ?》 《向こうの出方次第では使わざるを得ないでしょうね。》 マギ・バルタザールの問いに、メルキオール=ユイが沈痛な声で答える。 《ところで、製造法を何処から入手したのかしら?》 前に一緒にハッキングしまくった時には見つからなかったのに…と訊ねるカスパーに、 《実験施設の熱滅却処理用に設置されていたN2地雷を解析して、製造法を逆算したんですよ。本部基地に現在備蓄されている物資だけで、20発の10キロトン級N2爆弾が製造可能ですわ。》 ユイが事実を淡々と回答した。 ちなみに、10キロトン級爆弾とはTNT…高性能火薬…1万トン分に相当する威力を持つ爆弾だと言う意味である。 《あと、本部の各所に設置してある5キロトン級N2地雷15発も転用できそうね。》 バルタザール=キョウコの提案に、 《そうね。全部を弾道ミサイルに載せるんじゃなく、一部は設置箇所を変えるだけの方が良いかもしれないわね。》 カスパー=ナオコが更なる武装強化案を呈する。 このようにして、ネルフ本部は密やかに新たなる牙を研ぎ澄ませてゆくのであった。 賢者の名を冠された人格と魂を備えたコンピュータ達の叡智によって。 昼休みになりました。 本当は購買か学生食堂に行ってお食事にしたいところなんですが…… 足に力が入らなくて立てそうにありません。 もし、立てるんだとしても、スカートと椅子がとても凄い事になっているので、やっぱり立てません。 ……今日は諦めるしかないみたいですね。 咽喉から溢れそうになる溜息を飲み込み、空腹を紛らわせる為に本を鞄から取り出そうと背を曲げた私に、薄い影が覆い被さる。 「だ、誰っ!?」 自分でも思ってもみなかったほど大きな声が出て、心が小動物のようにビクビクと震えているのを自覚する。 「ご、ごめん!」 影の持ち主の慌てふためいた謝罪を耳にして、小指の先にも足りないぐらいだけど、それでも確かに刺々しく身構えていた全身から力がフッと抜けるのを感じる。 緊張状態を脱したと見るや、私の正面に移動してきたのは想像通りの人だった。 「あ、あの……もし、良かったらだけど……食べる?」 そんな言葉と共に差し出されたのは、素っ気無いアルミのお弁当箱。 ……そんなに、ひもじそうに見えたんでしょうか、私。 浮かない表情の私に気付いてくれているのか、碇さんが再び焦り出す。 「あ、ごめん。迷惑だった? 購買とか学食とか案内した方が良い?」 今の状態を知られたらどうしようって、それだけで頭が一杯になって俯く私の机に、トンと“それ”が置かれた。 「あ?」 「良かったら、食べて。じゃっ。」 どうやら、私が困っているのを察して引き上げてくれたらしいです。 お腹の虫が勝手に催促の音を鳴らす前で良かった。 男の子に間近で聞かれたら、死にたくなるぐらい恥ずかしくなるでしょうし。 そんな考えに意識が向いたのが悪かったのか、碇さんは他のクラスメイトの方々が作る壁の向こうに埋もれてしまいました。 これ、どうしよう? しばし迷ったのですが、結局空腹には勝てませんでした。 あ、このシューマイ美味しい。どこで売ってるんでしょう? 玉子焼きも出汁がしっかり利いていて、口の中でふんわり溶ける上品な味。 焼いたカボチャやタマネギやニンジン…野菜の素朴な甘味を、表面に塗られているタレが際立たせていて舌に心地良い。 ご飯も俵型に固められていて、湿気でベタつかないように気をつけてある。 ……これって、お母さんの味でしょうか? 私にはお弁当を作ってくれる母親がいないので、羨ましいです。 でも、私は気付いていませんでした。 そのお弁当が実は碇さんの手作りだった事に。 私は、つい失念していました。 碇さんの母親が既に他界していたんだって事を。 私は気付きませんでした。 そのお弁当を食べさせて貰うはずだった人を、碇さんが何処かに連れて行った事を。 私は気付けませんでした。 その人が放課後になるまで教室に戻って来れないほど碇さんに可愛がられたって事を。 ケンスケの奴と昼飯を食ってから、昼休みの残りで校舎の周囲をぶらぶら歩き回る。 今日はワイの番やないから、まだ教室に戻ってもしゃあないしな。 下手に見てまうと我慢できなくなりかねんわ。 そう思うとる人間は結構多いみたいで、センセといっしょに飯を食う連中以外はたいてい教室以外のとこで食って、授業前ぎりぎりに戻って来るみたいや。 ……ワイもその口やけどな。 「あ、カスミの姉さん!」 「おはようございます!」 「オス!」 で、校舎裏に差し掛かったら、ちょっと奥まった場所にたむろっているガラの悪そうな兄ちゃん達がワイに挨拶してきた。 ……何にせよ、礼儀正しいのは、ええことや。 「こんにちは。まあ、たいがいにしとき。」 急いで踏み消したと思しき煙草の吸殻がそいつらの足下に落ちてるのを見つけて、いちおう忠告らしき事を言って立ち去ろうとする。 が、そのワイの背中に声がかけられた。 「カスミの姉さんも一本どうです?」 「ここで貰ったら格好つかんやんか。遠慮しとくわ。」 苦笑混じりで振り返り、手をヒラヒラさせて今度こそ立ち去る。 ……平和って、ええもんやのう。 使徒が襲来するぐらいならともかく、馬鹿どもがロクでもない事しでかすと大抵は洒落にならん事態になってまうからのう。 ワイは聴覚を研ぎ澄ませて近くで何もおかしな事が起こってないのを確かめると、今夜も行なわれるだろう戦闘訓練で惣流にどうやって勝つかって作戦を練り始めた。 一人、散歩を続けながら……。 気が付いたら、知らない天井でした。 いえ、目が覚めたら知らない天井が見えました。 どういう事なんでしょうか? さっきまで教室で授業を受けていたはずなのに…… 記憶を辿るとすぐ、顔が熱くなってしまう。 ま、まさか…… 「あ……」 奇妙に冷たい場所に恐る恐る手を伸ばすと、湿っているのが下着だけでは済んでないのが嫌でも分かってしまう。 着衣越しに指が触れた途端、さっきまで皆から伝わってきていた『満たされている』感覚を思い出したのか、敏感なところがたちまち火照りだした。 焦って指を引っ込めると、熱は潮が引くようにサッと冷めてくれた。 ……助かった。 あのままでしたら、何処とも分からない場所で自慰に及んでしまいそうでしたから。 そういえば、ここはどこでしょうか? 清潔ではあるけど、簡素で固めの白いベッド。 隣にも同じ様なベッドがあり、反対側には白布のついたてがある。 もしかして、保健室…でしょうか。 「お、起きたかい?」 私が起きたのに気付いたようで、ついたての向こうから人が現れた。 「ご、ごめんなさい。あの…ええと……」 縁のある丸眼鏡をかけた髪を首筋で切り揃えた白衣の女性…多分、保健の先生だと思う人…が、口に何か白い棒を咥えているのが見えた。 タバコ? いいえ、あれは…… 「チョコ?」 「ご名答。一本どうだい?」 私が1発で当てたのが嬉しいのか、先生は箱から1本だけピンと飛び出させて薦めてくれました。 「あ、はい。いただきます。」 ここまでして戴いて断るのも悪いと思って1本だけ貰って齧る。 ……シガレットチョコって、こういう味だったんだ。 「ところで、どうして私はここにいるのですか?」 若干落ち着いたところで、知っておきたい事を訊いてみる。 何故、教室にいた筈の自分がここにいるのか、を。 「授業中に倒れたらしい。ただし、診察の結果では別に悪い所は無い。」 「……そうなんですか。ご迷惑をおかけしました。」 だとすると、原因はみんなにアテられ過ぎた事かもしれない。 がっくりと肩を落として、明日からはナプキンを使った方が良いかもなんて前向きなんだか良く分からない事を考える。 「ところで、着替えは要るか?」 知らず知らずのうちに俯いていた私にかけられた声に、私の意識は漂白されてしまう。 「な、な、な、な、な、な…何故っ!? どうしてっ!?」 見られたっ!? そ、そんなっ!? 「診察すりゃ馬鹿でも気付く。」 すっかり混乱した私は、ズバっと一言で止めを刺されてしまいました。 明日から、どんなを顔して学校に来れば良いのでしょう。 ぐうの音も出ないほど打ちのめされた私は、それでも…… 「……お願いします。」 短い逡巡の末、頭を下げる事にしたのでした。 さすがに、このままの格好で街を歩く勇気は私にはありませんので。 保健室からマユミが教室に戻って来た時には、既に放課後になっていた。 『良かった。カバンはちゃんとしてる。……でも、椅子とかの惨状は見られてしまったと考えなきゃいけないけど。』 椅子の上に貯まっていた筈の粘つく水は、残滓さえ残さず消え去っていた。 恐らくは誰かが拭き取ってくれたのだろうと妥当な結論に至ったマユミがトボトボと教室を立ち去ろうとした時、教室にいた別の人が彼女を呼び止めた。 「あ、待って。」 肩口で揃えた茶色の髪の、目尻がタレ気味なのが愛嬌を増している顔つきの女生徒が。 「山岸さん、これから帰り?」 「そうですけど……あなたは?」 訊ねられるまで気付かなかった事と、この期に及んでも相手の心が読めない事に怪訝な表情になるマユミ。 その様子を察した女生徒は、背筋を伸ばして軽く頭を下げた。 「ごめんなさい。私は霧島マナ。チルドレン護衛官をやってるの、よろしく。」 初対面で割とあっさり秘密をバラしたように見えるが、さに非ず。 2年A組の生徒を相手にチルドレン護衛官の存在を隠そうとしても隠し切れない……いや、隠さない方が得策だとシンジを始めとするネルフの上層部が判断しているので、今回のようなケースでは秘密の漏洩には当たらないのだ。 「よ、よろしく。」 まじまじと無遠慮に相手の顔を見詰めてるのに気付いて、慌てて頭を…こっちは深々と下げるマユミ。 「シンジくんに『山岸さんがネルフへ行くなら案内して』って頼まれてるんだけど、どうする?」 そんな仕草に頬を緩め、人好きのする笑顔で訊ねるマナの顔をマユミは再び覗き込む。 「ど、どうって、その……」 上目遣いに、おずおずと。 『どうしよう……悪意は無さそうだけど……』 やっぱり心は読めないので確証は掴めないが、それでも顔色や表情筋の動きで色々と分かる。……とまで考えたところで、マユミは自己嫌悪の虫に襲われた。 『こんなの……人の心を覗くのなんて嫌なのに。』 何時の間にか習い性になっていた自身の行動にマユミは内心唾を吐き、考える。 『でも、この人…マナさんなら、心が読めない分だけ気楽かも。』 相手の能力は分からないが、よもや自分に気付かれずに心に踏み込んで来る事はできないだろうと踏み、マユミは決断する。 「お願いします。」 いや、促された行動指針を是認する。 「じゃあ、さっそく行こう。」 ネルフ本部基地を自分の目で見ておくのは決して損にはならないと、マユミは自分で自分自身を誤魔化して……。 「霧島マナ三曹、入りますっ!」 「お、お邪魔します。」 2人の少女の前で開かれた扉の向こうには、 薄い緑を基調にした壁紙。 天然の木…それもマホガニーみたいな高級な木材を使った大きな机。 革張りの黒いソファーと、それと対になった小さなテーブル。 観葉植物の鉢が2つ。 見た目二十歳前後のきびきびとした女性。 そして、学校の制服を着替えもせずに机に座って山積みされた書類を片付けていた少年の姿が見えた。 「いらっしゃい、2人とも。取り敢えず其処に座ってて貰えるかな?」 書類事務の手を休め立ち上がったシンジは、入り口にいる2人に向かって軽く会釈してから応接セットのソファーを勧める。 「うん。さ、入ろっ。」 横のマナに促された事もあってか素直にソファーに身を沈めるマユミは、マナの心が読めなかった事が自分の力が錆びついた訳では無い事を理解した。 シンジはともかく、部屋にいたもう一方の人間の心は鮮明に読み取れたからだ。 しかし、だからと言って普段通りに振舞うには多少の無理があった。 『こ…こんな事考えながら仕事してるのでしょうか?』 授業中にも見た猥らな光景が、またもや心の中に大写しされてしまったのだ。 ただし、Hな媚態をマユミの“目”に晒しているのは、今回は秘書らしい女性一人…白石ミズホ…だけであったが。 『……いえ、意識的に考えてる訳じゃ無さそう。』 その違いもあってか、マユミは落ち着いて思考の分析ができる余裕が今回はあった。 『……少なくとも、表層意識ではHな事は考えてない。』 眼前のテーブルにお茶を注いだ湯飲みを置いてくれているはずの人が、全裸でシンジの首筋に豊かな乳房を擦り付けている姿を見て、マユミは首を捻る。 『じゃあ、何故、こんな光景が見えるの?』 彼女の所作が内心やらしい事を考えながら仕事をしている……と言うような立ち居振る舞いには、とても見えなかったからだ。 『……深層意識を読み取るしか無いですね。原因を突き止めておかないと、対策の立てようもありませんし。』 マユミは、無言で観察する。 心の眼だけではなく、遠視用の眼鏡越しでも。 知らず知らずのうちに、自らの“力”と“行為”への嫌悪感で眉をひそませながら。 「あ、ごめん。日本茶、駄目だった?」 手もつけられず放置された緑茶がすっかり冷めて温くなった頃、マユミの感覚的には突然かけられた言葉に飛び上がらんばかりに驚いた。 「だ、大丈夫ですっ。ごめんなさいっ。」 反射的に謝るマユミに、 「ご、ごごごご、ごめん。」 謝り倒すシンジ。 「シンジくんってば……」 「シンジ様……」 そして、真っ赤になって俯いた二人を微笑ましく見守ると同時に羨ましそうに見詰めるマナとミズホ。 誰からかだかは分からない。 くすくすと笑い合う声がシンジの執務室の中に溢れ、緊張感が和らいでゆく。 『ああ、そうか。』 その最中、マユミは唐突に理解した。 『あのHな光景は、彼女らに取っては満ち足りているイメージの象徴だったんだ。』 と。 そして、イメージであると理解したと同時に、あの時の有様の真の様相が脳裏にででんと鎮座して、マユミに直視する事を強要した。 十数人のシンジが、同じ数の女生徒…クラスメイト達と交わり、まさぐり、繋がり、喘がせていたと言う、常識では考えられない光景を。 有り得ない出来事として認識するのを無意識に拒んでいた、あられもない交尾場面を。 「で、山岸さん。」 笑い続けたせいで息切れしてしまった息を整え直し、シンジは改めてマユミの瞳に視点を据え、改めて訊ねる。 「……あ、はい。何でしょう?」 そのシンジの瞳から視線を逸らし、マユミの頬は熟れた柿の如く真っ赤に染まる。 「山岸さんがネルフ本部に所属する場合、特務部門に配属するように父さん……総司令から通達が来てるんだけど、山岸さんはそれで良い?」 しかし、マユミの耳からシンジがさっきまで目を通していた書類の内容についての情報が浸透すると、羞恥で赤くなってモジモジしていた表情が一変した。 「え? 養父と同じ監査部じゃないんですか?」 寝耳に水だと目を丸くするマユミに、シンジがかいつまんで説明する。 「ここの監査部って、所属は本部って訳じゃないみたいだから。外部監査の部門だし。山岸さんが本部への転属を希望するなら、それ以外って事になるんだ。」 承認印を押す前の正式な転属願いの書類を示しての説明に、マユミは思わず聞き返す。 「え? そうなんですか?」 何せ、マユミのサインは既に記入済みのものを示されたのだから。 これにシンジがポンと認印を押してしまえば、この内容が正式なものとして通ってしまうのだと改めて言われて、マユミはむしろ戸惑った。 今までの転属では、こんな風に丁寧に説明された事など無かったのだから。 「で、本部に転属が決まった場合の契約内容がこれ。今までの契約内容がこっちの書類なんだけど……見といた方が良いと思うよ。」 「あ、はい。」 差し出された2通の契約書のウチ、今までのをマユミは奨め通りに熟読する。 そして、読み進めていくうちに赤かった顔色は段々蒼ざめてゆく。 「こ、これ…って……」 書類が偽物だとか出鱈目だとは、マユミには思えない。 シンジやマナはともかく秘書のミズホの心は読み取れるので、騙される恐れはあまり無いのだ。問題は彼女も騙されている場合だが、そうそう誤魔化される人にも見えない。 そして、以前にも同様なケースがあったと言う記憶が見えた事で予測は確証となった。 ロストナンバーとは言えどエヴァ・チルドレンとして初登録されたネルフ・ドイツ支部時代以来、マユミが今まで実験動物以下の扱いを受けていたんだってことが。 「で、本部に移籍するんだったら、こっちの内容にできるんだけど。」 マユミが気を取り直してシンジの指し示した契約書を読み進むと、今度は今までとは天地の開きがある厚遇が書かれていたのに、かえって狼狽した。 「え…ええっと……本当に、こんなにしていただいて良いんですか?」 あまりの差異にすっかり恐縮して身を縮ませているマユミに、シンジは優しく微笑んで大きく肯いた。 「うん。……と言うか、今までが酷過ぎたんだと思うけど。」 もっとも、チルドレンにマトモな人権を認めるようになったのは、ネルフ本部でもシンジがサードチルドレンに認定された以降であったりするのだが。 「じゃあ、よろしくお願いします。」 一通り目を通して気になる箇所が無かったのを確かめたマユミは、改めて転属手続きを進める意思を示し、頭を下げた。 これまで説明も何もせずにきた養父への疑念を全く思い浮かべもせずに……。 大気を繋ぎ止める重力を備えるほどの大きさを持たない天体の、 生命溢れる青き星を未来永劫見る事かなわぬ灰色の荒野に、 生命の輝きに満ち溢れた猛き乙女達が、 今日も特訓に火花を散らしていた。 「おねえちゃんにはまけないっ!」 その一人、鈴原ハルナの眼から放たれた光線が、 「何の! 甘いわっ!」 実の姉…元は兄貴だったのだが…の鈴原カスミが展開した八角形の光の防楯に弾かれ虚空に消える。同時に、撃ち終えたタイミングを見計らってジャンプで一気に間合いを詰めようと膝を曲げてバネを溜めるが、そこに追い討ちの光弾が着弾した。 「何っ! 馬鹿なっ!」 何とかATフィールドを再度展開して攻撃を凌ぐカスミであったが、間断無く続く光弾の連射でなかなか近寄らせて貰えない。 「ちっ、ハルナのヤツ射撃の腕上げてやがる。」 遠距離戦なら反撃も無いと高を括っているのか射撃の狙いは正確無比で、左右に動いて躱そうとしても1発たりとも外れが無い。 「しかも、片目ずつ撃ってるから連射能力が上がっとるみたいやな。一発頭の威力は落ちとるみたいやけど、こういう場合は厄介やわ。」 とにかく近付いてぶん殴る…と言うカスミの戦術思考も、幾多の敗北を経て長足の進歩を遂げていた。単純に殴り飛して勝てない相手にどうやれば殴り勝てるのか、その作戦を考える事を覚えたのだ。 これだけでも、カスミの戦闘力は倍以上に増していた。 「……しゃあない。惣流相手に使うはずだった取っておき、見せたるわ。」 隙が無いなら作るまで。 カスミは体内の細胞が生み出す生体電気を束ね集めて、妹へ向け指先から放つ。 「きゃっ!」 大都市が1日に使う量に相当する電子の束を叩きつけられたハルナは、ATフィールドを八角形の防楯状に緊急展開して直撃を阻む。 しかし、それで充分だった。 「もろうたぁっ!!」 流石に途切れた連射の隙を突いて、カスミは溜めていた瞬発力をこの時とばかりに全解放する。 右拳に全身の加重を乗せ、腰の捻りと共に突き出す。 「あまいよ、おねえちゃんっ!」 しかし、それは妹に見切られていた。 「ガハッ!」 準備万端整えられ構えられた掌から伸びる光の槍が、カスミの右の鎖骨の上に突進の勢いで深く突き刺さり、逆方向に押しやった。 「ぐえっ!」 そのままクレーターの外輪山に押しつけられて肺の中の空気が押し出されたカスミではあったが、まだ勝負は投げていなかった。 「まだまだっやっ!」 光り輝く槍身に沿って、再び電撃を放つ。 もう狙う必要もなければ、ATフィールドで防がれる心配も無い。 こんな具合に接触している状態でATフィールドを張って防壁にしようとしても、互いのATフィールドが干渉して中和されてしまい、満足な強度で展開できないのだ。 ……しかし、この体勢では自分も避ける事も防ぐ事も不可能だったんだと、カスミは直ぐに思い知らされた。 「ってぇ! やるな、ハルナ! こうなったら我慢比べや!」 槍でグリグリと抉られ、次々当たる光弾の衝撃にメゲそうになりながらも、気合い全開でS2機関を全力稼動したカスミはジリジリと電圧を上げてゆく。 「それまでよ!」 この不毛な姉妹喧嘩と化した意地の張り合いは、審判役をやっていたミサトが両者に引き分けを宣告するまで続いたのだった……。 ……今日はとても疲れました。 明日からも“あの”学校に……いえ、あのクラスに通わなきゃならないかと思うと気が重くなります。 ですが、養父が今日の報告をたいへん喜んでくれたので頑張らなきゃなりません。 母が殺され、父が行方不明になった後、私を引き取って育てて下さった恩を少しでも返さないといけませんから。 金時山沿いの森の近くにある小さな一軒家の一室で、マユミはベッドに突っ伏した。 明日からの学校生活の事を極力考えないように無駄な努力を重ねながら。 「さって…何処から来るかしら。」 飢えた雌豹さながら鋭い目線を走らせるミサトは、荒漠たる月面の戦場の何処にも敵手の姿が無いのに寧ろ感嘆を覚えていた。 微弱なATフィールドを周囲に広げ、存在の気配を探る。 しかし、全く何も見当たらない。 『不自然な影は無いし、不審な熱源も無し。……おまけに気配も無し。ん?』 単なる勘に従って身体を前に投げ出し、ゴツゴツする地面で前転して素早く振り返る。 すると、一瞬前までミサトがいた場所に光る鞭が食い込んで割れ目を作っていた。 「危ない、危ないっとっ!」 再び光鞭を振り上げた人影に向かい、ミサトは赤外線を集束して撃ち放つ。 「きゃっ!」 自動車を溶かすどころか瞬時に蒸発させるほどの熱量の照射を、ヒカリはATフィールドを八角形の防楯状に展開して防ぎ止める。 あまつさえ両手の鞭を別々の生き物の様に動かして反撃して来るが、ミサトの体捌きの巧みさの前に斬り裂かれるのは虚空だけであった。 『……それでも近づく隙は無いわね。ちょっち、しんどい真似しなきゃいけないかな。』 爪先で砂礫を蹴り上げ、目くらまし兼弾幕として撃つ。 戦車砲の直撃ですら毛ほどの傷もつけられないぐらいに堅固な装甲を持つシャムシエルの使徒能力者であるヒカリに対しては到底ダメージが与えられない程度の攻撃ではあったが、勢い良く飛来する砂礫の雨の中で普段通りの鞭捌きができる筈も無く、迂闊に近付けば良い的になってしまうだろう。 勿論ながら、ヒカリも棒立ちにはならずATフィールドを展開して身を護りつつ場所を移動して反撃の隙をうかがうが、ミサトは動きを先読みして位置を変えながら次々と砂礫を浴びせ掛けてヒカリを牽制し続ける。 『さて……そろそろかな?』 移動の合間に拾った小石を右手で弄びながら黙々と砂かけ作戦を実施するミサトは、焦れて砂礫の届かない上空へと飛び上がったヒカリに向かって手の中の小石を思い切りぶん投げる。 「はっ!」 その小石が展開されたATフィールドに当たって砕けるのを見届ける事なく、ミサトは素早く位置を変えて跳躍する。 何とか気付いて振り返ったヒカリが薙ぎ払うムチを右手で弾き、ミサトの左掌が硬質化しているヒカリの鳩尾へと叩き込まれた。 「かはっ。」 ……硬い鎧の内部に衝撃を通す打ち方で。 ドサッ 2人が絡み合った物体が月面に落下した音は、地面の振動として月面上に立っている者達には伝わった。 「……あれ、ここは?」 意識がしばし混濁していたヒカリが目を覚ましたのは、それからおよそ30秒ほどが経過した後のことであった……。 「身体、大丈夫?」 差し出された手を素直に握り返し、ヒカリは肯く。 「はい、大丈夫です。あの……ありがとうございました。」 「こっちこそ、ありがと。……洞木さん、随分と腕を上げたわね。」 以前は熱光学迷彩もここまで完璧じゃなかったし、光鞭を振るう時にも殺気一つ発していなかったのは、ヒカリがある意味とても怖いレベルまで達している証であった。 勘任せの反射で初撃を回避できなかったら、今頃地に這っていたのはミサトの方だったかもしれないぐらいに。 「本当は地球上でも全力戦闘の特訓はしたいんだけど、流石にちょっちね……」 大気が無く、重力も地球上の6分の1である月面上では戦闘の勝手が違うし、使用できる能力にも色々と制限がある。 しかし、大き過ぎる力の激突が巻き起こすであろう迷惑を考えれば、地球上で模擬戦などの特訓を全力で行なうのは問題過ぎた。 結局、現状では、あのシュークリーム騒動後にネルフの訓練場に密かに加えられた月の裏側特設リングだけが、使徒能力者が全力でぶつかり合える戦場なのだった。 ……もっとも、リングと言っても白いマットも赤と青のコーナーポストも無い、殺風景なバトルフィールドではあるのだが。 「じゃあ、そろそろ帰るわよ。お願いね、チカゲちゃん。」 鍛錬を兼ねて自分のATフィールドで自分の運動能力を普通の人間並みに押え付けたミサトが、今まで観戦に徹していた矢矧チカゲに頼む。 「……はい。」 今回の月面特訓に来ていた4名…チカゲを入れると5名…が、足下に出現した黒い穴にズブズブと飲み込まれると、次の瞬間コンフォート17マンション屋上プールのプールサイドにボタボタと吐き出された。 チカゲが持つレリエルの能力で、月と地球の間を瞬時に踏破したのだ。 「さって、ひとっ風呂浴びてから解散するわよ。良い?」 激しい特訓で汗と砂埃まみれになった一同が、ミサトの提案を全会一致で承認したのは言うまでも無かったのだった……。 翌朝、第3新東京市立第壱中学校2年A組は異様な空気を孕んでいた。 それは、ただちに炸裂すると言った類のモノではないが、いよいよ明日に迫ったXデーに向けてゆっくりゆっくりと確実に増大し続けていた。 だが、その焦点にいる男子生徒は全く気付いていなかった。 己が全ての原因だと言う事に。 その代わり気付いたのは、転入したばかりで未だ慣れていない女子の一人だった。 『チョコ…』 まだ新たな制服も用意していない、その女生徒の心の耳に飛び込んできたのは、 『チョコ…用意しなきゃ』 製菓業者の販促キャンペーンにして 『手作り、上手くいくかなぁ』 一大告白イベント 『今日の帰りにお店に寄って…』 バレンタインデーの準備についての諸々であった。 『チョコ…』 しかも、十数人分の心の声をたっぷり6時間、びっしり繰り返し。 その結果、 『私も用意した方が良いのかなぁ……色々お世話になったし、義理なら……』 引っ込み思案なはずの娘がここまで考えるほど、精神汚染されてしまったのだった。 一方その頃、地下の穴倉に設けられた科学の要塞では… 「……そろそろね。」 飲みさしのコーヒーを一気にあおった白衣の少女が、仕事の手を休めて立ち上がった。 《あら? ご休憩ですか?》 同僚と言うには少々難がある有機コンピューターのマギ・メルキオール…碇ユイ…が呼び止める“声”に、リツコもデータ回線上に置いている自分の身体の一部からの“声”で答える。 《ええ。そろそろデパートの開店時間ですから。》 あらかじめ注文しておけば問題無いのだろうが、掘り出し物を探すと言うのも実に楽しいものである。 そこでリツコは、真面目に学校に通っている小娘達が殺到する前に一通りの買い物を済ませるべく綿密なスケジュール調整を部長権限でやらかしていた。 まさに権利の濫用であるが、誰も気にしていない……いや、指摘する勇気が無いので問題としては浮上しない。……と言うか、それ以前にリツコの勤務シフトは異常に過密なので、自分の都合で1日2日休んだとしても誰も文句を言えないという事情もあるが。 《では、ちょっとお願いがあるんですけど、よろしいですか?》 少しだけ含み笑いが混じった口調に好奇心をそそられたリツコは、 《内容によるわね。》 唇の両端を薄く吊り上げ、再び椅子に座り直したのだった……。 放課後、2日連続でネルフに出仕したシンジの元に意外な来客が訪れていた。 「入るぞ。」 ただ一言宣言して、返事を待たずに執務室の扉を開く。 「何の用、父さん?」 幸いにもオフィスラブの真っ最中では無く、シンジは目を丸くしながらも、すぐさま体勢を立て直して来訪理由を尋ねる。 「来い。」 それだけ言い放ったゲンドウは、詳しい事情を説明する手間すら惜しんで踵を返した。 慌てて父の背を追ったシンジを先導して無言で歩むゲンドウが案内したのは、かつて人工進化研究所と呼ばれた地下深くの研究施設の中でも最下層に近い場所……ターミナルドグマであった。 「こ…この人達は?」 真っ暗で広い部屋に並べられたカプセル・ベッドの半透明カバーから覗く人の影に気付いたシンジは、前を行く父に訊ねる。 「エヴァの失敗作だ。」 振り返りもせず言葉少なに答え、ゲンドウはずんずん先へ先へと進む。 彼がようやく足を止めた場所には、曲がりくねったパイプで形作られた金属の脳味噌とそれから下に向かって伸びる円筒形の水槽があった。 「ここって?」 そのオレンジ色の水を湛えた、ちょうど人が一人入れそうな大きさの水槽に目をやったシンジの質問に答えながら、 「ダミープラグのプラント…部品工場だ。」 ゲンドウは持参したリモコンのボタンを押した。 ゴゴゴゴゴ…と部屋を囲むシャッターが開き、オレンジ色の光る水が部屋を薄暗く照らし出す。 その液体の中を漂う無数の人影を曝け出すのと引き換えに。 「綾波レイ?」 名を呼ばれたレイ“たち”が一斉にシンジの方を見る。 何の感情もこもっていない目で。 「まさかエヴァのダミープラグは……」 シンジの姿を認め、たくさんのレイ達が一斉に笑顔を浮かべる。 口を大きく開けた無邪気な満面の笑みを。 ただし、視線は虚ろなままで。 「そうだ。ダミープラグの制御中枢、その生産工場だ(ATフィールドの強さが戻って来たか。……だが、まだ弱い。この状態で使徒の前に出しては殺されかねん。)。」 説明するゲンドウの無表情が、実は溢れ出そうになる苦悩を意志力で無理矢理抑え付けた結果であるとは、シンジならずとも気付く事はできないかもしれない。 「これが?」 サングラスで視線を隠すのみならず、 「ここにあるのはダミー。そして、レイの為のただの部品だ。」 自身に催眠暗示を施して心を鎧い、万が一にも内心を知られないよう10年以上鍛え続けているゲンドウの真意をうかがい知るには、シンジは人生経験が少々足りなかった。 「お前もレイと同じく、ユイを取り戻す為の部品に過ぎない。」 ゲンドウが酷薄な言葉を重ねる毎に後ろ手で拳を握り締め、掌に血を滲ませているのを察するには、言葉の刃は鋭過ぎた。 「……僕が言ったから……母さんに会いたいって言ったからじゃないの?」 一縷の望みにすがろうと哀願の瞳を向けるシンジを、ゲンドウは冷たく突き放す。 「免罪符が欲しかっただけだ。おかげで罪悪感を感じずに済んだ。それだけは感謝してやろう。」 痛過ぎる言葉の毒で。 咽喉元まで込み上げる罪悪感を必死に押し隠し、能面の如き無表情を押し通して。 「そんな……。うわあああああああああああああ!!」 打ちのめされ膝を折ったシンジが咽喉も裂けよと絶叫を上げると、オレンジ色のLCLが満たされた水槽にプカプカ浮かぶレイ達が蠢き、水槽の縁に集まってくる。 『……これだけやれば充分だろう。』 レイ達の動きの変化からシンジのATフィールドが充分強まったと見極め、ゲンドウは左手に持っていたリモコンをうずくまるシンジの前に置いた。 「“レイの部品”はLCLから出して30分もすれば駄目になる。何かするなら、その間にやれ。」 嗚咽を上げ続けるシンジに聞いてるのか聞いてないのか判然としない注意を言い捨ててから、ゲンドウはダミープラグ・プラントを後にした。 受けた衝撃に膝を屈し、うずくまるシンジを残して……。 その頃、第3新東京の繁華街で、 「……碇君? ……来るわ。」 珍しく一人で買い物に来ていたレイが空を仰いだ時、 街に流れる有線放送の音楽や売り子の呼び込みが、 非常事態宣言を伝える警報一色に塗り変わった。 とうとう第16の使徒が来襲したのだ。 街路に溢れる人々が最寄りのビルや地下出入り口へ向かい、あるいは1台残らずシェルター直通便に変わった路線バスや地下鉄へと乗り込んで避難を開始する。 5分の警告期間が過ぎた高層ビル群は入り口を閉じ、一斉にその身を地に埋める。 第3新東京市の中心部に位置するビルのほとんどは迎撃設備を内蔵した偽装システムビルであるが、民間企業が入居しているビルもあるし、偽装の為に1〜2階部分には一般の店を入居させている兵装ビルもある。 そういうビルが、中に民間人を載せたまま巨大なエレベーターと化して沈降してゆく。 そして、ビル群が地下に収納された状態で再び固定された時、各階の非常扉と通常の出入り口に避難シェルターへと続く非常脱出通路が接続された。 ジオフロント天蓋部を縦横に走る幅広の自動走路が早足で歩くほどの速度で市民達を外周部地下にある最寄りのシェルターに運ぶのにかかる所要時間は、およそ10分。 これに移動にかかる諸々の手間を加えて30分あまりで避難は完了し、逃げ遅れた人の有無を監視カメラなどで確認した後、脱出通路は何重もの隔壁で厳重に閉鎖される。 ……もっとも、ここまで早く避難できるのは第3新東京市ならではであるが。 2週間に1度ほどの頻度で行なわれている避難訓練と度重なる使徒襲来における実際の避難経験のせいか、人々は整然かつ迅速に行動し、目立った混乱が発生しないのだ。 そんな人の流れから外れた黒髪の少女が一人、シェルターへと向かう順路から別の経路へと迷い無く歩いて行く。 買い物帰りなのだろうか大きな紙袋を抱いた少女が無人の通路をズンズン進んで行く目の前で、行く手を塞いでいる扉が次々開いてゆく。 そして少女が通り過ぎるや否や、扉は彼女の後ろで次々と閉じてゆく。 まるで、哀れな獲物が丸飲みされてゆくが如くに。 ……しかし、勿論そんな訳は無い。 濃紺のブラウスとスカートに身を包んでいる少女が浮かべている表情は自信に溢れたものだったし、足取りは自分の家の廊下を歩いているかのように確かだった。 やがて簡素な柵で仕切られた非常用のプラットホームが見えてくると、少女は先客がいるのに気がついた。 「あら、レイじゃないの。」 蒼銀の短髪に真紅の瞳、第3新東京市立第壱中学校の制服に身を包んだ硬質の雰囲気をまとう美少女が。 「……赤木博士。」 蒼髪の少女…レイが振り返り、自分を呼んだ者の名を呼び返す。 「珍しいわね、今の時間にここにいるなんて。」 もっとも、珍しいと言えば白衣以外の格好のリツコと言うのも珍しいのだが。 「そんな事より、碇君が……」 スペアの身体が受けた影響をおぼろげに受け取ったレイは、今にもリフトの縦穴に飛び降りかねないほど焦燥で思い詰めた目をしている。 「ええ、急ぎましょう。」 それに気付いたリツコの表情も暗い。 基地機能の大半を掌握している彼女には、ターミナルドグマでシンジの身に何かが起きた事を察していたのだ。 と言ってるうちに電磁カタパルトで加速されたリフトが2人の目の前で緊急停止した。 使徒迎撃の際にエヴァ・チルドレンを緊急発進させるのに用いられているリフトではあるが、その利便性と高速性から緊急時における基幹要員の移動にも使われる。 その為、本来の用途での目的地である地上だけではなく、途中の区画に設けられた非常用プラットホームからでも乗降できるよう設計されているのだ。 何かを言う時間すら惜しんで座席に着くレイに続いて、リツコも手早くシートベルトを締め、非常用の昇降ボタンに手を伸ばす。 「行くわよ。」 「問題無いわ。」 超特急を指定するボタンを押し込むと同時にガツンと加速が始まった。 落ちるどころではない。 単なる自由落下に加えて、初期加速の勢いが血流を頭に押し上げてゆく。 しかし、30を数えるほどの時間が過ぎると、逆に急減速による押し潰されるような荷重が2人に圧し掛かった。 ごく短時間の責め苦の後、ケイジに到着した2人のうちリツコが大の大人でもキツイ加速度責めの影響を感じさせない動きですっくと立ち上がる。 「レイはシンジ君の方をお願い。」 それだけ言い残し、リツコは発令所へ向けて駆け出した。 この騒ぎでも、紙袋はしっかり手放さずに。 薄暗い空間に浮かぶ灰色の尖塔……司令塔第一発令所。 「戦自の迎撃は効果ありません!」 中央部に映写されている積層型液晶ディスプレイと投射型スクリーンの複合方式を用いた立体的な地形情報や戦術情報。 「目標接近、強羅絶対防衛線を通過。」 主要人員が全員日系人な為か酷くローカルな言語だけが飛び交っているが、適切な訓練を積んでさえいれば理解にさほど苦しむ事は無い。 「エヴァ・パペット初号機、弐号機発進!」 そして、下層の階で立ち働いているオペレーター達に混じって適当に忙しそうにしていれば、戦闘のドサクサもあって正体が露見する危険は少ないと彼は判断していた。 最近補充されたゼーレの監査員である、彼は。 しかし、彼は気付けなかった。 彼が使徒戦が始まった隙を突いて本格的な情報収集を始めたように、戦闘のドサクサに紛れようとしていた何者かが近くに潜んでいる事を……。 一方、塔の頂上にある司令席では…… 「碇、シンジ君は?」 白髪頭で細面の男が、髭面の男に司令直々に行なった作戦の首尾を問うていた。 「使えるようにはしてきた。後は、やる気次第だ。」 苦い笑みをサングラスと口の前で組んだ手で隠し、小声で答えるゲンドウ。 「正直、難しいのではないのかね?」 何があったのか詳細までは分からないながらも、計画の遂行途中でシンジが対使徒能力の減退で戦死しないよう、肉親であるゲンドウがシンジを冷たく突き放してATフィールドを強めたと言う事ぐらいならば冬月にも分かる。 シンジの生命を使徒からもゼーレからも守るには必要な処置であったが、立ち直って迎撃に出てくれると期待するには使徒襲来までの時間が短過ぎた。 自力で割り切って立ち直ってくれると期待するのも、また酷である。 容易には立ち直れないほどに心を打ち据えた直後なのだから……。 「出現のタイミングが良過ぎる。あるいは何らかの作意が働いている可能性がある。」 もしかしたら、ゲンドウの失脚を狙う連中がネルフ本部の内部で泳がせざるを得ないスパイから得た情報で動いた結果なのかもしれないが、定かではない。 「それより、シンジ君の影響じゃないかと思うんだがね。」 第3新東京市は、地上に築かれた都市に住む人間の気配とネルフ本部基地内に張り巡らされた結界でアダムとリリスの存在を誤魔化して、使徒がそれらを察知して目覚め難いように配慮された設計になっている。 だが、リリスやアダムが安置されている近くでシンジが強烈なATフィールドを放ってしまっては、せっかくの隠蔽効果も霞んでしまう危険が高い。 ただ…… 「ああ。……だが、それは問題無い。」 それはシンジが使徒撃退能力を回復した証であり、ゼーレがシンジを利用価値無しとみなして抹殺に動く危険を当座は回避できた事であるからだ。 最悪でも使徒がシンジがいる場所まで到達すれば、順当に勝利は可能であろう。 問題なのは…… 「後はシンジ君次第か……」 シンジが立ち直ってくれるのが何時かって事が今回の使徒迎撃戦の被害規模を決定するだろうと慨嘆する冬月に、ゲンドウは一言だけ告げた。 「問題無い。」 『仮にも俺の息子であるのなら、そこから這い上がってみせろ。』と、心の中で付け加えた声は、本当に誰にも届きはしなかったが……。 そんな遣り取りをしている間にも、使徒の侵攻は着々と続いて… 「目標は大涌谷上空にて滞空。定点回転を続けています。」 …いなかった。 光り輝く二重螺旋が円環状を成している使徒は移動を止め、200mほどの高度に浮かび、時計回りに回転し続けていた。 それに対峙する位置には、浅利ケイタ二士が搭乗するパレットライフルを装備した初号機パペットと、ムサシ・リー・ストラスバーグ三士が搭乗するビームライフルを装備した弐号機パペットが布陣し、上空の敵へと狙点を定めている。 「目標のATフィールドは依然健在。」 しかし、攻撃開始命令は出ない。 ……無駄だからだ。 使徒のATフィールドを中和できないエヴァ・パペットだけの攻撃では、N2爆弾や陽電子砲の様な大威力の兵器でも引っ張り出さなければ通用しないのだ。 そして、そんな兵器を大気圏内で気軽に使用するのは狂気の沙汰である。 そういう兵器を下手に使ってしまうと、使徒が直接に出した損害よりも深刻な被害を至極あっさりと撒き散らしてしまう恐れが多分にあるのだから。 早くも訪れた膠着状態に焦れる事も無く冷静に“敵”の持つ能力の分析に務めている発令所に、新たな要素が到着した。 「状況は?」 司令部後方の扉が開き、現れたのは私服姿のリツコであった。 「手詰まりに近いわ。……シンジ君待ちってとこ。」 非難がましい事は一切言わず、ミサトは努めて簡潔に現状を告げた。 逆の場合だとほぼ必ず文句が飛ぶのとは対称的な対応である。 「パターン、青からオレンジへ周期的に変化しています。」 日向が今回の使徒特有の特徴を報告するのに、 「マギの答えは?」 リツコは、まずはマギの判断を訊ねる。 「回答不能を提示しています。」 しかし、マヤの答えは残念ながらリツコの予想の範囲内であった。 『……母さん達でも分からないのね。』 「答えを導くにはデータ不足ですね。」 青葉が言うまでも無く、判断材料が足りないのは確かである。 ただ…… 「ただ、あの形が固定形態でない事は確かだわ。」 リツコが見た所、使徒の形状が今のまま変化しない可能性は僅かであった。 ……恐らく、自分と同系統の…必要に応じて自分の形状を変えられるタイプの…使徒だと見て取ったのだ。 「先に手は出せないか。」 ミサトがそう呟いてスクリーンに映し出された使徒を改めて睨み据えた時、使徒の回転が前触れも無く急停止した。 「なにっ!」 状況の変化に驚いたムサシの弐号機パペットが命令を待たずに発砲する。 だが、やはりまるで効かない。 「この馬鹿っ! さっさと下がりなさい! 浅利二士は援護、急いで!」 使徒の二重螺旋が束ね合わされ一本のひも状になり、円環の一部が切れて蛇状に変わり蠢き出した。 ……2機のエヴァ・パペットの方ではなく、北へ向かって。 「くっ! 弐号機パペットは回収ルート18番で退却! 初号機パペットは追撃!」 素早くミサトからの指示が飛び、 「279番、315番の兵装ビル…射撃急げ!」 カティーの指示で放たれた対空ミサイルの雨が使徒の足を僅かに鈍らせる。 「何で俺だけが!」 しかし、ムサシは文句たらたらで動こうとはしなかった。 「先回りする為よ。いいから早くするっ!」 だが、上官であるミサトに一喝されて、すごすごと回収リフトに向かう。 操縦シミュレーターでの成績がかなり優秀だったので今回の操縦者に抜擢されたムサシであったが、この一件で二士への昇進は見送りになるだろう事は疑い無かった。 ……このままであったならば。 ネルフ本部の要員でも限られた者にしか立ち入れないターミナルドグマ。 本部基地の最深部に位置するこの区画のうち、ダミープラグ・プラントと呼ばれる場所にうずくまって動かない少年の姿を目の当たりにした時、少女の心臓に錐で抉られたかの如き痛みが走った。 「碇……君…………」 張り付く咽喉からやっとの事で絞り出した小声は、わだかまる静寂を揺さぶる事すらできず、薄暗い室内へと消えてゆく。 少年と少女の姿を照らすのは、少女の姿をした肉の器が無数に漂うオレンジ色の液体が放つ光のみ。 重い足を引きずって歩いたレイの影が少年の上に被さって、ようやく少年は虚ろに呆けて俯いていた顔を上げ、足音の主の方へと視線を向けた。 「綾波……」 目尻に溜まった滴は拭われず生乾きではあったが、ともかくもシンジの目の焦点は目の前の少女に合わさる。 「碇君……」 レイの視線もまた、シンジの瞳を真っ直ぐに見詰め返す。 同時に、周囲の水槽に浮かぶレイ達の視線もシンジに集中する。 圧力を増した沈黙の緞帳を切り裂いたのは、シンジの方だった。 「今まで黙っていたのは、何故?」 糾弾の意が全く込められていない質問に、かえってレイは口篭もる。 何を言っても言い訳にしかならないと分かり過ぎるほど分かっているから。 『答えて……くれないんだ。信じたいのに…信じたかったのに……』 待っていた否定の言の葉が貰えず落胆を覚えたシンジは、目を逸らして溜息を吐き、胸中で毒々しく芽吹いた黒い感情を良く吟味もせずに吐き出す。 「僕の事なんて、本当はどうでも良かったんだ。……そのくせ、使徒が来たら迎えに来てくれるんだね。」 疑問が自嘲に変わり自閉に移る刹那、 「違うわ。」 レイの口が強い否定の言葉を紡ぐ。 「違わないよ。」 シンジの口がレイの言葉を即座に打ち消す。 「……そう。碇君が戦わないなら、私が出撃する。……碇君を守りたいから。」 しかし、揺らがぬ瞳に込められたレイの決意に、見上げる格好のシンジは気圧される。 不合理な考えではあるが、視線がATフィールドを貫き通してレイのひたむきさを流し込んで来るように感じ、世を拗ねてしまおうとしたシンジの心に活が入る。 「何で?」 「私は碇君の物だから。」 やっとの事で搾り出された問いに、己の真実で即答するレイ。 それが虚言で無いと理解できる程度の洞察力は、流石のシンジにすら備わっていた。 「危険なのに、何故……」 使徒の戦闘力は段々手強くなっており、普通に戦えばかなりの危険が予想される。 「私には代わりがあるから。」 最悪、戦死するかも……とシンジが考えたところで、レイは言い切った。 自分は単なる消耗品に過ぎないのだと。 使徒と戦う為の駒に過ぎないのだと。 シンジを守る盾に過ぎないのだと。 そう、言い切った。 何に向けられるべきか判然としない怒りが心の奥に沈殿して黙り込むシンジを見て、決意を固めていたはずのレイの心は頼りなく揺らいだ。 「……それとも、私は要らないの?」 シンジの為に生き、シンジの為に死ぬ事。 自らの存在意義をそう規定したレイにとっては、シンジに必要とされない事は生きていても意味が無いと言う事でもある。 それは、とてもとても恐ろしい事であった。 「そんな事無いよっ!」 笑う膝に力を込め、無け無しの根性を振り絞ってシンジは立ち上がる。 「そう。……じゃ、行くわ。」 そんな彼を見て顔を僅かに綻ばせ、レイは踵を返す。 シンジを守るべく使徒を迎え撃とうと……。 だが、歩き出そうとしたレイの右手を、シンジの右手が握って引き止めた。 「何で話してくれなかったの?」 またもや主語の無い質問だが、レイにはシンジが何が聞きたいのか良く分かった。 「……嫌われたくなかったの。」 耳元で囁かれた問いに、レイは観念して白状する。 こんな下らない理由で大事な事を伝えていなかったのだと。 「何だよ、それ!?」 案の定怒られる…と思ったら、シンジの怒りのベクトルはレイの予想とは異なる方向に向いていた。 すなわち、こうまで思い詰めているレイに気付いてやれなかった、そして、無理に訊いてしまったシンジ自身に……である。 「アナタは気持ち悪くないの?」 私みたいな化け物…と続けようとしたレイの華奢な肩をシンジは思い切り抱き締める。 「関係無いよ! 綾波は綾波だろ!」 肩越しに唇を貪られるレイの肢体が己の意志の制御を離れて激しく暴れ、すぐにぐったりとシンジの腕に身を任せた。 双眸から溢れ出す清水の滝に合わせ、水槽の中でプカプカ浮かんでいるレイ達もヒクヒク痙攣し、酸素を求めて口をパクパクとせわしなく動かす。 「碇君……使徒が……」 このまま一気に流されてしまいそうな状況で、レイは最後の理性を総動員してシンジが獣と化して自分を蹂躙してくれるのを止めようとする。 このまま使徒を放置していたら、被害がどうなってしまうか分からない……と。 「そうだね。……じゃ、後でたっぷり“おしおき”してあげる(綾波なら単に『許す』と言われるよりも、こう言われた方が気が楽だろうし……)。」 いきり立つ自分のモノを突貫させるのを思い止まったシンジは、そう囁くとレイをもう一度軽く抱き締めてから手を離した。 メスの芳香を放ちつつ床にへたり込むレイを後に残し、シンジは足早に駆け出す。 自分が赴くべき戦場へと。 初号機パペットが空をうねりのたくる紐状の使徒を追いかけ、手にしたパレットガンの弾丸をありったけ撃ち込んでも、肩のウェポンラックに装備した地対空ミサイル8発を全弾命中させても、使徒の侵攻速度が僅かに鈍るだけで相手にすらして貰えなかった。 「弐号機パペットは装備を接近戦用に換装して仙石原に再配置。」 ミサトが自分でも時間稼ぎになるかどうか怪しいと感じている手を講じるが、さりとて全く手を打たない訳にもいかないのが彼女の立場の辛いところ。 『せめて、待機中のアスカ達まで使うような事態にならなきゃ良いけど。』 チルドレンの立場から実質上逸脱したアスカを始めとする使徒能力者は、まだシンジの影響を受けていない使徒と激しくぶつかり合うと、使徒の本能が刺激されて目覚めてしまう危険性が指摘されていた。 つまり、そう気軽に使徒迎撃に駆り出す訳にはいかないのだ。 「シンジ君とレイが来るまでの辛抱よ! 頑張って!」 結局、最善の手はエヴァ・チルドレン2人の到着まで通常戦力で何とか事態の悪化を食い止めることしか無いのであった……。 どうしよう。 私の今の状況を表現するには、この一語が適当でしょう。 サイレンが鳴っているのに気付いたのは30分前。 それが火事でも刑事事件でも避難訓練でも無く、特別非常事態宣言が発令された事による避難勧告だと知ったのは、サイレンが鳴り出してから10分後。なかなか鳴り止まないサイレンの音に、ひょっとして…と思ってテレビを点けて速報を確かめた時でした。 それから急いで荷物をまとめて家を出たのですが、そもそも何処に避難するべきなのか知らないと言う事に気付いて、家の中に駆け戻りました。 確か、昨日のうちに碇さんから貰ったメモがあったはず…… できれば今日中に場所を確かめておいた方が良いって忠告を守らなかった事に軽い後悔を覚えながら、学校のカバンの中を探す。 ……無い。どうしよう。 途方に暮れかけた私の目に、ふと机の上に載っていた参考書が止まりました。 ! もしかして…… ページを繰っていたら、二つ折りにした紙片がしおり替わりに挟んであります。 あった。 こんな所にあったなんて、盲点でした。 急いでメモを広げて、避難場所を確認する。 ……最寄りのシェルター入り口……ここの近くは……公園入り口ですね。 改めて玄関を施錠し直してから、右手に持ったメモを頼りにシェルターを探し歩いたのですが、ようやく見つけた時には入り口はしっかり閉まっていました。 どうしよう。 後で聞いたら、入り口の脇にある非常用コンソールの読み取り機にIDカードを通せば何重ものエアロック状になっている迂回経路を通ってシェルターに避難できるそうなのですが、この時の私には分かりませんでした。……実は貰ったメモにはその事についても書いてあったのですが、それを改めて見直すなんて余裕は私にはありませんでした。 空に浮かんでいる光る蛇が、山の向こうから私を見つけたのが分かってしまったから。 矢継ぎ早に響く風切り音に続いて、辺り一面に轟く花火にも似た爆音。 蒼穹に走る色取り取りの火花に、何度も煌めく閃光。 飛行機雲をたなびかせて光る蛇へと突き刺さり、炸裂する鋼矢。 ……でも、派手に見える割りに効いてないみたいです。 あ、またこっちを見た。 逃げないと…と思うけど、足がすくんで動きません。 蛇が鎌首をもたげて…… 私に向かって突撃してきました。 私の方に……じゃありません。 何故かは知りませんが、“アレ”が私を狙っているのが分かります。 もしかして、私が持っている“力”に感応してるんでしょうか? どんどん大きくなる“ソレ”を見ながら、そんな事をぼんやり考えていると…… 「やらせるかっ!」 私と“ソレ”との間に赤い巨人が立ち塞がり、構えていた大きな斧を思い切り良く振り下ろしました。 ですが、役に立ちませんでした。 巨人の身体は不自然なほどあっさり貫通され、突進の勢いは多少鈍ったものの、それでも徒歩で逃げるなんてとんでもないってスピードで私に迫って来るのを、私は他人事の様に見ていました。 ……あまりの光景に、パニックになっていたのだと思います。自分が傍観者だと思い込む事で心の平衡を保とうとしていたんでしょうか。 でも、やっぱり事象は…光る巨蛇は、私を見逃してはくれませんでした。 私のお腹を何かが貫いたと感じた瞬間、私を待っていた運命は引き裂き千切れてボロ雑巾の如く骸に変わるなんてもので無い事が解りました。 私の大きさに合わせているのか、急速に長さと太さを減じてゆく光蛇が私そのものに食い込んでゆく毎に苦痛が走り、同時に快感が背筋を駆け巡って頬が熱くなる。 「くっ……」 “それ”が食い込んでいる所が、葉脈の如く私の身体の表面を走っているのが分かる。 「あっああっ……」 指一本を動かすどころか立っているのでさえも苦しくて、私がペタンと尻餅を突いてしまったけれど、食い込んで来る“モノ”の感触のせいでそれどころではありません。 薄れてゆく意識の片隅に、誰かの姿が見える。 ……あれは、誰? 「あっ…あああああっ……」 目を凝らそうとすると、皮膚の内側を這い登って来る“根”が肉の内側に食い込んで来る痛みが焦点を霞ませてしまう。 家の…家の外なんかに出たから……こんな、こんなことに…… 家の中に居れば、期待した以上のことは起こらないけど、それより悪いことも起きないのに、自分の思う通りのことができるのに……。 ──本当に? 視界の端に居る少女の口の両端が、ニッと吊り上がった。 ──本当は分かっているんでしょ? 家の中に居たって同じことだったって。安全な場所に逃げるのが遅れたから、こうなってしまっているんだって。 「やっ…ぁぁぁぁぁ……」 嫌、入って来ないで! 心を覗かないで! 覗くのも覗かれるのも嫌なの! ──自分は今まで散々覗いてきた癖に。嫌だと思ってるのも嫌な癖に。 冷めた口調で、少女は嘲笑う。 嫌……嫌ぁ…… ──口で話すのは嫌いなんでしょう? 面倒臭いんでしょう? 言葉を重ねても理解できないんでしょう? 勝手なイメージを押し付けられるのが嫌なんでしょう? でも……でも、でもっ…… ──なら、心を覗くしか無いじゃない。あなたがいつもやっている様に。 助けて……誰か、助けて…… ──助けるって、誰が? もう、あなたを助けてくれる人は誰も残っていないのに。 私の記憶の奥底から、母が首を絞められて殺される場面が遠慮無く引き出される。 嫌、止めてっ! こんなの見たくないっ! 私の記憶の奥底から、私を逃がしてくれようとした優しい研究員のハンスお兄さんがピストルで撃たれる場面が引き出され、見せつけられる。 やだ…… 私の記憶の奥底から、私の口に得体の知れない液体の入った瓶が押しつけられて中身を流し込まれた時の場面が引き出され、見せつけられる。 見たくない、見たくないのに! やっと忘れたのにっ! せっかく忘れていられたのにっ! そして…… 自分で飲ませた薬剤のせいなのに、私に心を読む“力”が備わったのを知って日々心を病んでいき……最後には私まで殺そうとした人の姿を。 母を殺し、研究員のお兄さんを殺し、私を殺そうとした人の顔を。 「いや、やめて……」 ……私の実の父の顔を。 「あああああああああああああっ!!」 どうして……どうして、こんな酷いことを…… 誰か、誰か助けて…… ──ふ〜ん、これって酷い事なんだ。でも、あなたがいつもやっている事でしょう? 違う。こんな事やってない……やってない…… ──心の中を暴いて、それを人に伝える。どこが違うの? そ…それは…… ──どこか違うの? 純粋に不思議そうに問われ、私は却って追い詰められる。 一分の隙も無く、じわじわと包囲を狭められている様な気がして。 犯してしまった罪を冷静に分析されている様な気がして。 助けてっ!! ──あなたを助けてくれるのは誰? 暗鬱な気分になる。 確かに、この得体が知れない……顔も良く見えない少女の言う通り、助けに来てくれる人の心当たりは無い。 ──お養父さん? あの人は単に仕事であなたを引き取って、育てて、監視して、利用していただけ。 他人から改めて指摘されるまでも無く、その通りだった。 ──加持お義兄ちゃん? 確かに親切な人だったけど、あなたの為に命をかけてくれるほど優しかった? 加持お義兄ちゃんは小さい頃から私と良く遊んでくれた人だけど、ただそれだけ。 今の私を助けに来てくれるなんて期待はできない。 加持お義兄ちゃんには、加持お義兄ちゃんのやる事があるんだから……。 ……後で知った事だけど、実は加持お義兄ちゃんって8年間思い続けてきた相手に袖にされたせいで、やる筈だった事がやらなくて良くなったらしいので、頼めばやってくれたかもしれなかったんですけど、この時の私には知る由もありませんでした。 ──本? 本は確かに裏切らないけど、今のあなたを助けてくれるの? 本……たくさんの人が思いを綴った、知識を記したもの。 でも、伝説の魔導書でもないただの本に、物理的なパワーは無い。 魔法的なパワーを発揮してくれる事も無い。 どんなに心を豊かにしてくれる詩集でも、肉を割り裂き食い込んでくる牙は防げない。 ──それとも、彼? 靄がかかってボヤけた視界の中に、やけにくっきりと見える一人の少年の姿が見えた。 地上で第16使徒が弐号機パペットを擱座させ、山岸マユミを捕らえていた頃。 彼女の扶養責任を負っている親権者は、マユミの運命なぞほったらかしで、ネルフ本部基地の地下深くへと潜入していた。 最深部に位置し、重要機密が一山幾らで眠っているターミナルドグマへでは無い。 そちらの方はゼーレ直属の監査員である彼ならば、正式な手続きさえ踏めば堂々と正面から調査に踏み込める。……もっとも、少々調べたところで尻尾を出すほど可愛い偽装はされてないだろうが。 問題なのは“書類上では存在していない区画”である。 ゼーレへの報告には無い施設があると言うなら、是非とも調べておかねばなるまい。 山岸ヨシハル少佐が全身を緊張させて開いた通路の先の気配を探ろうとすると、殊更に探るまでも無く一人の青年が物蔭から姿を現した。 「ここは通す訳にはいきませんよ。」 男にしては長い黒髪を後ろで束ね、無精髭を生やした黒い目の男だった。 よれよれのYシャツに曲ったネクタイと言うだらしない出で立ちにふさわしく隙だらけで両手をポケットに突っ込んでいるが、ある一定以上の技量を持つ戦闘者には実は全く隙が無い事が見て取れる構えで。 「そうか、君はネルフに転向していたのか。……だが、そう言われて引き下がると思っているのかね、加持君。」 既に臨戦体勢に入っていた山岸少佐の目が眼球を全く動かさずに周囲を良く観察する。 息詰まる対峙の中、互いに息を殺してタイミングを測り難くする2人のスパイ。 「この先は危険です。見ない方が良い。」 だが、諜報技術に関する恩師に向けた忠告が、そのまま加持の隙となった。 熟練の手品師の手練にも比する鮮やかさで少佐の掌の上に現れたリンゴ大の物体は、激しい閃光を加持の両目に浴びせ掛けた。 こういう時に良く使われる閃光手榴弾では無く、カメラのストロボフラッシュの様なライトを用いて。 更に鋭く小さなナイフが加持の首筋を狙って閃くが、加持は後ろに大きく跳んで躱す。 追い討ちで袖に隠していた消音器付きの拳銃を3連射するが、少佐が銃を抜いて構えるまでの僅かな時間を利した加持は物蔭に隠れて銃弾を避け、そのまま姿を消した。 「逃げた……か。」 加持の姿を見失った辺りに厳重に施錠された丈夫な隠し扉があるのを発見した山岸少佐は、ここで難しい判断を強いられた。 例え加持がすぐに彼の事を報告したとしても、即座に身一つで脱出すれば何とか逃げ切れるだろう。 しかし、ゲンドウ相手に後日仕切り直しをするのは、ひたすら不利だった。 相手は情報操作と証拠隠滅に長けており、ものの数時間もあれば地図に無い区画を地図通りに消し去ってしまう程度の事は容易く行なえる筈である。 ……彼がゼーレに連絡を取るまでに要するであろう、僅かな時間で。 しかも、他の諜報員がここまで潜入できる見込みも少ない。 使徒迎撃戦の混乱に乗じてすら、ここまで侵入するのは綱渡りの連続だったのだ。 ……彼の技量を以ってしても。 故に、他の諜報員の活躍に期待するのも事実上不可能であった。 『何か決定的な証拠を握って脱出するしかない。』 その結論に達するまで、僅か数秒。 廊下の奥に並んでいる扉の一つを調べ、 『中に誰かいる気配がするな。……一人か。』 妙な仕掛けが無い事を確認してから開ける。 中にいた白衣の研究員に拳銃を向け、警告する。 「動くな! 妙な事をすると撃つぞ!(どうせ後で射殺するが、こいつに説明させた方が手っ取り早くて良い。随分と大味なやり方だが、手段を選んでいる余裕は無い。)」 銃を向けられている若い女の研究員が、何故か艶然と微笑む。 「あらあら。随分と活きが良い“丸太”ね。実験のし甲斐がありそう。」 悪魔も鼻白んでしまいそうなほど邪悪さが滲み出ている微笑みを。 『馬鹿なっ! こいつがここにいるはずはっ!』 動転して……いや、恐怖して、引くつもりが無かったトリガーを何度も引く。 しかし…… オレンジ色の輝きが女を包み、銃弾を白衣に触れる直前で停止させた。 「あ……あああああっ……」 赤木リツコの前で。 正確には、イロウルの能力で形作られたリツコの身体を包むようにびっしりと無数に展開されたATフィールドの表面で。 「さて、おとなしくして。」 椅子から立ち上がって歩み寄って来るリツコから逃れようと後退るが、彼を迎え入れたドアは罠の顎と化して独りでに閉じた。 いや、電子の魔女がそう望んだだけで唯々諾々と逃げ道を塞いだのだ。 冷たい金属製のドアが彼の体温を根こそぎ奪ってゆく気がして、歯がガチガチと鳴る。 カチッカチッカチッ 撃鉄が何度も何度も起き上がり、何度も何度も振り下ろされるが、肝心の銃弾が尽きていては空しい金属音が響くだけだ。 それ以前に口径9oの拳銃弾如きが通用するような相手でもない。 「大丈夫よ、痛くしないわ。……無駄だから。」 リツコの懐から取り出された白い布を見ながら、“手綱”と呼ばれた凄腕のスパイ…山岸ヨシハル少佐は、人の身では堪えられない恐怖が忍び寄って来るのを本能で察し、咽喉も裂けよとばかりに絶叫を上げた。 その頃、発令所では…… 「何で使徒が山岸マユミだっけ…彼女に取り憑いたんだろ。まだシンジ君が出撃してないのに……。」 緊急出撃したJA改の手で回収されるエヴァ・パペット弐号機を見ながら、ミサトがしきりに首を捻っていた。 「彼女自身に何らかの原因があると見るのが自然ね。」 その疑問を小耳に挟んだリツコが答える。 双子でも影武者でも無い。 かと言って、地下の研究室にいる方が偽物と言う訳でもない。 両方ともがイロウルの能力で形作られた本物なのだ。 「マギは、彼女に投与されているエヴァが初号機…シンジ君に近い特質を有している可能性を示唆しています。」 使徒に侵蝕されているのを観測して初めて獲得できたデータから、マユミの“力”の秘密が暴かれてゆく。 「そう。」 マユミの読心能力は、シンジが持つ融和型ATフィールドが変質したものなのだと。 「なら、何で彼女本人が取り憑かれてるのよ。シンジ君と同じ能力を持っているなら、近くにいる男の子に取り憑くんじゃないの?」 改めて口に出されたミサトの疑問に、 「多分、ドイツ支部でやっていた訓練のせいね。あそこは、相手をより拒絶させる事でATフィールドを強める研究をしていたみたいだから。」 リツコはいつものように自ら立てた仮説を開陳する。 中途半端に使徒の注意を引いた結果、融和型ATフィールドを持たないマユミは使徒に侵蝕同化されそうになっているのだろう……と。 《そうですね。他人を拒絶するようにすればするほど初号機のATフィールドは弱まりますから、そういう環境に仕向ければ初号機の特性が発現しない事もありえますわ。》 I/O装置に間借りしているリツコの一部に直接、マギ・メルキオールが意見を寄越してリツコの仮説を肯定してくれる。 《無様ね。……それとも、それも計算のうちかしら。》 ネルフ・ドイツ支部……そして、その背後にいるゼーレの実力は侮れない。 痛恨の失策に見える事象にも裏があると読んでおいた方が無難であろう。 《ありえますね。初号機の能力を持つ者が複数いると、人類補完計画を遂行する障害になる恐れがありますから。》 もっとも、エヴァンゲリオン初号機を用いた…つまり、シンジを基軸とした補完計画を進める場合の事ではあるが。 《それでも実験していたと言うことは、それを必要とする“シナリオ”を用意してると言うことね。》 その場合、シンジは最も厄介な障害として狙われる事になるだろう。 リツコは改めて味方陣営の戦力を強化する必要性について痛感させられたのであった。 「山岸さんっ!」 彼の……碇さんの声がする。 これは、願望? ──違うわ。現実よ。 ぼやけて霞んだ風景の中で、私に入り切らなかった光蛇の尻尾の部分が碇さんに襲いかかるのが何故かクッキリと見える。 抵抗もせず無防備に巻きつかれた碇さんは、自分の胴を絞めている蛇の身体をいとおしそうに掌で撫でました。 「え?」 ただ…ただそれだけなのに、光蛇が絞める力が劇的に減ったようです。 碇さんの方から、何か暖かいお日様に照らされているような心地良さがします。 これって、何? ──分かっているんでしょう? アレが彼の心の波動なんだって。 これが碇さんの心のカタチ……他人を包み込む癒しの心。 何かが私の身体に食い込んでるのは変わらないのに、全身の神経を蝕んで私を責め苛んでいた苦痛が薄れてゆく。 それと引き換えに感じていたのだと思っていた快感は、より純化されてこわばっていた身体をほぐし始めているのが分かる。 でも、いったい何故? 何故、彼の心が分かるんだろう? 今までは読めなかったのに。 ──あなたが拒んでいたから。彼の心は常に開かれていたのに。 ……何故? 何故、そんな…… ──まだ分からないフリをしているの? あなたは怖かったのよ。自分の心が知られるのを。彼と心を繋げる事で、自分の心を曝け出す事を。 う…そ…… ──本当よ。あなたは今まで自分の心を見詰め返す強さを持つ人を読もうとしなかっただけ。一方的に覗いていただけ。スカートの中を覗く覗き屋よりもタチが悪いわ。 「あ…ああっ……あああ………」 助けて、誰か…… 誰か…… 「山岸さん。」 今度は至近距離から声がする。 え? 少女の隣に碇さんが? 何故? ──私が呼んだの。ここに来れる力を持っていたから。 ええっ? それって……もしかして…… 「うん。僕にも心を読む力はあるみたいなんだ。普段はそんなに強くないけど。」 それでも、何となく相手がどうして欲しいかとか、外国語で話してる人の会話の内容とかぐらいは分かると照れ笑いを見せる碇さんに、私は驚きの目を向ける。 「山岸さんが、その力を身につけたのって山岸さんのせいじゃないよね? だったら、山岸さんは悪くないよ。」 言って欲しかった言葉。 聞きたかった言葉。 自分は悪くないんだって。 「だから、山岸さんも自分を…自分の力をちょっとだけでも良いから好きになって、上手くつきあってゆく方法を探した方が良いと思う。……僕も、そうだったから。」 でも……こんな“力”のある人間…いえ、化け物なんて気持ち悪いですよね? 「それを言ったら、僕だって化け物だよ。山岸さん以上のね。……山岸さんは、僕が気持ち悪い?」 何時の間にか碇さんに懐いて頭を撫でられている少女に少しだけムカつきながら、首を横に振って否定する。 上手く言葉が出て来ない。 言いたい事はたくさんあるのに……。 「焦らなくて良いよ。じっくり聞くから。」 ああ、分かってくれてる! 私を、碇さんは! 歓喜に身体の芯から震えて熱くなった時、碇さんに寄り添っている少女が口を開いた。 ──私と一つにならない? 心も身体も一つにならない? 駄目です。私は私、あなたはあなた…別のものです! ──私と一つになって、彼に愛されるの。これからずっと。 ずっと? ──星の寿命が尽きる遥かな未来まで、あるいはもっと先まで。彼と私のどちらかの命が尽きるまで、ずっと。 ほんの少しだけ心動かされてしまいました。 何かロマンチックな気がして……。 ──永い時を待っていた。独りで待っていた。……もう現れないかもしれない。こんな人がいてくれるとは思ってなかった。 時を越えた恋愛なんて……。 ──だから、この痛さ、あなたにも分けてあげる。 痛っ! 苦しい……いえ、これは…寂しさ? ──いえ、それはアナタの感情。周囲に壁を作って自ら孤立していた、悲しみに満ち満ちたアナタ自身の心よ。 「山岸さんっ! しっかりしてっ!」 はっ、いけない。 ここで挫けたら、心が死んでしまうかも。 本当に身体が乗っ取られてしまいそう。 ……彼女に。 ──難しいことじゃないわ。アナタは二つだけお願いを聞いてくれれば良いの。 二つ? ──ええ。一つ目は、私を心の奥底に棲まわせて貰うこと。そして、二つ目は“彼”の傍で、彼と共に生きること。簡単でしょ? そ、それは…… ──そしたら、私の全てをあげる。あなたが私になるの。 でも、碇さんが何て言うか…… ……この子、私の弱点を知り尽くしているのかも。 弱々しく、そう反論するだけで精一杯。 「ごめん、僕は山岸さんだけって言えないんだ。……色々あって。」 ごめんって、私、フラれたんですか? やっぱり、似たもの同士って恋人になれないんですね。 「だから、それでも良いなら……歓迎するよ。」 って、え? ええっ!? 碇さんのバツの悪そうな照れ笑いを見てるだけで、小さな事に拘る気が失せてくる。 ──どうするの? アナタ次第よ。 そうだ。私がどう思うか次第なんだ。 それでも言葉にはできなくて、軽く肯いて承諾の意を表わす。 すると、少女と初めて目が合った。 私の幼い頃そっくりの姿をして喜色を満面に浮かべている少女の優しげな眼差しと。 「使徒、目標への侵蝕再開! 物理的融合が進行しています!」 発令所の大スクリーンに大写しされる、光る紐状の使徒がマユミの身体の中に吸い込まれていく光景を、それを促進したプラグスーツ姿のシンジの姿を、司令席から見守る男達がいた。 「勝ったな。」 ネルフ副司令 冬月コウゾウ特将補と、 「ああ。」 ネルフ総司令 碇ゲンドウ特将が。 最大の山場はどうやら越えたと改めて兜の緒を締め直した彼らの視線の先で、司令の息子が衆人監視の中、白昼堂々深々とキスをかましていた。 「冬月、例の件だ。」 視線は画面に釘付けのままで、ゲンドウは小声で命を下す。 「やるのか? ……分かった。」 それに若干の躊躇を見せた冬月であったが、何せ一蓮托生の身であるし、こういう事をやらかすタイミングに関しての嗅覚は冬月はゲンドウに及びもつかない。 緻密な実行力と言う点で、ゲンドウが冬月に及ばないように。 誰にも見られないよう後ろ手で、冬月は予め準備していた作戦の開始を告げる命令を送信するボタンを静かに押す。 ……ネルフ本部監査部とその要員を隠密裏に制圧する作戦の開始指令を。 普段は子供連れの家族や初々しいカップルが利用しているのだろう簡素なベンチに腰掛けたシンジは、半ば強引にマユミを自分の膝の上に横座りさせた。 力強く抱き締められ唇を割り開かれたマユミは、最初はパタパタもがいていたが、すぐに目を白黒させ…ほどなくうっとりと目蓋を閉じた。 じっくりと舐られた挙句に誘い出されたマユミの舌がおずおずとシンジの口の中にお邪魔すると、逃がさないとばかりに唇で挟まれ、シンジの舌が念入りにお出迎えする。 「ん! んんっ……」 シンジの右腕はマユミの背中に回され、左腕はマユミの首の後ろをがっちりと掴まえて離さない。 ちょっとやそっと抗っても許して貰えず、シンジの好き放題に貪られ続けるのだ。 ……口に出されぬマユミの願い通りに。 「む〜っ!」 性懲りも無くもがきながら、実は染み透ってくる快感がより深くより激しく侵蝕するように自らの身体をシンジに擦り付けるマユミ。 そんな動きでキスで封じていた唇が離れるや否や、シンジはマユミを抱き締めていた腕を離し、彼女の着ているブラウスをブチブチとボタンを弾けさせて大きくはだけさせる。 「嫌っ…こんな……」 甘い響きを秘めた拒絶の言葉は酷く弱々しく、反射的に口走っているだけだった。 慎ましやかで素っ気の無い、清潔だけが取り得の野暮ったい白い下着に包まれたままプルンとこぼれ出た胸の膨らみの両方にシンジの手が伸びる。 「柔らかくて手触りが良いね、山岸さんの胸は。」 脂肪でできた左右の隆起に指が軽く沈み込むだけで、マユミの咽喉からは意味を持たない美しい歌声が高らかに上がる。 「あっ! ああっ! そ…そんな…っ……あんっ!!」 「綺麗な声だね。もっと聞かせてくれる?」 返事を待たずにスカートの裾を捲り上げると、辛うじて役目を果たし続けている濡れた布切れのすぐ傍にシンジの右手の人差し指の腹がツツッと滑った。 「やっ! 嫌っ! こんなの…こんなのっ!」 マユミの腰は小刻みに動き、敏感な場所へと触れて貰おうと…既に形だけの抵抗も忘れてあがくが、シンジの指は巧みな動きで肝心な場所を避け続ける。 「ふうん。このまま強姦同然に強引に奪われて、飼育されたいんだ。……変わった趣味だね。」 後ろから抱き締め直され、耳元で囁かれ、興奮で紅潮していたマユミの白い肌は、その一言を聞かされて蒼く変わりそうになる。 が、 「でも、良いと思うよ、そういうの。」 ようやく待ち望んだ指を迎えただけではなく、耳たぶを甘噛みされてマユミの身体は本人も意図しない動きで痙攣する。 背筋を逆流した悦楽の信号が、マユミの脳に脳内麻薬を大増産で垂れ流させる。 「あ…嫌っ……嫌っ……そんな……」 それと並行して、重なり合ったATフィールドが共振し合って、マユミの心にちゃっかりお気に入りの寝場所を確保した第16使徒ごとマユミを気持ち良さで翻弄する。 「『嫌』じゃなくて『いい』って言ったら、ここに、指、入れてあげる。」 感じさせられるあまりに暴れるマユミの肢体を左腕一本で押さえ込んだシンジが耳から注ぎ込む甘美な毒が、マユミの理性をゆっくりと侵蝕してゆく。 濡れた下着が食い込んで現れた土手を往復する指が、砕かれかけたマユミの常識に最後の止めを刺してゆく。 「本当に嫌なら、止める?」 それでも、なかなか決定的な事を言わないマユミに意地悪してシンジが指を止めた時、マユミの理性は遂に屈し、ガラガラと陥落した。 「いい…本当はいいんですっ! 意地悪…意地悪です、碇さん。」 こんなこと言わせないで問答無用で奪って欲しかったと拗ねるマユミの耳元に、シンジが更なる悦楽の毒を垂らす。 「こういうのを無理矢理言わせるのも良いんだよね。ほら、こんなに……」 約束通り下着の中に潜り込んだ指は、明らかに新鮮な液体の音をねちゃりとさせる。 「ああっ……」 新たな自分の一面を発見させられたマユミが、両手で顔を眼鏡の上から覆う。 「そろそろ…いくよ。」 答えを待たずに、シンジはマユミの身体をベンチに横たえる。 「あ……碇さん……」 「シンジで、良いよ。」 そう言いつつ、いい加減手馴れた手付きでマユミの下着を足から抜き去ると、いい加減慣れれば良いものを…と思うが、そこを直視してしまったシンジの顔が赤く染まる。 「じゃ、じゃあ…」 それでも躊躇無くマユミの股間に顔を埋めたシンジは、下の口に熱烈なキスをかます。 「ああああああっ!! 嫌…いいっ! そ、そこっ! ああっ!」 泉から溢れている愛液を啜る代わりに舌で両側の土手に唾液を薄く塗りつけ、薄皮に守られている新芽に触れるか触れないかの微妙なラインをペロッとする。 「碇さ…シンジさん、シンジさん、シンジさ…あああああっ!!」 何を考える余裕も失い、あられもない自分の姿を気にする余裕も失い、シンジの名前を連呼し続け、肩にかかるぐらいの長さの黒髪を振り乱して首を左右にするマユミは…… 新芽を吸うようにキスをされ、海老反って痙攣し…… ベンチの上にぐったりと崩れ落ちた。 シンジが抑えていなければ、きっと地面に転がり落ちるだろう頼り無さで。 彼は周囲に溶け込みながら“仕事”を続けていた。 周囲の変化に気を配り、観察し、さりげない動作に務めていた。 ……しかし、無駄だった。 不断の努力を払っていたにも関らず正体が露見していたのだと知ったのは、 同僚の監査員が拘束される光景が視界の端によぎった時では無く、 背中から突き抜けた衝撃が全身を痺れさせて意識を途切れさせた時でも無く、 悪名高い赤木博士の個人研究室の頑丈極まるベッドに他の同僚達と並んで拘束されているのに気付いた時だった。 あまりに速やかに事が推移してしまったので、完全な手遅れになってしまうまで脳が事態を認識する暇を与えられなかったのだ。 「……これで全員ね。始めるわよ。」 両手両足を固定されている枷の強度を試してみて眼前が暗く閉ざされる心地の彼は、同僚の半数に当たる12人が捕まっていない事に最後の希望をかけていた。 だが、彼は気付かなかった。 最後の最後まで気付けなかった。 その同僚達がリツコの手で既に洗脳されてしまっていた事に……。 荒い息を吐きベンチからだらんと腕を垂らしているマユミであったが、刹那の間も休ませては貰えなかった。 「あ…ああ……そんな…そんな…………」 肉体の手だけでは無くATフィールドで心を優しく愛撫され、悦楽の頂点に突き上げられたまま下ろして貰えない。 ブラのカップを上にずらして露出させた膨らみの頂点にある桜色のボタンが遠慮がちに立ち上がっているのを、シンジはプチッと押し込む。 「あああああああっ!!」 朦朧とさせられた意識の片隅で、マユミはシンジの囁きを確かに聞く。 「本当に止めて欲しかったら『駄目』って言って。そしたら、止めてあげるから。」 乳房をゆっくり捏ね回しながら、シンジは優しく微笑む。 「ああ…嫌……意地悪……意地悪です、シンジさん………」 その微笑みに目を奪われ、マユミはうわごとの如く呟く。 今更、自分に選択権を与えるなんて…と。 「いくよ。」 するべき前置きはしたとばかりに、シンジは既に勃っている腰の凶器の穂先をマユミの割れ目に擦りつける。 「嫌……嫌ぁ……」 プラグスーツに包まれたままの凶器がぬるぬるのグチョグチョになったところで、内心の期待とは裏腹の弱々しい拒絶を口にするマユミに、シンジは突貫した。 「痛っ! ああっ!!」 凶悪な肉槍から逃れようとズリズリ上にずり上がって逃げようとするマユミの太股を抱えて、シンジは無慈悲にゆっくり肉穴を穿ってゆく。 「痛いっ! 嫌っ! 痛いっ! 痛いっ!」 眼鏡がズレるほどの勢いで首を左右に振り、手でシンジの胸を押し返して拒絶するマユミだが『言ってはならない言葉』は口にしない。 そして、遂に…… 「奥まで入ったよ。……もう手遅れだね。」 身体を真っ二つに引き裂く苦痛を与えながら肉の凶器が根元まで深く突き刺され、マユミの目尻から涙がこぼれる。 「山岸さんは、もう綺麗な身体には戻れないんだ。」 純潔の証である紅い血が、マユミの奥底から噴き出す白く濁った体液に押し流される。 「僕に飼われて生きてゆくしか無いんだ。」 苦痛の全てが快感に反転し、声を上げる余裕も無く口をパクパクさせるマユミ。 決して逃がすまいと足を絡めてシンジを捕らえ、キツク絞める一辺倒だった肉穴も肉槍に複雑に絡みついて射撃を促す。 言い訳のしようも無い最後の止めをねだって。 太股を抱えていた腕を外して、再び胸を捏ね回す。 8の字に大きく腰を回し、マユミの精神に悦楽のスパークが跳ね回る。 そして、 「今、証拠をあげる。」 どぷっ…どぷどぷどぷ…… 嵐の海で弄ばれる小舟の如く、荒々しい激しい快感に翻弄されたマユミの胎内に、白濁の毒液がたっぷりと注ぎ込まれた。 「……これで、僕のモノだね。」 頭の中が真っ白になるまで悦楽にいたぶられ可愛がられたマユミは、力の入らない首をそれでも縦に振る。 「これからずっと、僕が飼ってあげる。……山岸さんが望む限り。」 「マユミって呼んで下さい、シンジさん。」 暴虐に蹂躙されたにも関らず柔らかな微笑みを見せてくれるマユミに、シンジも最高のはにかみを返す。 キュッ 言葉より正直な身体の一部分が、シンジのモノを食い千切らんばかりに抱き締める。 「場所、移そう? もっと色々教えてあげたいから。」 通信機越しに聞こえる『パターン青、消滅』と言う耳慣れた決まり文句を確認して、シンジはにこやかに誘惑する。 ゼーレのつけたコードネームそのままに彼の“飼い犬”になる事を望んだ山岸マユミと言う、自分に似た部分を多く持った少女を……。 福音という名の魔薬 第弐拾四話 終幕 アルミサエル戦終結〜。ようやく、ここまで来ました。長かったです。 ……もっとも、本当ならこの話で出す予定だったイベントは次話に持ち越しですが。 マユミの養父については、作品の都合で適当にでっちあげました(汗)。あと、マユミの今までの契約はアスカの以前の契約と同内容なので詳細は割愛します。 今回の見直しと御意見協力は、きのとはじめさん、【ラグナロック】さん、峯田太郎さん、犬鳴本線さん…でした。皆様、大変有難うございました。 |
読んだ後は是非感想を!! 貴方の一言が作者を育て、また奮起させます