■□■ DEVIL □■□






「アキラ」

 入り口から源泉が声をかけると、仕上げの柔軟体操にかかっていたアキラが振り返った。

「オッサン」

 体操を手伝ってくれていた少年にも手を挙げ、源泉はジムの二階にある会長室を顎で示す。アキラも頷き、再び体操に取り掛かった。
 ここはニューヨークの一角にあるボクシングジムだ。源泉の仕事の都合で渡米してから三週間目のこと。まだ外国生活も英語も不自由なアキラに、友人の経営するボクシングジムを紹介したのは源泉だった。
 もともとニホンで英語の勉強はしていたが、実際に生活するのとでは大違いだ。やはりヒアリングが難しいのか、未だアキラは日常会話も流暢とは言いがたい。何しろあの寡黙ぶりでは、上手くなるものもならないだろう。せめて同世代の友達でもできれば。そう考えた源泉は、社会勉強と称してアキラをジムへ放り込んだのだ。
 ジムの二階にある会長室の扉は開け放たれていた。ノックするまでもなく、何やら帳面を持ってうろうろしていた会長が源泉に気付いて入ってくるよう合図した。

「モトミ! 待ってたんだぞ」

 大げさな、と思いつつも源泉は友人のハグを受け、同じように背中を叩き返した。源泉と同世代の黒人の会長は、かつて世界戦に挑んだ経歴を持つ元ボクサーだ。会長は源泉の肩をバンバン叩きながら、

「お前さん、アキラを俺に預けてみないか?」

 会長の言うには、アキラは百年に一人の逸材で、育て方次第では世界も望める選手になる、とのことだった。まだ入門一週間目だが俺にはわかる、と力説する会長から源泉はさりげなく目を逸らした。
 アキラが強いことは源泉も充分知っている。だからこそ、得意分野で友人を、と若者の多いここへ入門させたのだ。だが、プロになるわけにはいかない。いくら才能があったところで、有名になるわけにはいかないのだ。

「いや、あいつは駄目なんだ。実はニホンにいたころ、ヒザガシラムズムズ病にかかってな。医者からスポーツはたしなむ程度にと言われているから」

「莫迦言うな! あれだけの逸材だぞ、みすみす埋もれさせるなんて……」

 興奮した会長がブロンクス訛りでまくし立てるのを聞き流して、源泉はジム内を一望できるようになっている窓辺に寄った。
 ふと、違和感を覚える。何故だろう、階下の練習場に、練習生の姿が見えない。もちろんアキラの姿も。どうしたことかと視線をやると、奥にあるとロッカールームへの出入り口に人だかりができている。あそこは確か、シャワールームと併設になって……。
 血の気が引くのを感じる前に、源泉は会長室を飛び出していた。

「アキラ!」

 野次馬を蹴散らして源泉がロッカールームに飛び込むと、そこは修羅場と化していた。リノリウムの床に倒れ伏してピクリとも動かぬ練習生たち。そして地獄絵図の中に立ったアキラの姿。

「アキラ、大丈夫か? 怪我は?」

 駆け寄った源泉にアキラはいつもどおり冷静な視線を寄越した。

「……別に、大丈夫だ」

「そうか、それならいいんだが」

 ホッと胸を撫で下ろした源泉は、だがすぐにはっとして振り返った。そこには源泉のあとを追ってきた会長が立っていて、あろうことか更に興奮した様子で二人を注視していた。

「モトミ、やっぱりアキラを俺に預けてくれ!」

「や、それは無理だから! ヒザガシラムズムズ病は不治の病だからっ!!」

 じゃあ俺たちはこれでっ、と強引に源泉はアキラを連れてジムをあとにしたのだった。






「……怒らないのか?」

 呟くようにアキラが問いかけたのは、帰りの車の中でのことだった。運転席に座った源泉は横目でアキラを見ると、

「どーせ、向こうがろくでもない悪さしようとしたんだろ」

 アキラが無意味に手を出すわけが無い。ならば、彼をキッドだのお譲ちゃんだのと揶揄していた連中が、身の程知らずにも悪さを仕掛けたのだろう。それが喧嘩だったのか、それともこの『不機嫌な美人』に手を出そうとした結果だったのかはわからないが。

「にしても凄かったな。血溜りできてたぜ」

 まず間違いなく、何人かの鼻は折れていた。あえて冗談口調で話す源泉に、前を向いたままアキラはポツリと言った。

「……男は自分より強い力に容易に屈服する。自己の優位を保つためには、力を見せ付けること」

 おそらくそれは戦時教育で教わった言葉だろう。このときほど源泉が戦時教育を呪ったことは無い。子供になんてことを教えやがるんだ!

「あー……。俺が悪かった。無理にジムに通わせて。もう好きにしていいから」

 源泉の言葉に今度こそ振り返ってアキラは彼を見つめた。あの大きな目で見つめられると、後ろめたいことが無くても気が動転してしまうのに。思わずドキドキする源泉からアキラは再び目を逸らし、

「俺はアンタがいればいい」

 物凄い台詞に思わず急ブレーキを踏んだ源泉を、驚いたのかアキラが睨み付けた。

「俺は別に友達なんか欲しいと思わない。知り合いもいないわけじゃない。なら、親しいのはアンタ一人で充分だ」

 ……どうやら本気で他意は無いらしい。それが残念なような、アキラらしくて微笑ましいような複雑な気分を押し込めて、源泉はわざとらしく空せきをする。後続車のクラクションを無視して車を発進させた。
 アキラはもう何も言わず車窓を眺めている。彼は口数は少ないが、頭の回転は速い人間だ。どうやら源泉の保護者ぶった思惑に気付いていて、それでも何も言わずに付き合ってくれていたらしい。彼なりに気を使ったのかもしれない。結局失敗してしまったけれど、源泉はそれが嬉しかった。

「……アキラ」
 ひどく優しい呼びかけにアキラが振り返ると、源泉は前方を見たままにんまりと笑っていた。

「帰ったらオムライス作ってやるよ」

 咥え煙草でにっと笑いかけた源泉に、照れ隠しかアキラは不機嫌な表情を更に深めた。






「……俺はデブか?」

 突如アキラがわけのわからないことを言い出したのは、仕事帰りに待ち合わせたときのことだった。彼がジムをやめてすでに四日が経過している。
 その台詞には源泉でなくとも目を丸くするところだろう。どちらかといえばアキラは痩せすぎで、彼がデブならスマートと言えるのはマラソンランナーか拒食症の人間だけだ。
 唖然として答えられない源泉と並び、歩くようアキラは促しながら、

「さっき、そこでジムのやつに会った」

 ジムとは例のジムのことだろう。あれ以来アキラは顔を出していないが、一人だけ彼と打ち解けていた同世代の少年がいたそうだ。柔軟体操を手伝っていた少年だろうか、と源泉は首を傾げる。
 源泉を待つ間に偶然に再会した少年がジムの近況を語ったところによると、アキラは『デブ』と呼ばれて恐るべき伝説となっているのそうだ。練習生の中でも威張りちらしていたやつらが萎縮するようになり、少年はいい気味だと笑っていたのだという。

「デブって、恐ろしいものなのか?」

 本気で首を捻るアキラに、ようやく源泉はピンときた。アキラはまだヒアリングが苦手だ。おそらく彼の言う『デブ』は、別の単語の聞き違いだろう。
 彼の聞き違った言葉に思い当たった源泉は吹き出し、それを不審そうに見つめるアキラを振り返った。

「あのな、アキラ。それは多分……」





〔おわり〕







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