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物心ついたとき、エーリッヒの傍にはシュミットがいた。幼いころから抜きん出て聡明で美しく、誰よりも強かったシュミット。わずか四ヶ月とは言え、先に生まれたエーリッヒを追い越して、どこまでも先へ駆け抜けてゆく親友を、彼は常に羨望と憧憬に満ちた眼差しで見つめていた。それがただの憧れから醜い欲望を伴った感情に移行したのがいつからなのか、それはエーリッヒ自身にさえわからない。ただ気付いたときにはエーリッヒはシュミットに強く惹かれており、捨て去ることも否定することも適わぬほどにその感情は大きくなっていた。
エーリッヒはシュミットを欲しいと思っている自分に気付き、それを恥じた。誰よりも高潔で、何よりも清廉で、恐れを知らぬシュミット。彼は常に自信に満ち溢れ、不正と堕落を許さず、しかし異論を受け入れることの出来る度量を持った、正に太陽のような人間であった。彼ほど王となるに相応しい人物が他にいるだろうか。否、いるはずがない。シュミットはエーリッヒの誇りであり、同時に永久に手に入れることの出来ない蜃気楼のような存在であった。
強く美しいシュミットは誰からも愛されていた。老若男女を問わず、彼に惹かれる人間は多い。自分もその中の一人に過ぎないであろうことを聡明なエーリッヒは早いうちから気付いていた。
二人の間には何者も入り込めるはずは無い。それなのにエーリッヒはシュミットが自分以外の誰かと親しくしていると、焦燥感を煽られた。今はまだシュミットはエーリッヒを無二の親友と呼んでくれるが、その関係がこの先も続く保証は何処にも無いのだ。そう考えるとエーリッヒの心は暗く落ち込み、誰からも羨まれる自分の境遇が、所詮は砂上の楼閣でしかないことを自覚せずにはいられなかった。ましてや彼はシュミットに対し後ろ暗い感情を抱く身である。もしシュミットがそのことに気付けば、関係はあっけなく終わってしまうことだろう。故にエーリッヒは決して自分の欲望に気付かれないよう、慎重に振舞うことを幼いころから自分に課し続けていた。
留学の勅命が下ったとき、エーリッヒは自分が安堵していることに気がついた。二年もの長いあいだシュミットと離れ離れになるのは初めてで、もちろん不安もあった。しかしそれ以上に、個人の力ではどうすることも出来ない距離というものが、自分に落ち着きを取り戻させてくれるかもしれないと考えたのである。それだけの時間シュミットと離れ、一人でじっくり考えれば、少しは諦めもつくだろう。そう望んで拝命した留学であったが、彼の栄達を喜びながらも別離を本気で惜しむシュミットは、エーリッヒの感情を容易く乱した。
シュミットの言葉や別離を惜しむ感情が自分とは違った種類のものであることをエーリッヒは重々承知していた。シュミットは後ろ暗い感情など欠片も持たず、ただ無邪気に別離を惜しんでくれているのだ。これまで双子のように育ってきた二人であるから、半身とも言うべき相手がいなくなってしまうことはさぞや寂しかろう。それがシュミットの見せる態度の全てなのだ。
そう頭ではわかっていても、エーリッヒの心は複雑な形に揺れ動いた。シュミットが揶揄をこめてエーリッヒの薄情を責めるたびに彼を抱きしめたいと思ったし、親愛の情を込めて名を呼ばれるだけで欲望に突き動かされそうになるのを必死で堪えた。別離の日が近付くほど衝動は強くなり、エーリッヒは準備の忙しさにかまけるふりをして出来るだけシュミットを遠ざけた。それなのに彼の後ろ暗い感情を知らない親友は、自ら隙を作ってエーリッヒの前に身を投げ出したのである。
シュミットが留学祝いと称してエーリッヒの元を訪れたのは、三日後に出立を控えた晩のこと。まさか追い返すわけにもいかず、表面を取り繕って迎えたエーリッヒは、なす術も無く共に杯を重ねた。
酔っていたからだと弁解することは容易い。けれどエーリッヒは自分の脆弱な精神のせいであると自己嫌悪に陥った。半月のかかる薄闇の夜に、彼の麻痺した自制心は欲望の前に脆くも崩れ去ったのだ。
エーリッヒがしたことをシュミットは責めなかった。と言うよりも、心身の疲労のためか翌日から高熱を発したシュミットとはまともに口をきく暇も無く、留学の日を迎えたからである。
二年にわたる留学はエーリッヒに沢山のことを学ばせた。二年もの長いあいだ離れていても、消えうせるどころか余計に強くなる感情があることや、自らの存在の卑小さを。そして自らの全存在を賭しても欲しいものができたとき、人間がいかなる行動に及ぶかということを。
何よりも尊ぶべきものを捨て、エーリッヒは気も狂わんばかりに欲したものを手に入れるべく、陰謀にその手を染めたのだった。
誰に何を言われようと、どう思われようと、エーリッヒに怖いものなど何も無かった。唯一つあるとすれば、それはシュミットのあの眼差しだけ。常に正しく常に美しい彼の苛烈なまでの視線は、エーリッヒに自分の愚かさをまざまざと思い知らせた。
確かにエーリッヒは多くの命と引き換えに、欲しいものを手に入れた。国を裏切ることと引き換えに要求した報酬に、陰謀の首謀者は嘲笑を含んだ声で承諾を返した。約束は守られ、シュミットはエーリッヒの手に落ちた。そして彼は親友を永遠に失ったのである。
エーリッヒはシュミットを手に入れはしたが、それは身体という即物的なものだけであり、彼の高潔な魂はより遠くへ行ってしまった。信頼と愛情は消えうせ、浴びせられる罵倒の言葉はエーリッヒを疲弊させた。覚悟はしていたが、耐えるのには想像を絶する精神力を要した。
それでもいつか諦めがついて、エーリッヒの他に頼る者がいないことに気付けば、シュミットも少しは態度を改めてくれるかもしれない。そんなことを考える自分にエーリッヒは自嘲した。シュミットは一度憎悪した人間を諦め如きで許容するような人間ではない。そのことはエーリッヒが一番よくわかっている。危ういほどの強さに、彼もまた惹かれたのではないか。
会うたびに罵り、隙あらば命を奪おうと暴れるシュミットを、エーリッヒは次第に遠ざけるようになった。彼の弾劾はエーリッヒの僅かに残った良心をズタズタに切り裂き、癒えない傷を刻むから。そのためようやく手にしたシュミットを、ただ屋敷の奥深くに監禁することで、エーリッヒは自己を満足させるしかなかった。誰よりも誇り高いシュミットを、捕らえて放さずにいるという事実は、彼の溜飲を下げた。
だがそれは間違いだった。欲望とは一つ望みが叶えられるごとに膨れ上がってゆくものだ。シュミットを手に入れるという望みが叶った今、エーリッヒの暗い欲望は更なる段階を望んでいた。
もともとエーリッヒは鉄の自制心を持った人間だった。それが脆くも崩れ去ったのは、苦痛を取り除くために、また手のつけられないほどに暴れるシュミットを大人しくさせるために用いた阿片が発端だった。
阿片によって大人しくなったシュミットは、別人のようであった。エーリッヒを見ても怒りの形相を露にしたりはせず、幼いころのように親しげに、愛しげに笑顔を向けた。困惑して立ち尽くすエーリッヒを甘える声で呼び、彼を責めることは無かった。
それが一度きりのことならば間違いもおこらなかった。しかしシュミットは阿片を投与されるたびに同じ状態に陥り、量と時間は比例した。恐る恐る触れたエーリッヒの手を振り払うこともなく、子供が母の庇護を求めるように彼に抱擁を求められ、エーリッヒは我知らず涙を流していた。二度と手に入らぬと諦めたものを、阿片は容易くエーリッヒに与えてくれたのである。
阿片のまやかしはシュミットだけでなくエーリッヒの心をも蝕んだ。麻薬を用いることは益々シュミットを軽蔑させたが、無邪気に慕われた記憶と、一度抱いてしまった身体を忘れることが出来ず、エーリッヒは阿片を多用するようになった。幼いころから信頼し、重用してくれた王家を裏切ったエーリッヒに対する世間の目は冷たく、一度でも裏切り行為をした人間に好意的な者はいなかった。それは陰謀を企てた側も同じであり、エーリッヒにとって心の支えは、シュミットしかいなかったのである。二人きりの部屋で幼いころと同じようにただ寄り添うことだけが彼に安寧をもたらした。たとえ阿片が恐るべき毒であることを知っていても、エーリッヒには最早その魔力に縋るしか道は無かったのだった。
シュミットの身体に耽溺する日々は、思いがけず彼の死以外のもので終焉を迎えた。シュミットは阿片のために死亡せず、その前にエーリッヒは東国との戦争のために彼と引き離された。戦は勝利の条件を全て欠いたエーリッヒ側の軍の敗北に終わり、彼は無様にも捕虜となって生き恥を晒した。
裏切り者に対する処罰は厳しく、エーリッヒは当然処刑されることとなった。捕らえられて以来、昼夜を問わず拷問を受け、エーリッヒの心身は弱りきっていた。近く彼は最も過酷な方法で処刑されるだろう。けれどエーリッヒはそれに対して何ら感慨を抱かず、肉体の苦痛と精神が乖離してしまったかのような日々を送っていた。それは彼にとっていつか必ず訪れる破滅の一形態でしかなく、現実となったところで今更悲劇に浸るようなことは無かった。
最早苦痛にさえも何ら感情を乱さぬエーリッヒの元をシュミットが訪れたのは、処刑を明日に控えたある日のことだった。禁断症状を克服し、弱り果ててはいてもいつかの眼差しを取り戻した彼に、エーリッヒは真実を理解した。やはりシュミットは美しく、彼は不屈の人間であったのだ。
「愚かな男……」
最早これ以上立場が悪くなることは無いと、全てを告白したエーリッヒを、シュミットは哀れみを込めた眼差しで見つめた。
てっきり罵倒されるものと思っていたエーリッヒはかえって心に苦痛を覚え、僅かに視線を逸らした。
静かな眼差しのシュミットはもしかしたらもう、激しい怒りにその心臓がついていかないのかもしれない。繰り返される激しい拷問の末に石床に膝をついたエーリッヒよりも、よほどシュミットのほうが死期が近いように思えるのは、見当違いではないだろう。彼もまた遠からず永遠にこの地を去ることになる。
シュミットは少し黙り、先ほどの静かで全てを悟ったような眼差しとは打って変わって表情を歪めると、俯いて痩せ細った自分の手を見つめた。
エーリッヒからは窺い知ることの出来ないシュミットの表情。だが、彼の様子はエーリッヒに全てを後悔させるのに充分だった。
「……お前は昔から、欲しいものを欲しいと言わないやつだった」
シュミットのくちびるから漏れたのは、幼いころから幾度となく口にした言葉だった。
物心ついたとき、シュミットの傍にはエーリッヒがいた。幼いころから達観したように思慮深く、誰よりもシュミットのことを深く理解してくれていたエーリッヒ。わずか四ヶ月とは言え、先に生まれたエーリッヒは、攻撃的で先走りがちな自分を諌めてくれる、シュミットにとってはかけがえの無い存在だった。それが無邪気な信頼から醜い欲望を伴った感情に移行したのがいつからなのか、それはシュミット自身にさえわからない。ただ気付いたときにはシュミットはエーリッヒに強く惹かれており、捨て去ることも否定することも適わぬほどにその感情は大きくなっていた。
エーリッヒとシュミットが違ったのは、その気質であったろう。あるいは彼らの身分がそうさせたのかもしれないが、シュミットはよくエーリッヒが男であることを平気で文句の種にした。
お前が女なら妃にできたのに、と不平を零すシュミットを、いつだってエーリッヒは苦笑で許してくれた。それが本心だったシュミットは不服であったが、現実的にどうしようもないことなのだ。これほど強く恋い慕っているのに、口に出すことも憚らねばならないという事態はシュミットを苛立たせたが、エーリッヒの迷惑を考えて流石に誰にも言わずにいたのである。
その分、冗談めかした不平は好きなだけ零した。家柄も才知も充分なのに、男なばかりに結婚できないと文句を言い続けていたら、あるときなど母である王妃に、お前が女なら良かったとエーリッヒも思っているでしょうよ、と笑われてしまった。自分が女でエーリッヒに嫁ぐという発想の全くなかったシュミットは面食らったものの、母親の言う『エーリッヒも思っている』という部分が彼を慰めてくれた。
シュミットの想いは年を経るごとに益々強くなり、比例して冗談でも口に出すことは更に難しくなっていった。一人でやきもきするのはシュミットばかりで、相変わらずエーリッヒは何を考えているのかわからない。子供のころから感情を表に出さず、どんなときでもシュミットを最優先してくれたエーリッヒである。それは嬉しいことでもあったが、反面であくまで彼が自分の臣下でしかないようで、シュミットには寂しくもあった。もしかしたらエーリッヒは、シュミットが想いを打ち明けたら、受け入れてくれるかもしれない。けれどそれは、彼が優しいからであって、同じ想いを抱いてくれているからではない。同じでないなら意味が無い。だからシュミットは生涯沈黙を守る覚悟を決めたのである。
留学の勅命が下ったとき、最初シュミットは衝撃のあまり怒ることもできなかった。留学を決めた父に対してや、それを受け入れたエーリッヒに対しても、怒るなどまるで見当違いであるし。どうせままならない想いなら、距離をとってしまうほうがいいのかもしれない。これまで双子のように接してきたが、お互いがあくまで違う存在であることを確認するよい機会なのかもしれないと諦めた。
諦めたはずであるのに、シュミットは寂寥感を拭いきれず、日に日に彼の精神は安定を欠いていった。
出立の日を三日後に控えた夜のこと、とうとう堪え切れずにシュミットはエーリッヒのもとを訪れた。これまで何かと忙しく、個人的に祝ってやることが出来なかったから、と口実をつけて。
優しいエーリッヒは押しかけたシュミットをいつものように受け入れてくれた。気分をよくしたシュミットの杯は進み、揶揄にかまけて彼の薄情を詰る言葉が口をついて出ても、エーリッヒは笑って許してくれた。いつもどおり、いつものように。
一体何がどうしてそうなったのか、シュミットはよく覚えていない。けれどとにかく彼らは酔いに任せて抱き合ってしまった。おそらく自分が誘惑したのか、それとも身分を盾に無理に迫ったのか、どちらにしろあまり褒められたことはしていないだろうとシュミットは思う。何しろ最中の記憶でさえも途切れ途切れなほど酔っていたのだから。
翌日目覚めたときシュミットは裸で寝台の中におり、エーリッヒはもういなかった。すでに日も高く上った時刻であったから、シュミットを気遣って起こさずに出かけていったのか。もし起こされていたとしても、シュミットは起き上がることさえできなかっただろう。慣れぬ行為のせいか心身が疲労し、シュミットは高熱を発していたのだ。
おかげで病人のシュミットは、出立の準備に忙しいエーリッヒとろくに顔を合わせることもなく、二人は離れ離れになってしまったのである。
二年もの別離を経ても、シュミットの想いは変わらなかった。どころか、益々エーリッヒが恋しくなっていたのだが、帰国した彼は変容してしまっていた。それはそうだろう、人間は成長する生き物だ。ましてや環境も違う、言葉さえも違う場所で二年もの長いあいだ別々に暮らしていて、昔のままではいられない。ましてやあのこと以来、まともに顔を会わせることさえなかったのだから。
エーリッヒの態度にどこかよそよそしさを感じ取ったシュミットは、二年前に犯した自分の失態を後悔した。こんな風になってしまうならば、あんなことしなければよかったと。それは常に自分の行動に自信と誇りを持つ彼には珍しい後悔で、シュミットをとても落胆させた。あの日からほとんど口もきかなかったけれど、それでもエーリッヒが後悔している素振りを見せたことはなかったため、ささやかながらもシュミットは期待を捨て切れなかったのだ。もしかしたらエーリッヒも、というその期待がどれほど莫迦莫迦しいものであるか、自分が一番よくわかっていたはずなのに。
何も言ってもらえなかったことは辛かったが、それでもシュミットはあの日のことがとても嬉しかった。拒絶も否定もされず、受け入れてもらえたことが、とても嬉しかったのだ。
しかしそれも単なる希望的楽観に過ぎなかったようだ。シュミットは落胆したものの、この二年のあいだに覚悟するだけの時間はいくらでもあった。常に前に進むことを旨とするシュミットは、過ぎたことをいつまでも悩み続けることをやめ、今も尚友人として傍にいてくれるエーリッヒと、どうしたらこのまま良好な関係を保つことが出来るかを考えることに決めた。けれど思考はまとまる前にシュミットは状況の激変に見舞われ、エーリッヒとの溝は永久のものとなった。
シュミットの独白にエーリッヒは言葉もなく彼を見つめている。いつの間にか顔を両手で覆ったシュミットは、苦痛を漏らすように呟いた。
「わたしたちは愚かだ。身勝手で、傲慢で、救いがたいほどの莫迦者だ」
彼らは互いに互いが欲しかった。ただそれだけのこと。多くを巻き込み、全てを滅ぼし、それで手に入れられたのはどうしようもない最期だけだった。どうせ死ぬしかないのならば、お互いに殺しあえばよかったのだ。それならば他に誰が傷つくこともなく、永久にお互いを手に入れることも出来ただろうに。
顔を上げたシュミットは苦渋に満ちた声音とは違って涙を流してはおらず、やせ衰えた身体にかつての神々しいまでの清冽な空気を纏っていた。彼は立てないはずの足で立ち上がり、
「これで終わりだ、エーリッヒ。お前は明日、処刑される。……わたしもすぐに追いつくだろう」
だからもう、終わりにしよう。
その声は慈愛と赦しに満ちた救いの声だった。
見る影もなくなったはずのシュミットの姿。けれど、彼を見上げ、そして頭を垂れたエーリッヒの目には、神よりも尊い姿がいつまでも消えることなく映し出されていた。
〔終幕〕
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何て迷惑な男達!
うっかり言いそびれていたおかげで一つの国が滅んじゃいましたよ奥さん!!
本気でろくでなしでごめんなさい(汗)。
果たして『軍人もの、嫉妬』というリクエストがちゃんと消化できているか(特に嫉妬/汗)怪しいものですが、こんなんいかがでしょうか。
いまだかつて無いほどお待たせしてしまい申し訳ありませんでした!
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