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 あの事件から三年の月日を経て、漸く人生に踏ん切りをつけたシリウスは、街医者として働く一方で、監察医という職業にもついていた。
 ライヘンバッハ以後の彼はひたすら働くことを望み、思考の暇を拒否しつづけた。始めの内は自分の診療所で馬車馬のように働きつづけていたが、それが軌道に乗り始めると、何かもっと自分を追い詰めたくなったのだ。ただでさえ無口になっていたシリウスは、彼を心配する人々の言うこともほとんど聞かず、やることを探し始めたのだ。そこへ話を持ちかけたのは、レストレイド警部である。彼はどうやらホームズが直接モリアティ教授と対決せねばならないことに至った原因を、自分たちヤードの能力不足の所為と思っていたらしく、ずっと後悔していたらしい。そしてホームズ亡き後も毎日新聞全紙に目を通し、気になる犯罪記事をスクラップしつづけているドクターに、この職を薦めたのだ。
 この仕事はシリウスにとっても願っても無い機会であった。例えジムがいなくとも彼はやはり犯罪に対して多大なる興味を持っており、すぐにレストレイドの話に乗った。
 そうして過ごす内に、とんでもないことが起こったのである。というのも何と、かのモリアティの実の兄と名乗る同姓同名のジェームズ・モリアティ大佐なる人物が、弟の名誉を挽回すべくスイスのある新聞に投書を行ったのだ。
 この事態にシリウスは大して驚きもせず、むしろこんな姑息な手を用いらねばならないほど弱体化した犯罪組織に同情すら感じたほどだ。大英帝国最大の犯罪組織も、ここまで堕ちたものか、と。それこそがジムの功績を示す良い例ではないか。
 だがその考えもある日知り合いのホームズフリークにして新聞記者の知人が持ってきた一枚の写真によって一変する。それは自称モリアティの実兄の写真で、大して興味も無さそうに受け取ったシリウスは、目を丸くして思わず叫んだのだった。

「だ、誰だこりゃあ!?」

 写真に写っていたのは、数年前の大佐の姿であった。中背ながらも軍人らしいガッシリとした体躯、異様な輝きを見せる鋭い目。酷薄そうな薄いくちびると、やたらに目立つ鷲鼻。何処をどう見ても明らかにあのリーマスと血縁関係にあるとは思えない。ぜってー子連れで再婚したか何かの、血の繋がりの無い兄弟だ! とシリウスは一人で興奮してしまったものだ。
 うぉのれ、こんなどっかのイカレ帽子屋みたいな容貌でリーマスの実兄を名乗るとは何と腹立たしい! リーマスはもっと愛嬌のある顔立ちで、くちびるは薄いかもしれんがこんなへの字じゃなくって、身体つきだって華奢でいーかんじなんだー!! と病みまくったことを考えたシリウスは、記者の知人が薦めるままについにかの事件について筆を取る決心をしたのである。

「ふざけんなあの野郎、目にものを見せてやる!」

 そう決心したシリウスの行動は早かった。あっちゅー間に原稿を仕上げると、いつもの出版社へ連絡を取り、できるだけ早くに本を出すよう迫ったのである。そうして出版にこぎつけた本のおかげでジムの名誉は復活し、モリアティの悪逆無道は完全に定着した。ただ、この際シリウスはいっそのこととモリアティの容姿に関する記述は、自称兄の写真を見つつ書いたので、世間ではそっくり兄弟と思われるに至ったのである。






「けっ! ざまぁみろ!」

 今日の朝刊に目を通しながらシリウスが中指おっ立てつつ勝ち誇ったように言ったのは、相も変わらず天気の悪い早朝のこと。今日は午前中の診療を中止して、検死結果を裁判所へ報告に行かねばならない。一昨日変死したアデア卿の事件は、シリウス自身も非常に興味がある。
 さんざん大佐に対して悪態をついてから、シリウスは慌しく裁判所へ向かった。ここでの証言はすでに慣れたもので、犯罪に造詣の深いシリウスの証言はかなり信頼されている。それでも彼に捜査権は無く、こんなときは本当にジムのやつが生きていたらさぞや喜ぶだろうにと、人生最大の悪友のことを思い出すのだった。
 それでふとシリウスはあることを思いついた。そうだ、今日は午後の診療を早めに切り上げて、現場を見に行こう。それからついでにハドソン夫人の様子も見に行くことにしよう。そう決めるとシリウスは、さして進展の無い事件の概要陳述がさっさと終わるよう、検察側に対して睨みを利かせたのだった。






 突然だが、シリウスは何しろ医者なので、科学と理性の信奉者である。だから友達がこけて怪我をしても、いわしの頭を地中に埋めたりはしないし、夜中に神社でわら人形に五寸釘を打ったりはしない。彼が信じるのは理論と経験であり、他人の推測や楽観的希望に踊らされることは極少ないのである。その上アフガンに従軍したりしていたものだから、もう極大抵のことには驚かないような精神力の持ち主でもあった。そんな彼が卒倒するに至ったのは、下記のような事情からである。
 予定通り午後の診療を早めに終えたシリウスは、アデア卿の家を見に出掛け、その足で懐かしの下宿へと向かった。野次馬に紛れて現場を見上げていた彼は、背後にいた老人にぶつかってしまい、かなりの文句を言われたものの、それを特に気にするでもなくいつものベイカー街221Bの下宿へと向かったのだ。
 ハドソン夫人はいつも通り嬉しそうにシリウスを迎え、お茶を入れるから部屋で待っているよう言って彼を通してくれた。かつてジムの訃報を耳にした彼女は、相当のショックを受けたらしく、一時寝込んでしまったほどであったが、最近では以前の元気を取り戻したようでシリウスも嬉しかった。
 こうして時は進んでいくのである。いつまでも過去に捕われているわけにはいかない。
 それでも昔と何一つ変わらない下宿の居間に入ると、ジムがもうこの世にいないなどとは信じがたく、シリウスは何気無く暖炉の上の二人の写真を眺めた。まだシリウスが診療所を開いていなかった当時の写真だ。その中で二人は不敵な笑みを浮かべたまま、現実のシリウスの方を見つめていた。
 やっぱ寂しいのかな、とシリウスがしんみり考えたときだった、ハドソン夫人が焼きたてのスコーンと紅茶を載せたトレイを持ってやってきたのは。それどころか、彼女は来客を告げたのである。

「来客? 俺に?」

 今日の予定を誰かに話した覚えは無いのだが、としきりに首を傾げるシリウスは、とりあえず客を通すように頼んだ。ここへ来るのを誰かが見ていたのだろうか。

「これはどうもどうも」

 そんなことを呟きながら部屋へ入ってきたのは先ほどの老人だ。手には商売道具らしい本を何冊も抱え、汚い身なりを気にする様子も無くズカズカとやってくる。何でも先ほどあまりに無礼なことを言ったので、謝罪にきたのだとか。だがシリウスはそんなことには興味が無く、せっかくのスコーンが冷めてしまうことばかりが気がかりで、もういいからと彼は手を振って老人を追い払おうとしたのである。
 だが世の中はままならず、トレイを持ってかつての自室に逃げ込もうとしたシリウスの背後から、突然闊達な笑い声がしたのであった。

「はっはっは、相変わらずせっかちだねぇ、シリウス」

 揶揄を含んだその声に、シリウスは思わず振り返る。そして目の前には、みすぼらしい格好の、だが老人ではなく良く見知った人物が立っていた。

「ホ、ホームズ……」

 そう呟いてシリウスはトレイをテーブルに置くと、勝ち誇ったように腰に手を当ててふんぞり返るジムを上から下まで眺め回した。
 通常死んだ人間は生き返らず、ジムが死んだのは事実であり、科学が霊魂を呼び戻す方法を発見しない限り彼が戻ることはありえない。ならばこの目の前にいる人物は偽物かシリウスの妄想であり、だが偽者にしては行動や喋り方が似すぎている。ましてや幾ら何でも一卵性双生児でもない限りは、ここまでそっくりな人間は世界中を捜してもいないだろう。そしてもちろんジムに双子の兄弟はいない。
 では幻覚か妄想かということになるが、シリウスは自分がまともであることをちゃんと自覚している。ならばそれは本人ということで、科学を信奉するシリウスは事態の異常さに脳みそがショートを起こし、アホみたいに口を開けたまま仰け反ると、後ろに向かって倒れこんだのだった。
 フェードアウト。






 その間シリウスは何か奇妙極まる夢を見ていたようだ。彼はうんうんうなされながら、額に肉って書いちゃおうかとか、それより瞼に目玉の方がいいとか、そんな会話をどこか遠くに聞いていた。
 ああ、もう、うるさいな、とそんなことを考えながら急速に覚醒した意識の中で、シリウスは誰かが自分の髪を撫でているのに気が付いた。ああ、メアリーが起きろって言ってるんだ、と彼は働かない頭で考えると、今起きるよと呟いた。

「今、凄く変な夢を見てたんだ……」

 夢見半分でそんなことを呟くシリウスに、メアリーはどんな夢? と優しく問い掛ける。低い声が耳に心地良く、シリウスは再び睡魔が忍び寄るのを感じた。

「ジムが、死んだはずなのに地獄の底から甦って、本を抱えて叩き売りしてるんだ……」

 多分自分でも何を言っているのかよくわからないのだろうシリウスの耳に、くすくすと忍び笑いが聞こえる。それは大変だったね、と囁きかけるメアリーの手は尚も慰撫するようにシリウスの髪を撫でていた。

「でももう大丈夫。ジムは今、ハドソンさんを介抱に行ってるから」

「……ジムが介抱!?」

 漸く何かおかしいと気付いたシリウスは、驚いて飛び起きると、寝椅子に横になっている自分を、絨毯に膝を付いてきょとんとして見つめる人物を凝視した。あどけなさの残る年齢不詳の顔、艶やかな鳶色の髪、薄いほどの痩身。どこからどう見てもそれはジムと共にライヘンバッハの滝壷へ消えたはずの、ジェームズ・モリアティことリーマス・J・ルーピンだった。

「ぎゃあああああー!!」

 腹の底から搾り出した悲鳴を上げると、シリウスは寝椅子から飛びのいた。意表を突かれているリーマスから慌てて距離を取ると、窓に背中を貼り付ける。

「り、りりり、リーマスの幻覚が見える! ああ、おれはもう駄目だメアリー!」

「ちょっとシリウス、落ち着いてくれよ。ぼくだよ、正真正銘のリーマスだってば!」

 だがシリウスは聞く耳持たず、寄るな触るな近寄るなこの化物め、父と精霊の御名においてサタンよ退け、アビラウンケンソワカ〜とわけのわからないことを叫びつつ、窓を慌てて引き上げる。それにギョッとするリーマスを他所に、彼は窓枠に手足をかけると、

「助けてくれー、悪魔が俺に押し売りを〜!!」

 などと叫びつつ飛び降りようとするのだから堪らない。丁度そのとき声を聞きつけて現れたジムがシリウスの背中に飛びついて、窓から引き剥がそうと試みた。その間ついに怒ったのかむっとした表情のリーマスは右手を上げると、手刀をトンッとシリウスの頚椎に振り下ろした。するとどういうわけかシリウスは再び白目を剥き、ふにゃふにゃと床に倒れ込んだのだった。
 またもフェードアウト。






 何か柔らかいものがくちびるに触れている。そんなことを思いつつシリウスは再び意識が覚醒するのを感じた。ああ、これはリーマスがちゅーをしているのだなと気付いて思わず総合を崩す。できればもう少しこうしていたいが、あんまり調子に乗ってると舌を噛まれてしまうのである。ガブッと、そう丁度こんな風にガブッと……。

「いっでえ!!」

 舌を噛まれたためか妙なアクセントで叫んでシリウスは目を覚ました。目の前には悪夢が二つ。むしろ悪魔が二人。

「あ、起きた」

 そんなことを呟いたのはリーマスにそっくりの悪魔だ。彼はにこにこと笑いながら、ジムにそっくりの悪魔を振り返る。するとジムにそっくりの悪魔が進み出て、どういうわけか身動きの取れないシリウスの口に、何かもそもそしたものを突っ込んだ。

「ふんがごっごっ!?」

 吐き出そうにも塊が大きく、口がうまく動かない。しかもよく見てみれば長椅子に縛り付けられているので、腕を動かすことも不可能である。

「まぁまぁ落ち着けって。大丈夫、それはハドソンさんが焼いてくれたスコーンだから」

 ジムデーモンがニヤニヤ笑いつつ自分もスコーンにかぶりつく。見ればサタンリーマスも幸せそうにスコーンを咀嚼しているではないか。実際ハドソン夫人のお菓子は美味しいのだが、そんなものを味わっていられるほど今のシリウスには余裕が無い。それでも冷静さを取り戻した彼は、大人しく悪魔たちの動向を見守っていたのだった。

「さて、お前にゃ信じ難いだろうが、今ここにいるおれもリーマスも正真正銘本物のホームズとモリアティだ」

 わかるな? と返答を促すジムデーモンに、とりあえずシリウスは頷いてみせる。

「じゃあ、次にお前はおれたちは死んだはずだと思うだろうが、実は死んでない。滝にも落ちてない。おれたちは共謀して、死んだことに見せかけたんだ」

 ここで漸くスコーンを飲みくだしたシリウスは、キッと二人の悪魔を睨み付けると、

「ちょっと待て! 例えばお前等が本人だとしてもだな、どうして死んだことにしなきゃならなかったんだ!? 第一、今になって急に戻ってくる理由が無いだろうが!!」

 しかしシリウスの反論に、二人の悪魔は笑って真相を明らかにしたのだった。
 曰く、死んだことにした理由。

「その方が面白そうだったから」

 曰く、突然戻ってきた理由。

「そろそろ遊ぶのにも飽きちゃってさ〜」

 二人は顔を見合わせてカラカラと笑う。だってさ〜、人気の絶頂期に本人が死んだってことにしたら、世間がどう騒ぐか面白そうじゃねえ? いい加減犯罪界もつまんなくなっててさ〜、頼りにするばっかりで、誰も何も考えないんだもん。リリーは泣いてくれたかなぁ? それにさ、モリアティのままじゃ、シリウスとお付き合いできないじゃん? そしてあはははーという笑い声。
 だがもちろん世間一般の人間がこれに納得してくれるわけはなく、一応常識人を自認するシリウスは、わなわな震える身体を制御することもなく、

「ふざけんなー!」

 そう叫ぶと、吃驚している二人の悪魔に向かって、延々二時間の説教に及んだのだった。












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