■□■ 牙とライムソーダ □■□
その行為の意味をリーマスは深く考えたことがなかった。正確には、考えたくなかっただけなのだろう。そもそも、考える必要性もなかったかもしれない。だからリーマスは気が向けばいつでも求めに応じたし、学校生活と言う単調な時間の連続の中で、それは非日常的でスリルを孕み、青年期と少年期の境にあった彼にとって、強すぎる興味を満足させてくれるものでもあった。
それに何より、リーマスは彼に好意を寄せていたから、確実に彼を独占できるその時間を、貴重なものと思っていた。
朽ちかけた部屋の中、同じように崩壊の兆しを見せるベッドの上で、リーマスは細すぎるほどの身体にシリウスを受け入れて、嗚咽に近いくぐもった声を漏らしていた。
「あっ……うぁ…………」
身体を折り曲げられ、深く貫かれているせいか、自分でも色気の無い声だと思う。けれど彼を抱きこむシリウスはそんなことお構いなく腰を使い、尚更リーマスは声を上げた。
苦しくないわけではない。だが、快楽がそれを上回る。つい一年ほど前までは他人と握手以外の接触をほとんどしたことがなかったのが嘘のようだ。
リーマスは自分に圧し掛かるシリウスの身体を抱きとめて、その肩口に顔を埋めた。まだまだ未発達の自分の身体に比べ、明らかに男性的で力強い体躯。とうに青年期へとさしかかったシリウスの身体は、美しいとさえ思えた。まだろくに髭も生えないリーマスにとって、シリウスはとても同学年とは思えない。だがシリウスにしてみればきっと、リーマスが男として幼すぎるだけなのだろう。そしてだからこそ、シリウスはリーマスを抱けるのかもしれない。
「いっ、ああっ…………!」
苦痛なのか快楽なのか、最早区別の付かない波が押し寄せる。腰間から沸き起こった熱情の波に押されて、リーマスはシリウスの背中に爪を立てた。息が詰まる。身体が動かせない。気が遠くなる。どこかへ押しやられそうな意識を保つよすがを求め、リーマスはシリウスの逞しい背中にすがり、顔を埋めていた肩口に無意識のうちに歯を立てていた。
シリウスがいつ達したのか、リーマスは覚えていない。ただ無理に身体を引き剥がされ、火照った肌が急速に冷えるのを感じてようやく我に返った。擦り切れたシーツの上、明りも消していない室内でまだ身体を繋げたままのシリウスをぼんやりと見上げる。彼は眉根を寄せた難しい表情で、リーマスではなく自分の右肩を見つめていた。筋肉の浮いた男性的な肩の線。自ら触れる広い肩に一筋の流血を見つけて、シリウスは更に眉を顰める。
シリウスが指先で触れた肩口にささやかな出血を認め、リーマスは一気に血の気が引いた。引きつった咽喉からは声が出ず、リーマスは片手で口元を覆う。自分がシリウスに怪我をさせたという事実。何より、それが噛み傷なのだという事実は、リーマスにとって恐怖を覚えさせるほどの衝撃であった。
あの日以来、シリウスの機嫌が悪い。そのことにリーマスは充分すぎるほど気がついていた。それはそうだろう、ここ一週間ほどリーマスはずっとシリウスを見つめていたのだから。いや、見つめていたというレベルではなく、観察していたと言ったほうが正しい。何気ない視線で、けれど腫れ物に触るように。
あの後のことは、リーマスはあまりきちんと記憶していない。あまりに衝撃が大きすぎて、ほとんど口も利けず、ろくに考えることも出来なかったせいだ。普段は腹が立つほど冷静な彼には珍しく、動揺のあまり気が動転していたのだろう。
とにかく、あれ以来シリウスはずっと不機嫌で、リーマスは何気なく彼を避けてしまっていた。それもこれも全ては、自分がいけないのだけれども。
リーマスがそれほど衝撃を受けているのは、他人に怪我をさせたからだけではない。ホグワーツの悪戯大王の片割れであるシリウスはしょっちゅう怪我をしているし、リーマスと喧嘩になって決闘まがいの挙句怪我をしたことだってないわけではない。リーマスが未だにまともにシリウスに接することが出来ないのは、その怪我が噛み傷だという理由からだ。
人狼は満月時の変身を遂げてからでないと、噛み付いたところで感染はしない。
そんなことはリーマスだって充分承知している。けれど、無意識で誰かに噛み付いたという事実がリーマスを打ちのめしていた。しかも相手はシリウスだ。純血の魔法使いの中でも王族に例えられるほどの名門家の嫡子。何より、人狼のリーマスを親友だと言って憚らない相手。それなのにリーマスは、彼を噛んでしまった。何と恐ろしい、何と罪深い所業だろう。
これはつまり、無意識であればリーマスは、その牙に親友だろうが何だろうがかけてしまうということだ。せっかく皆がアニメーガスを体得してくれたおかげで、変身中でも自我を保てるようになったというのに。やはり人狼は恐ろしい生き物だ。淘汰されるべき生き物なのだ。そう思えば思うほどリーマスの気分は沈み、泣きたいような気分になった。自分が情けなくてたまらず、汚らわしい存在のような気がする。加えてシリウスの不機嫌は誰の目から見ても明らかで、あの日リーマスは何度も何度も何度も謝ったにも関わらず、ぶっきらぼうにもういいと言われたきり、以来口もきいていない。シリウスの怒りのほどを思えば思うほど、リーマスは彼に近付くことができず、遠まわしに観察することしか出来なくなっていったのだった。
そんなある日の夜だった。リーマスが寮の部屋でピーターにルーン文字の補習をしてやっていると、夕食前から姿をくらましていたシリウスが突然戻ってきた。
突然、というのは変な話である。ここはシリウスの部屋でもあるのだから。だが、苛立った様子のシリウスを見ないで済むことに心底安堵していたリーマスは内心激しく動揺した。そんな彼の胸中など知る由も無いシリウスは、何故かシャワールームやベッドの下やトランクの中身を確認すると、補習中のリーマスに向き直った。
「おい、ジェームズは?」
久々に声をかけられて、身のすくむ思いでリーマスはシリウスを見上げる。長身の彼は着崩した制服のネクタイを緩めながら、机に乗せたリーマスの肘のすぐ脇に片手をついた。
「…………まだ罰則から戻らないよ」
初め声が掠れたが、我ながらよくきちんと受け答えが出来たものだとリーマスは思った。硬いほどの視線に見上げられて、シリウスは益々不愉快そうに眉を顰める。このままではいつか、眉間に寄った皺が元に戻らなくなるのではないか。
「ジムが怒ってたよー。シリウスの奴、うまく逃げやがってってさ」
羽ペンをひらひらとさせながら何も事情を知らないピーターが暢気に笑った。ジェームズは現在、シリウスと二人で昼間に引き起こした悪戯の責任を、たった一人で取らされている最中だ。恐らく日付が変わる前に戻ってくることは無いだろう。
「ばぁか、逃げ足が遅いやつが悪いんだよ」
夕食の直前、大広間に向かう道すがら、何故か突然シリウスが方向転換をしたと思ったら、廊下の角から鬼の形相の寮監が現れた。姿も見ないうちに何故シリウスは気付いたのかわからないが、おかげでジェームズだけが捕まったのは言うまでも無い。
「あははは、やっぱシリウスは凄いよねー」
のんきに賞賛するピーターの横で、リーマスはあははじゃないよと内心で毒づいた。ジェームズさえいれば、シリウスの注意はほとんどこちらへは向けられない。しかしピーターが補習をしなければならない以上、必然的にシリウスの相手ができるのはリーマスしかいなくなる。さて、どうするべきか。
すでに逃げ腰のリーマスは必死になって計画を組み立てる。ピーターに教えなきゃならないから相手をしてる暇は無いと言うべきか。いや待て、夕食を食べていないシリウスに何かもらってきてあげるとか言って部屋を抜け出すのはどうだろう。それで、シリウスが夕食を食べている間に風呂へ入って、具合が良くないからとか言ってさっさと就寝してしまえばいい。そうだ、この手でいこう!
「何だお前、まだそんなのやってるのかよ」
「まだって、僕だって精一杯やってるんだよ〜」
からかうように笑うシリウスに、ピーターは情け無い声を出す。よし、今なら機嫌も悪くないようだ。しかしリーマスが口を開くほんの一瞬前に、突然シリウスが彼を振り返った。ひっと咽喉を鳴らして硬直するリーマス。最早ほとんど蛇に睨まれた蛙状態だ。
「おい、リーマス」
「…………何?」
無表情に近い恐慌状態のリーマスの腕を、無造作にシリウスは掴む。たとえ内心でリーマスが絶叫していようと、声に出さない限りは誰も気付かない。
「お前がいるならちょうどいい、風呂行くぞ、風呂」
「え? ええっ?」
吃驚して慌てるリーマスを他所に、シリウスは腕を掴んで彼を立ち上がらせる。この場合シリウスが言う『風呂』とは、監督生専用のバスルームのことだ。別に合言葉さえ知っていれば一人でも使えるのに、何故ぼくを巻き込むんだ!?
と思ったところで口に出さなければ伝わらない。とにかく慌ててリーマスがもがいても、シリウスの腕力の前にはびくともしなかった。何しろこの時期の二人の身長差は15cmに及び、体重差は20kg以上だ。誰の目から見ても敵う相手ではない。
「あ、それなら僕も行く!」
目をキラキラさせてピーターが立ち上がった。上手く補習をサボる術を思いついたといったところだろう。普段ならば監督生として駄目出しをするところだが、このときばかりはでかしたとリーマスは褒めちぎってやりたくなった。だがここでもシリウスの傍若無人ぶりは健在で、普段はピーターが悪の道へ踏み込むようにわざわざ手招きするくせに、
「莫迦か、お前は補習があんだろ。風呂なら部屋の使え」
余計なことを、とリーマスが半分涙目で睨み上げてもシリウスは気付かない。ええ〜と不服そうに指をくわえるピーターを他所に、シリウスはほとんど抱きかかえるようにしてリーマスを監督生専用バスルームへと連行していったのだった。
監督生用のバスルームは、ホグワーツの数ある部屋の中で、文句なしに最高級の素晴らしい部屋だった。
天然の白大理石であつらえられ、天井からは蝋燭の点った豪華なシャンデリアが下がっている。床に埋め込まれたプールのような浴槽も大理石造りで、生徒が十人以上同時に泳いでも充分遊べる広さがあった。
シリウスの腕を引き剥がせぬままバスルームまで連行されて、力尽きたのかリーマスはすでにぐったりしてしまっている。その彼を壁際の寝椅子に座らせると、シリウスは何故か杖と紙を取り出して、何かを書きつけ始めた。一体何をしているのか。問いかける気力も無いリーマスを他所に、シリウスは掌大の長方形の紙を部屋の四隅に貼り付ける。次に彼は壁際のカウンターバーから水とレモンと塩を持ち出すと、何やら呪文を唱え始めた。
それは結界の呪文だった。シリウスが呪文を唱え終わると同時に、耳の奥がツンとするような感覚に襲われてリーマスは気がついた。恐らく、ホグワーツを徘徊する幾多のゴーストたちが勝手に出入りできないように、ということだろう。でも今更急に何でそんなことを。疲れた頭で嫌な予感を抱きながらリーマスはシリウスを目で追っていた。彼はつかつかと壁にかかった金の額縁に近付くと、中のマーメイドにいきなり失神呪文を浴びせかけた。
「うわっ! な、何やってんだよ君は!?」
驚いたのはリーマスである。額縁の人魚は確かにかなり煩くてリーマスもあまり好きではなかったが、いきなり失神呪文をかけるほど手を焼いてはいなかった。所詮は絵の中のことであるし、第一彼女はシリウスが大のお気に入りだった。多分、シリウスが美男だからだろう。
「可哀想なことするなよ」
しかしシリウスはうるせーなと言っただけで、更に額縁を裏返す始末。その上振り返ったときには眉間の皺が再発していて、リーマスは言葉に詰まって口をつぐんだ。
一体何なのだろうか。リーマスは不安になって上目遣いにシリウスを見つめる。先週のあの日、リーマスは必死になって謝った。シリウスは別にいいとか、気にしてないとか言っていた。むしろ、謝りすぎて逆に怒らせたくらいにはリーマスは謝罪した。それでもやっぱり許されることではなかったのだろうか。
当たり前か、とリーマスは一人で落ち込む。もし自分が普通の人間で、満月ではないにしても人狼に噛まれたら、驚くし怖いし怒りもするだろう。それが信頼していた相手となれば尚更だろう。しゅんとしてしまったリーマス。自業自得とナーバスになる彼に、引き返してきたシリウスが言った。
「おい、何やってんだ。早く脱げよ」
「…………え?」
ふとリーマスが顔を上げると、シリウスはすでにローブを脱いでネクタイを取り払っている。
「え、あ、うん」
事態が把握しきれずにリーマスは慌ててローブのボタンに手をかける。そういえばここはバスルームだ。普通は裸になる場所だろう。できればシリウスと二人きりで風呂になんか入りたくないリーマスがもたもたしていると、シリウスの器用な手が伸びてきて、勝手にボタンを外してくれた。
「ほら、次」
「う、うん」
リーマスがローブを適当に丸めると、その彼のネクタイをシリウスが解く。低学年のころに比べてきっちり締める癖は無くなったが、相変わらずシャツのボタンは一番上までとまっていて、苦しくないのかとシリウスは毎度のことながら思った。
「シ、シリウス」
「あん?」
寝椅子に並んで座ったシリウスの指が咽喉に触れるたびに何故かビクビクするリーマス。ボタンダウンのシャツは金輪際着ないと心に決めつつ、リーマスは自分のシャツを脱がしにかかっているシリウスを恐る恐る見つめた。
「…………怒ってないのか?」
「あん?」
手元に気を取られていたシリウスは不機嫌そうに言って白い顔のリーマスを見た。口角を引き結んだ表情のリーマスはやたらに真剣だ。普段は甲羅を経た仙人のように滅多にペースを崩すことの無いリーマスが、眉尻を下げて迷子の子供のように心もとない表情を浮かべているのはごく珍しいことだ。カメラがあれば記念に一枚撮っておくところだろう。
「何が?」
ボタンを外す手を止めずにシリウスは問う。何がって、怪我だよとリーマスは小声で言った。直裁に噛み傷とは口にできない。
「別に。もう治った」
「それならいいけど…………」
の割りにシリウスの機嫌はよろしくない。口ではこう言っていても、やはり単純な問題ではないのだろう。一人で段々ぐるぐるし始めたリーマスを他所に、ボタンを外し終わったシリウスは彼の脚を掴んで自分の膝の上に乗せた。無造作に靴を掴んで脱がし、靴下を引っ張る。ストッキングを脱がすのに比べれば何と容易いことだろう。男はこういうとき気を使わなくて済むからいい、とシリウスは思った。
「……本当に怒ってないのか?」
されるがままのリーマスはよほど自信が無いのか、重ねて問いかける。これだけ大人しいのはそのせいか。普段なら靴ぐらい自分で脱ぐと暴れて手がつけられないのに。
「うるせぇな、いいって言ってるだろ」
裸足にさせる手を止めて睨むと、リーマスは肩を落としてシリウスを見つめた。寝椅子に後ろ手をついて、まだ何か言いたそうな様子。恐らく、いらんことを考えて一人で暗くなっているのだろう。先月など夜中にベッドに潜り込んだら、鉄拳制裁を食らわせたくせに、歯形如きで何をそんなに気にしているのだろうか。
「まぁ、確かにおかげでここんとこ女のとこにも行けなかったし、風呂は一人でコソコソは入るしかなかったけどな」
引っかき傷くらいならまだしも、明らかに人間の歯形がついたまま、女のところに行くほどシリウスは命知らずではない。しかも怪我が怪我なだけに保健室へ行くわけにもいかず、揶揄されるのが嫌でシャワーも着替えも全部別行動を取るのは非常に面倒くさかった。
「でも別に噛まれたのが初めてでもないしな」
「え?」
面食らうリーマスにお前じゃないぞ、とシリウスは何故か指を差した。たまに噛みたがる女がいるのだ。キスマークならともかく、歯形は格好がつかないのでシリウスは嫌なのだが、一々確認を取ってからベッドに入るほど野暮ではない。まさかリーマスにその気があるとは思わなかったので驚いたが、次からは釘を刺すつもりでいただけだ。
「え、だって、何かずっと不機嫌だったじゃないか」
ベルトを外されていることにも気付かず、混乱した様子でリーマスは言う。気にしていないのが本当ならば、では禁煙中のヘビースモーカーのような態度を取り続けていたのは何だったのか。
「だから、歯形のおかげで面倒な目にあってたんだよ。しかもお前は何でかあっちこっち逃げ回りやがるし」
「それは、ぼくが普通じゃないから、それなのに噛んじゃったから、君が怒ってるのかと思って」
「はぁ?」
リーマスのズボンを脱がせながらシリウスは片方の眉毛を跳ね上げた。普通じゃないとは何のことか。確かにシリウスが知る中でもリーマスはジェームズに次いでの変人だが、自覚があったのかこいつ。
ついでに下着を剥ぎ取りながらまじまじとリーマスを見つめると、彼に似合わずいたたまれないように視線を逸らしたのでようやくシリウスは気がついた。
「あ」
そうか、こいつ人狼なんだっけか。
アニメーガスになって以来、満月の晩は犬と狼でじゃれあっているため、リーマスもアニメーガスのような気がしていた。それにパッドフットの姿であれば、狼に噛まれても何の問題も無いので、イヌ科のスキンシップである甘噛みはほとんど挨拶のようなものだった。そうだ、リーマスは人狼で、人狼は噛み付くことによって感染するのだ。だからこの間からあからさまに避けてやがったのかこいつ。
「…………別に、満月に噛まれたわけじゃないだろ」
ようやく思い至ってかえって不機嫌になるシリウス。リーマスの秘密が発覚した当時、同室の三人は学校中の誰よりも人狼について沢山のことを勉強した。満月時に変身しているとき以外に、噛まれようが引っかかれようが輸血しようが、人狼が感染することは無い。それはリーマスが一番よくわかっているだろうに、何を莫迦なことを考えていたのだ。
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