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 結局、こういうことになるのだな、とシリウスは溜息をついた。書斎の窓から見える空は、シリウスの心を反映するかのように薄暗く曇っている。あの婚約披露宴から二ヶ月余り。今日は例の人狼がシリウスの屋敷にやって来る日だった。
 あの後二人は密約を交わした。友人は散々渋ったが、ある条件を飲むということでシリウスに人狼を譲ることを承知したのだ。
 その条件は四つ。

 1、彼の人狼化によって被害を出さないための施設を作ること。
 2、彼が人狼であることを何があっても隠し通すこと。
 3、人狼化しているときは必ず獲物となる動物を檻の中に入れてやること。
 4、初めに人狼を購入した金額の倍額を支払うこと。

 その金額はシリウスが予想していたより高額であったが、広大な領地を有し、王から爵位を授けられて以来繁栄を続ける名門家の当主にしてみればそう大した金額ではない。だがもちろん安くは無い。ましてやこれから檻などの施設を作ることを考えたら、金額はまだまだ上がることだろう。だがシリウスは承諾した。そのくらい、両親の世界旅行の代金に比べれば大したことは無い、と。約束をしてしまってからシリウスは漸く自分が何が何でもあの青年を手に入れたかったのだと認めることが出来た。できはしたが、そんな自分に納得がいかず、家人が眉を顰めるほどひたすら不機嫌であり続けた。
 それでも彼はやるべきことを怠ったりはしなかった。庭の片隅にあった、すでに使われていない地下のワイン倉を改造して専用の檻も作ったし、満月毎に餌となる動物の手配も済ませた。家人には緘口令を敷き、予備知識を与えもした。自室の近くに彼の専用の部屋も設けた。それに人狼に関する本を何冊も読んだし、思いつく限りのことはしたつもりだ。後は本人が到着次第考える。もうやり残したことは無いはずなのだが、朝からシリウスは落ち着かなかった。
 何しろ口では友人を批判しながら、結局自分も人狼である彼を金銭で取引してしまったのだ。基本的に曲がったことが嫌いなシリウスは後ろ暗くて気が滅入った。それでもあいつに一生飼い殺されるよりはましだろうと思ってはみても、自己嫌悪の念は消えなかった。ならばせめて前者の轍は踏むまいと決意を固めたころ、漸く迎えの馬車が到着したのだった。
 本当は彼が到着したことはとっくに知っていたのだが、わざとシリウスは執事が到着を知らせに来るまで書斎で書類を眺めていた。気を落ち着かせるためと、単にどんな顔で会えばいいのかわからない気持ちからである。
 執事に呼ばれて何気ない風を装ってシリウスは居間に向かう。友人にリーマス・ルーピンという名だと教わっていた青年は、暖炉の前に立ってシリウスの祖先の肖像画をぼんやりと眺めていた。







 知り合ってみると、リーマスは話に聞いていたとおり大人しく無口な青年だった。ひょろ長い手足は、極端に痩せている所為でそう見えるのだろう。少し眠そうな眸は別段潤んでいない。あれは満月が近くなったときにだけなるのだろうか。顔立ち自体は若作りなのに苦労の所為か翳がある。受け答えはしっかりしているものの、どこか他人事のようでシリウスは内心眉を顰めた。想像していたより陰気な男だ。主がシリウスに代わったところで、自分には関係無いとでも言うような態度である。だがまぁ、ずっとそうして生きてきたのだろうから、それも仕方が無いのかもしれない。 とにかくそうして奇妙な生活は始まった。
 リーマスは基本的に一日の大半を自室で過ごしていた。図書室も開放してあるし、敷地内ならば散歩などの外出も許してあったし、家人の仕事を邪魔をしないならば家中を歩き回って構わなかった。それにある程度の我が侭も許容するつもりだったので、欲しい物があれば何でも言うようにと話しておいたが、特に何も要求したりはしなかった。シリウスにしてみれば拍子抜けである。仕事のため外に出ることの多いシリウスだが、食事だけはできるだけリーマスと一緒に取ることに決めていた。そうでもしなければ、顔を会わせることも稀であったろう。そのくらいリーマスは他人に干渉することが無かったのである。はっきり言って何を考えているのかわからないリーマスを、いつしかシリウスは持て余すようになっていた。
 別段彼を引き取ったら世界が変わるのではないかとか、そんなことは考えていなかった。だが食客が増えるのであるから、ある程度生活は変化するだろうと思っていたのに、その覚悟は単なる徒労に終わってしまった。これではあれこれ心配してきた自分が道化者のようではないか。そんな理不尽な考えにシリウスが腹を立てるのも無理はなかった。何しろリーマスはまるで可愛気が無かったのである。
 会えば会釈ぐらいはするが、あくまでその程度。彼から話し掛けられたことは無いし、食事のとき以外に姿を見かけることも無い。ならばせめてそのときぐらい会話をと慣れない気遣いをしてやっても、返答はごく短くて会話の糸口にすらならない。いつもどこか眠そうで、それ以外の表情を見たことが無い。ふつう囲われ者とか愛人とかいうことを生業にしている者は、もっと主人に対して愛想がいいものではないのか。
 ひょっとしたら単に嫌われているのではないか、とシリウスが思っても仕方は無かった。向こうに仲良くなろうという意図が無いのに、こちらが幾らアプローチしたところで効果は無いだろう。そもそも何だってシリウスの方が譲歩せねばならないのか。愛人にするつもりは無いとはいえ、今のリーマスの主人はシリウスであるというのに。
 しかしそうは思っても口に出すわけにはいかない。それでは彼も今までのリーマスの飼主たちと同じになってしまう。それだけは避けたかった。ならばリーマスが幾らシリウスを無視しようと、それは彼の勝手と認めるしかない。だが頭ではわかっていても承服しかねることはある。そうして日が経ってゆくうちに、意味も無く二人の仲は険悪になっていった。








 それがついに表面化したのは、4日後に満月を控えたある夜のことだった。その日の夕食の席に、リーマスの姿は無かった。執事が呼びに行ったが、欲しくないと返答したという。そう言えば昼食にもほとんど口をつけていなかった。
 なるほど満月が近い所為かと気付いたシリウスは、夕食の後様子を窺いに初めてリーマスの部屋を訪れた。今まではプライバシーを尊重してできるだけ近付かないようにしていたのだが、満月が近くなるとどんな風になるのか知っておくのは重要だろう。今後こんなことは幾らでもあるのだし、本当に具合が悪いときとの違いのを知っておくためにも。
 前室に入り部屋の扉をノックしたが、返答は無かった。眠っているのだろうか。だが扉に鍵は掛かっておらず、暫し逡巡したもののシリウスは様子を窺うために声をかけてから部屋に入ることにしたのだ。

「リーマス、いるのか?」

 遠慮がちに部屋に入ると、かなり細く絞ってあるものの、明りがついていた。ならば部屋にいるのだろう。見れば寝台のカーテンの隙間から丸めた背中が覗いていた。
 別段呻き声や苦しそうな吐息を聞いたわけではないが、心配になってシリウスは寝台に近寄った。

「大丈夫か?」

 眠っているのかもしれないのでできるだけ小さな声で話し掛けると、微かに反応があった。一応起きてはいるらしい。やはり具合が悪いのか。

「……食べられないなら、何か飲み物でも運ばせようか? 昼もほとんど食べなかっただろう」

 しかし応えは無い。これは本格的に悪いのではないだろうか。何しろ友人は満月が近くとも、ここまで反応を示さなくなるとは言っていなかった。急激な環境の変化にシリウスの見えないところで体調を崩していたのではないだろうか。だとしたら大変だ。

「やっぱり医者を呼んだ方がいいか?」

 でなければせめて薬を、と言いかけたシリウスの前で、リーマスはむっくりと起き上がる。どうやら起きることはできるようだ。だがほっとしたのも束の間、リーマスは気だるそうに振り返ると、剣呑な目つきでシリウスを睨み付けたのだ。それはシリウスが初めて見る、リーマスの表情らしい表情だった。

「……いちいち煩いな、君は。何かして欲しいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ」

 刺の感じられるその口調に、シリウスは吃驚した。何だ、何をこいつは怒っているんだ?
 だがシリウスの困惑を他所に益々リーマスの視線は厳しくなる。彼は善意を装った人間が大嫌いだった。そして今までのシリウスの行動はリーマスにとってほとんどが嫌悪に値する偽善でしかない。まるで自分は聖人だとでもいうような素振りを見せておいて、さんざん彼を搾取していった輩は両手の指に余るほど。それならばいっそ初めから欲望を示してくれていた方がましである。わかりやすいし、少なくとも精神的な準備はできる。それに欲望に忠実な連中は、それに従っていさえすれば、何の問題も無かった。だが善人を装った連中は違う。悪いのはいつでもリーマスで、何をして欲しいのかはっきりとは言わないくせに、それを察することが出来ないとすぐに逆上する。血を吐くまで暴行しておきながら、お前が悪いのだと言い出すような奴等だ。そのくせ自分は慈悲深く、清廉で品行方正な人物だと思い込んでいる。救いがたい莫迦どもだ。
 そしてこのときのシリウスはまさしくそれに当てはまるようにリーマスには思えた。シリウスは満月が近く体調が悪い上に、どうしても好戦的になっているリーマスの気に触ることばかりする。放っておいて欲しいのに、何のかんのと言い訳をつけてはリーマスに干渉しようとする。この男は多分リーマスに魅了されているだろう。何しろ初めてまともに顔を合わせたのが、満月の日だったのだから。
 満月の日のリーマスは何故か人々を惹きつける。それは人狼化の影響で、リーマスにはどうしようもない。いや、それは何も満月の日ばかりではなく、平時であってもある程度それは作用する。これほど危険で恐ろしい化物が、今まで生き残れたのはその所為だ。ある種の魔力で人々を魅了し、捕食する。夜でなくともそれは有効で、彼らはリーマスに惹きつけられてしまう。きっと遠い昔の幼い頃のリーマスも、そうして罠にかかったのだろう。そしてこの男もまたそうやってリーマスに心を奪われた。感情や理性の問題ではない。この男は人狼の魔力に捕われているに過ぎない。
 そういった人間は必ずリーマスに暴力を振るう。勝手に自分の中で彼を都合のいいように理想化し、現実に背かれるとそれを是正しようとする。しかも相手は貴族だ。幼い頃から何の不自由も無く育ち、肥大化した欲望の化物だ。そのうえこいつは見るからに腕力もありそうで、内心リーマスは辟易していたのだ。
 こんな男に引き取られるくらいならば、以前の飼主の方がよほど良かった。彼は少なくとも自分の欲望に正直であったし、これから結婚するとなれば、リーマスの負担は少なくなる筈だった。それなのに結局この男に請われて彼はリーマスを手放し、全ては振り出しに戻ってしまった。一つもいいことが無い。だが諦めるだけが人生だったリーマスは仕方ないとそれを受け入れた。以前の主人はこの男を悪い奴ではないから、と言ったし、少なくともいきなり犯されたりはしなかった。だがそれは単にそういった遊びに慣れていなかっただけなのだろう。抱きたければそう言えばいい。でなければ態度で示せばいいのだ。そうすればリーマスはいつでも脚くらい開いてやるし、文句は言わない。しかし愚鈍なこの男はわざわざそう説明してやらねば理解できないようだ。益々頭にくる。
 リーマスは嫌悪を込めた視線でシリウスを睨み付けながら、『して欲しいこと』の意味を教えてやった。するとシリウスは最初唖然とし、次いで烈火の如く怒り狂った。

「な、何を考えてるんだお前は!?」

 シリウスにしてみればそれは侮辱以外の何ものでもなかった。彼に男を好む性癖は無いし、そんなつもりでリーマスを引き取ったわけではない。部屋へやって来たのだって、純粋に心配してのことだし、具合の悪い相手に下心を催すほど餓えてはいない。
 しかしそのシリウスの言葉はリーマスには届かない。幾ら口でそんなことを言ったって、どうせそのうち本性を見せるだろう。取り繕うだけ愚かなことだ。
 そうして二人の口論は平行線を辿り、ついに頭にきたシリウスはリーマスを散々怒鳴りつけた挙句、足音も高らかに部屋を出て行ってしまったのだった。








 何て奴だ、とシリウスはあの日以来完全にリーマスを無視して過ごしてきた。もう食事も一緒に取る必要は無い。人の善意を踏みにじり、平気で侮辱するような奴。なるほど品位は金では買えない代物である。それをあんな下層階級のあばずれ人狼に期待した自分が莫迦だった。いっそのこと放り出してやろうかとさえ考えた。そうすればあいつもいいかげんいかにシリウスが紳士的で心優しい主人だったか思い知ることができるだろう。
 だがもちろんシリウスはリーマスを路頭に迷わせたりはしない。そんなことをしたらば、今までの彼の主人たちと同じになるし、第一リーマスの言ったとおりのろくでなしになってしまう。それみたことか、とリーマスが冷笑する姿を思い浮かべただけで、シリウスははらわたが煮え繰り返るような怒りを覚えた。だからせいぜい飼い殺してやるまでのことだ。そのうちあいつも寛大な主人に狭い心を動かされることだろう。
 そんな想像をしてどうにか溜飲を下げ、シリウスは普段のリーマスを黙殺することに決めた。もともと欲しかったのは人狼の方なのだし、人間の方はあくまで付属に過ぎない。ならばせいぜい満月の夜だけのお付き合いで済ませてやろうではないか。向こうもシリウスとは口を利くどころか、顔を会わせることさえ嫌なのだろうから。大事なのは、狼だけだ。
 シリウスはそう決め込んで、満月の晩を待った。わずか数日があまりにも長く感じられ、シリウスは一人でやきもきした。楽しみというものはどうしてこうも待ち遠しいものなのか。  そして満月はやって来た。








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