青に泳ぐ






 ふと目覚めたとき、寝室はまだ薄暗く、夜明けが近いことだけが知れた。一体何故目を覚ましたのかわからずに、俺は寝返りを打つ。目覚めきらない目に映るのは数少ない家具のぼやけた輪郭だけで、俺は違和感を覚えた。無意識に伸ばした腕がベッドの中で空を掻く。本来ならば温かな身体に触れるはずの腕が感じるのは、すでに冷たくなったシーツの表面だけ。
 無造作に頭をかきながら俺は身体を起こした。冬の明け方は冷え込み、壁のフックに掛けていたガウンに袖を通す。大分前に寝室を抜け出したらしい友人を探して部屋を出ると、真っ直ぐに階下を目指した。
 キッチンには水滴のついたグラスがぽつんと置かれていた。テーブルに近づくと冷たい風が頬を撫でる。振り返るとリビングの窓が開いていて、テラスにリーマスが立っていた。
 無言のまま朝の庭を見つめるリーマスの背後に近づくと、肩越しに彼が振り返った。

「悪い、起こしたかい?」

 誰に憚るわけでもないのに、朝の静けさに気圧されてか小声で彼は謝罪した。

「……いや」

 寝起きのせいか低く掠れた声で呟くと、苦笑してリーマスは再び庭に顔を向けた。
 空は夜明け直前の深い青さと静寂に満ちている。耳が痛むような無音の空間。微かに風が吹いて木々の葉が揺れる音だけが全てで、鳥すらもまだ眠っているのか。
 ベージュのカーディガンを羽織ったリーマスは無言で庭を見つめている。いや、もしかしたら視認することはできない何かを見ているのかもしれなかった。
 その視線を追うように目をやれば、影のかわりに庭のそこかしこに群れている青。薄明かりに照らされる海の底を思わせる。あと少したてば、夜明けの赤に占領されて、それらは駆逐されてしまうだろう。

「ねぇ、シリウス」

 ふいにリーマスが振り返りもせずに呼びかけた。無言で促すと、彼は微かにこちらに顔を向けて、

「昔、青い水の壜を作ったのを覚えているかい……?」

「ん? ああ、そうだな」

 それはまだ俺たちが子供だったころ。掌大の大きさの、コルクの蓋をした透明な壜。中には青色の水が入っていて、蓋を取ると青色が部屋中に広がってゆく。窓辺に置くと段々と水中に没してゆくような青さが、夢のように美しく、かつて俺たちが作ったものの中でも特に好評だった。

「あれは綺麗だったね」

 くすくす笑ってリーマスは俺を振り返る。細められた目には懐古主義者の悲哀が含まれている。彼は細めた目を明け始めた空に向けた。
 吐く息は白く、明け空を見つめる横顔の頬だけが赤い。反面、透けるような額は青白く、満月は遠いが、過ぎたばかりのそれの影響があるのだろうか。
 リーマスの考えることは今をもって俺にはわからない。それはそうだろう、付き合いは長くともつかず離れず一緒だったわけではないのだから。いや、そもそも同じに育った双子であろうと、自己でないものは他人であり、テレパシーでも使えない限り他人の思考を知ることなどできるわけがない。
 ゆっくりと、だが着実に登る朝日を見つめているリーマスはさかんに自分の腕を擦っている。無意識だろうその行為は、寂しさの発露か抱擁を求めているのか。……それとも、単に寒いだけなのか。

「おい」

「うん?」

 我ながらぶっきらぼうな呼びかけに、リーマスは振り返る。パジャマの襟から覗く細首に、赤い痕。

「寒い」

 顎をしゃくって室内を指し示すと、リーマスは苦笑してそうだねと呟いた。






 すっかり冷え切ったベッドに戻ると、リーマスも大人しく隣に潜り込んだ。カーディガンは広げてベッドの上に掛けてある。何気無く伸ばした指先に触れた肩の冷たさに、俺は眉間に皺を寄せた。
 どうやらリーマスは思った以上に長い間、テラスに立っていたらしい。俺が声を掛けなければ、ずっとそうしていたかもしれない。
 冬の差すような寒気の中、彼が何を思ってそうしていたのか俺にはわからないが、ある種の自虐癖がリーマスにはあることを思い出した。
 それは初めて出会ったころからのことで、もとから外面の穏やかな微笑に反して皮肉屋の彼であるから、自己に対しても殊のほか厳しいことは知っている。そしてそのことを他人に悟られることを疎んじていることも。
 他人に興味が無い分、自分にも興味が無く、自分に厳しい分、他人にも厳しい。それがリーマスの美点でもあり、欠点でもある。ある意味完璧主義者なのだろう彼は、理想と現実の隔たりに絶望している。絶望は皮肉と悲観を生み出し、常に自嘲的な態度を崩さない。その分衝撃には強く、今更どんな悲劇が起こっても、リーマスを崩壊させることはないだろう。それだけが救いだ。
 俺が面白くもない考えに益々不愉快になり始めたころ、ふいにリーマスがこちらに寝返りを打った。

「なぁ、シリウス?」

 起きているかと問うような小声に、何かと問うと、リーマスは何故か一瞬戸惑ったように目を逸らした。

「……昔、小さい頃はよく、四人で一つのベッドにもぐりこんだね」

 それは本当にまだ小さかったころの話。同室の友人たちと四人で一つのベッドに入り込み、下らない話をしながら夜明かしをした。一番初めに寝てしまった者は、廊下に放り出される罰ゲーム付きの、他愛ない子供の遊びだ。特に怪談話をするのが皆の間に流行って、それぞれ明りを持ち込んで毛布を被ったものだ。

「ああ、ジムの奴が急に起きたせいでボヤ出して……」

 持ち寄った小さなランプを倒してしまい、シーツを焦がしてしまったのだ。それを隠蔽するのがとかく大変で、四人で額を付き合わせたのは懐かしい思い出だ。

「そうそう、そのせいで自粛することになって……」

 いつしか四人が集まるにはベッドは小さくなりすぎ、その遊びが復活することはついに無かった。
 どうやら今日はやけに昔を思い出すらしいリーマスは、でも本当に楽しかった、と屈託無く笑う。過ぎ去ったことにばかり幸福を見出すのはあまり建設的とは言いがたいが、それでも彼が笑うのならばいいだろう。

「……そうだな」

 楽しかったな、と言ってくしゃくしゃと髪をかき回したら不服そうに睨みつけられたが、目に剣呑さが無かったことを俺はちゃんと知っている。
 よせよ、と手を払って向こうを向いてしまったリーマスは、しばらくして落ち着いたようなため息をついた。眠る準備が出来た証拠だろう。彼は振り返りもせずに、

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 カーテン越しに光の微粒子が入り込み、明るくなりつつある寝室の中で俺は、安息へと導かれてゆくリーマスの背中を見つめる。小さくは無いが、決して大きくも無い背中。子供のころに比べ肉付きはやや良くなったものの、未だに細さばかりがよく目立つ。
 リーマスはこの背中に全ての悲劇を背負って生きてきた。俺が犯した過ちも全部、彼に降りかかってしまった。それでも彼は重圧に押しつぶされることは無く、今こうしてベッドに身を横たえている。彼がそれらに耐えられたのは、諦める術を知っていたから。何事にも期待せず、辛酸を舐めても『ああ、やっぱり』とただそう呟くだけ。弱音を吐くことを嘲笑し、自らを消し去るほど世界には何一つ期待をしていない。ただ無為に生を全うし、時間を消費するだけ。
 それがどれほど辛いことか、今の俺には良くわかっている。いや、わかった気がしているだけかもしれないが。
 少なくとも十年以上に渡って、俺もまたそうした生を強要されたのだから。
 生まれてからわずか数年間を除いて、人生のほとんどをそうして生きてきたリーマスは強いと俺は思う。昔は逆に弱いのかと思っていたが、それは間違いだった。冷静な状況分析と、広く温かな度量で俺を赦した彼の精神は、すでに尊い場所へ達しているのではないだろうか。
 多分そこは、俺には一生到達し得ない場所であり、同じ所へ来ることをリーマスは望まないだろう。けれどそれ以上に望まないのは同情と哀れみだ。誇り高い彼はつまずいたからといって無条件で差し伸べられる手を取ることは無い。
 心の奥底でそれを欲していたとしても、己の足で立ち上がることを自らに課す。慈悲にすがることを潔しとせず、自己を律する姿は痛ましい。けれどそこに殉教者の陶酔が入り込む余地は無く、いつでもどこか高い場所で自分を嘲笑っている。それでも思い出を語る彼の表情は穏やかで、本質的には和と平穏を好む普通の人間なのだと俺は改めて安堵した。少なくともリーマスにも、安らげる場所がある。それが俺の側であることが誇らしく思えるのは、間違いではない筈だ。
 穏やかな寝息を立て始めたリーマスは、安心しきって俺に背中を向けている。彼のために俺がしてやれることは数少ない。そもそもそういった考えからして彼は嫌がるだろう。大して何もできぬなら、何もせずにただ傍にいようと決めた。見守ることしか出来ないのなら、せめて眠りにつくまでの間、この無防備な背中を見つめていようと、俺は漠然と思った。






〔了〕







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