Act.1 二人でなければできないこと
目が覚めたら至近距離にリーマスの顔があったので、シリウスは声にならない悲鳴を上げた。
「何もそんなに怒らなくったっていいじゃないか」
しゃしゃあとそんなことを言いながらリーマスはトーストを口に運ぶ。警戒心丸出しのシリウスは先ほどからずっと不機嫌そうだ。
「何しに来やがったんだよ」
こんな朝っぱらから、とシリウスもトーストにたっぷりとバターを塗りこみながらリーマスを睨む。ここはシリウスの家で、ダイニングのテーブルである。ふと目が覚めて、目の前に誰かの顔があったら、普通は驚くだろう。しかし手前ルールにしか従わないリーマスにそんなことを訴えても無駄なのである。自分が法律、己が唯一、天上天下唯我独尊なのである。
その証拠に、ひとの家でごく当然のように朝食を要求しやがった。これだけ図太ければ、ソ連だろうがアフリカだろうがM78星雲だろうが、何処でだってやっていけそうだ。
そして予想通りリーマスはシリウスの怒りなどまるで介さずにひらひらと手を振って言った。
「それがさ、ちゅーしたくなってさ」
「はぁ?」
「だって、結婚とキスは相手が居なくちゃできないじゃないか」
あと離婚もか、とリーマスはヘラヘラ笑う。流石はシリウス内エキセントリックランキングトップ10に入るだけのことはある。相変わらずの意味不明さだ。
段々相手にするのも莫迦莫迦しくなってきたシリウスに、リーマスはぐっと身を乗り出し、
「それより、これ、読んでみて」
そう言って差し出したのは、茶色の紙袋。一応受け取ったシリウスは、胡散臭そうに袋を開く。中から出てきたのは、古びた赤い表紙の本だった。布張りの表紙に、剥げかかった金の箔で題名と何かの花の絵が押してある。題名は『Aurora flos』。ラテン語か。
「……グリフィンカラーだな」
何気無く呟いた言葉にリーマスも笑って相槌を打つ。パラパラと捲った感じでは、大した文字数でもないようだ。薄くて軽いし、1時間もあれば確実に読めるだろう。でもこれが一体何だと言うのか。
「いいから、ちょっと読んでみてよ」
最後の紅茶を飲み干しながらリーマスは拒否はさせないと言った様子の笑顔でシリウスに本を薦める。しかし基本的にこういったことでリーマスを信用していないシリウスは相変わらず胡散臭そうな目を向ける。まったく、これだからわんこは警戒心が強くていかん。飼主の言うことくらい素直に聞かなくては保健所行きも近いぞ、などと思っているとはおくびにも出さず、リーマスは相変わらずにっこり笑っている。
「……別に読むくらいはいいけど、何かいいことでもあるのかよ?」
ざっと見ただけでも別段これが普通の本だということはわかった。少なくとも、いきなり噛み付いたり、花火が上がったりはしなかった。
それがね、と相変わらずへらへら笑ったままリーマスは頬杖をついた。
「それを読むと、ちゅーしたくなるんだよ」
「はぁぁ?」
何言ってんだこいつ、とばかりにシリウスはリーマスを小莫迦にするように見つめた。今年の夏は暑いので、すっかり脳みそをやられてしまったのだろうか。生憎脳外科医と精神科医に知り合いは居ない。可哀相なリーマス、君のことは忘れない……!
一瞬本気で暗い未来を思い浮かべたシリウスに、いいから読んでみてよ、とリーマスは立ち上がった。ごちそうさま、と礼を言うと、居間の暖炉に向かう。どうやらお帰りのようだ。
「お前、さては朝飯食いに来ただけだな?」
慌ててついてきたシリウスの手には未だ本が握られている。リーマスはそんなことないよと呟いて、
「昨日その本読み終わったのが遅かったから、深夜の訪問はどうかと思ってさ。で、朝来てみたんだけど、寝顔があんまりきれいじゃ無かったからさー」
口開けて寝ると咽喉痛くするよ、とリーマスはいらぬ忠告をかます。深夜の訪問は駄目で早朝の訪問はいいらしいその判断基準を是非教えて欲しいが、シリウスは盛大なため息をつくに止めた。
リーマスは暖炉の上の煙突飛行粉の入った壜を取ると、
「また明日、午後にでも来るよ」
それまでに読んでおけと言うことか。どうしてこの男はこれほどまでにシリウスを暇だと思っているのか。が、実際暇なので反論はしない。
「これ、お前のか?」
「いや、貸してもらった」
硬いらしい壜の蓋を代わって開けてやりながら誰にと質問すると、リーマスはただにやりと笑って見せたので、シリウスには大体察しがついた。全く、ろくなことをしやがらねぇ。辟易した様子のシリウスの、まだきちんと整えられていない髪のねぐせが少しかわいいとリーマスは思った。
「じゃあ、読んどけよ」
「わぁかったよ、読めばいーんだろうが」
パウダーを掴んだリーマスはふと何かを思い出したのか、暖炉の前で立ち止まると急に引き返してきた。
「忘れてた」
そう言ってシリウスにキスをすると、さっさと煙突飛行してしまった。残されたシリウスはただ呆然と緑の炎が消えた暖炉を見つめながら、
「……あの野郎、やっぱ朝飯食いにきただけじゃねぇか」
そんなことを呟いたのだった。
〔本を読む〕
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