■□■ 沈黙の撫でる夜 □■□






 雪のないイタリアの冬、バスルームを出た雲雀はアンティークの家具で統一されたホテルのペントハウスにはとても似つかわしくない黒の着流し姿で部屋を横切り、居間へと向かった。
 居間に併設されたバーカウンターの上に、銀色のワインクーラーが置いてある。磨き上げられ鏡のようになったバケツとしか形容しようのないそのなかには、氷と共に冷酒の入った透明な徳利とガラスの猪口が入っている。湯上りに合わせて用意させておいたものだ。
 真冬の寒風吹きすさぶ夜に、暖かな部屋で冷酒を嗜む贅沢を雲雀は好んだ。真夏にクーラーの利いた部屋で熱燗を飲むよりずっと風流であると思うのだ。
 カウンターの隅に控えめに置いてあった報告書に目を通しながら、雲雀は飲み口の清らかな冷酒を楽しんだ。日本から持ち込ませた酒の舌触りたるや、自然とくちびるがほころんでしまう。咽喉を滑り落ちる滴の清冽さに感嘆のため息を零すと、胸の奥から波のような火照りが押し寄せた。良い酒はいつだって清く冷たく血潮を燃えたぎらせる。
 自ら選んだ酒の豊潤さに雲雀が満足気に舌鼓を打っていると、どこかで電子音が鳴った。静寂を壊す無粋なそれは携帯電話の着信音である。今夜は緊急事態以外連絡するなと部下には命じてあり、雲雀の命令を破るような愚かな人間はいない。緊急事態を知らせる着信音でない以上、ならば相手は決まっていた。
 着信の切れるのを待って雲雀はバーを離れ、居間を横切って絵画のかかった壁の前にあるチェストに近付いた。飴色のチェストに乗った機能的でシンプルな黒い携帯電話を取り上げ、ディスプレイを開く。胸の内で6まで数えたとき、再び携帯が鳴った。
 雲雀は片方の眉を吊り上げ、5コール目で電話に出た。専用の回線を通したクリアな音質は、ほとんど雑音を交えない。

「悪ぃ、ヒバリ! ちょっと遅れる」

 受話器の向こうから前置きもせず聞こえたのは山本の声だ。今夜二人は雲雀の滞在するホテルで落ち合う約束をしていた。その約束に遅れることを開口一番に山本は謝っているのだ。

「今まだ車んなかでさ。急がせてるんだけど、一時間くらいかかりそうなのな」

 詫びる気持ちよりも惜しむ気持ちのふんだんに籠った声で山本は言う。言葉の内容から察するに、どうやら自分の車ではないようだ。
 それもそうだろう、何しろ山本はイタリアの、ひいてはヨーロッパの裏社会に君臨する巨大マフィア、ボンゴレファミリーの大幹部である。それが気軽に自分の車でドライブするわけにはいかない。さてはボスの右腕を自称するチンピラに大幹部としての威厳やら対面やらを守れと厳しく言いつけられたのだろう。それは半分は正論で、半分は実に馬鹿馬鹿しい茶番だ。絶対的に自由であり何ものにも決して縛られることのない雲雀にとって、取り繕われた表面など冷笑にすら値しない。しかし一方でそれがとても重要であることも熟知している。誰もが雲雀のように自由で、そうでありながら万人を平伏させる力を有しているわけではないのだ。特に山本という男は、表面だけを見ればいかにも善人そうで、いつまで経っても少年めいた印象の消え去らぬ男である。大幹部としての威厳を保つためにも、少しは偉ぶって見せたほうがいいというチンピラの判断は間違いではないだろう。

「別に、来なくていい」

 この夜の電話で初めて発した雲雀のそっけなさすぎるにも程がある言葉に、しかし山本はめげない。電話の向こうでハハハッと笑う気配がして、

「そう言うなって、ヒバリ。せっかく同じ国にいるのに、そりゃないぜ」

 同じ街どころか同じ国、という物差しの大きすぎる指摘に雲雀はわずかに肩をすくめた。山本がボンゴレの幹部であるように、雲雀は日本を中心とするアジアの裏社会に君臨する風紀財団の長である。史上初めてチャイニーズマフィアをアジアの市場から追い出し、頂点に君臨した極東の支配者。本拠地こそ日本に置くものの、雲雀は世界中を絶えず飛び回っており、山本と同じ国に滞在する機会は極めて少ない。だからこそわずかな時間を共有するために、山本は国の端からでも駆けつけるのだ。
 どうせ到着は深夜を回り、帰路を考えれば明け方までいられるかもわからぬ逢瀬である。にもかかわらず、山本は約束を守るだろう。どんなに遅くなっても、わずかなあいだしか一緒に過ごせないとしても、雲雀の元へ駆けつけて、両腕を一杯に広げて、会いたかったと笑うのだ。

「……電話、かけてていいの」

 語尾を上げない独特の抑揚で問いかけた雲雀に、山本は鷹揚に応じる。運転席とは防弾のマジックミラーで仕切られており、後部座席の会話は聞こえないと請け負うが、雲雀が訊いているのはそんなことではない。いつ何が起こるかわからぬのがマフィアの世界だというのに、電話回線を埋めていていいのかという意味だったが、大人になっても野球のことばかり考えている単細胞には通じないようだ。どのみち、何かあれば運転手か車の電話が鳴るのだろう。

「なぁ、ヒバリ。風呂入ってたのか?」

 千里眼のように行動を見抜いた山本の発言に雲雀は眉を顰める。

「どうして」

 ゆったりと問いかけられた声は空腹の猛獣が獲物を誘惑する響きを含んでいたが、山本は動じない。衣擦れの音を背景に、

「んー? 何かさ、声がリラックスしてるって言うか、ちょっと柔らかいんだよな。ヒバリがそういう声するときって、腹一杯のときか、風呂上がりか、セックスのあとだから」

 さっき電話したとき出なかったのもあるけど、と山本は笑って続けた。
 雲雀の行動にパターンがあるとしても、少なくとも三種のなかから入浴を選んだのは何故なのかについて、山本は説明できないだろう。どうやら単細胞であるだけに、頭ではなく本能的に雲雀のことを察したものらしい。電話では顔が見えない分、声や話しかたに集中できるので、そうとわかったのかもしれない。むろん本人はそんなこと考え付きもしないだろうが。
 自然と微笑を刻みながら、雲雀はチェストに寄りかかった。

「セックスのあとだったらどうするの?」

 明確な問いかけは意地悪な意図をふんだんに含んでいる。声だけで雲雀の行動を見抜いた男への意趣返しもあったかもしれない。他人の気配など微塵もない広いペントハウスで、雲雀は携帯電話に問いかける。もう十年以上経過しても未だ雲雀を諦めない男は再び快活に笑い飛ばした。

「そうだな。それはそれで興奮する」

 男であれ女であれ、他人と情を交わした直後の雲雀を抱けるなどそうあることではないから、と。
 それが強がりであることを雲雀は理解しており、密やかに笑った。

「変態」

 冷たさを装って言い放った声に山本は明るく笑う。雲雀のつれない声が好きだと世迷言を言いながら。ひとたび風紀財団の長という仮面を被れば、誰より冷徹で残酷な声が、自分の言葉に応じて微笑を含み、張りつめていたもの緩んでいくのがたまらなく好きなのだ、と。

「ほんと、どうかしてるよな、オレ」

 笑いの波動を含んだ声音に次第に男の色香が滲んでゆくのを雲雀は聞き取った。目を上げると豪勢な柱時計が目に入る。山本が到着するまでまだまだ時間がかかるだろう。彼が滞在できるのは三時間かせいぜい四時間。雲雀は視線を落とし、

「……そんなに僕の声が好きなら、声だけ聴いていれば」

 山本は単細胞で、自分の頭がお世辞にも優秀ではないと自覚しているが、それでも雲雀の言葉に含まれる微妙なニュアンスを正確に読み取った。
 電話口でかすかに息を呑む音がした。たっぷり5秒は続いた沈黙を破り、山本は欲情を隠しもしない声で言った。

「ああ、そうさせてもらうわ」








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