フェンリルの夜






 壮麗で優美な邸宅の庭で、多くの若い男女が楽しそうに歓談している。どの人をとっても仕立ての良い服を纏い、精神的な余裕を感じさせる口調で会話を楽しんでいる。それは上流階級特有のもので、エスプリをきかせた大人の会話である。機知に富んだ会話は紳士淑女の証拠であり、いかに上手く言葉を返すかによってその人の価値が決まる。そんな光景を退屈そうに眺める男が一人いる。彼は見上げるほどの長身を持て余すように壁に寄りかかり、腕を組んで楽しげな人々を眺めていた。
 彼の名はシリウス・ブラックという。この茶会に呼ばれた人々の中でも有数の資産家で、すでに名門家の当主でもある。均整の取れた長身と、少し不機嫌そうだが整った顔立ちでとかく女性に人気があるが、彼はそんなことを意に介さない。そんな人を寄せ付けようとしない雰囲気がまた影で人気となっているのだが、それはシリウスの預かり知らぬことだし、知っていたとしても迷惑にしか思わなかっただろう。その彼は折角呼ばれた茶会だというのに、面白くも無さそうな様子で時間が過ぎるのを待っていた。
 はっきり言ってシリウスは茶会が好きではない。しかし貴族に名を連ねる者として、また上流階級に身を置く者としてそれを無視することは出来ないのがシリウスにとっては苦痛だった。できるならこんなつまらない付き合いは放棄して、世界中を旅して回ったりしたいのだが、彼の父母が息子の大学卒業とともにさっさと引退してしまったのだから仕方が無い。昔からお前が大きくなったら家を継ぐのだぞ、そのために育ててやってるのだからな、と言われ続けていたので、シリウスも渋々承知したのだ。その父母は今や息子の代わりに世界旅行に出かけている。気に入った場所があればそこに長逗留したりするので、もう旅立って一年半にもなる。たまに手紙は来るが、多分あと数年は帰ってこないつもりなのだろう。息子に全てを押し付けて、のんきなものだ。
 おかげでシリウスはすでにブラック家の当主となり、多分ここにいる誰よりも忙しい身なのである。いつもは仕事があるのでと夜会も茶会も出来うる限り断っているのだが、今日は何しろ学生時代の悪友の婚約パーティーなのである。まだ正式なものではないが、欠席するわけにはいかない。しかしだったらさっさと済ませてくれればいいものを、何だってこんな風に他の女たちと歓談したりしなければならないのか。もちろん彼女たちは友人の婚約者に呼ばれたのだろうが、シリウスには鬱陶しくてたまらない。だがもちろん彼はこの国の紳士に多い女嫌いというわけではない。女性にはそれなりの敬意を払っているし、付き合った数も多い。だが彼はドレスや流行にしか興味が無く、ピアノ教師との恋愛遊戯に勤しむしか能の無い女が大嫌いだった。そんな女に比べれば、彼の屋敷で毎日懸命に働くメイドたちの方がよほど魅力的だと思う。だが世間ではそういった意見は少数派で、今日もシリウスは不機嫌であることを隠しもせずに上流階級のお付き合いに参加せざるをえないのだった。








 いい加減中へ入ろうかとシリウスが考えたとき、ある見慣れない人物が視界に飛び込んできた。シリウスとは逆側のテラスにあるソファに、いつの間にか男が座っていた。彼がシリウスの目を引いたのは、別に特別目立っていたわけではない。むしろひっそりとして、普段ならば気にも止めなかっただろう。第一このパーティーに来ている全員を知っているわけではないので、見知らぬ人物がいても不思議は無い。ただ、その男は少し俯き加減で座っており、どこか具合が悪そうだったのだ。
 そうやって気になって見てみれば、彼はとても痩せていて、顔色は窺えないが、微かに肩の上下でわかる呼気の回数も普通より多く思える。これがいつものパーティーならば酒にでも酔ったのだと思うところだが、今回は本当にただの茶会である。本格的な婚約披露宴のパーティーはまた別の日となっている。酒などもちろん出されていない。頼めば出してはもらえるが、厳しい目つきの執事がきちんと監視しているので、間違っても泥酔者など出したりはしないだろう。
 どうしたものかとシリウスは周りを見回したが、気付いているのはどうも彼だけであるらしい。流石に事を荒立てて楽しい気分をぶち壊すのも憚られたので、シリウスは何気ない様子を装って男に近付いた。多分シリウスより年下か、同じ歳くらいだろう。彼はシリウスが近付いてきたことにまるで気付いた様子も無く、浅い呼気を繰り返していた。ひょっとしたらうたた寝でもしているのかと思っていたシリウスは、益々心配になって男に声をかけた。

「おい、大丈夫か?」

 突然かけられた声に驚いたのか、男は反射的に顔を上げる。青白いが透明感のある肌と、少年めいた紅いくちびるの男だった。その反応は思ったより機敏だったが、シリウスをじっと見つめる眸は潤んでいて、健康そうには見えなかった。どうやらやはり具合が悪いらしい。そう見て取ったシリウスは誰かを呼ぼうと踵を返しかけたが、そこへ丁度このパーティーの主役である友人が慌てて駆けつけて来た。

「シリウス、そいつはいいんだ」

 軽く息を弾ませているところを見ると、どうやら文字通り駆けて来たようである。背は高くないが引き締まった身体つきの友人は、そのままでいるよう男に合図をして、シリウスの腕を引っ張った。

「おい、いいって、本当に大丈夫なのか?」

 渋々その場を離れたシリウスは、小声で友人に尋ねた。明らかに具合が悪そうなのに、あんなところにいていいのだろうか。だが友人は後で説明するから、と言い置いてシリウスをその男から引き離したのだった。








 それがどういうことだったのかわかったのは夜になってからだった。
 その日は満月の夜だった。夕食会の後、友人はごく親しい人間だけ残るように頼んだ。独身最後の仲間内でのパーティーをしたいと言って。
 婚約者もそれなら仕方が無い、と許してくれたので、屋敷には何人かの男たちが残ることとなった。その相手は学生時代の悪友たちで、シリウスも今度は気を抜くことが出来た。本当に、こういった集まりならばいつでも歓迎するものを。
 婚約者やその友人たちが完全に屋敷の敷地から離れるのを見届けると、友人は急に昔の悪友の顔になって悪戯っぽく笑った。彼は今度はおおっぴらに友人たちに酒を勧め、その肴に昔やらかした悪戯の話を始めてはしきりに懐かしがった。もうあの頃には戻れないのか、としみじみ言うと、皆は面白がって彼をからかう。ポーカーをしたりチェスをしたりして時を過ごすのは茶会の数百倍楽しい時間で、シリウスも昼間の男のことなどすっかり忘れてしまっていた。
 後一時間ほどで日付が変わるころになったとき、主催の友人が突然真面目腐って悪友たちを呼び寄せた。一体何事だとうほろ酔い加減の男たちは面白半分に集まったが、友人のあまりの真剣な様子に怪訝そうな顔を見合わせた。

「いいか、これから見るものは絶対に他言無用だ。それを守れないなら、ここに残って欲しい。それと、かなり衝撃的なものだから、気分が悪い奴も外れてくれ」

 そんなことを言われて素直に退く連中ではない。むしろ興味をそそられて彼らは一体何ごとだと友人に詰め寄った。

「それは見ればわかる……」

 そう言って友人はシリウスたちを屋敷の地下室に案内した。








 そこで見たことをシリウスは一生忘れられないだろうと思う。いや、多分悪友たちの誰一人として、忘れられることは無いだろう。なるほど、確かに他言無用で、衝撃的なものだった。
 一夜明けて自室の寝台に仰向けになりながら、シリウスはため息をついた。おかげで碌な夢を見なかったくらいだ。
 シリウスは大きな手で自分の顔を撫でる。昨夜目にしたものが未だに信じられなかった。噂には聞いていたが、まさか本当にあんなものがこの世に存在するだなんて。
 シリウスは昨夜見たものを瞼の裏に思い出す。黴臭い地下室でシリウスを含む数人を待っていたのは、天井まである鋼鉄製の檻だった。念入りなことに、檻の手前には近付きすぎない様に柵まである。一体どういうことかわからないシリウスたちに、友人はランプの光で檻の中の暗い隅の方を照らし出した。
 そこには一人の男が蹲っていた。冷たい石の床に転がって、苦しそうに喘いでいる。シリウスにはそれが昼間の男だとすぐにわかった。驚いて友人を見ると、彼は何故かシリウスに向かって頷き、檻の男を見るよう促した。
 男は苦しげな声をあげて胸元を掴んでいる。上等なシャツは今にも引き千切れそうだ。それを見て誰かが何か言いかけたが、その声は不気味な唸り声にかき消されてしまった。一瞬シリウスもそれが何処から聞こえたのかわからずに、あたりを見回したが、すぐに檻の中からだと気付いて息を飲んだ。
 唸り声は一瞬ごとに狂気を増し、段々と大きく長くなってゆく。それに反して人々は息を飲んで静かになっていった。今や全ての目が檻の中の男に注がれていた。彼はいつしか身体を掻き毟り、自ら服を引き裂いた。
 誰かがあっと声を上げた。それもそのはず、今まで蹲っていた男が顔を上げたのだ。だがその目は人のものではなかった。濁った黄色い光を放ち、憎悪を込めてシリウスたちを睨み付ける。耳まで裂けたような口からはいつの間にか鋭い牙が覗いていた。
 青白かった背中は見る見るうちに盛り上がり、銀灰色の毛並みが表れる。細かった手足は引き締まり、人でないものへと変化した。強靭な筋肉と、鋭い爪。人から獣へと変化したそれは、最後に一声大きな咆哮を上げ、自分を見つめる人間たちを威嚇した。
 動ける者は誰もいなかった。仲間内では豪胆で鳴らすシリウスでさえも言葉を失って立ち尽くしていた。たった一人彼らを振り返ったのは、この事態を演出した友人だった。彼は満足気な表情で友人たちを眺め、ランプを壁の棚に置いた。
 その音に金縛りを解かれて、男たちは突然ざわめき始めた。中には恐慌状態寸前で隣の誰かに支えられている者もいた。一体あれは何だ、化物だ、何が起こったんだと口々に呟き、しかし獣の眼光を恐れて声を張り上げる者はいない。その中で最前列にいたシリウスは彼らに同調することなく、ただ呆然と獣を見つめていた。
 多分これは狼だろう。シリウスはそう見当をつけていた。だがこの国に狼はいない。そしてわずか数分前までこの獣は人間だった。ならばこれは噂に聞く人狼という奴だろうか。獣はシリウスから目を離すことなく檻の中をうろうろと歩き回っている。吹き付けてくるような殺意が、シリウスに冷たい汗をかかせた。
 そのときのことを思い出すと、シリウスは未だに背筋に冷たいものを感じる。今目の前にあるのは古い寝台の天蓋だ。しかし目を瞑ればすぐにあの黄色い眸が思い出される。獲物を狙う獣の目。檻の中からじっとこちらを窺っていたあの目が忘れられない。
 あの後すぐに友人はシリウスらを地下室から出してくれた。いや、出ようと思えば鍵など掛かっていなかったのだからいつでも出られたのだが、誰もそれに気付かなかったのだ。
 安全な居間に戻ると、友人は質問攻めにあった。あれは何だ、どういうことだ、と。
 友人は皆に落ち着くよう示し、召使に紅茶の用意を命じた。そして皆が冷静さを取り戻すと、漸く説明を始めたのだった。
 やはりあれはシリウスが想像したとおり、人狼だった。一昨年の暮れ、あるクラブの知り合いから買ったのだという。
 人々は不安そうな顔を見合わせた。彼らも上流階級に位置する者である。そういった異常なことがままあることは知っていた。人身売買は彼らの生まれるずっと昔に法によって禁じられたが、今でも闇では行われている。異国や貧民層から見目の良い子供を金銭で買ったり、攫ったりして金持ちに売りつけるのだ。まだ若い彼らはそれに接触したことは無かったが、そういったことがあるらしいという事実は知っていた。だがまさかこんな近くでそれが行われていただなんて、想像だにしなかっただろう。

「これは人身売買だぞ、何を考えてるんだ!?」

 ある正義感の強い一人が詰問するように言ったが、友人は苦笑してこう説明した。

「あれはもう人間じゃないんだ。本来なら何処かの病院で解剖されるか、とうに抹殺されているはずなんだよ。何しろあれは、人間を食うからね」

 人狼を政府は人とは認めない。いや、正確にはその存在すら認めてはいない。もともと狼のいないこの国に、人狼というものが現れたのがいつだったのか正確なことはわからないが、彼らは海を渡って異国からやって来た。満月の晩以外は普通の人間と全く変わらないので、誰も気付かないのだ。そして仲間を増やし、何世紀か前には人狼の数は人間を脅かすほどに増えた。そのため人狼狩りが行われ、今や数えるほどしかいない。もともと人狼は生殖行為によって増えることが出来ない。彼らは狂犬病と同じように、噛むことによって仲間を増やす。人狼に襲われ、運良く命を取り留めても、行く末は同じ化物である。中には自殺した者も多いだろう。政府はそんなものはいないとする一方で、人狼狩りや、魔女狩りを黙認した。それは結局のところ政府がそれらを脅威に思っていたからに他ならない。そうして人狼は確実に数を減らしていったが、絶滅したわけではなかった。そのうちの一頭が、この屋敷にいるというわけだ。
 友人の説明に人々は沈黙した。確かにこれは人身売買の一つの形態だろう。だが先ほど見たあの獣は、明らかに言葉の通じる生き物ではない。仲良く手に手を取って、新しい社会を築こうと提案しても、食い殺されるのがおちだろう。だが一ヶ月のたった数日以外は同じ人間なのだ、それを殺すのは殺人である。
 そう説明されて人々は再び顔を見合わせた。人だと言われても、彼らはあの青年の人狼化をきたしていた部分しか知らない。シリウスは人間であったときを知っているので、友人の言いたいことがわかったが、皆は承服しかねるだろう。正義感の強い友人も、人身売買には反対だが、ではあれを野放しにするべきかと問われれば、仕方がないと言っただろう。それは精神に失調をきたし、他者を傷つける人間を精神病院に入院させるのと同じことなのだと友人は説明した。いや、むしろ精神病院に比べれば、ここは天国のようなものだろう。満月の晩以外は、全くの普通の人間と同じように扱い、彼の好きなようにさせてやっている。上等の服と、見た目も栄養も味付けも完璧な食事。下町の貧民層に比べれば、夢のような場所だ。そのうえ例え理性を失っても、誰も傷つけないで済むよう万全の体制が整っている。もちろん気軽に外へ出してやることは出来ないが、自分の力に拠らず衣食住に全く困ることのない生活を与えられている彼は、むしろ幸福かもしれない。
 雄弁にそんなことを語る友人に皆はじっと聞き入っていた。シリウスも沈黙していたが、それは納得したからではない。皆は詭弁によって彼の自由を奪うことを自分に納得させようとしているらしいが、もしこの状況が本当に幸福ならば、自分の子供を売り飛ばさねば生きられない人々は、喜んで人狼になろうとするだろう。子孫を残すことは出来ないが、生きることには困らない。だがそうしないのは何故か。もちろん人狼の数が極端に少なくて、出会うことが出来ないからではない。そんなものになるくらいなら、餓えて死んだ方がましだからだ。
 だがあえてシリウスは反論しなかった。理由はともかくすでに人狼になってしまった者にとって、殺されることが幸せだとは思えなかったし、ここにいることが不幸であるとも言い切れなかったからである。そんなことは本人にしかわからないだろう。
 そんな風にすっかり黙り込んだシリウスを他所に、むしろ友人たちは興奮の度合いを深めていった。人狼に対する恐怖から覚めると、都合の良い同情と興味が沸き起こったのだろう。彼らはこぞって友人に質問を浴びせ掛けた。噛む以外に伝染はしないのか、何を食って生きているのか、普段はどんな風なのか。
 友人はまぁまぁと手で皆を制しながら、どこか嬉しそうに応える。狼になっているとき以外には噛まれようと引っかかれようと、問題は無いこと。普段の食事は人間と同じで、狼になったときは獣と同じ物を食べること。普段は大人しい青年で、年の頃は自分と同じくらい。甘いものが好きで、無口で手間は掛からない人間であること。ただ、満月が近くなると少し具合が悪くなる。正確には人間としての機能が劣るようになるのだ。それで具合が悪そうに見えたのかとシリウスは納得がいった。
 その後興奮覚めやらぬままパーティーは解散となった。もともと人狼を自慢することが目的だったのだろう友人は満足気で、シリウスも大人しく家路についたのだった。








 人狼に初めて出会ったあの日以来、シリウスは自分がどこか変化してしまったことを自覚していた。それはあの日の夢を見てあまりよく眠れないことが原因ではない。おかげで体調は万全ではないが、問題は精神の方だ。
 あの日以来シリウスは物思いに耽ることが多くなった。普段は厳しいほどにきびきびと動く彼だが、ここのところ気付くとぼおっとしていることが多い。これではいけないといつも以上に真剣に仕事に取り組むが、気付くとペンを持つ手は止まっている。それでも何かやることがあるうちはいいが、夜中寝台に入るともういけない。眠るでもなくぼんやりと暗い天蓋を見上げながら、あの恐ろしい獣のことばかり考えてしまう。自分でもどうかしているとは思ったが、彼はすっかり人狼の虜になってしまっていたのだ。
 このままではいけないと思い、忘れようと努力もした。最近足の遠のいていたクラブにも通うようになったし、気分転換に学生の頃にたしなんだボクシングも再び始めることにした。だがどれも長くは続かず、結局のところ気付くと考えに耽っているのだった。
 間違いなく自分はあの怪物に魅せられてしまったのだと、シリウスは自覚していた。あの友人と同じように、人ならぬものに魅惑されてしまったのだ。そう思うと今度はあの獣が欲しくてたまらなくなった。だが、あれを手に入れてどうする? シリウスは一人で眉間に皺を寄せながら考える。満月の晩以外は単なる人に過ぎないあの獣。いや、人間。年間わずか十数回の人狼化のためだけに一人の人間を養うのは莫迦莫迦しくはないか。だがまぁ、口を利いたわけではないが、悪い奴では無さそうだった。鳶色の少し硬そうな髪と、決して卑しくは無い顔立ち。だが一度会っただけの相手を外見だけで判断するのはあまりにも危険だろう。もしかしたら、自分の無害そうな外見を武器に放蕩三昧をするような男かもしれない。子供が作れないならそれをいいことに遊蕩にふける可能性もある。とんだ金食い虫かもしれない相手を、つまらない興味本位で引き取るのは愚かというものだろう。
 だが、とシリウスは一人で反問した。彼がそんな誰かにたかって遊び惚けるような下劣な人間だと何故言い切ることができるのだろう。ただでさえ満月の晩は毎回あんな風に苦しむのだろうに、危惧よりむしろ同情すべきではないか。シリウスですら初めて出会った人狼なのだ、彼が好んでそうなろうとしても、故意に遭遇することはできないだろう。ならば偶然出会ってしまい、不幸にもああなったのではないか。だとしたらやはり可哀相だし、あれは病気のようなものだとも思う。そうだ、病気なのだ。治療法も無く、見つかれば抹殺されてしまうような。
 それに人間でいたときの彼は、華奢なほど細かった。あの手脚で何か考えもつかないような大それたことができるようには思えないし、もしとんでもない悪漢だとしても、取り押さえるのは容易だろう。ならば恐れることは無いではないか。
 しかしシリウスの中でいや待てよ、と反論の声がする。古来から狼とは狡猾なものだと言われてきた。その全てが単なる迷信ではないだろう。一部でも真実であるのなら、警戒するにこしたことはない。ひょっとしたらとんでもない頭脳の持ち主かもしれないし、生まれつきではないにしろ人狼化の影響で良心が欠落してしまったりはしていないだろうか。けれど少なくともあの友人に昔と変わったところは見られなかったし、彼がとんでもない散財をしているとか、奇行に走ったとかいう噂はまるで聞かない。そういったことはすぐに伝わってしまうのが社交界の恐ろしい部分だ。醜聞を好む性癖は身分の上下を問わない。だからシリウスは社交界が嫌いなのである。








 そんなことを延々考えている内に、例の友人の正式な婚約披露パーティーの日がやって来た。こんなときにあの青年に出会いでもしたら、とんでもないことになってしまうのではないかと考えなくはなかったが、欠席するわけにもいかない。具合が悪くなったのだと言い訳することは出来ても、もし本当はあいつは友人の花嫁に懸想していたのだなどといらぬ噂が立ってしまったら事である。退屈しのぎに自分勝手な醜聞を振り撒く奴は五万といる。そんなのは御免だ。
 だが結局のところシリウスはもう一度あの獣に出会いたかったのだろう。彼は気付くと広い会場内で一度見たきりの青年の姿を探していた。今日は満月ではないので、当然人間のままだろうし、具合も悪くない筈だ。しかしいくら探しても彼が見つかることはなく、我知らずシリウスは落胆のため息をついていたのだった。

「どうした、珍しく大人しいじゃないか」

 魚でも降るのかな、とおどけて声をかけてきたのはこのパーティーの主役だった。彼はシリウスと特に仲の良い友人で、かつては一緒になって沢山の悪戯をしたものだ。花壇の花を全てネギに植え替えてしまったり、校長室の調度品の配置を全部逆にしてしまったのは懐かしい思い出である。科学教師の可愛がっていた鴨の卵を盗んで食べたり、繁殖期を過ぎると雛を近くの農家に売り飛ばしたりしたのも彼らである。そんな友人は一足早く妻帯者になる。だがそうなるとあの人狼はどうなるのだろうか。
 ふとそんなことを思ったシリウスは、主役を人気のないバルコニーに連れ出して疑問を投げかけてみた。すると案の定彼は問題はそれなんだ、と言い出した。

「田舎にあるおれの領地に移そうと思ってる。人目も少ないし、妻は田舎には興味が無いんでね」

 そして時々様子を見に行くつもりだ、と。

「ちょっと待てよ、田舎の人間は迷信深い。もし人狼だなんてばれたら、大変なことになるぞ」

「だが、他に方法が無いだろう。ここに置いておくわけにもいかないし……」

 当然結婚すれば妻が屋敷にやって来る。そのとき親戚でもなければ召使でもない人間が家にいれば、不審に思わないはずがない。そして友人は親の事情で幼い頃から勝手に決められていた婚約者を、嫌ってはいなかったが特に好いてもいなかった。少なくとも彼女より自分で購入した獣の方が気に入っている。向こうだって似たようなものだろうと彼は言う。お互い口に出して明言したわけではないが、子供さえ作らなければ恋愛は自由という暗黙の了解が成り立っているのだそうだ。だが愛人と同じ屋根の下に寝起きすることは彼女のプライドが許さないだろう。

「……おい、それはつまりどういうことだ」

 僅かに低くなった声音に友人は口を滑らせたことを悟ったが、言葉は元に戻らない。シリウスは描いたように明瞭な眉を吊り上げた。友人は懸命に誤魔化そうとしたが、もう遅い。昔からこの男は怒らせてはいけない種類の人間だった。下手な言い訳など通用しない。
 危険を察知した友人は苛立つシリウスを宥めるために、渋々説明を始めたのだった。
 彼はただの怪物ではない。幼い頃から自分の飼主を悦ばすことをさんざん教え込まれてきた、生きた玩具である、と。流石のシリウスもそれを聞いてぎょっとしたし、思わずきまり悪そうな友人をまじまじと見つめてしまった。つまりはあの青年はこいつの愛人で、人狼であるという理由だけで彼に買われた訳ではない、ということか。しかし、こいつは男を好む性質の人間だったろうか?
 確かに彼らは幼い頃から男しかいない全寮制の学校で育ち、一過性のものとして美しい同輩に恋をすることは当然あった。それが肉体関係に発展することも珍しくは無いし、別段不思議でもない。何しろ思春期の多感な時期に周りに同性しかいなかったら、それで代用してしまうのは当然の心理だろう。実際シリウスにもそういった経験がある。学生時代彼はとても目立っていたし、ましてや誰の目から見ても美男子のシリウスは、本人がうんざりするほどよくもてた。だがそれはあくまで学校という特殊な空間の中での話であり、卒業してしまえば終わる悪癖だ。社交界に出れば女はいくらでもいるのだし、ましてや彼はこれから結婚する身である。にもかかわらず、金で買った相手をずっと囲い続けるとはどういった了見か。
 この間は同情がどうとか可哀相な境遇が何のなどと言っていたが、結局のところ単なる自己正当化に過ぎず、これぞまさしく人身売買ではないか。
 すっかり怒気をはらんで鬼の形相になったシリウスに、友人は尻込みしたのか情けない声で言い訳を続けた。

「だ、だって仕方が無いだろうが。今更放り出して路頭に迷わせるわけにはいかないだろう」

「当たり前だ! そんな無責任が許されるわけないだろう」

「だったら他にどうすればいいんだよ。あいつは一人で生きたことが無いんだぞ」

 自分がいなければこのご時世、パンを買うことすら出来ないだろう。彼にできることと言ったら、春をひさいで小金を稼ぐことぐらいだ。結局のところ身を売るしかないのならば、自分が飼ってやっていた方がはるかに幸せだ。そんな弁解する友人に、いい加減腹を立てたシリウスはついに、

「それなら俺が引き取ってやる!」

 そう怒鳴っていたのだった。








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