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リビングのソファに、黒檀のテーブルを挟んで二人は向かい合って座っている。黒曜石を思わせる輝きのテーブルには、ヴィンテージ物のワインと一対のグラス。つまみは無い。ワインの味と香りを引き立てることができるのは、何も食物だけではないのだ。
「一年ぶりか? 最後に会ったのは冬だったな」
山本は自らワインの栓を抜く。黒いスーツ、赤いインナー、そして黒いネクタイ。ほどよく着崩して、それが何とも言えず粋である。
対する雲雀は光沢のある黒のクラシカルなスーツを一部の隙も無く着こなしている。ホテルに帰っても全く気を抜かず、まるで来客があることを初めから予期していたようだ。咽喉元を飾るアイボリーのネクタイと、漆黒のインナーが肌の白さとコントラストを描き出しているようで、山本はさりげなく目を逸らした。
「元気そうで何より」
トクトクトクと小気味良い音を立ててグラスにワインを注ぐと、山本は片方を雲雀の前へ差し出した。
グラスの高い脚の根元を雲雀は無造作に、だが優雅な仕草で持つと、緩やかな動作でグラスを内側に回す。それから理想的な円を描くグラスの口を鼻に近づけると、豊饒の大地を思わせる馥郁たる香りを楽しんだ。
限りなく薄いグラスを雲雀が小作りなくちびるに運ぶのを見て、ようやく山本もワインを口に含む。その味わいは値段に見合うだけのものだろう。だが、このワインがこれほど美味いのは、恐らく目の前にこの男がいるからだ。
しばしの間満足のいくワインの味に舌鼓を打ったあと、山本は再び口を開いた。
「…………少し痩せたな」
呟くような山本の言葉に、雲雀は非難するような視線を向けた。まるでワインを楽しんでいるところを邪魔されたのが面白くないかのように。
温度を感じさせない射抜くような視線に、だが山本はおお怖いと両手を上げておどけてみせた。ヤクザだけでなくマフィアでさえも平伏させる雲雀の眼光も、この男には通用しない。
「怒るなよ。本当のことだろう?」
「……………………」
身を乗り出した山本を肯定も否定もせず雲雀は黙殺した。口をきく必要など無いと言わんばかりの態度だが、やはり山本は笑って彼の態度をやり過ごした。もともとまともな会話の成立する相手ではない。すでに人生の半分以上に及ぶ付き合いで、そんなことは熟知している。
雲雀が空になったグラスをテーブルに置くと、何気ない動作で山本がワインを注ぐ。そしてグラスは再び雲雀の手の中へ。二人の一連の動作はごく当然のようで、もしこの場に第三者がいたとすれば、二人の間に存在する微妙な空気を感じ取ったかもしれない。一方通行でいて、どこか深い部分で理解し合っている、そんな空気を。
グラスが空けられ、ワインを注ぐ。幾度かそれが繰り返され、長く短い時間が過ぎた。
相変わらず雲雀は一言も口をきかず、時折思い出したように山本が話しかける。旧交を温めるというには静寂の多すぎる時間が山本は嫌いではなかった。目の前の男と差し向かいで酒を飲めること自体がすでに彼にとっては僥倖なのである。ノックをした時点で追い返される可能性も充分あった。それがこうして酒を酌み交わしつつ、たわいないことを口にできることが、僥倖と言わずして何と言おう。
幾度目か雲雀がグラスを空にして、ボトルも大半が空いたころ。染み入るように回り始めたアルコールを感じながら、山本は目の前の雲雀のくちびるを目で追っていた。
雲雀は空になったグラスをテーブルに戻すでもなく、手の中で弄んでいる。彼もアルコールが回り始めたのか、かすかに呼吸が上がっている。つんと上向いたくちびるはワインに濡れ、時折覗く白い歯や口内の濡れた赤い肉が、山本の目を奪った。
キスがしたいと思った。正直言って、その衝動を抑えるのは容易なものではなかった。だが、その焦燥を楽しむかのように山本はぼんやりと、その実強く雲雀を見つめて動かない。もしも雲雀が目を上げて山本と視線を交わしたら、彼の余裕の表情の奥に潜む強烈な欲望に気付いたことだろう。
だが雲雀は手元に目を落としたまま相変わらず山本の存在など無視するかのように、黙ってグラスを弄んでいる。どれほど希求しても応えることの無い存在。だからこそ、これほど渇望してしまうのか。
ふいに雲雀がグラスをテーブルに置いて立ち上がった。ゆったりとした動作で立ち上がった雲雀を、黙って山本は見上げる。しかし相変わらず視線は絡むことなく、雲雀は澱み無い足取りで踵を返した。
部屋を横切った雲雀は奥の扉に消えた。半分開いた扉の向こうで、かすかに衣擦れの音がする。
ある種の予感に突き動かされて、山本はグラスを煽ってワインを飲み干した。
ゆっくりと、けれど精一杯急いで雲雀の後を追う。雲雀の警護を買って出て、このホテルに警備体制を布いたのは山本だ。むろんこのシークレットルームの構造も全部熟知している。そして山本の記憶がアルコールで混濁していなければ、雲雀の消えたその部屋は、寝室のはずだった。
恐らくわざと開いたままにした扉を潜り、山本は奥の部屋に踏み込んだ。毛足の長い絨毯の敷き詰められたその部屋は、一人で使うには広すぎる主寝室だ。上品な模様の薄いブルーグリーンの上掛けのかかったベッドの上には、無造作に黒いジャケットが放り出されている。そしてベッドの足元には雲雀が立っていた。
何をするべきか、何を言うべきか。それさえも忘れて佇む山本の目の前で、雲雀は袖のカフスボタンを外す。左袖、右袖と。解放された手首は硬く締まって細いが、決して華奢ではなく、それでも充分に白く眩しかった。
不意に雲雀が振り返った。彼は呆然と佇む山本に向き直り、指を自分のタイにかけた。中指を結び目に引っ掛けると、緩やかな動作で引き抜いていく。見せ付けるように、焦燥感を煽るように。
ネクタイを取り払うと、雲雀は挑むように山本を真っ直ぐ見つめた。傲慢で恐れを知らぬ、獰猛な獣の視線。
山本は魅入られたように無意識のまま雲雀に近付くと、右手を上げて彼の顎に触れた。硬い感触。
指先で顎のラインを伝い、耳朶に触れ、髪を梳く。その間も雲雀は瞬き一つせずに山本を見つめている。全てを見透かすような、射抜くような眸。切れ長の眸は視線を逸らすことを決して許しはしないだろう。命じるように、試すように。
もしそんな無様なことをしようものなら、雲雀は山本から興味を失うだろう。そして失われた興味は、永久に戻ることは無い。それだけは絶対に避けなければならない。
愛しげに髪を梳いていた手で、山本は雲雀の後ろ髪を掴んで上向かせる。それでも雲雀の視線は変わらない。くちびるを引き結び、山本を試している。彼が自分の命ずるままに行動をするかどうか。彼の忠誠心が、いかほどのものであるかを。
その黒い眸に自分が映っているのを見たとき、山本の中で何かが弾け飛んだ。
瞼を閉じることさえせずに、山本は薄く開かれた雲雀のくちびるを貪った。自分の立場も相手の思惑も、どうなろうと知ったことではない。今はただ、この傲慢で誇り高い男が無性に欲しかった。例えその結果何が起ころうと、この男が欲しくてたまらなかった。ただ、それだけのこと……。
広いベッドにシーツの波が、深く、浅く、幾重にも刻まれている。縋るよすがを求めて伸ばされた手がシーツを掴む前に、もう一つの手がそれを捉えてしまう。掌を合わせ、指を絡めると、明らかに大きさで劣る組み敷かれたほうの手が、無体な手の甲に爪を立てた。
しかしそれにも動じることなく、大きな手は組み敷いた手をベッドに押し付けている。それは暴力的でありながら、どこか労わりを感じさせる仕草だった。
「………………」
声にならない声を飲み込んで、雲雀は自分を抱く男の首筋に顔を埋めた。逞しい肩に歯を立てて衝撃をやり過ごしても、すぐに呼吸が上がってしまう。密着させた胸が熱く、耳元に感じる吐息が焼けるようだ。同じように呼吸の上がった山本は、幾度も雲雀を突き上げながら、上気した頬に浮かぶ汗の玉を舌先で舐め取った。
眉根を寄せて苦痛とそれに勝る快楽に耐える雲雀を見下ろして、山本はくちびるを舐める。キスに濡れて赤く熟れたくちびるを噛みしめて、漏れそうになる嬌声を必死に堪える様の何たる艶姿か。普段が氷の彫像のように冷淡で無表情であるだけに、その落差が山本を捕らえて放さない。
汗で額に張り付いた髪を除けてやる。豊かな黒髪に鼻先を埋めてキスをしても、雲雀は目を開けようとはしない。山本の逞しい背中に容赦なく爪を立てながら、くちびるを噛んで快楽に耐えている。ほとんど声を漏らすことも無く、山本の名を囁くことも無く。
硬く瞑った瞼にキスを落としながら、山本は自然と苦笑が零れるのを感じた。雲雀は変わらない。初めて身体を重ねたときからずっと。ろくに山本を見ることも無く、快楽に溺れることも無い。これでは誰に抱かれているのかもわからないのではないか。
腰にたまりつつある熱を受け流しながら、山本は埒も無いことを考える。もし行為の途中で山本が誰かに交代しても、雲雀は気付かないのではないだろうか。いや、気付いたとしても、何も言わないのでは。そして彼はただ黙って、山本を軽蔑するのだろう。
自虐的な想像に微苦笑を浮かべて山本は、浅く呼吸を繰り返す雲雀のくちびるにキスを落とす。ふっくらとした下のくちびると、少し薄い上のくちびる。両方に等分の執着と愛情をこめて。
もし雲雀が自分を抱く相手を意識していないとしても、別にそれが何だというのだろう。感情が先立ったガキの時分には、懊悩したこともあったが、今では諦観に達している。
雲雀が何を思って抱かれていようが、今彼を抱いているのは自分に他ならない。ならばそれでいいではないか。その事実だけで充分だ。多くを望んでも、その先にあるのは暗闇だけ。現状に満足することの何が悪い。
自嘲の笑みを浮かべながら、山本はそっと雲雀の耳元で囁きかける。普段滅多に口にすることの無い彼の名前。
耳朶をくちびるで甘く噛まれながら、低く掠れた声で囁きかけられる言葉は、鮮やかな毒に似て雲雀の神経を焼いた。耳に直接吹きかかる吐息も、繰り返されるキスも、彼には絶えがたい苦痛だ。
しかし山本は知らない。恐らく一生知ることは無いだろう。山本が幾度も名を囁きかける一瞬、雲雀の柳眉がより深く顰められ、苦痛よりももっと強い感情が彼の全てを支配することを。
「………………」
ベッドに縫い付けていた手を解放して、山本は自分の背中に回させる。荒い息が整うのを待って、再び雲雀のくちびるを奪った。深く、浅く、鼻先をかわして、幾度でも。
その度に鼻にかかった甘い声が雲雀のくちびるから漏れる。最早意識が朦朧としているのか、雲雀は声を飲み込まない。掠れた甘い声がより高揚感を呼び、山本は抱え上げた脚が胸に付くほどに深く雲雀を穿つ。
くぐもった声を殺しながらも、雲雀は山本の舌を吸い上げて、その首を掻き抱いた。歯と歯が触れ合ってもくちづけは終わらない。最後の高みを駆け上るにつれて、口付けも深くなる。密着した肌と肌が境界線を失って、どこかへ流れ出すような一体感。
お互いが快楽の極地に果てたとき、それが繋がり合わせた身体によるものなのか、それとも深すぎるくちづけによるものなのか。二人にはそれを判じることはできなかった……。
長くは無いまどろみのあと、雲雀は無言で身を起こした。彼の身体を緩く抱いてわずかな至福のひとときを享受していた山本は、無意識か寂しげに彼を見上げる。穏やかで甘く切ない時間は終わりを告げたのだ。
雲雀は今までの情熱が嘘のように、冷めた眸を取り戻していた。彼は山本に一瞥さえくれずにバスルームへ向かう。自分の背中を苦渋に満ちた視線が追っていることを知っていても、彼が振り返ることは無い。
拒絶するようにバスルームの扉を閉じると、雲雀はバスタブの中に崩れるように座り込んだ。
久々の男との情交。脚が言うことをきかない。
それでも彼は決して山本の前ではそんな素振りを見せようとはしない。そんな無様な姿を晒すくらいなら、舌を食いちぎって死んだ方がましだ。
手を伸ばしてシャワーのコックを捻り、頭から冷水を浴びる。しばらくそうして快楽の余韻やくだらない感情を洗い流すと、雲雀は確かな足取りでバスルームをあとにした。
寝室で服を着替える間も雲雀は全く山本のほうを見ようとはしない。幾度か視線が彼の上を通過したが、背景の一部を見るようにその視線は乾いて無機質なものだった。
雲雀は無言で寝室を出ると、リビングへ戻る。もとの席へ座って、温くなってしまったワインをグラスへ注いだ。
寝室に残された山本は我知らずため息をついていた。雲雀の視線は硬く冷たく、それは無言の拒絶だった。
彼は決して山本の感情を許さない。一方的に与え、受け入れられ、ただそれだけの行為。この行為にどれほどの意味があるのか、考えることを山本はとうの昔にやめてしまった。無駄だからではなく、突き詰めるには辛すぎるから。
シャワーを浴びて身支度を整えると、山本は寝室をあとにした。リビングでは雲雀が無表情でワインを口に運んでいる。昔と変わらぬ彼の様子。それでも情事後の倦怠感を纏った雲雀は、眼を覆いたくなるほどに艶かしい。
山本は余裕を感じさせる足取りを装って雲雀に近付く。彼が振り返ることは無く、だからこそ雲雀だと山本は思う。グラスを口に運ぶ彼の肩に手を置いて、慰撫するように軽く掴む。身を切られるような努力でその手を離すと、山本は部屋を横切って玄関へ向かった。
肩にジャケットを担ぐようにしながら、彼は決して振り返らない。それでも名残惜しさに耐え切れなかったのか、山本はふいに右手を上げて軽く手を振った。利き腕を下ろしたときにはもう、彼は一切の感情を断ち切っていた。
一人の要人の警護を任されたマフィアの顔に戻ると、山本はその部屋を立ち去った。どこか寂しげなその背中を何気ない視線で雲雀が追っていたことを、彼が知っているかどうかはわからない。けれど、それを二人が確かめ合うことは永遠に無いだろう。
誰もいなくなった広すぎる部屋で、雲雀は最後のワインを飲み干した。芳醇なはずのワインは、口内に苦味に似た後味を残していた。
あれほど美味だったワインが突然劣化した理由が、温度や時間の経過のせいではないことを雲雀は知っていた。だが、知っていたところで彼はどうすることもしなかった。どうしたいとも思わなかった。
雲雀はテーブルの上の空になったワインの壜を掴むと、
「…………不味い……」
憎むように呟いて、向かいのソファに投げつけた。
〔了〕
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ノン ディスペルデーレ イル ヴェトロ ネッリ アンビエンテ
「non disperdere il vetro nelli ambiente」
‖
「空き壜を投げ捨てない様にしましょう」