そして誰かいなくなった
ガス灯、異次元へと誘い込まれそうなほど濃密な霧、ただ無慈悲に時を告げるビッグ・ベン。それらは魔都ロンドンを象徴する代名詞であろう。他に類を見ない雑多な都。貧困と犯罪が世を謳歌し、退廃と堕落が支配する街。しかし人々はこの街に群れ集う。それはさながら悪魔に魅入られたかのように……。
喧騒に満ち溢れた酒場に、彼はいた。この国の紳士に代表される長身痩躯だが、彼の同居人とは違ってがっしりとした堂々たる体躯。無駄な贅肉はまるで無く、学生時代よりラグビーと競馬をひたすら愛した結果である。時折見せるぎこちない動きは、彼の戦歴を物語っていた。
彼の名前はジョン・ヘーミッシュ・ワトスン。大抵の人間が『ドクター』と呼ぶように、彼の職業は医者である。現在はパディントン地区に診療所を構えているが、先ごろ妻に先立たれ、すっかりやさぐれてしまっているのである。
だが彼の不機嫌の理由はそれだけではない。初対面のとき、従軍の所為で真っ黒に日焼けしていた彼に『シリウス・ブラック』と勝手に愛称をつけた人格破綻者のジャンキー野郎……もとい、癖のある性格の健康に無関心な友人が、ここのところ何か隠し事をしているようであったからだ。
その友人とは何を隠そうかの有名なシャーロック・ホームズである。どうやら初めて出合ったとき、
『シャーロック・ホームズです。わたしのことは親しみを込めてジムvと呼んでください』
なんぞとわけのわからんことをのたまったので、すかさず何でやねん!? と突っ込んだのがまずかったらしく、すっかり気に入られてしまい、もうかれこれ十年の付き合いになる。世間の人間は彼らを無二の親友と思っているらしいが、冗談ではないというのがシリウスの本音であった。今でも月に一回は殴り合いの喧嘩になるし、毒舌の応酬はすでに日課となって久しい。にもかかわらず今まで付き合いが途切れることが無かったのは、一重にあのろくでなしを心配してやるシリウスの慈悲深い性格のおかげである、と本人は思っている。が、思っているのは本人だけで、周りからしてみれば似たもの同士類が友を呼んだ、ということになっている。
それに拍車をかけているのがシリウスの出版した本である。これは事件の回想録のようなものだが、草稿が出来上がってすぐに二人で酔っ払いながら事実確認をしたのがいけなかった。清書して出版社に持って行く頃には、どういうわけか二人の人格についての部分がかなりデフォルメされていたのだ。しかもそれがウケちゃったのだから仕方が無い。以後の作品も同じままいくしか無くなり、実際には喧嘩腰で気の強いシリウスは、押しに弱い善良な紳士として世間に認識されてしまったのであった。
さてそのシリウス。自称ジムvがここのところ彼に対して秘密裏に何か大きな事件に関わっているらしいことが無性に面白くなくて、この晩は酒場で一人くだをまいていた。好意的に解釈すれば、まだまだ若い妻を亡くし、失意の底にある友人の心中をおもんぱかってジムは今回は声をかけなかったのだということになるだろう。が、真相は放心状態の医者なんぞ一緒にいたところで蛙の手ほども役に立たないとでもいったところか。おたまじゃくしよりは役に立つわいと反論してみても、鼻で笑われるのがオチだろう。結局何かとジムには敵わないシリウスなのであった。
「だからってあの野郎、いつか必ずぶっ殺してやる……」
そんな医者にあるまじきことを呟きながらモルトビールを煽るシリウスの肩を誰かが叩いた。不機嫌極まる彼に声をかけるなど何て命知らずな、と顔見知りのバーテンが息を飲む。彼は今までこういった状態のシリウスをからかって、テムズ河のもずくと消えた……いや、もくずと消えた輩を何人も知っているのだ。危うし、どこかの何とかいう人!
「失礼、ワトスン博士とお見受けしますが」
帽子のつばをちょいと引いて挨拶をしたのは、柔和な顔立ちの小柄な印象の紳士だった。ああん? と柄の悪い声を出したシリウスは、いかにも迷惑そうに相手を上から下までジロジロと眺め回した。薄いと言ってもいいほどの痩身、高くも低くも無い身長、つややかな鳶色の髪。見たことの無い男だ。
そんな不躾な態度にも臆することなく、薦められてもいないのに男は笑顔でシリウスの隣に陣取った。
「初めまして。わたしはホグワーツ大学で数学教授をしている者です」
屈託無く笑う男は、せいぜい多く見積もってシリウスと同い年ぐらいにしか見えない。ホグワーツなんて聞いたことの無い大学だな、と基本的に礼儀正しいシリウスは差し出された手を握った。相手の余りの邪気の無さに毒気を抜かれた所為もある。それにしてもこいつ、どうして自分をワトスンと知っていたのか。
よくワトスンとはガッシリした中背の、口髭を貯えた人物と言われるが、それはお気に入りのボルドーワインにベロベロに酔ったシリウスとジムの二人が勝手に創作した架空の人物像である。まだ売れるなどとは決まっていなかったのに、街で誰かに追いかけられるのを回避する方法として作り上げた虚像であった。おかげで普段近所の人々に名を呼ばれても、通行人に正体がバレないで済んでいるのだが。
にもかかわらず、この男は何故かシリウスをワトスンと知っていた。そのことにシリウスの警戒心が黄色いランプを灯したが、男がお近付きの印にとモルトビールを奢ってくれたものだからたちまち胡散霧消してしまった。何しろこのときのシリウスはすっかり出来上がっていたのである。そうして彼らはわずか十分で意気投合し、夜の街へと消えて行ったのであった。
翌日のシリウスの気分は、ロンドン上空を覆う曇り空よりも重かった。
何がまいったって、昨夜の暴飲による二日酔いもそうだが、彼は何と犯罪者になってしまったのである。
朝、爽やかとは言いかねる覚醒の後、昨夜のことを思い出してシリウスは本気で頭を抱えてしまった。
「な、何ちゅーことを俺は……!!」
実際に頭を抱えて診療所の二階にある下宿のテーブルにシリウスは突っ伏した。一応シリウスの名誉のために明記しておくが、彼が犯した罪とは殺人とか窃盗とか猥褻物陳列罪とか低速違反とかではない。もっと辛辣で滑稽な、世にいわゆる『男色罪』である。この当時の英国では男性同士の恋愛は刑罰の対象となった。その点彼は別に『愛』も『恋』もしたわけではないが、もうばっちり肉体関係を持ってしまったのである。それも行きずりの名前も知らない男と、しかも三回も……!!
「ぎゃああああー!」
シリウスが頭を掻き毟って奇声を上げたのも無理はない。妻の葬式の記憶も新しいというのに、俺は駄目な男だメアリー許してくれ〜とか呟いたのも仕方が無かっただろう。よりにもよって男色罪なのだから。
暫しの苦悶の後、シリウスは決然と顔を上げた。幸い目撃者は居ない。診療所の壁は職業柄、患者の秘密を守るために厚く、隣近所にあの声を聞かれたということもないだろう。ならば黙っていれば大丈夫!
……こうして、我等がドクターは完全犯罪を目指すことに決めたのであった。
「おや、昨晩はお楽しみかい?」
不吉なことをニヤニヤと言いやがったのは、シリウスの無二の悪友、シャーロック・ホームズ自称ジムvである。彼はつい正直にギョッとするシリウスに人の悪そうな笑顔を見せる。
「何をそんなに驚いているんだ。酒臭い息、普段は着ない襟の高いシャツ、そして無意識に見せるニヤケ面が全てを物語っているじゃないか」
相変わらずの女ったらしか、と『あの人』だけに信仰に近い尊敬と愛情を注ぐジムはせせら笑う。小さい頃から女性の目を引いてやまない顔立ちのシリウスは、若い頃三大陸の女性を網羅したと豪語するほどの遊び人であった。その彼の久し振りの変化を見逃すジムではない。人物像は違えども、その観察眼は嘘ではない。おかげでかなりの収入を得ているとは言え、こんなときは恨めしくてたまらない。
「うるせぇな。お前こそ俺に何か隠し事してるだろう!?」
「してるよ」
図星を刺されたことを誤魔化すために言った言葉を、ジムがあっさりと認めたものだから、更にシリウスは絶句した。こいつ、言うに事欠いて何をほざきやがる……!?
でもお前なんかにゃ教えてやらないね、と舌を出して下品に笑うところがジムもいい年こいてシリウスと似たり寄ったりである。何だとこの野郎!? やるかでくの坊!! と二人が服の袖を捲り上げたところで、外で様子を窺っていたハドソン夫人がはいはいそこまで、と止めに入った。この奇妙奇天烈な下宿人たちの喧嘩は日常茶飯事であり、自分の仕事を増やさないためにも仲裁は大切なのである。とっくに慣れたハドソン夫人は、息巻くシリウスをいいから仕事へお行きなさいと部屋から追い出した。彼は妻が死亡して以来、再び毎日朝食を取りにやってくるようになったのである。やはり幾ら強がっていても、寂しいのだとハドソン夫人は推測している。何故なら彼の料理の腕前は、なかなかのものであるから。
シリウスはかつてにも一度結婚したことがあった。だがその妻も病死してしまった。そのときも彼は自分の医師として持てる力を全て注ぎ込んだが、妻の容態は一向に良くならず、ならば根源的な治療をと食事の改革まで試みた。アジアの漢方料理まで取り入れ、しかもメイドにだけまかせてはおけんと自ら包丁を取ったのである。当時のシリウスは目の下に隈を作りながら『病は気から、住まいも木から』とわけのわからないことを呟いていていたというから、精神的にも完全にまいっていたのだろう。
だがシリウスの献身的な治療も甲斐無く、結局妻は亡くなり、再び彼はジムと同居を始めたのだった。
そしてまたも彼は妻に先立たれた。表面的には普通に振舞っていたが、その虚無的な心理をジムが見逃すわけは無い。シリウスはまず間違いなく、結婚運に恵まれていない。だったら結婚なんかしなけりゃいいのに、とジムはハドソン夫人にうそぶいた。だがそんな風に憎まれ口をききながらも、シリウスをいつも通り迎えてやるのは彼一流の思いやりなのだろう。やっぱり似たもの同士だと夫人は思ったが、本人たちは血相を変えて否定するのが目に見えていたので、黙って見守っていたのだった。
あんの犯罪ヲタクの偏屈野郎め、とシリウスは診療所に帰ってからも一人でジムに対して腹を立てていた。しかし幸いながら彼の観察眼を持ってしてもシリウスのお楽しみの相手が男か女かまではわからなかったらしい。あそこでハドソン夫人が止めに入ってくれたのは幸いだった。そうでなければ、喧嘩の合間にきっと迂闊なことを口走ってしまっただろうから。
「次!」
今日も機嫌の悪い医師に中年の看護婦はやれやれとため息をつきつつも待合室に並んだ次の患者を招き入れる。うちの先生は腕はいいんだけど、どうにも口が悪くてね、とは彼女の口癖である。だがそれでも患者が他所へ移ってしまわないのは多分、一応シリウスの人徳なのだろう。どんなに悪態をついても不思議と邪気が無い彼は、黙っていればさぞや女性患者が増えるであろういい男なのに。小柄で華奢だが元気者の奥様が亡くなられてからは、同情も込めた近隣の女性の視線が注がれまくっていることに本人は気付いているのやら。
その先生は普段もそうだが、今日は一段と機嫌が悪い。おかげで患者が無駄な口をきかないため、診察はひたすらスムーズに進んでいった。
実はこのときのシリウスはジムに対して確かに腹を立ててはいたのだが、それはあくまで対外的なもので、ついつい昨夜のことを思い出しては顔が緩んでしまうのを必至で取り繕っていたのである。昨夜シリウスは確かに酔っ払っていたが、記憶は完全に鮮明で、あーんなことやそーんなことや、あまつさえこーんなことなどつぶさに覚えていたのである。
診療が終わるとシリウスは看護婦の労をねぎらい、いそいそと二階の下宿へ引っ込んでしまった。これ以上平静を保っていられる自信が無かったのである。
シリウスは二日酔いの頭痛を押さえるために鎮痛剤を飲むと、早々とベッドに横になってしまった。それでも睡魔はなかなかやって来ず、彼は暗い天井を見上げながら、ぼんやりと昨晩の男のことを考え始めたのだった。
何でそういうことになったのかと言えば、酔っ払っていて、しかも誘われたから、とシリウスは答えただろう。彼はロースクールや大学の頃にそういった悪癖に触れたことがあったが、あれは周りに女がいなかったからであって、一過性のものに過ぎない。従軍していたときも彼に言い寄ってきた輩は数多くいたが、全員返り討ちにあわせたほどなので、ヘテロであることは確実だ。
だというのに、この有様である。せめて名前ぐらい聞いておけばよかったな、とシリウスは溜息をついた。昨晩は取って置きのワインがあるからと彼をここへ誘ったのだが、別段下心があったわけではない。むしろ下心があったのは向こうの方だろう。男とするのは久し振りだからとかそんなようなことを言っていた。あの尋常ならざる色気は一体何だったのだろうか。おかげであの世に行ってももうメアリーに顔向けが出来そうに無い。
でもすげぇ良かったなぁ〜と下品なことを想像して、シリウスは一人でヘラヘラと笑った。他人が見ていたらさぞや恐怖を覚えたことだろう。だがここにはもちろんシリウス一人しかおらず、彼はうっとりとした表情で一夜の恋人を思い出す。鼻にかかった甘い声、キスをねだるくちびる、とろけるような感触の……。
昨夜はそれはそれは熱い夜だった。勢いに任せて楽しんでしまい、休息でちょっと冷静になっていたシリウスだったが、また彼が甘えながら触ってとねだるので、つい流されてしまった。あのとき成人男性に対して可愛いなどと思ってしまったことが間違いであると今はもうわかっている。が、年齢不詳の相手は脱がしてみたら更に若い感じがして、シリウスがそう思ってしまったのも仕方が無かった。
しかしあれだけ飲んでよくまぁ勃ったものである。俺もまだまだ若いな、などと思ってしまう辺り、シリウスは確実に駄目人間であろう。
三度目はするつもりはなかった。彼がベッドに潜って出てこないので、身体を拭いてやっていたら、タオルに少し血が滲んでいたのである。どうやら久し振りだったから、通常男を受け入れるように出来ていない器官を傷つけてしまったらしい。これはいかんと軟膏を取り出したら、彼が恥らって嫌がったので、面白がってシリウスが塗ってやった。もちろんそれはわざとだったのだろう。案の定もう一回、ということになってしまった。
……彼は今ごろどうしているだろうか。シリウスは毛布をぎゅっと抱き締めて寝返りを打った。彼はシリウスが身体を拭いている間に着替えると、明日は朝から来客の予定があるからと笑顔で去って行った。疲れているだろうから泊まっていけと誘ったのだが、彼はそれをやんわりと拒絶した。仕方が無いのでシリウスは先ほどの軟膏を小分けにしたものを渡し、無理して具合を悪くしないようにと助言をすると、彼の乗った馬車が通りの向こうに消えるまでずっと見送っていたのである。
あ〜、やっぱり名前聞いておくのだった、と枕を噛んでももう遅い。一回抱き合っちゃってから今更お名前なんて〜の? とは言い難く、黙っていたのが徒になった。これでは探そうにも、どうにもできない。
こうしてシリウスは暫くの間、一人悶々と日々を過ごすこととなる。
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