Act.2 『Aurora Flos』
南の世界の果てには、一人の魔法使いが住んでいる。そして魔法使いは美しい人形を持っていた。
そこは美しい赤い花の咲く場所だった。ただ一筋の道が何処かへ向かって伸びる。はるか彼方に何があるのか魔法使いは知らない。そしてその道の片端は、崖の上に建つ魔法使いの屋敷の前で消えていた。崖の後背にはコバルトブルーの海。波の音だけが響く静かな場所に、魔法使いはたった一人で暮していた。
一体どの位そこにいるのか、魔法使いにももうわからない。ただ気付いたときにはそこにおり、そして他には誰もいなかった。それは永遠より長く、瞬間より短い時間。魔法使いはそれを不自然に感じることも無く、ただ庭の赤い花を育てることに情熱を注いでいた。
滴るように鮮やかな、『暁』という名の赤い花。それらは魔法使いが愛情を注ぐほど美しい花を咲かせ、一年中庭を赤く染めた。何より海の色に良く映えるその花を、魔法使いは慈しんでいた。
だがあるとき魔法使いは、花畑から道の果てを見つめ、ふと気付いてしまった。どこか身体に穴が開いてしまったような、深い虚無感。多分そこには冷たい水がたまっているのだろう。もどかしい感情は、寂しさだ。
初め魔法使いはそれを気のせいだと思った。だが気付いてしまった以上、感情は大きくなるばかり。そして戸惑い、途方に暮れた。
そしてあるとき魔法使いは、美しい人形を作った。
人形は魔法使いの理想だった。夜空の色をした艶やかな髪、見透かすような灰色の眸、すっと通った鼻梁。背は高く、優雅な手足は長い。逞しいと言える胸に頬を寄せれば、小柄な魔法使いの身体などすっぽりその腕に包み込めてしまう。節くれてはいても繊細な指や、酷薄そうなほど整った顔立ち。
中でもとりわけ魔法使いが拘ったのは、形のはっきりとしたくちびる。今にも何か不平を口にしそうなその様子に、魔法使いは満足気に吐息を漏らした。
残念なことに、魔法使いには人形に生命を吹き込む力は無かった。世の森羅万象の中で、無機物に生命を与えるのは、禁忌である。また、その方法を知る者は、世界の何処にも存在しなかった。
物言わぬ人形。それでも魔法使いは満足だった。食事の席に人形を招き、彼の分の食べ物も用意する。午後のお茶も、読書のときも、魔法使いは人形を傍に置いた。
気付くと魔法使いは、この人形を至上のものとして慈しむようになっていた。
髪と同じ色の服を着せ、その胸に暁の花を飾ると良く映えた。そうして魔法使いは人形にそれは楽しそうに話し掛けた。ある花の蕾が大きくなってきたこと、海辺を散歩していて美しい石を拾ったこと、屋敷の東の軒先にツバメの親子が住み着いたこと。
魔法使いは幸せそうに人形に語りかける。それは奇異な光景であったが、魔法使いは幸福だった。一人きりではないということがこれほど楽しいとは、今まで気付きもしなかった。彼がいてくれるというそれだけで、胸の穴にたまった水は、温かくなってゆく。
魔法使いは人形をそれは大事に扱った。テラスでお茶をするときも、自分より先に彼の分を煎れる。毎日鏡の前で人形の髪を梳いてやり、長椅子に並んで座っては本を読んでやった。そして美しい星の名前を彼に与えた。
魔法使いが人形を愛するようになるのに、さほど時間はかからなかった。
魔法使いは人形に愛を語る。きみがここにいてくれるだけでいかに自分が満たされるか、幸せであるか。逞しい胸に寄りかかり、感謝と愛を告げる。自分にはない華やかな美貌にため息をつき、時にくちびるを合わせた。冷たく、だが拒絶はしないくちびる。愛していると囁く魔法使いの吐息をただ受け止めるくちびるは、物言わぬ冬の暗闇を思わせた。
幸福な時間は長く続いた。ずっと一人きりであった魔法使いは穏やかで、欲望の薄い人間だった。そもそも、自分以外の誰にも会ったことが無いので、他人に何かを求めるということを知らない。何一つ思い通りにはならない代わりに、何もかもが思うが侭であるから。
魔法使いが再びあることに気がついたのは、ツバメの巣を眺めているときだった。
雛が孵り、賑わしくなった巣を見上げて、魔法使いは嬉しそうに目を細めていた。そこへ親のツバメが餌を捕らえて巣に帰ってきた。そのとたんに頭上で雛たちの大合唱が始まる。元気だな、と微笑ましく思った次の瞬間、魔法使いは胸の穴に冷たい水が再び滴るのを感じた。
初め魔法使いはそれが何かよくわからなかった。誰にも接したことが無いので、自分の心の機微にすら疎いのである。だから魔法使いは暫くの間、どこかに不安を感じながらも、自分では満たされていると信じている生活を続けた。
しかし滴る冷水は日を追うごとに多くなっていった。その原因がわからないので、魔法使いには余計に恐ろしかった。不安は時と場所を選ばない。午後のお茶をしているときでも、花の世話をしているときでも、夜に人形に本を読んでやっているときでもそれは突然訪れた。
理解の及ばぬものを恐れるのは人間の本質である。しかもそれが形の伴わないものであれば、尚更だ。魔法使いのそれはある種の感情であり、自分一人の不安であった。
魔法使いは疲弊して物言わぬ恋人に不安を打ち明けた。すると少しだけ気分が落ち着いた。しかしそれは長くは続かない。人形は幾らでも魔法使いの言葉に耳を傾けてくれる。何度同じ話をしても、どんなにつまらない話をしても。
不安に苛まれた魔法使いは、物言わぬ恋人に庇護を求めたが、生命の無い無機物はただ黙っているばかり。焦れて魔法使いはその胸に身を寄せ、目を閉じた。しかし胸に当てた耳に鼓動の音は無く、魔法使いはふと寂しさを覚えて身体を離した。美しい人形を呼び、困惑の色を湛えた眸を向ける。しかし人形は何も言わず、ただそこにあるばかり。
そして魔法使いは漸く気がついた。人形がただの人形に過ぎないということに。
魔法使いは慄いて、人形をある部屋に閉じ込めた。今まで自分が何より愛したものが、ただの物に過ぎないと悟った瞬間、魔法使いは声にならない悲鳴を上げた。布を掛けられた人形は、他のものと見分けがつかない。扉に鍵をかけた魔法使いは寝室へ行くと、少しだけ泣いた。
結局魔法使いは、数日で人形を再び傍に置いた。胸の空洞と冷たい水は、以前以上の虚無感を与え、魔法使いはそれに耐えられなかったのだ。
数日振りに見る人形は、以前の華やかさを失ったようであった。できる限り何事も無かったかのように魔法使いは振舞った。しかし厳しい眼差しにはどこか憂いが含まれたようで、魔法使いは彼の目を見つめることができなくなっていた。
何も言わず、瞬きすらしない人形に、ぎこちなく魔法使いは話し掛ける。自分でも心のどこかで滑稽だと思うその行為。それでも魔法使いは必死だった。人形を手離すことは不可能であり、他に道は無いのだ。
それでも魔法使いは、以前ほど人形と一緒に過ごすことは無くなっていた。一人の時間を多く取り、午後のお茶も、一人で寂しく過ごした。堪らなくなったときだけ、人形の胸に縋る。それでも人形は無言のまま。慰めも愛情も、何も返してはくれない。名前すらも呼んでくれない人形に苛立って、魔法使いは怒りをぶつけたこともある。クッションを投げつけ、罵り、部屋を飛び出す。しかしそれは無意味な行為に過ぎない。自分の愚かさを知っている魔法使いは惨めになるばかり。人形は何も言わず、ただ魔法使いが戻ってくるのを待っている。そして日によって時間は違うものの、魔法使いは必ず人形の元ヘ戻って行く。どんなに虚しくなっても、どんなに惨めであっても。
何故なら魔法使いには、人形しかいないのだから。
北の世界の終わりには、一人の魔術師が住んでいる。そして魔術師は見事な人形を持っていた。
そこは無音のままに雪だけが降り積もる場所だった。ただ一筋の道が何処かへ向かって伸びる。はるか彼方に何があるのか魔術師は見たことが無い。そしてその道の片端は、森の中に建つ魔術師の屋敷の前で消えていた。屋敷の周りは白銀色の雪。雪の降り積もる音だけがする場所に、魔術師はたった一人で暮していた。
一体どの位そこにいるのか、魔術師にももうわからない。それは彼が望んだことであり、そして他には誰もいなかった。それは久遠より長く、刹那より短い時間。魔術師はそれを不自然に感じることも無く、彼の魔術を文字にしたためることだけに情熱を注いでいた。
だがあるとき魔術師は、屋敷の窓から道の果てを見つめ、ふと気付いてしまった。どこか身体に穴が開いてしまったような、深い虚無感。多分そこには真空があるだけだろう。もどかしい感情は、寂しさだ。
初め魔術師はそれを気のせいだと思った。だが気付いてしまった以上、感情は大きくなるばかり。そして戸惑い、途方に暮れた。そしてあるとき魔術師は、見事な人形を作った。
人形は魔術師の希望だった。華やかな美貌などいらない、妖艶な姿態などどれほどの価値があるだろう。優美な曲線を描く身体は、儚さを秘めている。極端に細い身体は、魔術師の腕の中にすっぽりと収まってしまう。少し固めの鳶色の髪は、魔術師のそれと違って穏やかな印象を与える。整ってはいても人並みの容貌。それでも柔和に細められた眸は優しく、安心感を与える。
とりわけ魔術師が拘ったのは、柔らかな微笑を刻むくちびる。今にも優しく語り掛けてくれそうなその様子に、魔術師は満足気に吐息を漏らした。
残念なことに、魔術師には人形に生命を吹き込むことはできなかった。世の森羅万象の中で、無機物に生命を与えるのは、禁忌である。また、その方法を知る者は、世界の何処にも存在しなかった。
物言わぬ人形。それでも魔術師は満足だった。
魔術師は人形をそれは大事に扱った。繊細な人物と接するように、丁寧に魔術師は人形を扱う。食卓を囲み、就寝の前には少しのアルコールと会話。書物をしたためるときも人形は彼の傍にいた。暖炉の前で人形を相手にチェスに興じる。古い書物を開き、読み聞かせることもあった。人形は何も言わず、ただ聡明な光のある眸を彼に向けていた。
そして気付くと、人形は魔術師にとってかけがえの無い存在となっていた。
魔術師は美しい服を人形に着せ、最上の椅子を与えた。寒い窓辺を避け、暖炉の近くに席を作ってやる。深々と雪の降り積もる夜は、寒くないようにと暖炉の火を絶やさなかった。そして魔術師は人形に、森に住む孤高の生き物の名を与えた。
魔術師が人形を愛するようになるのに、さして時間はかからなかった。
けれど魔術師は知っていた。幾ら彼が愛情を注いでも、人形がそれを返してくれることは無いと。人形は人形に過ぎず、生命の無い無機物だ。椅子が不平を漏らさぬように、人形は愛を囁かない。それでも魔術師は人形に愛を告げる。彼は終わりの見えぬ自分の生に絶望していた。言葉すらも吸収し、一切の音を奪ってゆく雪は残酷で、彼の心をも埋め尽くしてしまった。白い感情は全てを覆い尽くし、彼はすでに疲れきっていたのだ。
この世に彼の心を溶かしてくれるものは無く、魔術師はもう気の遠くなるほど長い間、口を利くことすらもやめてしまっていたのだ。それに比べれば、所詮人形とは言え、話し相手の居る生活の何と満ち足りたことか。つまらないことを望まなければ、彼は満たされたまま朽ちてゆける。ならばそれでいいではないか。
魔術師は人形に愛を語る。鳶色の髪に鼻先を埋め、細い身体を抱き締める夜は至福である。薄いが意志の強そうなくちびるは、いつでも彼を迎えてくれる。応えは無い代わりに拒絶も無い残酷な優しさ。それでも世界を覆い尽くす雪に比べたら、何と優しいことだろう。
細い顎を捕らえ、魔術師は人形に接吻する。くちびるは冷たく、優しい接吻にも動じることは無い。美しい曲線。微笑は崩れず、魔術師を慈しむ。慈愛は魔術師だけに向けられたものであり、他の何者のためでもない。確実に彼は、人形を独り占めすることができるのだ。
それでも虚しさはやがて魔法使いを蝕み始めた。柔らかな視線は、魔術師に向けられたものではなく、ただ前方を茫洋と眺めているに過ぎない。怒りも悲哀も浮かべぬくちびるは虚構であり、魅力は半減するだろう。初めからわかっていたことなのに、虚しさは日を追うごとに募っていった。
しかし魔術師は人形に距離を置いて、同じように愛情を注いだ。人形には何一つとして非は無いのだから。全ては魔術師の勝手な感情だ。身勝手な我が侭に、人形が翻弄されることは無い。
そう思ってはいても、やはり魔術師は孤独であった。できるなら、この人形に生命を宿らせたい。共に喜び、笑い、悲しみ、怒りをぶつけ合うことが出来たらどんなにか幸福であろうか。一方的な感情を押し付けるだけの幸福は真実ではない。相容れぬことがあるならば、闘うことも必要なのだ。どんなに理解し合っていても踏み込んではならない聖域を持ち、互いに尊重し、敬愛することこそが至上であると彼は思っている。しかし人形はそのどれも与えてはくれない。これは児戯に等しい悲喜劇なのだ。
魔術師は再び心の疲弊を感じ始めていた。以前とはまた別の孤独が彼を苛む。人形を同じように愛し続けながら、それはいつしか彼の負担となっていった。言葉を紡いではくれないくちびるにする接吻は、甘い痛みが伴う。柔和に細められた眸は、どこか遠い場所を見ているようで魔術師を悲しませた。
あるとき魔術師は、人形と休息の時間を過ごしながら、その白く冷たい面を痛ましい表情で見つめていた。朱味も薄い頬、高い鼻梁の陰。薄いくちびるにはどこか現実感が足らない。もしあのくちびるに紅でもさしたなら、人形に生命感は宿るだろうか。こんな美しい死体のようではなく、息づいた本物の人間のように見えるだろうか。
ふいに魔術師は立ち上がり、書庫へ向かった。そこは世界の半分が記された叡智の眠る場所。暫くの間魔術師はそこで重い本を開いていたが、目的のものを見つけると、ただ黙って本を閉じた。
明くる朝、魔術師は一番上等な服を人形に着せ、窓辺の椅子に腰掛けさせた。ここならばいつでも外を眺められ、また屋敷から伸びる道を見ることができる。
暖炉の火を落とし、魔術師は人形の前に跪く。冷たい手に自分のそれを重ねると、魔術師は柔らかに微笑んで人形に告げた。
これから彼はあるものを探しに旅立つ。それを手に入れるのに一体どれだけの時間がかかるのか、本当にそんなものが存在するのか、彼にはわからない。それでも彼は旅立つ。とても大事なものを手に入れるために。だからどうか、ここで待っていておくれ。
そう囁くと、魔術師は立ち上がり、物言わぬ人形の髪を撫で、そしてくちびるに接吻を贈った。人形を見下ろす表情には翳りがあり、どこか寂しそうでもある。
魔術師は人形に別れを告げると、屋敷を時間の流れから切り離し、白銀の世界に踏み入った。彼が振り返ることは無く、雪の上の足跡はすぐにでも消え去るだろう。白い闇の世界で黒いローブを纏った魔術師の姿は、何かの象徴のようだ。
森を貫いてただ真っ直ぐに続く道は、南へと続く。そこには夢のように美しい花が咲いているという。血の滴るような月を思わせる、『赤月』という名の赤い花。その花を手に入れるために、彼は世界の果てに向かう。果たして本当にそんなものが存在するのか、それは誰も知らない。それでも彼は南へ向かうだろう。世界の終わりから世界の果てへ。旅の半ばで朽ち果てることがあっても、彼が振り返ることは無い。世界の全ては、ここには無いのだから。
輝きわたる太陽の下に、黒い点を見つけたとき、魔法使いは何かの見間違いだと思った。数えたことも無い長すぎる生のうちで、道の果てにあるのはいつでも緩やかな蜃気楼だ。光の加減か風の悪戯か、とにかくそういった目の錯覚なのだと魔法使いは考えたのだ。
しかし黒い点はいつになっても無くならず、次第にそれは大きくなっていった。近付いているのだ、と魔法使いは赤い花の海に立ったまま気が付いた。見る間にそれは大きくなり、魔法使いの動悸も早く強くなっていった。今すぐ確かめてしまいたいのに、足がすくんで動かない。もしあれが考えているとおりのものではなく、ただの幻だったらと思うと、恐ろしくて行動することが出来ない。
それでもいつしか黒い点が縦に長く伸び、そして人の形と見て取れるようになると、魔法使いは無意識に駆け出していた。屋敷の敷地を飛び出し、魔法使いは北への道を走る。思ったより距離があるようだが、むこうもこちらへ向かっている以上、いつかは出会えるだろう。
未だかつて踏み込んだことが無いほどの場所で、魔法使いは足を止めた。荒い息を整えながら、すぐ向こうに迫った人影を待つ。それは背の高い男の姿をして、こちらを見つめていた。
わずか二歩の距離を残して、魔術師は立ち止まった。目の前には彼の希望と同じ姿の人間がいる。
わずか三歩の距離を保って、魔法使いは相手を見つめた。目の前には、魔法使いの理想と同じ姿の人間が佇んでいる。
二人は戸惑ったような視線を交わし、口を開こうと思いながらも、何も言うことは出来なかった。お互いのそんな様子に彼らはふと微笑を浮かべた。わずかな距離を残して、お互いか渇望したものがそこにある。手を伸ばせば届く距離を、二人は縮める。伸ばした手に触れるのは、人の温もり。不思議と喜びの感情が沸き起こり、自然と笑みが零れた。
彼らは身を寄せ合うと、ただ静かにくちびるを重ねた。目を閉じた柔らかな闇には、アカツキの赤い花弁が舞っていた。
〔了〕
〔現実〕 〔翌日〕
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