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その再会を運命と呼ぶか偶然と呼ぶか、はたまた必然と呼ぶかは人それぞれだが、とにかくシリウスにとっては奇跡であった。
シリウスはあの日以来、足しげく例の酒場に通うようになった。バーテンもマスターも彼のことは何も知らなかったが、他にできることが無かったのである。しかもジムのあほんだらもここ最近は下宿から消え失せ、シリウスはすっかり暇になっていたのである。
そうして毎日せっせと通ううちに、神のめぐり合わせか悪魔の罠か、再び彼が現れたのだった。
「よ、よお!」
その姿が通りに現れたときから緊張しまくっていたシリウスは、なけなしの理性を総動員して彼が店のドアをくぐると陽気に声をかけた。かなりぎこちない動作だったが、幸い誰も気にしていないようだ。
「やぁ!」
彼は嬉しそうに片手を上げると、静かだが律動的な歩調でやってきた。そのまま極自然にシリウスの隣に滑り込んだのだから、やはり大した度胸だろう。ひょっとしたら単にこういった事態に慣れているだけかもしれないが。
「この間はありがとう。凄く楽しかったよ」
花が咲き綻ぶように微笑みながら、彼はそんなことを堂々と言い放つ。内容だけを取れば何てことはない普通の会話なのだが、バックグラウンドを知っているシリウスは一人で焦ってウィスキーの入ったグラスを落しかけてしまった。その慌てぶりが可笑しいのか、彼はくすくすと笑う。これがジムならばちょっと裏まで来いや、とガン垂れ合いにでもなるところだが、相手が彼だと全く気に触らなかった。それは単にシリウスの惚れた欲目だけではなく、彼には人を惹き付ける何かがあったのである。
多分それはジムと同類のものであろう。彼も偏屈ではあるが、やろうと思えば幾らでも社交的になって、人心を得ることが出来るのである。が、めんどいからやんないと言う点が実にジムらしいとシリウスは思うし、そんなキモチワルイあいつなんぞ見たくはないのであった。
それはともかく、こうして再会できたおかげでシリウスは彼の名前を知ることができた。
「ぼくはリーマス・J・ルーピンと言います。こないだは言いそびれてしまって……」
改めて宜しく、とリーマスがはにかんで差し出した手を、シリウスは思わず両手で掴みそうになってしまった。いかんいかん、それではただの変質者だ。
できるだけ自然に握手を交わすと、シリウスはもうずっと再会したら是非訊こうと決めていた話題を持ち出した。
「あ〜。……こないだの傷は、大丈夫だったか?」
「ああ、うん、おかげで」
流石はお医者だね、とリーマスは美味そうにビールを飲みながら言う。くちびるの上についた泡を舐め取るしぐさが犬科の動物を連想させて、妙に愛くるしい。とっ捕まえて頭をぐりぐりしてやりたい衝動に駆られたが、もちろんそんなわけにはいかず、シリウスは目を逸らした。
「熱とかは出なかったか?」
「大丈夫。まぁ、慣れてるから」
さいですか、とシリウスはあらぬ方を見て呟いた。慣れてるって、慣れてるってぇやっぱりそおゆうことなのかぁ!? などと心中穏やかではないのだが、リーマスはとんと気付かぬ様子である。もしくは、気付かない振りをしているのか。
ジム曰くエロガッパのシリウスは何気無い会話を交わしながらも、脳裏に今まで見聞きした知識の全てを総動員してお子様にはとても見せられないようなことを思い描く。慣れてるってこういうことですか!? もちろんあれとかそれとかこれもなんですか!?
こんなあどけない童顔をして、実はとんでもないやつなのだろうかリーマスは。思わずウィスキーの底に大胆な妄想を思い描いて、シリウスはむっつり黙りこくってしまった。もちろんそれが単なる想像に過ぎないことは百も承知だが、その想像が当たらずも遠からずだとはシリウスは知る由もない。
イケナイ妄想に一人で不機嫌になってきたシリウスを眺めながら、リーマスはテーブルの下で優雅に脚を組んだ。さっきからグラスの底を眺めているこの男は、一人で百面相をしているようだ。何やら段々グラスを持つ手が震えてきたし、額には脂汗が窺える。耳に残る良い声をしているし、見た目だって今までリーマスが見てきた中でも十指に入るほどなのに、このギャップが面白い。見てて飽きないひとだよな〜と、このときもリーマスは次にシリウスがどう出るか密かに楽しんでいたのである。
「そ、そうだ。もしこの後時間があるなら、ジムの下宿を見に来ないか?」
今ならあいつ留守だから、とぎこちなく笑うシリウスに、リーマスは首を傾げる。ジムって? と無邪気に問い掛けるリーマスは益々年齢が判然としない。何か初対面のときより更に年下に見えるのは気の所為だろうか。
「ああ、悪い。ホームズのことなんだ」
その名を口にするときリーマスの耳に囁くようにシリウスは声をひそめた。多分、今この酒場にいるのはほとんど地元の人間だろうが、いつどこで熱狂的なファンが耳をそばだてているかわからない。だからプライベートな時間は、二人はジムが勝手につけた愛称で呼び合うことにしているのだ。といっても住所は堂々と公開しているので、ファンならばそちらへ行くだろうが。
シリウスとしては多分リーマスも本当はジムの方に興味があって、その助手ということに世間ではなっている自分に声をかけたのだろうと思ったのだ。多少残念だが、リーマスが喜ぶことをしてやりたいと思うのが人情である。そうすりゃシリウスに対するお株もあがるってもんよ小作戦。しかしそんな子供じみたシリウスの希望はあっさりと却下されてしまった。リーマスは眦を下げて微笑んだが、横に首を振って見せたのだ。
「せっかくだけど、やめておくよ。彼に用が出来たら、直接会いに行くから」
「そ、そうか……」
そうだよな、と笑ったシリウスだったが、無理をしているのはバレバレで、やっぱり面白いひとだなぁとりーマスは微笑んだ。この手のタイプは今までリーマスの周りにはいなかった。なるほど、かのホームズ氏が助手として側に置きたがるわけである。見ていて楽しい、話して楽しい、触っても楽しいのだから、最高である。まぁ、ホームズ氏には三つ目は関係無いだろうが。
先ほどより元気に欠ける様子で自分のグラスにウィスキーを注ぐシリウスに、リーマスはそれより、と耳を貸すよう指で示した。
「ぼくとしては、君の家にこそ招待してほしいのだけれど……」
親しげに低く囁いてから、リーマスはテーブルに肘杖をついて先ほどと違った種類の微笑を向ける。一瞬きょとんとしたシリウスだったが、突然背筋を正すと僅かに身体を傾けて、横目でテーブルの下を覗き込んだ。テーブルクロスで隠れているため分かりづらいが、リーマスの脚がシリウスの脚に触れている。むしろ密着していると言ってもいいだろう。そして当の本人といえば、先ほどよりも更に妖しさを増した微笑を閃かせつつ、小指で自分のくちびるを撫でている。これではもともと彼に惹かれまくっていたシリウスなどひとたまりもないだろう。案の定シリウスはこほんとわざとらしい咳をすると、
「丁度、珍しいワインといいチーズが手に入ったんだ」
嘘である。夢にまで見た『いつか』のために、歩き回って仕入れたのである。その労は正しくねぎらわれようとしている。
リーマスはそうと言ってにっこり笑うと、
「本当に、偶然会えてよかったよ」
それを機に二人は席を立ったが、後日この会話をシリウスは一人思い出すこととなるのだった。
一度ならばはずみということもあるだろうが、二度目があったらもう言い訳は通用しない。しかも自ら望んで三度目を受け入れたら、もう完璧に本人の意思である。そしてこの頃のシリウスことドクター・ワトスンは、人生における最大の幸福の中にいた。
再会を果たした二人は、オ互イニ激シク心モ身体モ求メ合ッテシマイマシタ。妻を看取って以来すっかり腐っていたシリウスは、突然現れたリーマスにメロメロになっていたし、リーマスもリーマスで、大層シリウスが気に入ったようである。彼は仕事帰りだとかでよく夜にシリウスの診療所にやって来た。
リーマスは絶世の美貌というわけでは決してない。だが彼は時と場合によってガラリと雰囲気が変わり、シリウスを惹き付けてやまない。更には幼さが残る容貌にもかかわらず、この世に氾濫する快楽の全てを網羅したとでもいうような妖艶さが堪らなかった。リーマスも今まで付き合った中で君ほどの人間は居ない、と断言したほどである。いやぁ、それほどでもぉとシリウスなどは照れてしまうが、彼は本気であるらしい。
この頃シリウスがジムに会う機会は以前に比べ激減していたが、そもそも本人がいないのだからどうしようもない。どうも今回の事件は国際的なものが関与しているらしく、いつになくジムは忙しそうだ。その合間に会っても、彼は平然と、
「ちょっとリリーに贈り物を届けに、ね」
などとうそぶくのだから仕方がない。
因みにリリーと言うのは、勝手にあだ名をつけるのが趣味のジムが、普段は『あの人』と呼ぶ美貌のプリマ・ドンナに付けた愛称である。天上の歌声と評される彼女の本名は、アイリーン・アドラーという。
「いやぁ、バルカーレーンは実に素晴らしかった。未だかつてあれほどおれを感動させた歌は皆無だよ!」
芝居気たっぷりにオーバーリアクションで感動を表現するジムを、シリウスももう相手にはしない。鼻をほじりながら、
「へぇ、そう」
と言ったらジャックナイフが飛んできた。拳銃を投げつけて応戦してやったら、後になって二人してハドソン夫人に説教を喰らった。以後、緊急の場合を除いて、室内での飛び道具の使用が禁止されたのは、当然のことであったろう。
何しろジムはたまに帰ってきたと思ったらそんななので、もうシリウスも相手にするのをやめてしまった。実はジムが今手がけている事件がかなり気になっていたのだが、下手に出るつもりなどは毛頭無かった。そんなことより、リーマスといちゃこいてる方がずっと楽しいもんねー! というわけである。
ジムもシリウスが新しい恋人を見つけたらしいと知って、勝手にしろやと決め込んだらしい。だが流石に一週間ほどリーマスの邸宅にお呼ばれしていたシリウスが、7ポンドも体重を落して幸せそうに帰ってきたときは、インキュバスでも憑いているのではないかと嫌そうに言ったものである。
「うるせぇ莫迦」
「莫迦はお前だ、色情魔!」
そんな会話でお互いの健在を確認しあうと、再び銘々に行動し出すのだから、結局仲はいいのである。むろん、本人たちは認めないが。
シリウスの完全犯罪は、恙無く進行した。それにはリーマスができるだけ多くの人に目撃されないように、こっそりとやって来てくれることも一役買っていた。かくれんぼみたいな逢引きは面白くて、二人は良く笑い合ったものである。それでも計算外が無かったわけではなく、ある夜リーマスが訪ねて来ており、さぁこれからがお楽しみ、というときになって急患が診療所の門を叩いたのである。
患者は夫婦喧嘩の際に家を飛び出しかけて、階段から転げ落ちた近所の顔見知りだった。打撲などは大したことはないが、階段にぶつけたのか額がパックリ割れている。顔面は血管が多く通っているために、大した怪我ではなくとも出血が凄い。そのため驚いた奥さんが慌ててシリウスを呼びにきたのである。こうなっては往診に行くしかないだろう。
「ったく、仕方ねぇな〜」
ぶつぶつ言いながら鞄を手に取ると、シリウスは悪いがちょっと待っててくれとリーマスに頼んだ。彼は構わないよと言って笑い、
「じゃあ、ぼくはベッドの中で待っているかな」
もちろん服を脱いでね、と囁くと、リーマスはくすくす笑って寝室に消えたのである。おかげで俄然やる気となったシリウスは、夜間にはありえない速さで治療を施すと、夫婦喧嘩は犬も食わねぇんだから、いいかげんにしとけよと言い置いて、診療所にすっ飛んで帰ったのである。
額の傷は十二針を縫うほどのものであったが、この日のワトスン先生はゴッドハンドだったよ、と後日その夫婦は語ったものである。
事態が急変したのは、四月のことだった。いい加減そろそろ事件のことを話してくれてもいい頃だと、長くも無い堪忍袋の尾をついにシリウスが切らし、ベイカー街の下宿を訪ねたのがその発端だ。
呼び鈴を鳴らすと、いつも通りハドソン夫人が出迎えてくれた。今丁度お客が来ていると彼女は言ったが、それはよくあることなので、シリウスはいつも通り17段の階段を上がり、扉の前に立った。ノックをすれば、入室可能かジムが判断するだろう。だが振り上げた拳は中空で止まることとなる。
「ワトスン、入りたまえ」
シリウスがノックをする前に言い切ったジムの声は、普段の軽いものではない。シリウスを本名で呼んだからには、正式な場ということだ。ならばシリウスもそれなりに振舞うのが常である。
シリウスは大きく息を吸うと、真鋳製のノブをゆっくりと回した。いつも通りだったのは、そこまでだった。
「お話中失礼」
そう言って入室した途端、シリウスは硬直した。目の前には立ち上がったジム。その斜め後ろの椅子に優雅に腰を下ろしている客が、彼の目を奪ったのである。
「……リーマス?」
応えは無い。それどころか、彼はシリウスに一瞥もくれず、鋭い視線をジムに向けている。その表情はシリウスが一度も見たことが無い永久凍土を思わせる冷酷さで、本人であることはわかっているのに、よく似た他人だと思わずにはいられなかった。
ドアの所に立ち尽くして戸惑うシリウスに、ジムは機械的な声をかける。
「ワトスン、こちらはモリアティ教授だ」
モリアティ? そんな男は知らない。ならばやはり他人の空似だろうかとシリウスが戸惑いの表情を見せると、初めて不敵な来客に表情が生まれた。彼は底なしの悪意を込めた艶笑を口許に閃かせたが、虚無の深淵を垣間見せる眸に感情は無かった。
「……悪いが、わたしはこれで失礼するよ」
そう言って立ち上がったモリアティの声は紛れも無くリーマスのもので、シリウスは困惑して二人を交互に見やった。
モリアティは気品すら感じさせる動作で帽子とステッキを取ると、悠然と部屋を立ち去った。その間シリウスなど一顧だにはせず、そこにあったのは完全なる無関心であった。取るに足らない人物に対しては指一本動かさないといった傲慢さを隠すことなく立ち去った男は、シリウスの知るリーマスではない。リーマスであるはずが無い。
しかし残念ながら、とジムは首を振った。
「彼はお前の恋人と同一人物さ」
全くやってくれるよ、という呟きはシリウスではなくリーマスに向けたもの。どういうことだと説明を求めたシリウスに、気の毒そうな視線をジムは向ける。
「どうもこうも無いね。あいつはこの大英帝国最大の犯罪組織のトップで、今おれが駆けずり回って解決に導こうとしている事件の黒幕さ」
ここ数ヶ月ジムはフランス政府の依頼を受けて、とある調査を行っていた。そしてあの男に行き当たったのである。
「以前から耳にしていた名ではあった。だが、かの教授は見事なものだよ。まるで正体を表わさない。このおれですら、『モリアティ教授』という架空の人物を複数の人間が作り上げ、演じているのではないかと疑ったほどだ」
だが真相は違った。犯罪界のナポレオンは、実存していたのである。そして今日、二人の天才は初めて対峙した。
黙ってジムの話を聞いていたシリウスは、だがすぐに憤懣やるかたない口調で、
「そんな莫迦な。だってあいつはもうずっと俺と付き合ってたんだぞ。そのモリアティだかがいるとしてもだな、あいつってのは何かの間違いだろう」
完全犯罪を目論んでいたシリウスだが、どうやらとうにジムにはバレていたようである。ならば隠し立てするだけ無駄だ。
しかしジムは肩を竦めて見せると、
「彼本人から聞いたんだから、本当だろうよ。お前、こないだの逢瀬でキャンディを中に……」
その言葉はぎゃーというシリウスの悲鳴でかき消されてしまったが、それで充分だったのである。もちろんそんな赤裸々なお話はシリウスとリーマスしかあずかり知らぬことである。ならば彼はやっぱりリーマスで、しかも平然とそんなことをジムに話してしまったらしい。前々からちょっと倒錯傾向があるとは思っていたが、そこまでとは知らなんだ。キャンディを持ち出したのもリーマスだし、とてもよがっていたのも事実である。ぎゃー、何ちゅーことをあいつはぁぁぁ!
一人で混乱するシリウスはどこか論点をずらしてしまっているが、要は現実逃避の一種である。その彼が落ち着くのを待ってジムの説明は再開された。
曰く、近年にこの国で起こった犯罪の半分にはリーマスが関わっており、迷宮入りになったような事件はほぼ彼の手になるものだろうということ。どうにか魔の手は逃れているが、ジムはここ最近で何度も襲撃を受けたこと。そして多分これがお互いにとって最大にして最後の事件となるであろうことを、むしろ淡々と告げた。
「それを悟ったからわざわざ決戦の前にご本人自ら出向いてきてくれたんだろ。向こうはおれの顔を知ってるが、おれは向こうの顔を知らない。ゲームをフェアに進めたいとでも思ったのか、それとも……」
自己の能力に対する絶対の自信の表れか。どちらにせよ面白い、とジムは呟く。このホームズに面と向かって剣を突きつけた、犯罪の天才。ならば全身全霊をかけて受けて立とうではないか。そうでなくては、危険を承知でわざわざ正体を表わした先方に失礼というものだ。
我知らず幽鬼めいた微笑を浮かべるジムに、シリウスは戦慄を覚えた。こいつは本気だ、と。多分もうどちらかの天才が失われることは、決定された事項なのだろう。彼らはお互いが消え去るまで、戦いを止めることは無いだろう。先ほどのリーマスの様子は、現在のジムに酷似している。ならば結末はわかりきったものだ。
「おい、莫迦なことはよせよ……」
それでも尚シリウスはそう言わずにはおれない。彼にとってはリーマスもジムもかけがえの無い存在である。その二人が命がけのゲームに挑もうなどというのに、笑って見ていられるわけが無いではないか。だが反面もう何を言っても無駄だということも彼は知っていた。賽はすでに投げられており、ゴールに辿り着くまで二人が歩みを止めることはありえないだろう。ならばいつか必ずどちらかが失われる。あるいは、どちらも……。
しかしシリウスの危惧を他所に、ジムは狂気の微笑を口許に浮かべて言った。
「大丈夫だよ、シリウス。おれを信じてくれ」
「できるか、そんなもん」
何に対してか怒りを含んだ返答が得られると、今度こそジムはいつものように苦笑して見せたのだった。
それ以来、シリウスがリーマスと会うことは無かった。彼は忽然と姿を消したのである。
考えてみれば、リーマスが人目を避けてシリウスの元を訪れていたのは、彼らの行為が法に反するからだけではなく、ジムの目を避けるためでもあったのかもしれない。きっとシリウスを介して自らジムの情報を仕入れようとしたのだろう。それにしては、ジムがいないときに下宿へ行こうと誘ったとき、彼はすぐに辞退した。あれはやろうと思えばいつでもできるという自信の所為だったのか。
リーマスが消えて以来、シリウスはめっきり口を利かなくなった。いつもの憎まれ口すらほとんど出てこない。またジムも再びどこかへ消えた。このときシリウスはひたすら深刻な自問自答を繰り返していたのである。来るべきときが来たら、果たして自分はどちらに付くべきか、と。
答えは初めからわかっていた。もちろんジムにつくべきなのである。あの後教えられたリーマスの正体は、シリウスを愕然とさせた。ましてやジムは十年来の親友だ。
だがそれでもシリウスにはあの幼さの残る屈託の無い笑顔のリーマスと、悪辣非道のモリアティ教授が同一人物とは信じがたく、できることならいっそ自分の方が消えてしまいたいとすら思ったほどだ。
そうして彼は二人の天才のために心から祈る。どうか無事であるように、と。それは我ながら矛盾したものであるとわかっていたが、仕方のないことだろう。彼にとって最も望ましい結末は、モリアティがジムによって逮捕され、生涯を監獄の中で暮すにせよ、二人がともに生きて帰ること。
けれどそれが不可能なことは自明の理であり、シリウスはただ口をつぐんで事が推移していくのを見守ることしかできなかったのである。
そして訪れた崩壊の5月4日。
全てはライヘンバッハの滝壷の中へと飲み込まれたのだった。
シャーロック・ホームズの訃報はすぐに全ヨーロッパへと広がり、また同時に犯罪界の帝王モリアティについての情報も広まった。ホームズの最後にして最大の功績として称えられる一連の逮捕劇は、シリウスがスイスから懐かしの我が家へと帰りつく前に終息した。だがこの時期のシリウスは、親友と人には言えないが恋人を同時に失ったショックでほとんど廃人同様であり、この後の三年間を彼は無為に過ごすこととなった。
後年この三年間は、一部の人々によって『大空白時代』と呼ばれることとなる。
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