森のくまさん
そこは奇妙な空間だった。高い天井を有する正方形の部屋で、窓は無くスチール製の扉が一つあるばかり。床も壁も天井もむき出しのコンクリートで、壁面の一つが大きな鏡張りになっている以外に何の装飾品も無い。殺風景な部屋を照らすのは高い天井に取り付けられた可動式のライトで、今は一つだけが灯っている。
天井から降り注ぐスポットライトに照らし出されているのは、床に直接取り付けられた背の高い椅子に腰を下ろした黒髪の男だった。彼の身体は拘束衣によって自由を奪われており、胸の前で交差させられた腕が微かに動く程度。
男は艶やかな黒髪の頭部を項垂れたまま、激しく自問自答を繰り返していた。えっと、何でこーなっちゃったんだっけ? と。
それは良く晴れた春の日だった。朝から輝くばかりの快晴に見舞われ、冗談はよせってくらいに晴れ渡った暖かな春の午後だった。あんまり陽気がいいものだから、緑萌える美しい森を散歩でもしようと、近隣一帯の大地主であるブラック家の嫡男シリウスは、鼻歌交じりに山へ分け入っていった。
その山は風光明媚とは言いがたいが、なだらかな道が続くハイキングにはもってこいの場所で、日光の降り注ぐ森を散歩するのがシリウスのお気に入りであった。特に彼が気に入っていたのは、見渡す限りの山々が全てブラック家の私有地であるために、誰にも邪魔されずに散歩を楽しめることだった。稀に近隣の村の住人とすれ違うことがあるが、彼らはシリウスのことを知っているので愛想よく挨拶を交わす程度で邪魔にはならない。場所によっては山の中を通ったほうが近道になる村があるので、ブラック家の人々も村人がたまに山を通るくらいのことは黙認している。っつーか、これだけの広大な土地を全部監視するのは無理だよな〜と、胸いっぱいに森の清浄な空気を吸い込みつつシリウスは散歩を続けた。
どのくらい歩いたときだろうか。シリウスはふと前方に人影を発見した。彼の尋常じゃない視力をもって見たところ、こちらへ向かって歩いてくるのは女のようだ。つばの広い帽子をかぶっているため顔までは判然としないが、幼いような大人のような雰囲気の女性だった。
基本的に女好きのシリウスは興味津々で相手を観察する。清楚な白のワンピースに、柔らかな黄色のカーディガン。ほっそり伸びたまっすぐな脚は抜けるように白く、儚げなまでの痩身に反して足取りは確かなものだ。何故か肩にかけたショルダーバッグの紐を握り締めているところを見ると、道にでも迷ったのだろうか。
凛とした足取りで近づいてくる少女に、俄然シリウスは興味を持った。服装や雰囲気から彼女が近隣の村人ではないことは一目でわかる。彼女は明らかに都会の人間だ。そして高い教養と知性を併せ持ち、近づくといいにおいがするに違いない。
どういう根拠かわからないが、勝手にそう決め付けたシリウスは彼女に声をかけることを決心した。段々近付く少女の顔は相変わらず帽子のつばに隠れて見ることはできない。それでもシリウスは彼女が自分の好みであることを確信している。何故かと問われれば彼はこう答えたことだろう。俺の嗅覚に間違いは無い(意味不明)、と。
清楚可憐な姿かたちのわりに足の速い少女と、よそ行きのすまし顔のシリウスがあと数メートルまで近付いたときのことだった。少女が何かに気を取られて妙な声を上げたのは。うわっという色気もそっけもない声は意外にも低くかすれたハスキーヴォイスで、シリウスは内心で首を傾げる。彼は透き通るようなやさしい声を連想していたのだが、脇の草むらを凝視している少女の初めて見る横顔が想像以上のカワイコチャンだったので、シリウスは疑問も何も忘れて彼女の方へ小走りに近寄った。
「ああ、蛇だ。お嬢さん、危ないからお逃げなさい」
草むらにとぐろを巻いている蛇を見つめながら、シリウスは自分の来たほうの道を少女に指し示した。思ったよりも背の高い少女は、奇妙に緊張した面持ちでじっとシリウスを見つめている。透けるように白い肌と、蛇を見て驚いたためか紅潮した頬が愛らしい。こいつはチャーンス☆ と、シリウスの灰色の目がキュピーンと光る。シリウスの特殊な目で一瞬のうちに全身を舐めるようにスキャンされた少女は、ちょっと細すぎるきらいはあっても、かーなーり彼の好みだったのである。
「さ、ここは俺に任せて」
その白い歯はアパガード。毎日必死に磨きたてている白い歯をここぞとばかりに光らせて、シリウスは彼が爽やかだと信じる笑顔を浮かべながら少女を促した。彼女はひどくシリウスに後ろ髪を惹かれる様子を見せながら小走りに立ち去ってゆく。はは〜ん、さては俺が余りに格好いいから別れるのが惜しいのだな、と勝手に解釈したシリウスは、鼻の下を伸ばしたにやけ面でむんずと蛇を捕まえた。シリウスの脳内シミュレーションによれば、危ないところを助けられた少女はシリウスに一目惚れ。後から颯爽と現れたシリウスに『ああん、私の王子様、もうどうにでもして〜!』とメロメロになってしまうのだ! そしてあとは目くるめく官能の世界。
そのときのあーんなことやそーんなイケナイ妄想をその優秀なはずの脳みそ一杯に閃かせ、
「うわー、それは流石にマイッチャウな、な〜んてね!」
デレデレ笑いながら蛇を振り回すシリウスの姿は、間違うことなく変質者のそれであった。
シリウスが我に返ったのは、道端にキラリと光る何かを見つけたからだ。思い切り振り回していた蛇を林の奥に投げ捨ててよく観察してみれば、それは白い貝殻の小さなイヤリングであった。先ほどの少女が立ち去る際に落としていったのだろう。これは話しかけるよい口実だ。
シリウスはサッとイヤリングを拾い上げると、もはやはるか遠くに去った少女の後姿を見つめた。たとえ革靴でも山道であっても、やる気MAXの今のシリウスは100メートルを8秒で駆け抜ける自信がある。上体を落としてクラウチングスタートの姿勢をとったシリウスは、舞い落ちる木の葉が地面に触れた瞬間スタートを切った。
一方シリウスに促されるまま逃げ出した少女は、ふと何かの気配を察して立ち止まった。それは殺気と言うのが一番近い感覚であったろう。とにかくそれを察して立ち止まった少女が慌てて振り返ったとき、山道にしてはまっすぐな道を疾走してくる黒い影に、伝説の死神犬の姿を見た。振り返るのではなかったと後悔する彼女は、悲鳴を上げることさえ忘れたのだった。
「おじょーさん、お待ちなさーい!」
10メートルほど手前で失速した黒い影は、腹立たしいほど爽やかな笑顔を浮かべながらやってくるシリウスだった。真っ黒い不吉な死神犬を思わせた鬼気迫る勢いは影を潜め、人好きのする笑顔を浮かべている。彼はぽかんとあっけに取られる少女のそばで立ち止まると、
「ほら、落し物。きみのだろ?」
シリウスの大きな手のひらに乗っているイヤリングを見た少女は、はっとして自分の両耳に手をやった。無い。確かに右のイヤリングが無い。少女は上目遣いに、そして何故か場違いに真摯な表情でシリウスを見つめる。
「あ、あら『くまさん』、ありがとう」
くまさん、という言葉にシリウスは内心首を傾げたが、明らかに少女が自分に話しかけているので無視することにした。ぎこちなく微笑んだ少女の様子がかなり気に入ったらしい。
少女は女にしては大きく骨ばった手でシリウスの手を取り、
「ありがとう『くまさん』。お礼に『歌い』ましょう」
何でいきなり歌うのかシリウスには理解できなかったが、いわゆる不思議ちゃんも彼の広いストライクゾーンの一つだったので特に気にもしなかった。後はどうにかして彼女を自宅の屋敷にご招待するだけだ。
にこっと笑った少女はシリウスの手を取って小道で軽快に踊りだす。
「ちゃーん、ちゃらららっちゃらー、ちゃんちゃーんちゃんちゃちゃちゃーん」
少女の口ずさむ謎のイントロにシリウスは視線を逸らす。このどこかで聞いたような曲は何だったろうか。マウンドを燃え上がらせるような情熱的なこの曲は……。
「あ、わかった!」
シリウスが嬉しそうに言ったときだった。彼の手を取って踊っていた少女のしなやかな手がショルダーバッグから何かを取り出したのは。
「それ、巨人のほ……」
バチッという音とともに焼けるような痛覚がシリウスの首を襲い、彼は大の字に地面に突っ伏した。何が起こったのか理解できないまま暗くなる視界の中でシリウスが最後に見たものは、目の前に立ちはだかる少女のまっすぐな細い脚だった。 ブラック・アウト
「俺は何でここにいるんだー!?」
シリウスは暗い天井に向かって叫んだ。叫んだからと言って事態は何一つ好転しないのだが、拘束衣に戒められている状態では、自由になるのは口しかない。ならばできることは叫ぶことくらいだろう。ゆえにシリウスは叫ぶ。
「ちきしょう、何だこのレクター博士みたいな扱いは!? そりゃ確かに俺はレクター博士みたいにクールで知的で格好いいけど、だからって拘束されるのが好きなわけじゃないぞ!」
よくまぁ動く口で好き勝手騒ぐシリウスを見咎めたわけではもちろんないのだが、そのとき突然変化が起こった。今の今まで精神と時の部屋ばりに全てが泰然自若として永遠に変わらないように思えた部屋の中で、天井にある全てのライトが灯ったのだ。
もし腕が自由に動いたなら、シリウスは手をかざして光を遮ったであろう。だがシリウスはプリンセス・テンコーではなく、腕は相変わらず拘束されたままなので、とっさに彼は顔を背けて目を瞑った。
するとどうだろう。突然背後でガチャガチャと音がした。これはもしや扉が開く音ではないかとシリウスが悟ったのとほぼ同時に、驚くほど近くから人の声がしたのだった。
「……シリウス・ブラックだな。君の身元が確認された。釈放してやるから、即刻立ち去れ」
「あ〜ん? いきなり人を拉致監禁しておいて、何を寝ぼけたことを……」
憤慨したシリウスが勢いよく首だけで声のしたほうを振り返ると、そこには一人の男が立っていた。明るい鳶色の髪、ひょろっと長い印象の痩身で、やや童顔でいかにも物腰柔らかそうな同年代の男。彼は傍にいた真っ黒い服の男たちに何か合図をすると、シリウスの前に立ちはだかった。
「君があんなところで何をしていたか知らないが、我々の捜査の邪魔は金輪際やめてもらおう」
シリウスの前に仁王立ちになった男は、頬をぷくっと膨らませて偉そうに言う。しかし幾ら彼が怒って見せても、シリウスは話を聞いてはいなかった。黒衣の男たちに拘束衣を解いてもらいながら、彼はこの男どこかで見たことがあると考えていたのだ。
「おい、聞いているのか?」
すっかり拘束を解かれて立ち上がったシリウスは、尚も言い募る男のすぐ傍にやってきた。シリウスよりも背の低い男は、彼があまりにも近くにやってきたので面食らった様子で固まっている。それをちょうどいいことにシリウスは彼の首筋に鼻を近づけると、ふいにやっぱりと呟いた。
「お前、あのときの女の子か!」
ビシッと男を指差したシリウスはここぞとばかりに断言する。
「なっ、何を根拠にそんなことを!?」
男は否定するそぶりを見せたが、あっという間に耳まで真っ赤になったところを見るとシリウスの指摘は間違っていなかったようである。彼は痛いところを突かれたというより、人生の恥を晒された様子で憤慨した。しかし自分の指摘の正しさを確信したシリウスはまるで頓着しない。ふふんと鼻で笑い飛ばすと、
「やっぱりな。その顔、その声、そのにおい!」
におい? と二人のやりとりを見守っていた黒衣の男たちは内心で首を傾げたが、彼らのポーカーフェイスが崩れることは無い。一方、においなんぞを指摘された男は、びっくりしたように慌てて自分の鼻に腕を近づけた。
「そのチョコみたいな甘ったるい匂い。どっかで嗅いだにおいだと思ったら、あの女の子だったのか」
男は慌てて黒衣の男たちを振り返るが、彼らは首を横に振るばかり。シリウス以外の誰も『チョコみたいな甘い匂い』とやらをかいではいない。ということは、この目の前の男がちょっと変なだけなのか。
「さ、さっきから聞いていればお前お前って馴れ馴れしい! わたしにはリーマス・J・ルーピンというきちんとした名前があるんだ!」
「ほ〜、リーマスか。なるほど、リーマスねぇ……」
名乗ったとたんに呼び捨てかこの野郎、とリーマスがキレかかった瞬間だった。値踏みするように彼をじろじろ眺め回していたシリウスが、突然リーマスを抱きしめたのは。あまりに突飛な行動にリーマスは声も出ない。相手が硬直しているのをいいことに、シリウスはリーマスの身体を撫で回す。
「うーん、やっぱりちょっと痩せすぎだよなぁ。でもまぁ、サイズ的には理想的だし……」
「な、ななな、何だ君は!?」
やっとこ正気に戻ったリーマスは慌ててシリウスを突き飛ばす。ほとんど初対面の男に抱きつかれたのは、流石のリーマスも初めての出来事だ。女の子になら二回ほど経験があるが、あのときは突如出現したゴキブリに怯えたせいだったし……。
真っ赤になって何やらわめき散らすリーマスの言葉など、シリウスの迷惑な耳にはまるで届いていない。彼は突然リーマスの手を取って顔を近づけると、
「よし、リーマス。俺と結婚しよう」
「…………は?」
「だから、俺と結婚しよう」
あまりにも非常識な言葉に理解の追いつかないリーマスを突如抱き寄せ、シリウスは勝手に将来のプランを語りだす。
「なぁに、心配することは無い。ブラック家へ嫁げば将来の不安は一切解消、生涯遊んで暮らせる上に、知的で美男で最高にやさしい俺という夫がもれなく付いてくる! いや〜、これほどいい条件は他にありませんよ旦那」
何つっても俺は遊び上手で絶対退屈はさせないし、あっちのほうも最高の手足れだからさ、とリーマスの肩を馴れ馴れしく抱きながらシリウスは威張る。現在はまだ家督をついではいないものの、将来彼は国でも指折りの名家の長となるのだ。そうなれば他に怖いものは無い。一生不自由もさせないし、毎晩とぉーっても可愛がってあげるから、とのたまうシリウスは非常に得意げだ。
「ほら、何つーの、実はあれなんだよ。いわゆる一つの一目惚れってやつですか?」
そしてシリウスは突然リーマスを真正面から見つめる。
「俺はお前に一目惚れしたんだ」
瞳の中を覗き込むような眼差しは真剣で、うっかりすると引き込まれてしまいそうな魅力があった。黙っていれば彫刻めいた美貌の男であるから、頭の混乱したリーマスにもこれはかなり効いた。ただし、次の瞬間にひゃっと笑ってしまっては魔法はあっけなく解ける。
「だから俺と結婚しよー……」
ぜ、と最後の言葉を発音する前に、シリウスは我に返ったリーマスの全体重をかけたアッパーカットをもろに食らっていた。
「いいかげんにしろー!!」
そして二度目のブラック・アウト。
「……つまり、我々は警察官で某麻薬シンジケートの尻尾を捕まえ、取引場所を突き止めた。それがあの森で、おとり捜査をしていたところに何をしてか知らないが君がひょっこり現れて、どういうわけか取引に関する暗号を全部こなしてくれたおかげで誤認逮捕なんぞをする羽目になったんだ」
何という迷惑、何という莫迦莫迦しさだ、とリーマスは憤慨する。ドーナツと紅茶以外何も置かれていない机の向こう側には、右の鼻に詰め物をしたシリウスがいかにもつまらなさそうな表情で椅子にふんぞり返っていた。
「って、聞いてるのか君は!?」
耳を小指でほじくるシリウスに向かってリーマスは鋭い声を上げた。さっきまで鼻血を出していたこの男のせいで、数ヶ月に渡る隠密捜査が無駄となるところだったのだ。ところがシリウスは一向に悪びれた様子も無く、
「うるせーなー。何をしてたかなんて散歩してたに決まってるじゃねーか」
「あんな人里離れた山奥で何が散歩だ!」
「やかましい、自分ちの庭を散歩して何が悪い!? 大体、捜査令状も無しに勝手に私有地に乗り込んで何が隠密捜査だ。法的根拠も無くひとんちの庭に入り込むのを不法侵入って言うんだよ」
「仕方ないだろう、取引場所の指定があったのが昨日だったんだから。令状なんか取ってたらチャンスを逃すことになるんだ!」
「だからって一般市民を巻き込むなよ。大体なぁ、この扱いは何なんだ!? まるで重犯罪者じゃねーか!」
シリウスはテーブルの下を勢いよく指差す。それもそのはず、彼の足は手錠でパイプ椅子にくくりつけられているのだ。
「俺が一体何したってんだ!? 職権乱用も甚だしいぞ」
「やかましい! いきなり人に抱きついて腰を撫で回したのはどこのどいつだ!? そういうのを強制わいせつ罪って言うんだ。平たく言えば痴漢だ、ち、か、ん!」
「何だと、俺が撫で回したのは腰じゃなくてもっと下だ莫迦野郎」
威張るな変態、と怒鳴りつけて、リーマスは疲労したようにパイプ椅子に背を預けた。彼は今までにも色んな犯罪者や変人や困ったちゃんを見てきたが、この目の前の男ほどてこずらされたことは無い。本当なら今頃は麻薬のディーラーをとっ捕まえて、シンジケートの摘発に乗り出しているはずなのに、何でこんなことになってしまったのだろう。
目の前の男に聞こえないようにため息をつきながらリーマスはそっとシリウスを盗み見た。ラフな服装だが高級品であることがよくわかる仕立ての良い服に身を包んだシリウスは、紅茶を飲むのに邪魔なのか鼻の詰め物を取ろうとしている。この何だかよくわからない男のおかげでひどい目にあった。黙って立っていればリーマスだって緊張しそうなほどの端正な顔立ちであるが、ドーナツに齧り付く姿は普通の男だ。これがあのブラック家の時期当主とは、世も末と言わざるを得ない。
何せブラック家と言えば、政界や財界に多くの傑物を輩出し、この国の歴史にも深く関わる超名門家。気が向けば戦争の一つや二つ軽く起こせるとまで言われるとんでもねーお家なのである。だがまぁ、そもそもそんな超がつく権力者の自宅の敷地内で無断で捜査をしようとした方が間違ってると言えば間違っている。場所を指定したのはシンジケートの方で、まさかこれほどの名家の敷地内で取引が行われていようとはお殿様でも思うまいという見事な作戦と褒めてつかわす。問題なのはおとり捜査にGOサインを出したリーマスの上司だろう。リーマスとしてはせめてブラック家に捜査協力を申し込むぐらいはしたかったのだが、そんな暇は無いのだと一蹴されてしまった。上司に言わせれば、ここでシンジケートを一網打尽にできれば、自分は刑事局長、君はデカ長、未来は明るい! ということなのだ。
それが何の因果か変態一歩手前の男に求婚されて、取調室でため息をついているのだから人生は何が起こるかわからない。やはりそろそろ本気でとらば〜ゆを考えるべきなのか。
実は学校の先生になりたかったリーマスは再び盛大なため息をついた。
「お、どうした、ため息なんかついて?」
わずか三口でドーナツを嚥下したシリウスはにやにや笑ってテーブルに肘杖をついた。
「さては警察官の現実に理想を打ち砕かれ、そろそろ転職でも考えているのかな?」
まさに図星を突かれたリーマスは思わずシリウスを凝視した。今の発言が単なる偶然でなければ、あまりにも鋭すぎる洞察力と言えよう。黒衣の捜査官たちが提出してきたシリウスの経歴は、それに見合うだけの輝かしいものだった。ところがどっこい目の前の男はとてもそんな七色の光を放ちそうな経歴の持ち主にはちっとも見えない。紙上に並んだ経歴だけを見れば、ブラック家の跡取りとして申し分無いのだが、こうも目の前でアホな面を晒されると、どうしても信じがたくなってくる。
再びドーナツに齧り付くシリウスの顔をリーマスは手元の資料に添付された写真と何度も見比べた。手元にある写真はどこかのパーティーでの写真らしく、優雅にフォーマルを着こなしたシリウスが写っている。今より少し長めの髪を綺麗に後ろになでつけ、シャンパンのグラスを持つ彼は人好きのする微笑を浮かべている。いや、人好きどころか大抵の人間のハートを鷲掴み! の悩殺スマイルだ。目鼻立ちは明らかに同一人物であるのに、紅茶の質に文句をたれる目の前の男がそうだとはやはりリーマスには信じられなかった。
「で、結婚式はいつにする?」
「…………は?」
「だーかーら、俺たちの結婚式だよ。やっぱ早いほうがいいよな。んで、ハネムーンは地中海とか南の島で過ごそうぜ。ああ、俺としては別に古式ゆかしく熱海でもいーんだけど」
「はぁぁぁ!?」
何の話をしているのだ、とリーマスは書類を机に叩きつけた。明らかに話が繋がっていない。いや、そもそも会話が成り立っていない。
「何を莫迦莫迦しい! 第一、男同士で結婚が出来るか」
どうやらリーマスも相当混乱しているらしく、論点が微妙にずれている。しかしシリウスはいーから、と手をひらひら振って、
「大丈夫、安心しろって。なぁに、公文書の偽造なんて黄金色のお菓子を一つか二つ積めばあっちゅー間だって」
「……それを警察署内で言うのか君は」
「あ、そっか。忘れてた。まぁ、硬いこと言うなよ。ちゃんと遺産も残すようにするし、子供は養子を5人ぐらいでいーかな?」
何を莫迦げたことを、とリーマスは憤慨するが、相変わらずシリウスは聞いていない。突然、ちょっと待てよと真剣な表情になると、
「よく考えてみたら、何も公文書を偽造なんかせんでも、法律を改正させりゃいいんだよな。うーん、何か凄く面白そうだぞ。よし、俺は明日から貴族院に入ることにする。そんで5年以内には同性での結婚を認可する法律を制定させよう。だからそれまでは内縁の妻で我慢してくれリーマス!」
いきなりリーマスの手を取って言い放ったシリウスの表情は驚くほど真摯だった。しかしだからといってリーマスが真面目に相手をしてやる必要は無い。いい加減あきれ返ったリーマスはあーそうーですかー、とやる気の無い相槌を打って再び椅子の背もたれに寄りかかった。
そのとき突然、慌しく取調室の扉が開かれた。今度は何だとリーマスが忌々しげに顔を向けると、黒衣の捜査官Aの登場だ。彼はそそくさとリーマスのところへやってくると、ほとんどくちびるを動かさずに何事かを耳打ちする。
「何? 麻薬のディーラーから連絡が?」
驚いたようにリーマスが促すと、黒衣の捜査官Aはじっくりと頷いて見せた。彼の報告によると、今さっき麻薬のディーラーから『今日は行けなくてごめんなちゃい』という内容の連絡があったのだそうだ。何でも今朝方突然飼い猫のケイティーが産気づき、取引現場へ向かうことができなかったらしい。幸い難産の末ケイティーは無事に6匹の子猫を出産したのだそうである。
「そうか、良かったなケイティー」
何故かシリウスまで一緒になって胸をなでおろす。が、それどころではない。てっきりシリウスを誤認逮捕したおかげでディーラーには逃げられたものと思っていたのだが、向こうはそのことを全く知らないようなのだ。そして何と、再度取引の連絡を入れてきたのだ。
「んじゃあ、明日またあれやんのか?」
一体どういう耳をしているのか黒衣の捜査官とリーマスの内緒話をしっかり聞いていたシリウスは、行儀悪く紅茶をすすりながら二人に問いかけた。あれ、とは『お嬢さん』と『くまさん』による暗号での取引だ。生まれてこの方、人には(恥ずかしくて)言えないようなことも色々やってきたシリウスだが、流石に麻薬シンジケートのディーラーとの駆け引きなどは経験したことが無い。その相手と間違われたことなどもはや彼の念頭には無く、シリウスは一人でわくわくと目の前の二人の男を見つめたのだった。
「…………君には関係の無いことだ」
どうやらようやく自分を取り戻したらしいリーマスはできるだけ冷酷に聞こえるように言った。実際シリウスには蟻の触覚の先ほども関係の無い話だ。しかし好奇心の旺盛すぎる彼は納得しない。
「関係無いだぁ? ひとんちの庭で犯罪捜査を勝手にかましといて、何だその言い草は」
「うるさい! 警察に協力するのは市民の義務だろうが。大体君はなぁ、警察官への強制わいせつ罪で拘束中の身なんだからな!」
机に手を叩きつけてリーマスが怒鳴ってもお坊ちゃまは動じない。よほど気に入らないのか自分の足首を拘束する手錠をガチャガチャいじりながら、
「黙れ安月給! 自分の立場をわきまえてないのはお前らだろうが。俺がちょっと文句を言えば、お前らの首なんかすぐに飛ばせんだよ。市民に協力を義務付ける前に、人権侵害がどういうことなのかきっちり学んどけ!」
いきなり安月給呼ばわりされた二人は憤慨を通り越して呆然だ。ガチャガチャ音を立てていた足首から手を離したシリウスは、そのうえ更にわけのわからない提案をする。
「いーかお前ら、この捜査を成功させたかったら、まず俺の言うことをきけ!」
「な、何が目的だ……?」
ビシッとリーマスを指差したシリウスはお得意の鼻持ちなら無い声でふふんと笑う。
「決まってる、俺も捜査に混ぜやがれ!」
そして無事終了の暁には俺とリーマスの結婚式へ全員ご招待だ、と。腕を組んで椅子にふんぞり返ったシリウスの中では、どうやらすでにリーマスは婚約者の扱いであるらしい。しかも人を舐めるように見つめながらやらしい表情を浮かべているところを見ると、彼の脳内ではリーマスはとんでもないことをされてしまっているようだ。
思わず背筋に悪寒の走ったリーマスは無意識に腰のホルスターに手を伸ばしかけたが、彼がうっかり殺人者にならずにすんだのはこれまたシリウスのおかげであった。彼は突然立ち上がると、
「よし、今からちょっとお前らの上司に話をつけてやる。どうせ俺が認可しなきゃ、うちの庭でおとり捜査なんか却下されるんだしな。ついでにハネムーンで何日くらい休んでもいいかきいておくよハニー☆」
マイスウィート、とリーマスに投げキッスをかましながらシリウスは無駄に長い脚で部屋を横切って扉へ消えた。あっけに取られていたリーマスと黒衣の捜査官Aは思わず顔を見合わせた。それから扉へと視線を向けたリーマスは誰とも無く呟いたのである。
「…………手錠、どうやって外したんだ?」
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