■□■ non disperdere il vetro nelli ambiente □■□
豊饒の大地イタリア。かつてこの地を初めて訪れたギリシャ人に、『ワインの大地』とさえ言わしめた黄金の地。長い歴史と芸術に溢れ、四季を持ち、工業と農業が共存する国。
しかし人々の陽気さとは裏腹に、この国には暗部が存在していた。シチリアを発祥とするマフィアの存在。人々の間に潜み、経済のみならず政治をも左右する秘密犯罪組織。
そしてヨーロッパの裏社会を支配するファミリーの本拠地は、イタリアにあるのだった。
街の中心に一際大きな屋敷があった。歴史を感じさせるその屋敷の持ち主は、ヨーロッパの裏社会を支配するマフィアのボスである。
『十代目』と呼ばれるボスは東洋人の血が色濃く入っているために、幾つになっても少年のような容姿をしている。だが、もともとイタリア最大のマフィアであったボンゴレファミリーを、ヨーロッパの支配者にまで成したのは彼の手腕であった。
その畏敬すべき偉大なるボスは今、一人の客人を迎えていた。屋敷の前まで黒塗りの高級車で乗りつけたのは、極東の支配者だ。日本と言う小さいがアジアのマーケットを支配する上では欠かせないその国で、絶大な権力を振るうジャパニーズマフィア ヤクザの頂点に君臨する男。その男の名を、雲雀恭弥と言った。
二人のボスは物々しい警護の人間に囲まれて、顔を合わせると口を開くよりも先に硬い握手を交わした。暗殺や妨害工作は完璧に防いでも、監視のカメラや盗聴までを完全にシャットアウトすることは難しい。それを逆手にとって二つの強大な勢力がいかに強固な絆で結ばれているかを見せ付けたのだ。
今日わざわざ危険を冒してまで二人のボスがマフィアのテーブルを囲んだのには理由がある。それは先ほどにも述べたように、極東とヨーロッパを支配する二つの勢力の親密さを世界に知らしめるためであり、直接二人が顔を合わせることによって、時間をロスせず今後の世界勢力の分配図を話し合うためだ。
雲雀は極東の支配者であり、かつ史上初めてアジアマーケットの支配権を中国マフィアから奪い取った男でもある。つまりこのマフィアのテーブルには、ヨーロッパとアジアの支配者が顔を並べているということである。
そのマーケットの巨大さで言うならば二人は対等であるが、対等であるはずの雲雀がわざわざ招待に応じてイタリアまで赴いたのは、ボンゴレファミリーのボスに借りがあるからだ。と言うのも、雲雀がアジアマーケットの支配権を奪取できたのには、当時すでにヨーロッパの支配者であったボンゴレファミリーの力添えがあったからなのである。
と言っても雲雀は誇り高い男であるから、直接的な力の介入をよしとはしない。ボンゴレファミリーが請け負ったのは、ヨーロッパからアジアマーケットへの圧力とスパイ的な役割だ。情報戦において優位を確立し、更に後背の憂いが無ければこそ、雲雀はアジアマーケットから中国マフィアを駆逐することに全力を注ぎこめたのだ。この借りは大きい。そのため雲雀は今日の招待に応じ、アジアマーケットの支配者はボンゴレファミリーに敬意を表した。
彼がボンゴレファミリーの傘下に入ることは無くとも、協力を惜しむことは無いだろう。そして二人は、悪逆非道が目に余る中国マフィアを、最後の牙城であるアメリカマーケットから駆逐するべく、こうして直接話し合いの場を設けたのである。
アメリカにはギャングと呼ばれる、古くイタリアからの移民によって構成されたマフィアの組織がある。アメリカ最大級の五つの都市を根城とする五大ファミリーがかつては支配していたマーケットは今、中国マフィアに完全に乗っ取られてしまっている。アジアマーケットのみならず、アメリカマーケットまでを掌中に修めた中国マフィアの勢いは凄まじく、日の出の勢いとはまさにこのことであった。
しかし幾ら五大ファミリーが異国民に自国のマーケットを乗っ取られるのが面白くなくても、それだけでは他大陸のマフィアまでが動くことは無い。アジアマーケットの支配だけでは飽き足らず、瞬く間にアメリカマーケットをも奪取した中国マフィアは、その残虐性、非道さにおいて他に類を見なかった。
仁義もルールも無いその悪魔のようなやり口に、多くのファミリーが反抗し、その都度見せしめとして沢山の生命を散らされていった。このままでは麻薬や犯罪の蔓延に拍車がかかるばかり。自らの利益のためだけではなく、中国マフィアの駆逐を望む声は日に日に大きくなっていった。そしてついに腰を上げたのが、ボンゴレファミリーと極東支配者、雲雀だったのである。
数年にわたる攻防の末、ついに雲雀はアジアマーケットを手に入れた。だが中国マフィアが根絶やしになったわけではない。アジアを追い出された彼らは未だマーケットの支配権を有するアメリカで再起を図り、敵対する二つの勢力を打倒すべく虎視眈々と狙っている。特に雲雀は本拠地であるアジアマーケットを奪った憎き相手。暗殺の手は絶え間なく延びてきた。
その間隙を縫ってアメリカ五大ファミリーと連携をし、マーケットの支配権を取り戻すのが雲雀とボンゴレファミリーの狙いだ。もし五大ファミリーにアメリカを再び支配をする力がすでに無いのならば、中国マフィアを快く思わない華僑と手を組んでもいい。同じ中国系でも、彼らを排斥したいと思っている華僑の幹部は数多くいる。どのみち、中国マフィアはやりすぎた。自らが行った非道の報いを、受けるときが来たのだ。
会談に入った二人は、ヨーロッパとアジアの支配者であり代表である以上、お互いに母国語で話す。ボンゴレファミリーのボスは、十代目を継ぐまでずっと日本で育ったが、ボスとなった現在はイタリア語を母国語としている。
かつて日本ではボスの先輩として日々を送り、青年期の数年間をイタリアで過ごした雲雀は流暢にイタリア語を操る。だが二人は間に各々通訳を置いて、あえて日本語とイタリア語で会話をする。酷く面倒で奇妙ではあるが、多くの責任と誇りを背負った身には仕方の無いことであった。
会談は夜遅くまで続けられた。遅い夕食の後は寛いで旧交を温めるという段取りであったが、不必要に他人と接触することを好まない雲雀は丁重にそれを断った。もちろん付き合いの長いボスと幹部たちは雲雀の性格を知っているために、彼らしいと苦笑しただけで快く見送ってくれた。
本来ならば許される行為ではない。差し出した手を撥ね退けられてまで笑顔でいる必要は無い。だが、かつては人の上に立つことよりも屍の上に立つ方が性に合うとさえ言い放った雲雀が、今では世界最大規模のマフィア、ヤクザのボスであることを思えば、よくここまで譲歩したとも言えるだろう。そして基本的に陽気なボンゴレファミリーの面々は、笑って済ませたのである。
中国マフィアから直接アジアマーケットの支配権をもぎ取った雲雀は、常にその生命を狙われている。暗殺者は彼の周りにひしめき、インターネットでは彼の首にかけられた賞金を誰が手にするか公然と賭け事が行われている。凄まじい額の金銭が飛び交っているようだ。
だが世界最高の殺し屋はボンゴレファミリーのボスの相談役でもあり、彼に信頼と尊敬を捧げる多くの優秀な殺し屋たちが雲雀の首を狙う仕事を引き受けることは無かった。また彼の弟子の一人である高名な殺し屋が、常に雲雀の警護を固めているので、師匠の名にかけても暗殺者に付け入る隙を与えはしないだろう。
それでも万が一ということがある。そのために今回のイタリア滞在では、ボンゴレファミリーのボスの信頼が最も厚いとされる最高幹部の一人が、自ら雲雀の警護担当を申し出た。
彼は元々は日本においてボスの学友であった。同級生であった彼はマフィアとは何の接点も無い日本人としての平穏な生活を捨て、十代目継承時にボスとともにイタリアへやってきたのだ。平和ボケした極東の島国で生まれ育った彼は、当初ファミリーになかなか受け入れられることができなかった。イタリア人は何よりそのルーツを大事にする。にもかかわらず、どこの馬の骨とも知れない東洋人にボスの片腕が務まるはずが無い。
それは多分に嫉妬と羨望が入り混じった悪意であったが、彼は気にしなかった。口で理屈を並べて自己弁護をはかるよりも、実力で認めさせればいいだけのことだ。ましてや喧嘩仲間でもある親友が手を尽くして彼をファミリーに認めさせようとしてくれているのを知っていたし、何よりボスが無条件で絶対の信頼を寄せてくれていたからだ。
それに応えるべくして過ごすうちに、持ち前の器の大きさと何より有能さで、いつの間にか彼は誰からも認められる優秀な幹部となっていた。
雲雀が滞在するホテルは、伝統、格式、そしてサービスの質、全てにおいてイタリア最高級のホテルであった。何よりその立地条件が要人警護に最適なのである。また、ホテルのオーナーはボンゴレファミリーのボスであり、他の客に被害を及ぼさないためにも、雲雀の滞在期間は関係者以外を一切シャットアウトしていた。
これは仕方の無い処置であるが、理由が理由であるだけに雲雀の滞在先を簡単に特定されてしまうというデメリットがある。本来ならば滞在先が他人に知れるようなことは避けるべきだ。だがこれほどの要人ともなると警護の規模、人員の数からしてその存在を隠し通すことは不可能である。ならばできることはより強固な警備体制を布くことと、ホテル内における要人用のシークレットルームの使用だ。大統領クラスのみが利用できるそのシークレットルームこそが、雲雀の生命を保証するだろう。
物々しい警護の人間や部下を扉の外に残して、雲雀はシークレットルームの書斎で書類に目を通していた。服も着替えず、木目の美しいマホガニーの机に愛用のパソコンとハーフボトルのシャンパンを置いて、書類に目を落とす雲雀の表情にはどこか疲労の影が窺えるようだ。
それはそうだろう、日本からイタリアまでの長旅の疲れもあり、もう一年以上常に生命の危機と隣り合わせの生活を送っているのだ。いかに強靭な精神の持ち主でも、疲労しないはずが無い。
それでもため息一つ零さず雲雀は書類を読み進む。石油価格の急激な上昇、金融市場の不穏な動向、外国為替の変動。後者二つの背後には確実に中国マフィアの蠢動がある。
また、石油価格の上昇が止まらなければ世界経済に打撃を与えるのは必至で、基盤の弱いアジアの小国には多大な影響を与えるだろう。不安や貧困は治安を悪化させ、麻薬の売上高を跳ね上げさせる。付け入る隙を与えてはならない。
雲雀が幾つかの指示を書類に書き付けたとき、天井の高い書斎にわざとらしいノックの音が響いた。と言っても二階まで吹き抜けになった書斎は空間を広く見せるためにノードアになっている。招かざる客は書斎の戸口に立ったまま、壁を叩いて雲雀の気を引いたのだ。
しかし雲雀は書類に目を落としたまま顔を上げることさえしなかった。だが闖入者は気を悪くした様子も無く、苦笑しただけでゆっくりと机に歩み寄った。
「…………相変わらずつれねぇな」
どこか親愛を滲ませた声にようやく雲雀は顔を上げる。確認するまでも無く、目の前に立っているのは山本武だった。雲雀の警護責任者であり、ボンゴレファミリー最高幹部の一人。
彼もまた東洋人であるために幾つになっても青年としか見えない容貌をしているが、日本にいた当時からスポーツで鍛え上げた身体に無駄はなく、すらりと伸びた長身がイタリア人と並んでも遜色ない。精悍な顔立ちに愛嬌のある笑顔。最後に会ったのはもう一年以上も前だが、彼は雲雀の記憶の中にある姿のままであった。
ちらりと山本に視線を走らせただけで、雲雀は返事をするでもなく再び書類に目を落とす。誰かが部屋に入ってきたことはわかっていた。そして誰の詮索も受けずにここへ出入りできる人間は限られており、床を踏むかすかな足音でそれが誰かなどとうにわかっていた。
冷たくあしらわれるどころか完全に無視されても、山本は怯まない。彼は眉根を寄せて少し困ったように微笑する独特の表情を浮かべながら、
「そう邪険にすんなって。アンタにいいもん持ってきたんだ」
山本がテーブルに乗せたのは一本の白ワインだった。彼の敬愛してやまない十代目から特別に譲っていただいた、ここ十年で最高のヴィンテージワイン。最早世界に数えるほどしか残っていないというワインを持って、山本はリビングの方を指し示した。
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