■□■ 存在の安息 □■□
「お前、顔が赤いぞ」
どこか訝るような了平の声に雲雀は顔を上げた。
雲雀の家の広すぎる居間でのこと。絨毯の上に雑誌を広げ、不自然に肩を近寄らせてくつろいでいたときのことである。
隣で胡坐をかいた了平は覗き込むように雲雀の顔を見つめていた。
「……食べたばかりだからね」
間近に迫った了平の顔を、真っ向から直視して雲雀は言った。
つい30分ほど前に夕食を終えたばかりである。それも中学生には似つかわしくなく、熱燗まで添えたものを。体温が上がらないはずがないではないか。
「そうか? しかし、声も掠れているようだぞ」
「それは君のせいでしょ」
尚も訝る了平に平然と雲雀は言ってのけた。秋も終わりに近付いた休日、昼から二人でベッドにもぐりこんでいたのだ。素肌を合わせる快楽を知り始めたばかりの二人であるから、その熱意は並々ならず、夕方までずっとそうしていたのだった。
つい2時間ほど前の高揚を思い出したのか、了平はぽんと手を打って納得した。ここで一々赤くなったりしないところが了平の了平たる所以であろう。
そもそも雲雀にしても恥じらいなど蚤の額ほども持ち合わせぬ人間であるから、似合いといえば似合いである。例え周囲にとってそれがどれほど迷惑であったとしても。
とにかく了平は納得した様子で再び雑誌に目を落とした。それは雲雀の持ち物で、了平が目標としている伝説のボクシングチャンピオンを特集したスポーツ雑誌だった。
「ううむ、まさしく超人。王者の中の王者!」
数時間前とは違った興奮を示す了平は、身振り手振りを交えて雲雀にそのボクサーがいかに偉大かを語り続けた。
了平が心酔し、尊敬してやまないのは、ホセ・メンドゥーサというメキシコ人だった。了平が生まれたころにはすでに引退していたものの、20年近くにわたってチャンピオンの座に君臨し続けた偉大なる王者である。
初めて了平の口からその名を聞いたとき、雲雀はどこかで聞いたことがあるように思ったが、はたしてどこで耳にしたのか思い出せなかった。それだけ有名なボクサーであるなら、たとえスポーツなどに全く興味の無い雲雀でも、名を聞く機会はあるだろう。
ともかく了平があまりに熱心に話すので、雲雀はその名を聞き覚えた。それから、エリック・モラレスというボクサーも。
「うむ、エリック・モラレスはオレの目標なのだ!」
意気込む了平の言によれば、ホセ・メンドゥーサは彼にとって神にも等しく、エリック・モラレスはいつか拳を交えたい目標なのだそうだ。
基本的に他人に対して興味を抱くことの無い雲雀だが、了平の言いたいことはよく理解できた。
強い人間と戦い、屠る。その高揚の何と甘美なことか。
おそらく了平と雲雀の、闘いに対する基本姿勢もその理念も全く違ったものであるだろうが、この際それは関係ない。
とにかく雲雀は了平の尊敬してやまないボクサーの名を覚え、その特集を組んだ古い雑誌をたまたま古書屋で見つけたのだ。そして了平を自宅に誘ったのである。
了平は大喜びで雲雀の家にやってきた。彼は素直に雲雀に礼を言ったが、合理主義者で即物的な雲雀は別の形で感謝の気持ちを示すことを望んだ。
いくら了平が変わり者で自己完結が激しく思い込みが強かろうが、雲雀が何を欲しているのかはわかったようだ。それ以前に、雑誌を渡すだけならば学校で手渡しすれば事足りる。わざわざ家人不在の自宅に招くということは、つまりそういうことだ。
雲雀は了平以外の何ものにも興味が無い。ただ了平だけがいればいい。そして了平の全てが彼の興味を掻きたてる。
雲雀は了平の全てを知りたいと思う。だから素肌を重ねた。それは苦痛を強いながらもとても心地よく、雲雀は更に了平に興味を覚えた。
了平と抱き合うのはとても好ましかった。女のように男を受け入れるようにはできていない身体は、未だに咬合の度に苦痛をもたらすが、にもかかわらず雲雀は了平が欲しいと思う。
生物は自己の生命を守るために、苦痛を排除しようとするようにプログラムされている。苦痛は恐怖と怒りを呼ぶ。自己防衛本能がそれらを拒絶し、種を断ち切ってしまうような行為を許さない。
にもかかわらず雲雀は了平が欲しかった。身体に多大な負担をかけようと、奥歯を食いしばるほどの苦痛を覚えようと、たとえ抱き合ったところで何の生産性も無かろうと。
生物の連鎖から外れたことを雲雀は自覚したが、しかしそれは彼らの関係を何ら損なうものではなかった。
腕時計が21時を指し示したとき、了平がついに暇を申し出た。彼は帰り支度のために色々な意味で重い腰を上げたが、不意に動作を停止して再び雲雀をまじまじと見つめた。
「……お前、やはり顔が赤いぞ」
猫科の獰猛な獣を思わせる優雅な動作で立ち上がった雲雀を、睨むような勢いで了平は見つめていた。別に悪意があるわけではない。眉間に皺が寄っているのは、雲雀を気遣ってのことだ。
「そうかな」
雲雀はしらを切ろうとしたが、了平は誤魔化されてはくれなかった。
確かにいつもより暑いような気がするが、それは気温が高いせいだと雲雀は思っていた。それでなければ、ずっと了平の傍にいたからだ。
けれど了平が一度思い込んだらウツボよりも執念深いことを彼はよく承知していたので、仕方なくある提案をした。熱を計ってみようと言ったのだ。
了平ほど極端ではないものの、強さを求めて身体を鍛えることを雲雀も自己に課していた。彼の体脂肪は低く、計算されつくした機能的な身体を維持していた。そのため平熱は低いほうではない。別に雲雀にとってはどうでもいいことだが。
了平をソファに待たせ、雲雀は薬や健康管理具をしまってある棚から耳温計を持ち出してきた。
「おお、珍しいものを!」
雲雀が手にした一見とても体温計には見えない器具を見て、何故か了平は嬉しそうに声を上げた。どうやら耳温計が珍しいらしい。
無邪気な好奇心で眼を輝かせた了平は、雲雀が思わず手渡してしまった耳温計を受け取ると、彼に隣に座るように促した。手にしたからには使ってみたい欲求に駆られたのだろう。そういうわかりやすい部分が雲雀は嫌いではなかった。
「うーむ、他人の耳をいじる日がこようとはな」
先ほど散々雲雀の耳朶を甘噛みしたくせに、どの口が言うのか。そう思いはしたものの、雲雀は黙って了平の好きなようにさせてやった。こんな風に自分の身体を誰かに預けるのは、了平だけのことである。
ピッと音がして、了平が大仰に感心の声を上げた。検温があまりに早くていたく感動したらしい。了平は驚きだの感動だのをとかく派手に表す。赤ん坊のころより感情の起伏に乏しかった雲雀には、それが不思議でならない。けれど不快ではない。むしろ興味をそそられる。
「どれ」
何故だか嬉しそうに言った了平は、いそいそと耳温計のデジタル表示を目の前に翳した。
雲雀が了平を振り返るのと同時に、彼の顎がカクンと落ちた。腹話術の人形を思わせる動きであった。
「………………」
了平は今時海外の子供向けアニメでもやらないほどの古典的な絵面を保ったまま、驚愕の表情で耳温計を凝視していた。コメディアンも真っ青な了平のリアクションに、雲雀は無言ながらも小首を傾げた。
流石に自分のことであるから、雲雀も了平の態度が気になったのだ。
「なに」
促す雲雀の言葉に、さび付いたブリキの人形の動きで了平は顔を向けた。
「………………」
この世の終わりでも楽しげに吼えまくるであろうことが容易に予想できる男は、彼らしくもなく無言で耳温計を差し出した。険しい表情はどういうわけか怒っているようで、雲雀は怪訝そうに耳温計を受け取った。
デジタル表示は見慣れぬ数字を示していた。
38.5℃
雲雀もむっつりと黙り込んだ。
……なるほど、了平が顎を落とすわけである。耳温計にしても高すぎる体温だ。明らかに雲雀は熱を出していた。
室内なのに木枯らしが吹くような沈黙が過ぎ去った。デジタル画面を見て無言になりながらも、相変わらず表情の変わらない雲雀。その隣で憤懣やるかたない様子の了平。奇妙な光景である。
そのうちとうとう焦れたのか、了平が苛立ったように言った。
「……やはり、無理をさせたか」
どうやら了平は自分に対して腹を立てていたらしい。雲雀がまだ抱き合うことに完全に慣れてはいないことを知りながら、ついつい欲求に任せて無理強いしたと思ったらしい。普段はブラックホール並みの傍若無人でも、雲雀に関することだけは別なのか。
「別に。したいことをしただけだよ」
耳温計のスイッチを切りながら雲雀は平然と言い放った。事実、今日二度目にしたときは、初めて了平を押し倒してマウントポジションを取った。大変疲れたが、それはとても楽しかった。
しかし了平は納得しなかったらしく、口をへの字に曲げて考え込んでしまった。思いやりが足らなかったとでも自分を責めているのだろうか。気持ちは嬉しいが、それではいつまでたっても慣れることができないではないか。
了平が黙り込んでいるので雲雀も口を開かなかった。了平の自己嫌悪に似た後悔が手に取るように雲雀にはわかった。同時に、それが面白くない。後悔されるようなことをした覚えは無いからだ。
物心ついた時分からそうであったが、雲雀は苦痛と精神が乖離している傾向がある。
鈍いわけでも、痛みを感じないわけでもない。ただ、痛いということにさしたる感銘を受けないだけだ。
故に雲雀は苦痛を恐れない。もちろん好きなわけではない。しかし恐れたことは無かった。ましてやその先に、夢のような快楽があることを知っていれば尚のこと。
了平と抱き合うようになってもう三ヶ月近くになるが、未だに雲雀の身体は異物を完全に受け入れられてはいなかった。
初めほどではないにしろ依然として苦痛はあったし、いくら精神が乖離していても身体は苦痛に過度の緊張を示す。雲雀が表情を変えなかったとしても、身体の変化を明敏に感じ取って、了平は彼の負担を察していた。
けれど雲雀にしてみれば、苦痛に耐えるだけの価値のある行為だった。
もとより雲雀は気に入らないようなことを許容するような人間ではない。こうして抱き合うようになっても、雲雀は何度も了平に力ずくで意見を押し通したこともあった。そんな人間が、隷属的に負担を受け入れるわけがない。
確かに苦痛はある。けれどそれをおして有り余るほどの価値もあった。
回数を重ねればいつかは身体も慣れて、全てを官能として受け入れられるようになるだろう。だから雲雀は了平と抱き合うことを求めているのに。
了平が気付いたとき、隣の閻魔は恐るべき無表情で中庭のほうを眺めていた。弛緩していながらも隙の無い様子は、彼が臨戦態勢に入っている証だ。つまり了平は雲雀を怒らせたらしい。
どうして雲雀が怒るのか了平にはわからなかったが、発熱した状態の人間に大立ち回りをさせるわけにはいかなかった。了平は慌てて雲雀の手を取り、
「ヒバリ、家族はいつ帰宅する!?」
詰問に近い吼えかただが、雲雀の鉄面皮は揺るがなかった。
「……さあね」
永久凍土もかくやと思われる声だった。了平が握った手は熱いほどなのに、雲雀の視線は冷たかった。
「わかった。ならばそれまでオレが傍にいよう!」
万人が怯え平伏す雲雀の怒りも、了平には通用しなかった。尚のこと心配を募らせたらしい了平は高々と宣言し、雲雀の手を取ったまま勢いよく立ち上がったのだ。
「……どこ行くの?」
ぐいっと腕を引っ張られ、雲雀は呆れたように言った。あまりに了平が真剣なので、怒りの通じない相手に腹を立てるのは無駄だと悟ったらしい。
「お前の部屋だ。暖かくして寝なければな」
「……誰も寝たいなんて言ってないけど」
「そうだな、まずは水分摂取か。待て待て、解熱剤も飲んでから寝たほうがいいな」
「僕、まだ歯も磨いてないんだけど」
「安心しろ、寝るまでオレがついててやるからな!」
完全に会話が成り立っていない。そんな不自然さになどとんと気付かず、了平は全力で雲雀に請け負った。自分の胸を拳でたたき、さあ安心しろと言わんばかりの了平に、早くも雲雀は諦めた。
こうなった了平は空からマカロニでも降ってこない限り自分の考えを曲げない。咬み殺すのは容易いが、熱のある身では面倒だった。それより何より、了平の気遣いを理解している雲雀は、不愉快ではなかったから。
いざ離れへ、と腕を引く了平に、雲雀は密かに忍び笑いを混ぜた声をかけた。
「……それなら泊まっていけば」
「む? それもそうか」
「電話しておいで。薬飲んで、歯を磨いてくるから」
雲雀の言葉に了平はしばしのあいだ考え込むようにしていたが、まさか自宅で逃げ出すようなわけがあるまいと結論したのか、じっくりと頷いた。
もとより雲雀は了平を相手に逃げ出すくらいなら、真っ向から叩き伏せる男だ。そして了平は雲雀のそういう部分に惚れ込んでいるのだから。
「わかった」
ようやく納得したらしい了平に、雲雀は愉快そうに笑いかけた。
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