2
冬が来て再び世界が白く染まる頃、リーマスはやはりシリウスと一緒に過ごしていた。多分と言うよりむしろ確実に今年のクリスマスも二人で抜け出すことになるだろう。シリウスはともかく、助教授であるリーマスが学部のパーティーに顔を出さないわけにはいかない。面倒くさいが、仕方が無いのである。
その用意も大分整った12月の暮れのこと、リーマスは思ったより早くに仕事が終わったので、今日ぐらいは先にシリウスの家に行こうと思い立った。昼から霙混じりの雨も降り始め、気温はかなり低い。どうせなら先に行って部屋を暖めておいてやろうと思ったのだ。
以前に比べわずかではあるが積極的になったリーマスは思いつくとすぐに帰り支度を始めた。お互いの家の鍵はもう持っているので、いつ行っても問題は無い。多分食事はあるもので済ませることになるだろう。それでもシリウスの料理の腕は確かなので、リーマスではサラダかスープくらいしか思いつかない材料でも、見事に変身させてくれる。そういえば今朝、牛乳が無くなりそうだった。ついでに買って行ってやろう。
オフィスの施錠を確認すると、リーマスはいそいそと大学を後にした。車で校内を過ぎるとき、物理学部のある棟には、まだ煌々と明かりが灯っていた。
すっかり買い物に手間取ってしまったリーマスは、慌ててシリウスの部屋に向かった。スーパーに寄ったら、つい他の物まで買い込んでしまったのだ。食器洗剤や砂糖なんかいつでも買えるのに、つい安かったもので。気付くと思ったよりずっと時間が経っており、リーマスは急いで会計を済ませた。
ひょっとしたらもうシリウスは帰ってきているかもしれない。今日は少し遅くなると聞いていたが、リーマスのように早めに終わることもあるかもしれない。それならそれでいいのだが、せっかく部屋を暖めといてやろうと思ったのに、少々残念でもある。でもまぁ、機会はこれから幾らでもあるだろうから。
滑りやすい路面に気を配りながら精一杯急いでシリウスの家に着くと、案の定部屋に明かりが灯っていた。しまった、やはり遅かったか。
ガレージに車を滑り込ませると、キーを外すのももどかしくリーマスは車から出る。霙に湿った紙袋を抱えて部屋へ向かうと、廊下が濡れた靴にキュッキュッキュッと奇妙なほど大きな音を立てた。
「早かったね、てっきりもっと遅いと……」
勢い良くドアを開きながら中に声をかけ、リーマスは紙袋をキッチンのテーブルに置きに向かった。だが奇妙なことに何故か返事が無い。キッチンから姿は見えないが、気配はするというのに、どうしたのだろう。さては着替え中か何かなのだろうか。
「シリウス?」
何気無く呼びかけながら、リーマスは居間の方を覗いた。いつもと変わらぬ部屋の様子。だがリーマスのお気に入りのソファには、見慣れぬ黒のコートが無造作に置いてあった。新しいのを買ったのか、それとも……。
ある予感に突然足取りの重くなったリーマスはソファのところで立ち止まった。向こうに誰か居る。だが多分シリウスではない。しかしその気配はどこか懐かしいような……。
自分の思考に恐怖を感じてリーマスは息を飲み、その人が現れるのを待った。そして彼は、どこか諦めたような雰囲気のあるその人に、数年ぶりに再会したのだった。
「ただいま」
玄関の方でシリウスの声がする。だがリーマスは振り返らず、窓に向かった椅子に座り続けていた。
「リーマス? どうかしたのか?」
シリウスは小首をかしげながらこちらへやってくる。途中マフラーを外し、コートをソファに放りながら。見たところキッチンに買い物をしてきてくれたらしい紙袋が置いてある。今日は何を作ろうか。昨日の残りのコンソメスープがあるから、固形ルーを入れてシチューかカレーも悪くない。そんなことを考えながら近付いたが、リーマスはピクリともしない。どうしたのだろう、今日は少し遅くなると伝えてあったから、不貞腐れているわけはないだろうし。
「リーマス……?」
再度名前を呼びつつ肩に手を置くと、漸く彼は反応を見せた。ゆっくりと振り返りはしたが、その目には虚無感と何故か憎悪すら感じられた。
どうしたのか事態が飲み込めずに瞬くシリウスに、リーマスは向き直る。意志の強そうな薄いくちびるは、今はきつく引き結ばれていた。
「……君のお父さんに会ったよ」
苦々しげな呟きに、今度はシリウスが反応を示した。それを見てリーマスは確信を深める。やはりシリウスは知っていたのだ、と。
「……ここに、来たのか?」
低い呟きのようなシリウスの声にリーマスは黙って頷いた。先ほどまでこの部屋にいたのは、シリウスではなく彼の父親。こちらへ来る用事があったので、ついでに寄ったのだと話していた。できればもう一生出会いたくなかった相手。
「君は知っていたんだな?」
疑問形で発せられてはいても、リーマスはシリウスの返事を必要としてはいなかった。それを悟ったのかシリウスは何も言わずにリーマスの前に佇んでいる。
「ぼくが彼の愛人だったと」
リーマスは吐き捨てるように言って怒りに燃える目をシリウスに向ける。彼はその目を美しいと思ったが、何も言わず憎悪に燃える恋人を見下ろしていた。
先ほどのこの部屋でリーマスを待ち受けていたのは、望まぬ再会。かつてリーマスを翻弄し、激しく執着させたあの教師。昔と何一つ変わらぬ優しいが虚無的な微笑を口許に浮かべながら、彼はシリウスの父親だとリーマスに告げた。何も言えず恐怖と衝撃から立ちすくんでしまったリーマスの肩にすれ違い様に手を置き、また会えて良かったと囁いてすぐに部屋を立ち去った。
苗字が違うのは、シリウスが母親の姓を名乗っているから。そのことにリーマスは今まで一度も思い至らなかった。いや、考えてもみなかったのだ。その自分の迂闊さにリーマスは歯噛みした。
こんな偶然があるわけは無い。考えてみれば、初めからリーマスに興味があったのはシリウスの方。積極的に近付いてきたのも彼だった。シリウスは知っていたのだ。自分の父親の愛人のことを。そして興味を持った。
ギラギラ光る眸で睨み付けられても、シリウスは動ずることなくリーマスの前に立っている。意図的にだろう、表情を消した彼は驚くほど父親に良く似ていた。シリウスは言い訳をするでもなくリーマスを見つめて動かない。それに何故か焦燥を感じてリーマスの方が目を逸らす。彼の眸を見つめ続けることができない。怒りを感じているのはこっちなのに、どうして……。
「……否定はしない。俺は前からお前を知ってた」
霙交じりの雨の音だけが響く部屋で、低く囁くようなシリウスの声が奇妙に響く。
「滅多に会わない父親の、書斎に写真があった。色んな人間の、沢山の写真が」
その中にある少年の写真を見つけた。他にも沢山写真はあったが、彼の写真が一番多かった。中には父親に肩を抱かれているものもあり、その写真の中の少年はどこか誇らしげですらあった。小さい頃はその写真の意味がわからなかったが、長ずるにつれ次第に意味を悟った。誰に教えられたわけでもなく、ただ漠然と。
「だから、確かに俺はお前を知ってはいた。だが、大学で出会ったのは本当に偶然だ」
まさか父親の数多い愛人に会うために大学を選ぶほどシリウスは酔狂ではない。その証拠に1年間ほどリーマスの存在に全く気付かなかった。あるときパブに贔屓のフットボールの試合を一緒にテレビ観戦に行く約束をしていた法学部の友人を迎えに行って、偶然リーマスに出会った。初めはどこかで見たことのある人間だと首を傾げた程度の興味であったが、何度か会ううちに昔見た写真の少年を思い出した。まさかと思って出身校を調べてみたら、リーマスは父が教鞭を取る学園の出身者だったのだ。
リーマスは俯いたまま眉間に皺を寄せて黙ってシリウスの話を聞いていた。確かに、全てを誰かの意思による必然とするには、無理がある。だがシリウスの話を鵜呑みにして良いものだろうか。できるなら、そうあってほしいものだが……。
怒りと恋人を信じたい気持ちに逡巡するリーマスの内心の葛藤に気付いてか、シリウスは身を屈めて彼の表情を覗き込もうとする。苦悩の表情を見せるリーマスは普段とは違う美しさがあるようで、シリウスは彼に気付かれないように嘆息した。なるほど、あの父親が執着しただけのことはあると思う。
シリウスは尚もくちびるを無意識にか、噛み締めて俯くリーマスの前に膝を着いた。
「リーマス……」
甘く囁くような声にリーマスは顔を上げる。今やリーマスの方が高い位置にいるのに、それでも上目遣いであったところが彼の心理状態を如実に表わしていたことだろう。
シリウスはどこか拗ねた子供のような様子のあるリーマスの目をしっかりと見据え、膝の上で握られていた手に自分の手を重ねた。さして寒くもない部屋で血の気の引いた手に重ねられたシリウスの掌は温かく、リーマスは小さく息を吐いた。
「リーマス、今まで黙ってて悪かった。騙そうとしたんじゃないんだ。できれば、知られたくなくて……」
子供を宥めるような声音で、しかし誠実な態度でシリウスは謝罪する。何度も話そうと迷ったのだが、その度に本当のことを知られたら、今の関係が損なわれるのではないかと恐ろしくなって結局何も言えなかった。きっと本当のことを話しても、容易には信じてもらえまい。ましてや、余りにも偶然と蓋然が見る者の主観によって簡単に入れ替えることができる話だ。一歩間違えば、破綻は確実だろう。関係を断ち切られることを恐れたシリウスは、愚かにも事を先延ばしにし続けた。彼一人が口を噤んでいれば、発覚する可能性は限りなくゼロに近い。それならば、この秘密は墓の下まで持ってゆこう、と。
「それでももしお前が、あのことを話してくれたら、俺も正直に言おうと思ってた」
しかしその機会は永遠に来ることはなく、こうして最悪の事態を迎えてしまったのである。それは全て行うべきことを怠ったシリウスの罪悪であり、当然の報いだろう。リーマスが激怒し、二度と近付くなと言うのなら、甘んじて受け入れるしかない。
済まなかった、と普段は自信に満ちて輝く眸を悲しげに伏せて、重ねた手に僅かに力を込めるシリウスは、彼らしくなく不憫で、リーマスは酷く感情を揺さ振られた。今までこんなシリウスを彼は見たことが無かった。シリウスはいつだって自信に満ちて、夜空を照らす星のように輝いていた。こんな親に捨てられることを恐れて震える子供のような彼は、見たことがない。それほどまでにシリウスは今、リーマスの拒絶を恐れている。リーマスの返答次第で彼は天国と地獄のどちらかを味わうのだ。
その考えは麻薬にも似た甘美な誘惑をリーマスにもたらす。たった一言でシリウスの状況は一変する。両極端なその想像はリーマスの支配欲を慰め、溜飲を下げた。
それでなくとも多分、リーマスは彼を拒絶しないだろう。今こうして見上げてくるシリウスの眸は真摯であり、酷く愛しいと思う。殴りつけたい衝動と、抱き締めたい衝動は同等で、なるほど愛憎はベクトルの違う同じ感情なのだ。ならば最終的に事を決するのは執着であり、このときリーマスは彼を手放したくはなかった。手離すことなど、できるわけがなかったのだ。
リーマスは小さなため息と共に身体の緊張を解いた。
「……もういいよ」
ぼくも悪かったから、と呟いてリーマスは精一杯微笑んで見せたが、上手く笑えたかどうか自信が無い。それでも緊張に強張っていたシリウスの表情が和らぎ、眩しいほどの笑顔になったので、どうやら成功したらしいことをリーマスは悟った。
「リーマス!」
ほとんど叫びながらシリウスは突然リーマスを抱き締め、キスをした。和解のために優しい抱擁をしてやろうと思っていたリーマスは先を越され、シリウスの腕の中で苦笑する。どうやら結局のところリーマスは彼に敵わないようだ。けれど悪い気はせず、むしろリーマスは胸の奥が温まるのを感じた。気を緩めると涙が出そうになるのを必至で堪えて、リーマスはシリウスの背中をあやすように叩いた。
こうして抱き合うことの何と幸福なことだろう。シリウスはよほど心寒い思いをしたのか、リーマスを抱き締めて放さない。情熱的で、反面子供のような抱擁にリーマスは微笑んだ。できるなら生涯を彼と過ごしたいと思う。それでもリーマスは楽天家でも夢想家でもないので、いつかはこの思いが変化してしまうことを知っていたのである。だからどうかこの幸福が、出来るだけ長く続きますように。眸を閉じてシリウスの胸に顔を埋めながらそう願うリーマスは、彼の人生において最も幸福なときを実感していたのだった。
しかしリーマスは気付かなかった。強く優しい抱擁をくれるその男が今、端整なその口許に父親に良く似た邪悪で魅力的な微笑を閃かせていることを……。
〔END〕
1
Back