■□■ アンダーザローズ □■□






 監察医務院というものがある。特定地域内で発生したすべての不自然な死について、死体の検案および解剖を行い、その死因を明らかにすることが目的の医院である。不自然な死とは、死因不明の急性死や事故死であり、病死か外因死か不明な場合や、死体で発見された場合もこれに含まれる。担当区域は細かく振り分けられ、都市の規模などによって当然一日の検案数は違ってくる。季節や気候、また月齢にも左右されるということは、自明の理であった。





   真夏の夜は喧騒に満ちている。気温の高さに気分が開放的になるのか、夜が更けても人間の活動は止まらない。ネオンの瞬く時間は変わっていないはずなのに、道路を走る車の数や街を歩く人々の数は明らかに多い。しかしそれも繁華街での話であり、いくら都会とは言えどやはり喧騒の関係の無い場所もある。特にそれが生者よりも死者の人数が多い場所ともなれば尚更だった。
 その日の死体収容数は35を超えていた。一日の平均収容数は30程度であり、そのうちで検死解剖が必要になるのは大概10体ほど。幸いと言っていいのかわからないが、運び込まれた遺体のほとんどは解剖が必要なく、身元不明者もいなかったために深夜には普段どおりの業務に戻ることができた。
 広い院内のオフィスでパソコンに向かっているのは若い医師であった。上背はさほどではないが、元来の細身のためにひょろ長く見える体躯をしており、いかにも慣れた様子で傍らの書類をめくっている。白髪交じりの鳶色の髪は無造作に伸びており、優しげな顔立ちを覆っていた。肘まで袖まくりされた白衣の胸にあるネームプレートには、R・J・ルーピンと印字されていた。
 退屈そうに欠伸をしながらコーヒーカップに手を伸ばしたリーマスは、何気なく壁にかかった時計を見上げた。時刻は早朝の4時を指しており、窓の外はすでに明るいだろう。しかし死体冷蔵室に程近い彼のオフィスに窓は無く、壁の二面にある広い窓は院内へ向けられていた。
 首を伸ばして見ると隣のオフィスではインターンのバイト学生がポータブルゲームに熱中しているところだった。ラグビーで鍛えたと言うだけあって体力がある。何より若いからあんなに元気なんだろうとリーマスは欠伸をしながらぼんやり考えた。
 普段の彼は一回の夜勤程度でこんなに欠伸を連発することはない。この仕事もいいかげん長いし、世間から見ればまだまだ若造と呼ばれる年齢である。そんな彼が疲労を見せたのは、数時間前に運び込まれた遺体が原因であった。
 深夜を回ったばかりの時間に運び込まれたのは、20代後半の女性の遺体であった。ストロベリーブロンドのおそらく美人。おそらく、というのは生前を想像しての話である。死因は墜落死。酔って自宅のテラスから墜落したらしい。それだけであれば特に珍しいことでもなかったのだが、一時間もせぬうちに遺族よりも先に駆けつけた友人たちの中に、思いがけない人物がいたことがリーマスの疲労の原因であった。
 近くで集まって飲んでいたとかで、すぐに駆けつけた同世代の男女の中にいたのは、背の高い端正な顔立ちの男だった。100人の女がいたら33人が後を追いかけ、33人がため息をついてたちどまり、33人は振り返って目を凝らすだろう。残る一人は余所見をしていて気付かなかった、というレベルの美貌の持ち主だ。一目見たらそう易々と忘れることはできないだろう。ましてや彼をしょっちゅう見かけているリーマスなどは、ギョッとして息が詰まったほどだ。
 しかし幸い彼は押し黙って他の友人たちが矢継ぎ早にリーマスに質問を浴びせかけるのを聞いているだけで、結局一度も口を開くことは無かった。リーマスとしても彼が一方的に知っているだけのことなので、こんな場面で知り合うというのは本意ではない。
 一瞬で冷静さを取り戻したリーマスは、詰め寄る人々を落ち着かせて説明を始めたのだった。
 それでも彼が側にいるということが緊張を呼び、いらぬ疲労をしてしまった。結局説明をしている間に遺族が到着したので、友人たちは大人しくなった。どうやら死亡した女性と遺族の関係は芳しくなかったようで、友人たちの反応は気まずい雰囲気を孕んでいた。しかしそれはリーマスには関係の無いことである。どうにか平静を装って手順どおりに仕事を進め、書類を作成して遺族を帰す。死亡原因ははっきりしており、解剖の必要は無い。事件性も無いので、手続きは簡単なものだった。
 頭の後ろで指を組み、椅子の背もたれに寄りかかったリーマスは、最後まで口をきかなかった男のことを思い出す。事情が事情なために怜悧なまでの美貌を強張らせて思いつめた様子の彼は、リーマスに気付かなかったのだろう。当たり前のことなのだが、少し寂しい気もする。名前も声も知らぬ相手ではあるが、週に一度は顔を見ているというのに。と言ってもリーマスが遠くから眺めているだけのことであるし、そんな都合のいい話があるわけはないのだ。ましてやリーマスは妖艶な美人どころか女でさえなく、極普通の男だ。同じ性癖でも無い限りは群衆の中の男一人を特別気にかけることなど無いだろう。こっちにとって彼は一人だが、向こうにとってこっちは大勢なのだから。
 莫迦莫迦しい、と呟いて、リーマスは残り少ない仕事に戻ったのだった。





 半年ほど前に、リーマスの住むフラットの側に新しい花屋が開店した。『アンダーザローズ』という名前の店は、リーマスのお気に入りのカフェの向かいにできていた。
 当時ドイツでの半年間の研修を終えて帰国したばかりのリーマスは、いつの間にか開店していた花屋の向かいの席を定位置に決めた。店先に並んだ花の鮮やかさが気に入ったのと、留守にしていた半年の間にお気に入りの席を取られてしまったからだ。木曜日が定休のリーマスは、遅い朝食代わりにその月の新作ケーキを食べることを習慣としていたのだ。
 リーマスのケーキ愛好ぶりは界隈のパティシエには有名で、そもそも現在の職場が決まったときに近場のケーキ屋をくまなく調査し、一番お気に入りのカフェの側にわざわざ引っ越した男である。彼の運営するケーキ好きのためのホームページは高い信頼を受けており、ドイツに派遣されるまでは雑誌社からコラムの連載を依頼されていたほどだ。
 そんな彼が久々にお気に入りのケーキと紅茶で帰国の実感を味わっていると、通りを挟んだ向かいの花屋の店先に、若い男が現れた。何かの鉢植えを店の奥から持ち出してきた男は、ひとしきり店先の商品を眺め渡したあと、ふいに振り返って何気なくリーマスに視線を向けた。
 正確にはカフェの方に視線を向けたのだが、丁度花屋を眺めていたリーマスと彼の視線がぶつかった。その瞬間思わずフォークを握り締めたリーマスは、相手を思いっきり見つめてしまった。濃紺地に白いラインの縁取りのエプロンをした若い男は、大層な美男であった。艶やかな黒髪に、古代ギリシャの彫刻を思わせる整った眉目。上背も高く、真っ直ぐな眸が印象的だ。彼はリーマスと視線が合うと、恐ろしいことににっこりと笑って見せた。恐らくそれは客商売をしているための愛想笑いであったのだろう。だがリーマスにはトマホークの直撃にも匹敵する衝撃であり、一体どうして反射的に微笑み返せたのか自分を褒めてやりたいくらいであった。
 彼がその店の店長であるということを知ったのは数日後のことだ。顔見知りのウェイターが朗らかに教えてくれたのだ。若いのに大したもんだというウェイターの感想はまさしくである。美人な上に実業家かよ、とリーマスは一人で妙な感慨に耽ったものだ。自分が面食いだとは思っていたが、これほどだとは困ったものだ。いくらなんでもあれはレベルが違いすぎる。花屋なだけに高嶺の花か、とわけのわからない諦観で、木曜日の目の保養と決め込んだのは当然の成り行きであった。





「ここ、いいか?」

 ぶしつけな声にノートにペンを走らせていたリーマスが顔を上げたのは、木曜日の午後のことだった。平日のランチも過ぎた時間であるだけに、他にも席は空いているのに。冷たくあしらおうと顔を上げたリーマスの動きが硬直する。傍らに立った男は眼を擦るまでも無く花屋の店長であった。
 思わず言葉を失ったリーマスが返答できないでいると、それを了解と取ったのか男は無造作に向かいの席にどっかと腰を下ろした。すかさず寄ってきたウェイターにエスプレッソと短く告げると、彼は無愛想にリーマスに向き直った。

「き、君は…………」

 どうにか声は出せたが言葉の続かぬリーマスに、男は小首を傾げて見せた。

「俺はシリウス・ブラック。そこの花屋の店長でオーナー。あんたはルーピンセンセだろ」

 何故それを、と言いかけてリーマスは口を噤んだ。白衣のネームプレートを読んだのだろう。ではあの夜、彼は自分に気がついていたのか。
 最早何から考えていいのかわからないリーマスに、シリウスは突然チューリップの花束を差し出した。

「お近づきのしるし」

「え? あ、どうも…………」

「で、R・J・ルーピンのRって?」

「リーマスだけど」

「じゃあJは?」

「ジョンだけど…………」

 ようやく訝しみ始めたリーマスに、意外に平凡だなとシリウスは言い放つ。さっきから愛想笑いの一つも無い彼に、平静さを取り戻したリーマスは、

「平凡で結構。君みたいに無駄に派手な名前よりはね」

 しかしシリウスは悪びれた様子も無くそれもそうかと納得している。一体何がしたいのか甚だ不明だ。するとシリウスは、

「それ、切花だから家に帰ったらすぐ水にさらしてやってくれ」

 思わず受け取ってしまった花束を見ると、珍しい紫のチューリップだった。お近づきのしるしとか言っていたが、一体何故急に……?
 もともと警戒心の強いリーマスの本能がようやく活動をはじめ、彼はほとんど胡散臭そうにシリウスを見つめた。以前に笑いかけられた愛想のよいイメージがあるだけに、今日のぞんざいな態度が良い印象を消し去ってゆく。勝手に希望を抱くのは危険だということはさほど長くもない人生で思い知っており、ましてや相手は普通の男でこの容姿だ。下手に好意を示すのは得策ではない。顔を覚えていてくれたのは嬉しいが、どうせ手に入らないものならば、偶像は偶像のままであってほしいというのがリーマスの身勝手な希望だった。
 そんなリーマスの内心など露知らず、シリウスはウェイターが運んできたエスプレッソを口に運ぶ。悠々とした動作がまた絵になっていて、思わず目が引かれるのをリーマスは必死で堪えた。

「あんた、監察医だったんだな」

「……………………」

 カップをソーサーにもどしたシリウスは灰色の視線をリーマスに寄越す。何気ない仕草の中にある優雅さがリーマスは気に入らない。相変わらず無言のリーマスの態度をどう取ったのか、シリウスは怒りもせずにじっと彼を見つめていた。

「あんた、夜は暇か?」

「……………………」

「暇なら、ちょっと付き合ってもらえないか?」

 ここじゃ難だしよければ俺のうちで、とシリウスは続ける。もしも出会いがもっと自然な形であったならば、リーマスは一も二も無く頷いただろう。しかし今の彼は警戒心の塊だ。相手の目的もわからないのにいきなり家に誘われても付いていくわけはない。どうせリーマスが心の底で願っているような事態にはなるわけがないのだから。
 リーマスの目に何かを読み取ったのか、シリウスはふっと笑って頬杖をついた。

「そんな顔すんなよ。訊きたいことがあるんだ。……あいつのことについて」

 あいつ、と言ったときのシリウスの秀麗な顔の表面を寂寥が過ぎ去るのをリーマスは見た。遺族よりも先に駆けつけるほどであるなら、そうとう親しい仲だったのだろう。

「…………恋人だったのか?」

 不躾なリーマスの質問に、ほろ苦い表情をシリウスは浮かべた。そうだったこともある、と答えた彼は寂しそうに微笑む。端正な口元に浮かぶ微笑にはリーマスの警戒心を解かせるだけの力があり、できれば肩をさすってやりたい衝動に駆られた。

「………………夜なら」

 ついつい絆されてしまったリーマスの言葉に、シリウスはぱあっと表情を輝かせた。彼はいつかのようににっこりと笑うと、

「じゃあ21時にここで。夕飯ぐらいおごるからよ」

 ありがとう、と快活に言ったシリウスは問答無用でリーマスの手を取って握手をすると、小銭を置いて立ち上がった。それがエスプレッソの代金だとリーマスが気付く間も無くシリウスは、来たときと同じように嵐のように去っていったのだった。





 …………リーマスは基本的に警戒心の強い人間だ。だから初対面の人間といきなり打ち解けると言うことは滅多に無い。失礼のない程度に付き合うことはできるが、知人にはなれても友人になることはほとんど無かった。もともと人付き合いが苦手であり、それ以前に人嫌いでもあった。だからこそ選んだ職場が監察医務院であり、死体に口なしとはよく言ったものである。
 恋愛に関しても淡白なもので、お前といると付き合ってるのかセックスフレンドなのかわからないと言い捨てられたことさえある。セックスフレンド如きに部屋の鍵をくれてやるもんか、とは思っても、そこで去る者を追うほどのパワーが無いのがリーマスであり、一瞬のうちに諦めて別れてしまった前科が三回ほど。面倒くさい人間関係などいらないし、やりたい盛りならばまだしも今ではセックスよりもケーキの方がよっぽど重要だ。それでも人肌が恋しければ行くところへ行けば相手は見つかるもので、どういうわけか一夜のパートナーにはそれなりに愛想も振りまける彼だった。まぁ、それは多分、二度と会うことも無いと思っているからこそできるのであって、やはり自分は淡白で人付き合いなどできる人間ではないのだとリーマスは諦めていたのだった。
 それが一体どうしたことか。さして飲んでいるわけでもないのに亡羊と霞む頭でリーマスは現在の状況を省みた。現在彼はシャワーを浴びている。しかしそこは彼のフラットの狭いバスルームではなく、シャワーブースの別になった広い浴室だ。見下ろす床は白い大理石で、傷一つどころか曇りすら無い。磨りガラスの扉に付いた取っ手は味のある真鍮製で、機能的でありながら美しいフォルムが優美である。
 こんな見るからに高価そうなバスルームでシャワーを浴びるなど、今日の昼間にはついぞ考え付きもしなかった。しかも初対面の男の家で、更には情事の後に。
 信じられない思いでリーマスは頭を振った。濡れた毛先から雫が飛び散り、両手をついた壁に水滴を作った。微細に腕が震えるのは精神的な理由であって、重だるい腰が休息を求めているからではない。
 何でこんなことになったのか。シャワーの温度以外の理由で血流の上った頭をどうにか動かしながらリーマスは考える。確か今日はシリウスに連れられて、夕食を一緒に取った。何しろ初めて口を利いた数時間後であるし、相手を全く信用してなかったのでリーマスは食事の間もほとんど無言だった。たまにシリウスは口を開いたが、ろくに返答をせずともさして気にした様子もなかった。もともと初対面の相手を強引に誘うような男である。無神経なのはわかっていたではないか。
 この半年ほどで勝手に築き上げてきた理想像が瓦解するのが面白くなく、リーマスは無愛想極まりなかったが、シリウスは文句も言わずに彼を自宅へ招待した。そこは花屋のオーナー如きが住めるのかとリーマスが内心でひるんだほどのコンドミニアムで、好きにくつろいでくれと言われて気が休まるような場所ではなかった。それでももてなしに出されたワインが美味で、アルコールが程よく回れば気も緩む。おかげで四人がけのソファにわずかな距離を置いて隣り合うという不自然さにリーマスは気がつかなかった。

「…………訊きたいことってのは?」

 間接照明の柔らかな光に照らされたシリウスを見つめると、彼は何故か目を逸らした。さっきは無礼なほど凝視したくせに、妙な男だ。

「…………あんた、事故現場は見たか?」

 シリウスは手の中のワイングラスをくるくる回しながら呟いた。視線は前方に向けられているが、どこを見ているという風ではない。あるいは彼女の顔でも思い浮かべているのだろうか。

「……残念ながら。搬送されてきたときに状況説明を受けただけだよ」

「事故死だって断言できるか?」

 奇妙な質問にリーマスは眉を上げる。何が言いたいのだろうか。事件性は皆無だったと聞いている。それとも……。

「わたしが知っているのは、彼女はアルコールを多量に摂取していた。家のテラスの柵はあまり高くなく、転落して亡くなった。それだけだよ」

 リーマスの言葉にシリウスは今度こそ視線を向ける。じっと見つめてくる灰色の眸に、懊悩に似た色合いが見て取れる。彼は手の中のグラスを弄ぶのをやめてローテーブルに置くと、

「…………あいつの家族が事故死だって言い張って葬式を出した。だが、それはそうしないと体面が悪いからだ」

 つまり、彼女には自殺の疑いがあったということか。今度はリーマスの方から視線を外し、隣の男に気付かれないようにそっとため息をついた。
 確かに自殺か事故か、この場合は判断がつきにくい。当人が酔っていたのは事実で、遺書などは用意されていなかった。しかし発作的に自殺に走るということはさして珍しいケースではなく、どうやら友人たちには思い当たる節があるらしい。遺族に心当たりがあるかはわからないが、あくまで事故死としたのは、そうしないと宗教上問題が出てくるからだろう。そのことを察して彼は疑いを持ったのか。人間の死というものはどういう理由であれ、多くの人々に影響を及ぼすのだ。
 黙ってグラスを傾けるリーマスに、シリウスは囁くような声で話しかける。

「悩んでるとか、そういう話をされたわけじゃないんだ。だが、あいつが家族と上手くいってないことをどうにかしようとしてたのを知ってるから、家族の態度がどうしても納得いかないんだ」

 確かに、遺族の反応はあまり褒められたものではなかった。父親は憤慨して故人を卑下するような発言をしていたし、母親は遺体を見るのを嫌がった。それは冷たくなってしまった愛娘を目の当たりのするのが辛いと言うより、死体というものを見るのが単に嫌なようにリーマスには受け取れた。
 わずか一回会っただけのリーマスでさえ、とても好意的にはなれない相手であったのは確かだ。真夜中に駆けつけてくれた友人たちにろくに挨拶すらせずに立ち去った夫婦に、好感を持てというのは不可能だろう。ましてやシリウスは彼女との付き合いも長く、家族との確執も知っていたのなら尚更だ。どうやら葬式でも彼女の両親の態度は改まらなかったようで、それではシリウスがまさか家族との関係に悩んでと疑っても不思議は無かった。
 無意識にか組んだ両手を握り締めるシリウスに、黙ってリーマスは視線を注いだ。訊きたいことがあるというより、聞いて欲しいことがあったのだろう。親しい間柄では思い切って話せないようなことでも、行きずりで、その気になれば二度と口を利くこともない気楽な相手になら話すこともできる。教会での懺悔にも似た行為にシリウスが自分を選んだのは、少なくとも事の一端に関わっている人間だからか。それともシリウスへの好意を漠然と悟られていたからなのか。
 損な役回りだと思った。相手がシリウスでなければ、リーマスは相手を叱咤していたかもしれない。他人を自分の懊悩に巻き込むのは褒められた行為ではない、と。
 それでも彼に頼られるのは心地よく、ましてやアルコールが入っていれば尚更感情的になる。どうせ眺めるだけの立場を決め込んでいたのだ、こうして隣で話を聞くことができるなど、夢のようなことではないか。もしかしたら切り捨てやすい相手と思われたのかもしれないのは寂しくないと言えば嘘になるが、高望みするのは莫迦なだけだ。今リーマスにしてやれるのは、黙って話を聞くことだけだ。その相手に選んでもらえたことを、素直に喜んでもいいではないか。
 視線を和らげたリーマスは気遣いの微笑を浮かべてシリウスを見つめた。

「……どんなひとだったんだ?」

 ゆるりと振り返ったシリウスの表情は無防備で、やけに幼く見えた。

「そう、だな。ちょっと手が早くて口が悪かったけど、世界一いい女だった」

 シリウスは照れたように笑い、リーマスは柔らかに微笑む。思っていた通り、シリウスはいい男だ。出会い方が違えばいい友人くらいにはなれたかもしれない。それはそれで少し辛いのだけれど。
 微妙な感情を押し隠して慰撫のための微笑を刻むリーマスを、何故かシリウスは眩しいものを見るように目を眇めて見つめた。シリウスは微かに何か呟き、その一瞬のことにリーマスが疑問に思う前に彼は再び微笑を浮かべると、ふいに腕を伸ばした。長い腕は自然にリーマスの肩に回り、気付いたときにはくちびるが重ねられていた。
 思いがけない事態に思考の停止したリーマスの手からはいつの間にかグラスが取り上げられている。シリウスはリーマスを抱き寄せるのではなく自ら距離を縮めると、頬と頬と合わせるようにして囁いた。

「リーマス…………」





 …………その後のことを考えると、リーマスはバスルームで独りため息をついた。あんなちょっと名前を呼ばれたくらいで昂ぶるなんて、ちょっとキスしたくらいで気が遠くなるなんて……。
 ああ、でも期待以上にシリウスはキスが上手かった。あの容姿だから相手には事欠かないだろう。そのあとの出来事も夢見心地だった。久しぶりの行為で、あまり上手く立ち回れなかったのは不覚だった。それ以前に、何で彼はあんなに上手いのだろうか。まさか同類ということはないと思うのだが。
 そんなことよりも、当面の問題がある。どんな顔してシリウスに会えばいいのかわからない。酔っていたときは勢いがあるからまだいい。感情に流されるのも仕方がないだろう。だけどこのあと、素に戻ったときに、シリウスがどう反応するかが問題だった。気まずい雰囲気を作るくらいなら、すぐにでも立ち去ってしまいたい。顔も合わせず、口も利かず、煙のように跡形もなく。そして明日からは、何事もなかったように再び他人として過ごせたら、どれだけ楽だろうか。
 リーマスが一人で思考の深みに嵌っていると、思いがけずすぐ近くからシリウスの声が響いた。

「おい、何やってんだ。あんまり長いからぶっ倒れてるんじゃないかと思ったじゃねえか」

 吃驚して振り返ったリーマスの視界に、上半身裸のシリウスの姿が飛び込んでくる。先ほどの悲しげな様子はどこへやら、生来の傍若無人さを取り戻したようで、呆れた様子でずかずかとシャワーブースに踏み込んできた。

「お前、こんな温度じゃのぼせるだろうが」

 強引にシャワーを止めたシリウスはふかふかのタオルをリーマスに押し付ける。

「シーツ換えたから、何か飲んで横になってろよ。朝になったら送ってくから、そのまま寝てろ」

 混乱に頷くこともできないリーマスは、背後から投げかけられるシリウスの言葉をドアで遮った。泊まっていけということであるらしいが、そんな気は毛頭なかった。ぐずぐずと考え込んでいたが、シリウスと顔を合わせてしまったらもう駄目だった。一秒でも早くこの場を去りたい一心で、ろくに身体もふかぬままに衣服を身に着けると、リーマスは走り出す寸前の速度でシリウスの部屋を出て行ったのだった。





 それから二週間も経てば、いいかげん頭も冷める。あれはシリウスの気の迷いだったのだ、と自分に言い聞かせたリーマスは、どうにか普通の生活を取り戻していた。
 せっかくシリウスと親しくなれたのに惜しくないといえば嘘になるが、どうせ気分が落ち込んでいたせいで、優しくしてもらえれば誰でも良かったのだろう。時間が経って冷静になってくると、リーマスも少し腹が立ってきた。結局自分は都合よく巻き込まれただけで、何のメリットも無かった。彼の身体を知ることはできたが、もとも平穏な生活をとりもどせるなら、そっちの方がいいに決まっている。
 あれ以来リーマスはお気に入りのカフェに近付くことすらできなくなった。何しろシリウスの店はカフェの目の前で、花屋は年中無休の状態だ。もしかしたら休みの日もあるのかもしれないが、少なくともリーマスは花屋のシャッターが一日閉まっていたのを見たことが無い。一体いつどこでシリウスと遭遇するかもしれないと思うと、リーマスはできるだけ店の周辺を避けて生活するようになり、毎日ビクビクして過ごす羽目になった。おかげで今月の新作ケーキにはありつけそうにない。それもこれも全てあの男のせいだと思うと腹が立つ。
 確かに同情して慰めてやりたいと思ったのはリーマスだが、あんな風になりたかったわけではない。いや、正直言えば完全に思わなかったわけではないが、この結果を知っていれば選択肢は違ってきたはずだ。せめて抱きしめて慰撫してやるだけに留めていれば、顔を合わせたくないと思うようなことにはならなかったはずだ。できることなら友好的な関係を築きたい。しかしあの場で踏みとどまれなかったリーマスには無理な願いだ。そうなると今度は自分に腹が立つ。ましてや夜中に彼の息遣いを思い出して動悸が早くなるようでは尚更だ。
 折角の休日に何をする気にもなれないのは怠惰なのではなく不機嫌のせいだということにして、リーマスは本屋に足を運んだ。別に買いたいものがあったわけでもなく、目新しい新刊も出てはいなかった。それどころか活字を読むような元気はなく、手慰みに風景写真やゴマフアザラシの赤ちゃんの写真集などを何冊か手に取った。そんな風にして時間をつぶしていたリーマスが本屋を出たとたんに突然動きを止めたのは、忘れ物を思い出したからでも愛らしい子犬に気を取られたからでもなかった。目の前に立ちはだかったシリウスが、仁王立ちで彼を睨み付けていたからである。

「…………リーマス、やっと捕まえたぞ」

 地を這うような低い声で物々しく告げられた言葉に、反射的にリーマスはひぃっと小さく悲鳴を上げた。そして万引き犯人も真っ青の機敏さで逃げを打ったが、シリウスのリーチは思っていた以上に長かった。剥き身の腕を掴んでズルズルと道の端に引っ張り込まれ、せめてもの反撃とリーマスは鋭すぎる眼光でシリウスを睨み付ける。しかしそんなものでたじろぐような可愛い相手ではない。シリウスは人気のない路地にリーマスを連れ込むと、

「おい、何で俺を避けるんだ!?」

 避けずにいられるか、と叫びたい衝動を大人なリーマスはどうにか堪えた。

「こんなところで何の用だ。大体、仕事じゃないのか!?」

 押し殺してはいるが憤慨は一切隠していない。そんなリーマスの声にもシリウスは腕を掴んだまま鼻で笑い飛ばす。

「何のために経営者やってると思ってんだ。気が向いたらいつでも休めるに決まってるだろうが」

 どうやらシリウスはふらりと買い物に出た途中でリーマスを発見し、その場で仕事に戻ることを放棄したらしい。経営者がそんなでいいものだろうか。いいわけはない、と内心で怒鳴りながらも、怒りに震えるリーマスは傲岸不遜な男を睨み付けるばかり。腕を振りほどこうにも、ビクともしない。素肌に感じるシリウスの掌はあの日の夜のように熱く、彼の体温が皮膚を透過してリーマスの内側に広がるようだ。痣になるのではないかと思うほどの力で掴まれた腕は、すでに痺れ始めている。

「放せよ、こんなところで、人が来るぞ」

「……それもそうだな。じゃあ、お前のうちに案内しろよ」

 近いんだろ、とシリウスは腕を掴む力を緩めずに言う。何でそんなことをしなけりゃいけないんだと言外に訴えるリーマスに、人の悪い笑みを浮かべて、

「別に俺はここでもいいけどな。折角だから、通報されるまで羞恥プレイにでも励んでみるか?」

 耳元で囁かれた言葉に、咽喉の奥で笑う声が続く。怒り以外の理由で頭に血が上ったリーマスは、悔しさからくちびるを噛み締めていた。
 頭にくるが、どう考えてもこいつには勝てそうにない。股座を蹴り上げてやろうかとも思ったが、成功するとは思えない。運よく腕を逃れたとしても、いかにも俊敏そうな彼を振り切る自信はリーマスには無かった。
 無言になったリーマスを満足げに見下ろして、シリウスは腕を放した。何となく彼が逃げ出すことはないという確信がある。その証拠に忌々しげな表情を浮かべたリーマスは、掴まれていた腕をさすりながらどこかへ向けて歩き始めた。シリウスの方を決して振り返ろうとはしないが、その気丈な様子がまた彼らしい。剣呑な様子の男二人が連れ立って歩くのはかなり異様であったが、夏の楽しげな雰囲気に溶け込んだ人々は、彼らになど気を向けることは無かった。





 リーマスのフラットはシリウスの店の2ブロック先にある。趣のある古い建物の、四階が彼の部屋だ。古き良きものを愛する国民性にたがわず、リーマスもこの居心地のいい部屋を気に入っていたが、あの豪華な自宅を見せられた後ではシリウスを招待するなどもってのほかだ。幸いクーラーをつけっぱなしで外出したので、すぐに涼めたことだけはよかったが。

「へぇ……。いい部屋だな」

 遠慮もせずに部屋へ上がりこんだシリウスが自然に言っても、リーマスには嫌味にしか聞こえなかった。広さはあるが本以外何もない部屋で、何がいい部屋だ。今更お世辞を言ってご機嫌取りでもするつもりか。

「で、何の用なんだよ?」

 苛立ちを隠そうともしないリーマスを、シリウスは振り返る。彼はそれが癖なのか小首を傾げ、何かを思案するように視線を彷徨わせた。リーマスにしてみれば、できるだけ早くに要件を済ませて、すぐにでもここから出て行って欲しい。できれば友好的な関係に戻りたいと願っていたはずなのに、とにかく傍にいるのは嫌だった。
 するとシリウスは何を思ったのか、つかつかと真っ直ぐリーマスに向かって歩いてきた。思わず後退して壁際に追い詰められるリーマス。気分は蛇に睨まれた蛙だ。あわてふためいて逃げ出そうにも、優秀なはずの脳みそは解決策を生み出してはくれない。どうしようかと決めかねている間に、力強い腕に抱き寄せられた。面食らって呼吸も止まったリーマスの顎を掴んで、シリウスは無理矢理上向かせる。

「何でそんなに嫌がるんだよ」

 怒ったような声で言って、噛み付くようなキスをする。くちびるをたどる舌の温度がひどく熱い。

「そのつもりで連れてきたんだろうが」

 リーマスはキッとシリウスを睨み付ける。そんなつもりなどはない。往来で騒ぎになるのが嫌だったのだ。どんなことでもやりかねない雰囲気が嫌だったのだ。
 しばしの間睨み合っていた二人だが、先に視線を緩めたのはシリウスだった。彼はもの悲しげに眉尻を下げ、

「…………頼むから、そんなに嫌うなよ」

 会いたかった、と囁かれてキスをされれば、頑ななリーマスの心は簡単に溶解していった。






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