LOVE or LUST






 酷く懐かしい夢を見て、リーマスは目を覚ました。あれは多分まだ幼かった子供の頃の記憶。遠いイメージは学校であろう。悪夢だ、と呟いてリーマスは右手で顔を撫でた。
 暫くそうしてベッドに横になっていたが、カーテンを透かす光が起床の時刻を告げている。仕方なくリーマスは身体を起こすと、気だるそうに部屋の中を見回した。
 広い寝室に、高級な家具。しかしどこかよそよそしい感じがするのは気のせいだろうか。それは多分、この家の主人が寝室にいないからだろう。
 リーマスは小さく伸びをすると、バスルームへ向かった。






「おはよう」

 居間の入り口の所から声をかけると、キッチンで忙しく立ち働いていた人物が振り返った。

「おはよう」

 いつも通りの優しげな微笑を口許に浮かべるのは、この家の主人であるシリウスだ。まだ若干22歳ながら、姿勢の良い長身にはどこか風格と威厳がある。それは多分彼が伝統と歴史を背負った名門家の嫡子であるからだろう。それ相応の教育を受けて育ってきたシリウスには、ときに品位すら感じることがある。
 シリウスは英国の上流階級特有の体型である痩身でありながらも、パブリックスクール在学時にさんざんラグビーで鍛えた見事な体躯を服の下に隠していた。見た目も中身も全く変わらず不健康なほど細いリーマスとは大違いである。
 そのシリウスは長身を窮屈そうに屈めてキッチンで朝食を作っている最中だ。彼は大学に入って以来の一人暮らしなので慣れており、その手つきに危なげな部分は無い。リーマスとてもう長い間一人で生活しているが、やはり才能かそれとも単なる嗜好の違いか、彼はさほど料理が上手くなかった。その点シリウスは英国紳士には珍しく料理が趣味であり、食事に関してはリーマスはすでに彼に一任しているのだ。とは言っても何もかもお願いしてしまうのは気が引けるもので、

「何か手伝うことは?」

 テーブルにはすでにグラスやサラダが並んでおり、リーマスが手を出す隙は無い。しまった、ベッドでまごまごしているのではなかった。するとそんなリーマスの心情を察したのか、

「じゃあ、トースト頼む」

 スクランブルエッグを皿に盛り分けながらシリウスがトースターを顎で示した。
 わかった、と踵を返したリーマスは小皿を二枚手に、トースターから今まさに脱出を試みようとしているトーストを待ち構えた。
 二枚のパンを摘んで慌てて皿に乗せると、テーブルへ運んでバターを塗らねばならない。サラダボウルの横に置かれている小鉢の中には、バターに刻んだパセリとレモンを加えたものが用意してある。はたしてこれがシリウスが作ったものなのか、それとも週に3回やって来る通いのメイドが作ったものなのか、リーマスは一瞬本気で問いかけようか迷ったものである。
 もしシリウスが作ったものならば、本当に帽子を脱いでしまわねばならないだろう。彼は完璧主義だからな、と実生活においてはほとんど無頓着なリーマスはバターをトーストに塗りこみつつ考える。5歳も年下のシリウスに何から何まで負けているようで、少々無駄な劣等感を感じてしまうことがある。だがもともとそういった負の感情とは無縁な性格なので、今の考えもシリウスが席に着く頃には胡散霧消してしまうだろう。そうして二人は良好な関係を続けているのだった。






 リーマスとシリウスが知り合ったのは数年前に遡る。それはシリウスが大学へ入学して1年ほどたったころのことだ。
 リーマスは現在ある大学で法学部の助教授として教鞭を取っているが、もともとは弁護士を目指していたのである。だが免許の取得後体調を崩し、また法曹界の人間関係に嫌気がさして大学に残ったのである。暫くすると教授が脳溢血で倒れ、学内派閥の争いがどうのこうので新しい教授が決まり、むしろそれに全く関与していなかったリーマスが妥協案として助教授に選ばれたようだ。誰にも望まれない代わりに、少なくとも誰からも怨まれない人物として。
 それから数年後、彼の教え子である学生が物理学部の友人を連れてきた。それがシリウスとの出会いだった。
 シリウスの初対面の印象は、リーマスにとってかなり良いものだった。彼は礼儀正しく、リーマスに対して好意を抱いているようだった。またシリウスは出自や家柄を鼻にかけることも無く、気さくな人物でもあり、何より人を惹き付ける性格をしていた。それにやはりあの端整な顔立ちもあっただろう。基本的に自分の生活範囲で恋人を作らない主義のリーマスも、何度かあの肩に寄りかかってみたいと思ったほどである。
 それでもあくまでちょっと考えた程度の話であり、リーマスは通常以上にシリウスと親しくはしなかった。もともと年下にはあまり興味がなかったし、ヒエラルキーの上層部に位置する人間と何とか親しくなろうという意図が彼には無かったのである。だが反対にシリウスはリーマスに酷く興味があるらしく、何かというと法学部に顔を出して、リーマスに声をかけてきた。初めのうちはどうにか丁重に無視していたが、そのうちもういいかとリーマスも諦めた。多分シリウスの興味の対象は、自分と正反対のタイプであるリーマスの性格であって、同性に対する恋愛感情ではないだろうと思っていたからである。
 それが肉体関係に発展したのは昨年のクリスマスのこと。大学でのパーティーに疲れ始めていたリーマスに、抜け出そうとシリウスがこっそり持ちかけたのだ。

「見せたいものがあるんだ」

 そう言ってシリウスは自宅にリーマスを誘った。クリスマスというのは家族を持たない人間にとってはかなり精神的重圧のある日で、信心深いとはお世辞にもいえないリーマスにはあまりありがたくない日だった。小さい頃からどうしても家族と上手くいかず、社交的ではあっても本質では静寂を好むリーマスは異端なのである。毎年最も多くの自殺者を輩出する聖なる日は、リーマスにとっても長年の苦痛であった。そこへきての誘いであり、アルコールが入っていたこともあってリーマスはシリウスの誘いに応じた。単なる口実だとしても『見せたいもの』が何なのか気になったこともある。
 シリウスのアパートはリーマスの家よりも大学に近く、遥かに広くて綺麗だった。その家は大学入学時に両親からプレゼントされたものだと言う。全くもって世界が違うとリーマスは呆れ返ったものだ。
 シリウスは幼い頃に両親が離婚し、彼は母親に引き取られたが、その後結局は父親と暮らすことになったらしい。と言うのも母親が再婚して外国に行くことになり、同行を拒否した彼は父のところへ行くこととなった。だが貴族で祖父も健在な父は一族が運営する学園の理事兼教諭として一年の大半をシリウスとは別に過ごしていたらしい。またシリウスもすぐに全寮制の学校に入学してしまったので、父親とはほとんど他人に近い関係なのだとか。ということは、彼は一族の運営する学園には入学しなかったということか。

「一応親権は母親にあるからな。まぁ、父方の爵位や遺産は俺が受け継ぐことになるだろうけど」

 そう言うシリウスは冷めていて、特殊な環境によって必然的に精神的成長をせざるを得なかった人生がうかがえた。あまり幸福な人生を送っていないリーマスさえも多少気の毒に思ったのだが、そんなことよりとシリウスが見せてくれたのは、額に入った17世紀に作られた権利章典の草稿の一つだった。

「うわっ、こんな物どこで手に入れたんだい?」

 凄いと無意識に呟きながら嬉しそうに額を見つめるリーマスに、シリウスは満足げに笑いかけた。どうやら彼の実家から持ち出したものであるらしい。本来ならば大英博物館にでも展示されてしかるべきほどの物である。だがそういったような物がシリウスの家にはごろごろしているのだそうだ。その中の一つを大学の助教授に見せるのだと言って持ち出したとシリウスは言う。確かに嘘ではないが、微妙に真実でもないところが可笑しくて、リーマスは笑った。シリウスも笑った。そして二人は誰よりも親密になったのである。






 以来シリウスとリーマスは週に2度はお互いの家に泊まるようになった。と言ってもやはり大学に近いシリウスのアパートの方が何かと都合が良く、ほとんどの時間はそこで過ごすのが習慣であった。それに何かと物入りになるし、殺風景なほど何も無いリーマスの部屋は、人をもてなす場所とは言い難い。それに引き換えシリウスのアパートには、本当に何でも揃っている。
 毎月一般人の給与の三倍はするほどの生活費が父母から振り込まれ、またシリウス名義の不動産などの利益もあり、彼は全く何不自由することもない。最新のパソコン機器、有名なクラシックカー、王室御用達の茶器、アンティークの応接セット。それに引き換えリーマスの生活ときたら、買い換えるのが面倒くさくて縁の欠けたマグカップを何年も使っているようなものだ。シリウスを気持ち良く招待できるわけがないのである。
 だがシリウスはやはり基本的に理系の人間であるためか物に対する執着が薄く、浪費癖などは欠片も無かった。購入する物が高級品であるのは、単にそれらに囲まれて生活するのが習慣となっているためであろう。そんな二人が上手くやっていけたのは奇跡に近いものがあるとリーマスは思う。それ以上に、多分シリウスが寛容で我慢強いのかもしれないが。
 シリウスにとってのリーマスは『最愛の恋人』であるらしい。本人もしょっちゅうそんなことを口走っては、リーマスが恥かしがって嫌がるのを楽しんでいる節があった。そういった直截な愛情表現に慣れていないリーマスはどうにもくすぐったくてむっつりと黙り込んでしまうのだが、本心では決して嫌ではないことを自覚してもいた。
 リーマスは幼い頃から不仲な両親から良くも悪くもほとんど干渉されずに育った。適年齢に達した途端、全寮制の学校に入れられ、彼は益々両親と疎遠になってしまった。その後二人が離婚してもリーマスの位置は大して変わらず、考えてみれば大学入学以来一度も会っていない。最も、別段会いたいとも思わないが。
 そんな生い立ちのおかげでリーマスは物静かで受動的な子供になってしまった。だが成績は良く、議論が下手というわけでもなかったので学校では上手くやることが出来た。友達はそう多い方ではなかったが、少なかったわけでもない。特別苛められることもなければ、話題の中心になったことも無かったのである。
 あまり自己主張の激しいタイプでは無かったリーマスだが、どういうわけか彼は一部の人間に非常に好意を寄せられた。ひょっとしたら同類の匂いをかぎつけたのかもしれない。在学中同性に告白された回数は相当数にのぼる。
 かつて閉鎖的な全寮制学校は同性愛の悪の温床であるとさえ言われたが、現在では大分開かれた運営をされており、近所の女子高の生徒などとも友好が深い。にもかかわらずやはりそういった手合いはいるもので、またリーマスもそれを忌避したりはしなかった。
 おかげでリーマスの初体験は酷いものとなった。親しくしていた同じ学校の上級生がどうしてもと詰め寄り、断りきれなかったリーマスは痛い目を見たのである。それがわずか12歳のときのこと。
 暫くはリーマスもそれがトラウマになり、近くの町に住んでいた女の子と児戯にも等しい恋愛ごっこなどをしてみたりもしたが、結局上手くはいかなかった。長ずるにつれてリーマスはセックスは男と、恋愛は女と楽しむようになり、我ながら屈折していると思ったものである。しかも女の子との恋愛はほとんどままごとに近く、相手がキス以上のことを求めるようになると、気持ちは冷めた。それにはある教師との出会いが特に作用していたのである。
 リーマスがその教師と出会ったのは、正確には学校へ入学するとすぐである。だが始めの内はごく普通の教師と生徒の関係だった。それが変化したのは14歳のとき。もともと彼に気に入られているのはわかっていたが、そういうことになるとは思ってもみなかった。
 彼は穏やかで優しい、人望も実績もある教師で、リーマスも悪い感情を持ってはいなかった。上流階級の出身で、生徒の親たちがあんな紳士になりなさいと言い聞かせるような完璧な人間。端整な顔立ち、姿勢の良い長身。そして気品を感じさせる立ち居振舞い。苦手な科学を個人的に補習してくれるとその人が申し出てくれたとき、リーマスは内心喜んだものだ。そして知ったその人の本性。魅惑的な微笑と蕩けるような快楽。彼は以前の恐怖に近い記憶をいとも容易く忘れさせてくれた。そうしてリーマスはすぐに彼に夢中になってしまったのだった。
 教師とリーマスの関係は卒業まで続いた。いや、卒業を期にリーマスが逃げ出したと言ってもいいだろう。彼は余りにもリーマスを惹き付け、生来起伏の乏しい感情を波立たせる。彼には妻子がおり、息子はリーマスとそう大して歳は違わないと伝え聞いた。にもかかわらず一年の大半を過ごす学園に、その教師はリーマス以外にも複数の愛人を持っていたようだ。いや、むしろ愛玩具に近いかもしれないが。
 初めて彼が自分以外にも愛でる相手を持っていると知ったとき、リーマスは激しく嫉妬した。だが何を言っても彼は相手にしてくれず、問い詰めると冷たい態度を取る。捨てられるのが恐ろしかったリーマスは口を噤み、再び従順に彼の言いつけに従うようになった。床に這いつくばってどうか抱いて欲しいと足を舐めたことすらある。それほどにリーマスはその教師に傾倒していたのである。
 だがそれもいつしかリーマスの中で別の感情へと移行した。と言っても気持ちが冷めたのではなく、むしろ恐怖を感じるようになったのだ。これほど自分を執着させる彼に、それどころか多くの人間を欺き、惹き付ける彼に、底知れぬ闇を感じたのかもしれない。リーマスなど想像もつかない虚無を身内に飼った彼は、邪悪で魅惑的な存在だ。それを感じ取ったリーマスは彼からそれとなく距離を取るようになり、そして卒業を機会に完全に関係を絶ったのである。
 その後のリーマスは面倒な恋愛は求めず、気の向いたときに抱き合える相手だけを求めるようになったが、それも大学を卒業するまでの話である。以後はほとんど誰とも親密にならず、隠居老人のような生活を続けていたのだった。
 そこへ現れたのがシリウスだ。一度肉体関係を持ってしまうと、リーマスが自分でも驚くほどシリウスの存在は大きくなってしまった。セックスと恋愛が同じ相手であるという初めての状況に当初リーマスは戸惑ったが、慣れてしまえばこれほど甘美なことは無い。学部が全く違うためにお互いに不必要なほど干渉することが無かったのも良かったのかもしれない。
 とにかくそうしてリーマスはすっかりシリウスに夢中になってしまったのだが、年長者としての威厳を保つためにそれは彼には秘密なのである。またシリウスも相当リーマスに入れ込んでいるらしいことが伺え、何かというと一緒にいることを望んだのである。
 シリウスはメイドが本当に必要なのかリーマスなどが疑問に思うほど有能な生活能力者で、大学でもかなり将来を有望視されているらしい。まだ博士課程だが、今後大学に残ることを希望すれば、将来の教授の椅子は約束されているという噂が法学部にまで聞こえてきている。だが本人は興味などまるで無さそうに、

「どうせ実家の金目当てだろ」

 と言って歯牙にもかけなかった。そういった点がリーマスのお気に入りでもある。
 そんなシリウスが現在学んでいることは、物理学界ではここ数年有名になってきた『紐理論』と言うものであるらしい。何でも宇宙を構成する素粒子は、実は球体ではなく紐状のものでできているということを出発点に考える学問なのだそうだ。
 だが幾ら噛み砕いて話してくれてもリーマスにはそれ以上のことはわからず、理解できたのはシリウスが尊敬するのはアインシュタインよりもケンブリッジのホーキンス博士なのだということ。ES細胞の培養成功により、世界最高の頭脳が失われずに済むことをシリウスはそれは嬉しそうに話していたものだ。
 そんな聡明で大人びた彼が、お気に入りのフットボールチームの勝敗にヤキモキしたり、試合の結果によっては不貞腐れたりするのがリーマスには面白く、また年相応で可愛いものだと思った。贔屓のチームの特に無いリーマスはよく一緒にテレビ観戦をさせられたが、試合より一人で百面相をしているシリウスを眺めている方がよっぽど面白かった。そして試合に負けると落ち込んだり怒ったりするシリウスを宥めすかし、慰めてやるのはいい気分で、満更でもない。だが勝ったら勝ったで浮かれるシリウスをやはり宥めたりときには一緒になって喜んだりするのも楽しかった。シリウスはリーマスが今まで持っていなかったものを全て引っさげてきたのである。






 二人仲良く大学へ出かけた後は、夜まで別行動である。特に夕方から会議の予定の入っているリーマスは、まず間違いなく遅くなるだろう。それなら夕食はうちで、とさらりとシリウスが言い、苦笑しつつリーマスも承諾した。結局万事シリウスペースなのである。
 だからといって別段悪い気もしない。リーマスは受動的だが主体性が薄いわけではないので、人に流されやすいタイプではない。そんな人間は我を張りつづける欧州社会ではやっていけないだろう。だがこと食事だとか日常生活の瑣末事になると、リーマスの積極性は下降の一途を辿る。料理するのが面倒くさくて、週に4日は外食で済まし、3日はレトルトやジャンクフードで過ごしてしまう。彼が唯一情熱を傾ける食べ物は甘いものだけであり、学生の一人である少女に時折美味い菓子屋をリークしてもらうほどだった。
 そんな食生活の改善に果敢に取り組んだのがシリウスである。彼はしょっちゅうリーマスを自宅に誘い、手の込んだ夕食を出してくれる。もちろんそれだけではないのだが、数ヶ月全く同じメニューを取り続けるほど無頓着なリーマスには有り難いことだ。そうしてこの夜もそういうことになるのだろう。
 明日は家に帰らなきゃな、とリーマスは自分のオフィスから中庭を眺めてぼんやりと思った。昨日も帰っていないし、そろそろゴミの始末が気がかりだ。新聞も溜まってしまっているだろうし、資料も探さなくてはならない。シリウスのアパートにはもう一年以上通い続けているため、リーマスが生活するためのものはほとんど揃ってしまっているが、それでも基本的に家は別なのだ。けじめが大事、とリーマスが自分に言い聞かせたとき、珍しく日の射している中庭を、よく見知った人物が横切っていった。
 姿勢の良い長身、黒い頭髪と蕩けるような笑顔。おや、とリーマスが窓辺によると、友人と並んで構内に消えていくシリウスの後ろ姿を見ることが出来た。それはよくある風景だったが、このときリーマスの目を引いたのは、彼が白衣を着ていたから。何しろ上背があるので何を着ても似合う男である。パソコンを扱うときにだけ着用するメタルフレームの眼鏡をかけてあの白衣を着たら、さぞや男前の学者が出来上がることだろう。
 一瞬その姿を想像してリーマスは一人でくすくすと笑い、再び仕事に戻った。だがこの後リーマスは、物理学部のシリウスが何で白衣を? と首を傾げることとなる。






 リーマスの一番のお気に入りは、居間のソファである。と言っても自宅の話ではなく、シリウスのアパートにおいて。
 外国製の広いソファは大層座り心地が良く、ごく短時間で睡魔が襲ってくるほどに楽な気分になる。多分リーマスの給料の半年分はするであろうそのソファで寛ぐのがお気に入りだった。
 しかしいつだってゆっくりはしていられない。うっかりそのまま寝こけようものならば、気が付いたときにはシリウスに何をされているかわかったものではない。どうやらシリウスは、うとうとし始めたリーマスにちょっかいを出すのが好きなようで、また寝込みを襲うのが楽しくもあるようだ。5歳の年齢差のある二人だから、リーマスにしてみれば年寄りを労わってくれということになるが、シリウスは承知しない。そうでなくても基礎体力が違いすぎるほど違うのに、シリウスは何かと言うとリーマスを抱きたがる。
 明日は朝早いから、などとリーマスはよく文句を言うが、本心では満更でもない。帰りがけにパブなどで待ち合わせ、アルコールが入ったときなど、つい盛り上がってしまって玄関で、などということもあった。
 考えてみれば、シリウスのアパートで抱き合っていないところなど、バルコニーとトイレぐらいなものではないだろうか。恥かしい思い出だが、ガレージなどはすでに網羅済みであるから。
 この日のシリウスは、ソファで寛ぐリーマスにはあまり手を出さず、夕食後は暫くパソコンに向かっていた。何をしているのかと思って覗き込んでみたが、専門的なことのようで、何をしているのかよくわからなかった。そう言えばそろそろ学生の論文を添削してやらねばならない時期だ。面倒くさいなどと思ってはいけない。
 リーマスはソファに寄りかかったままいつに無く真剣な表情でパソコンに向かうシリウスの横顔を眺めやった。高い鼻梁、精悍な頬のライン、少し尖り気味の顎。すわりの良さそうな首には、くっきりとした咽喉仏。端整な横顔はリーマスにため息をつかせる。綺麗な顔をしていると思う。眼鏡も良く似合うし、ちょっと羨ましい。

「どうかしたか?」

 ふいにシリウスが振り返り、リーマスは驚いて瞬きした。

「……別に。見てるだけ」

 わざと興味の無い振りをしてそっぽを向くと、シリウスの苦笑する気配がした。彼は再び手を動かし始めると、

「もうちょっと待ってな。そしたら遊んでやるから」

 それが年長者に対する言葉か、とリーマスは内心思ったが、あえて反論はしなかった。余裕を見せて度量の広さを示してやろうとしたからだ。成功したかはわからないが。
 暫くして作業に切りをつけたのかシリウスが伸びをしながらやってきた。何とはなしにテレビを観ていたリーマスの背後から首に両腕を回し、髪に鼻先を埋めた。そのままもごもごとリーマスを呼ぶので、頭の後ろで変な声がする。息がかかってくすぐったいのもあって、リーマスは小さく笑った。その首に軽く噛み付いてから、シリウスは顔を上げると、

「ベッド行こう」

「そうだな、ベッド行こうか」

 二人は楽しげに笑いながら寝室へ向かったのだった。






 考えてみれば、シリウスと付き合うようになってから、自分は大分変わったのではないか、とリーマスはオフィスの窓からしつこく降り続ける雨の風景を眺めながら漠然と思った。
 シリウスと付き合い始めてもう大分経つが、以前と比べてリーマスはずっと社交的になったような気がする。と言っても以前が閉鎖的だったわけではなく、表面的には社交的でも、相手の顔や名前などすぐに忘れてしまった。それにちゃんとした食事をするようになったため、随分と体調も良いし、体力もついたような気がする。今までは着られればそれでいいと安物で済ませていた服装も、それなりに考えるようになった。かつては毎日を家と大学の往復だけして過ごしていたが、今は色々な所へ出かけるため、外的刺激が多いのか良いアイディアがよく浮かぶ。問題点としてはやはりしょっちゅう家へ招かれては泊まっていくことになるので、寝不足気味なことか。
 リーマスは一人何とはなしに頭を掻く。寝不足にはなるが、そう別段嫌ではない。リーマスはああして意味も無くくっついたり、たまの休日に昼過ぎまでごろごろして過ごすのは初めてのことで、何だか酷く面白かった。どうやら27にもなって漸く人並みの生活を得ることが出来たようだ。ではこれが幸せというやつなのだろうか。
 ……多分そうなのだろうと考えて、リーマスは再び頭を掻いた。一体何を一人で照れているのだろうか。そう思い至ると急にリーマスは真面目腐った表情になり、机に向かった。今日はまだこれから目を通すべき書類だの文献だのがわんさかある。刑事事件の判例事報誌も読まねばならないし、レポートの提出状況も確認しなければならない。ぼおっとしている暇などは無い。それでもリーマスはこの後シリウスのアパートへ行くだろう。それが日課であり、そして幸福であるから。
 そんな風に彼の日常は過ぎていった。






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