■□■ 遅刻の理由 □■□






 シャワーを終えた雲雀がバスルームを仕切っているガラス戸を開けると、洗面台の前に立った了平の姿が目に入った。シャツの袖をまくり、逞しい腕も露に彼が何をしているのかと言えば、髪を整えているのだ。
 十年前は柴犬のように短かった髪を、いつのころからか了平は伸ばし始めた。と言ってもロングと呼べるほどのものではなく、整髪料で立ち上がらせることが出来る程度の長さである。
 毎朝のことだが、ひどく真剣な表情の了平を眺めながら雲雀は身体にまとわり着いた水滴をタオルで拭った。右斜め後方で雲雀が自分を見ていることなど鏡を見れば一目瞭然だが、了平は気にも留めない。同じアパートに暮らし始めて、もうかなりになるからだ。
 タオルをバスケットに放り込んだ雲雀は、いつもの黒い着物に袖を通し、ゆったりとタイル張りの壁に寄りかかった。その間も了平からは目を離さない。眼下の得物を物色する猛禽類の視線だが、相変わらず了平はまるで気にした様子もない。
 指先で摘むようにして髪を立てると、了平は満足そうに鏡の中の自分を見つめた。一人で百面相をしている姿を雲雀が小莫迦にしたような表情で見つめていても、やはり気にする彼ではなかった。

「雲雀、もう少し待ってくれ。これが終わったら、朝飯にするからな!」

 バスルームに響き渡る声で鏡越しに呼びかけると、了平は黒いT字型のカミソリを掲げて見せた。何しろ純日本人には珍しいほど体毛の色素が薄い男であるから、間近でよく見てみないと無精ひげなどほとんど判別できない。普段は毛抜きで抜いている程度の量でもあるのだが、今日は午後から重要な会議があるためか、カミソリを使う気になったらしい。
 壁に背中を凭せ掛け、袂に腕を突っ込んで組む雲雀の返事など聞きもせず、了平はシェービングジェルを手に取った。最早雲雀の姿など意識の外だ。いささか面白くない雲雀が舐めるように眺めるなか、了平は頑健な顎にジェルを塗り始めた。泡状のものでは目測がつかん、とわけのわからないことを言ってジェルを選んだ男は、シャツに飛沫が飛ぶであろう勢いの水で手を洗った。
 気合を入れて手についたジェルを流し終えた了平は、再びカミソリを取り上げた。危なっかしい手つきで頬に当て、見るからに細心の注意を払って滑らせる。以前に思いっきり顎を削った苦痛を、流石の了平も憶えているのだろう。それでも電気カミソリにしないのは、『オレは負けん!』だからだそうだ。
 鏡越しに眺める了平の姿はなかなかの見ものだった。左手を咽喉に添え、若々しい皮膚を引っ張りながら、たどたどしい仕草でカミソリを動かしてゆく。本当に右手が利き手なのかも怪しいような不器用な仕草だ。しかし彼の表情は真剣そのもので、鏡を見つめる眼差しは鋭い。眇めるように細められた目は、普段の彼にはありえない鋭い表情を作っている。顎を上向け、見下すような視線を鏡の自分に向けながら、咽喉までカミソリを滑らせる姿は、男の色気に溢れていた。

「……ねぇ」

 突然かけられた言葉に了平が振り返る。きょとんとした表情は、いつもの了平のものだ。
 雲雀は壁を離れ、了平のもとへとやってきた。裸足がタイルを踏むひたひたという足音が、奇妙に耳に残った。

「ん? もうすぐだから、もうちょっと待て」

 よほど雲雀を食い意地の張った人間とでも思っているのか、朝飯が遅いことを非難しているのだと思い込んでいるらしい了平から、雲雀は素早くカミソリを取り上げた。

「貸しなよ」

「む?」

 隣に立った雲雀に、事情を飲み込めないらしい了平は丸い目を向ける。理解が遅いというよりも、子供っぽい反応に雲雀は隠微な微笑を浮かべた。

「してあげる」

 意識的に嘲笑と色香を含んだ声で囁くと、了平はくちびるを引き結んで雲雀を見つめた。が、何か反論することもなく、素直に雲雀に向き直り、平然と咽喉をさらして見せた。
 雲雀は手を伸ばし、了平の顎を指先で摘む。軽く力を込めれば、意図を察した了平は顎を仰け反らせて上向いた。
 手にしたカミソリでひげをそり落としてゆく。雲雀の操るカミソリは了平の手の中にあったものと同じとは思えぬ滑らかさで動いていった。あるかないかもわからぬほどのひげを剃り、咽喉も顎も頬も整えてゆく。横向かせた了平は心地良さそうに目さえ閉じていて、カミソリを持った他人にこれほど無防備にして見せるのは、相手が自分だからだと雲雀は知っていた。

「……終わったよ」

 言葉と重なるように洗面台に放り込まれたカミソリの乾いた音に、了平は慌てて目を開いた。瞬きを繰り返す様が雲雀の飼っている小鳥のようでおかしかった。

「うむ、すまんな雲雀!」

 滑らかに整えられた顎を撫でながら喜ぶ了平を、一瞥もせずに雲雀は洗面台を離れた。バスルームを横切る彼の背中に、水音と了平の声が重なる。

「すぐ朝飯にするからな!」

 濡らしたタオルで顎をふき取る了平を、雲雀は肩越しに振り返った。

「まだいい」

 思いがけない返事に了平は雲雀を見る。てっきり血糖値が下がって不機嫌になっているのだと思っていたのだが、どうやら違うようだ。
 振り返ったまま寝室へのドアノブに手をかけた雲雀は嫣然と微笑み、

「ベッドで待ってる」

 誤解しようのない言葉を残してバスルームから消えた。その黒い残像が消え去るのを呆然と見つめていた了平は、耳に響く水音にまだ水を出しっぱなしにしていたことに気づいて慌てて蛇口を捻った。
 どうやら雲雀は今から抱き合うつもりらしい。朝食も済ませておらず、やっと身支度も終え、午後には大事な会議があるというのに。相変わらず雲雀はわがままで、他人の都合など意にも介さず、好き勝手なやつである。
 了平は手早くアフターシェーブローションを塗ると、同じように寝室へと向かった。どうしようもなく嬉しそうな表情を浮かべながら。




〔了〕







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