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 リーマスのために用意した檻は地下にある。屋敷や離れなどからは距離があり、独立した空間となっているので、何処へ行くにも一旦地上に出なければならない。また温度を保つために地下深く掘られていた倉をより頑丈にし、天井まで届く鋼鉄製の格子を嵌め込んだ。三方は石壁に、そして一方は鉄格子にふさがれている。その檻の面積は倉の4分の3に及んだ。
 この檻から出る方法は二つ。一つは檻の天井のほぼ中央に位置した跳ね戸から、縄梯子を誰かに下ろしてもらうこと。これがリーマスの出入りする方法である。二つ目は、何か緊急の場合すぐ出入りできるようにと鉄格子の壁際に付いている鋼鉄製の扉を開けること。
 しかしこの扉を開けるには、扉の錠と、扉に平行するようにつけられた三つの閂に掛かった鍵も外さなければならない。もちろん閂も鋼鉄でできている。そしてその鍵はシリウスと執事だけが持っており、どちらかの許しが無い場合は決して使われることは無い。その扉さえ開けば、向こうにはシリウスが中へ入れるように作らせた階段がある。ただ、それを上ってもやはり出入り口の扉には鍵が掛かっているのだが。
 その堅牢な檻を初めて見たとき、リーマスはあまりの厳重さにむしろ感心したほどだ。なるほど、これならばどうやったって狼の姿では逃げ出すことは出来まい。縄梯子が掛かっていても狼は上れないし、運良く鍵を手に入れても、動物の手では扱う事が出来ない。天井の跳ね戸には監視と明り取りを兼ねたガラス付きの窓がついているが、2階分の高さがあるので縄梯子が無ければ人間だって手は届かない。しかも有り難いことに、倉の上には新たに作った小屋が建っている。これもまた石造りで、地下で幾ら吼えようが、外には聞こえないだろう。実に見事である。
 この夜、檻は初めてその主を迎え入れた。日が沈んだ辺りから人狼化は始まるという。シリウスにはそのタイミングがまだわからなかったのだが、リーマスが自ら申し出た。彼にとっても人狼となって誰かを傷つけ殺したり、仲間を増やしてしまうような事態は本意ではない。ほとんどふらふらになりながら下男に付き添われて倉へ向かうリーマスを、シリウスは2階にある書斎の窓から見下ろしていた。








 シリウスがリーマスの様子を見に倉を訪れたのは、夜半過ぎだ。彼は人狼には心惹かれていたが、その経過を見ることは好きでは無かった。まだ一度見たきりだが、リーマスが余りにも苦しそうで、見ている方も辛かった。それに、先に一頭山羊を檻に入れておいたので、それを食べているシーンもできれば見たくない。
 地下へ続く扉を開けたとき、濃密な血の匂いがシリウスの鼻腔を刺激した。一瞬息が詰まったが、人狼を見たい一心で彼は地下に降りていく。そして檻の中で寝そべる美しい獣を見出したのだった。
 狼は銀灰色の毛並みを月光に照らされ、暗い輝きを伴った黄金色の眸でシリウスを見つめていた。ランプの明りでは濁った黄色に見えた眸も、今は黄金に輝いて見える。設計士に無理を言って月光が差し込むよう取り図らせたのはやはり正解だった。蒼く沈む光の中で見る獣のなんと美しいことか。シリウスは辺りが血の匂いに包まれていることも忘れて、人狼に見入った。
 檻の中の隅の方に、黒い水溜りがある。床に散乱した衣服の切れ端。それすらもどこか幻想的で、シリウスは陶酔した。やはりリーマスを引き取ったのは正解だった。どんなに恩知らずで、どんなに下品で、どんなに陰気だろうと、この獣のためならば我慢できよう。
 狼は自分を見つめる人間に殺意に輝く眸を向ける。その目はあまりに深く、虚無の深遠を思わせた。対するシリウスは流石に檻に近付くような無分別な行動はしなかったが、陶酔した表情でただひたすら人狼を見つめ続けていたのだった。








 夜が明ければ狼は人へと還る。シリウスは本当は朝まで狼を見ていたかったのだが、流石にそういうわけにはいかないだろう。それに途中で狼が光の届かない暗がりへ入ってしまったので、シリウスは朝までいることを断念して屋敷へ戻っていった。
 翌日はいつもより遅く起きて、自宅で仕事をする予定だ。彼の領地に関する仕事である。大抵の貴族はこういった仕事を代理人に任せ、ひたすら遊んで暮す。だがシリウスはくだらない園遊会や夜毎のパーティーなどより仕事の方がよっぽど面白くて、働くことを選んだ。それでも中産階級などに比べれば遥かに我が侭がきく。だからこの日もシリウスは昼近くまでゆっくり休み、夢見心地のまま朝食兼昼食を終えた。
 昨夜かなり長い間血の匂いを嗅いでいた所為か、鼻が利かなくなっていたが、大したことではない。どうせそのうち直るだろう。
 この日のシリウスはここ数ヶ月で最も機嫌が良かった。多分床屋が誤って髭の代わりに眉を剃り落としてしまっても、彼は笑って許したであろう。それほど機嫌のいい主人を家人は少し気味悪がっていたが、シリウスには気にならなかった。おかげで仕事も素晴らしく順調に進み、午後のお茶の時間にはすっかり暇が出来た。そうなると気になるのはリーマスの様子である。朝の執事の報告では、彼は眠り続けているらしい。怪我も無いようだし、問題は無さそうだ。
 ふと思い立って、シリウスはリーマスの部屋へ向かった。どんな様子か自分の目で確かめたかったのである。
 リーマスは寝台の中で規則正しい寝息を立てていた。下男が朝方部屋まで担ぎ込んでくれたのだ。人狼化のときに服は千切れてしまったので、今はガウンを纏っただけの姿である。この人間が本当に狼になるのだ、不思議なものである。思わずそう感心してリーマスの顔を覗き込み、シリウスは彼が酷く憔悴していることに気がついた。
 今はちゃんと眠っているが、頬はこけ、目許には隈が見て取れる。あまり自信は無いが、鼻の辺りも幾分シャープになったようだ。やはり変身の際あれだけ苦しむのだ、消耗は激しいのかもしれない。そう思うとシリウスはリーマスに対して憐憫の情を催さずにはおれなかった。しかしそれも彼が目覚めるまでの話である。夕方目を覚ましたリーマスは、再び様子を見にきたシリウスに以前よりも激しい嫌悪の情を向けたのだ。








 結局、二人の仲は良くならなかった。満月後の数日間、シリウスはかなりの譲歩を見せたのだが、リーマスにはむしろそれが気に入らない。すぐにお互い干渉しないことを暗黙の了解として、できるだけ顔を合わせないように暮す日々が始まった。
 はっきり言ってシリウスはリーマスが気に入らない。こんなことなら、人間になど戻らなければいいのにと思う。口を利かないだけ狼の方が余計に好ましい。だから彼は満月時以外にリーマスに干渉することをやめた。リーマスのことは執事に任せることにして、ひたすら満月が早く来ることを待ち望んだ。リーマスの価値は人狼であって、人間の部分ではない。会えば不愉快になるだけなのだから。
 そしてリーマスも完全にシリウスを無視することにしていた。あの男は何かとリーマスの機嫌を逆なでする。何処が嫌かと訊かれれば、リーマスは全てと応えただろう。生まれも育ちも性格も、何もかもが気に入らない。逞しい長身も、厚い胸も、男らしい美貌の顔立ちも、全部が全部。
 しかしそれがある種の羨望からくるやっかみでしかないこともリーマスは自覚していたから、余計に面白くない。彼の新しい主人は、リーマスに無い全てのものを持っている。名門家の若き当主で、多岐にわたる才能を有し、仕事においても辣腕を振るっている。友人も多く、悪態をついても何故か憎まれない性格。誰からも好かれ、家人からも敬愛されている。それでせめてとても背が低いとか、若いのにすでに禿げ始めているとか、何かあればいいものを、シリウスには欠点らしい欠点が無い。長身とそれに見合った体躯。撫でつけた髪も黒々として、少し日に焼けた男らしい顔立ちを引き立てている。誰もが羨む名門家の当主は、リーマスの目から見ても完璧だった。無理に欠点をひねり出すとしても、せいぜい上流階級の生まれにしては口が悪いとか、短気であることぐらいか。なんと可愛気が無い男だろう。
 もちろんシリウスのそれら全てが無条件で与えられたわけではないことはわかっている。逞しい体躯や、仕事での有能さは本人の努力によるものだろう。家人から敬愛されていることだって、本人の器量だ。しかしそれらは才能を開花させる以前に、努力をすることができる環境あってのことだ。その家に生まれたというだけで特権を貪り、権利を振り翳して弱者から全てを毟り取る貴族というものを、リーマスは嫌悪していた。おぞましい、唾棄すべき存在である。そしてそんな人間に飼われなければ生きてゆけない自分も。
 小さい頃自分の境遇に疲れきっていたリーマスは、もし自分が貴族であったら、とよくそんな気休めを夢想した。例え人狼となっても、もう少しましな人生を送ることが出来ただろうか。両親に疎まれはしても、見世物小屋に売り飛ばされたりはしなかっただろう。生涯地下牢に閉じ込められはしても、死ぬことすらどうでもよくなるほど精神を荒廃させはしなかっただろう。せめて神を信じることは出来たのではないだろうか。だが仮定は現実ではなく、幼いリーマスを余計に惨めにしただけだった。そして嗜虐的な飼主から自らを守ることも出来ない自分自身を、リーマスは諦めるようになった。
 幼い頃から人間の闇の部分のみを見て育ったリーマスには、シリウスの善意が理解できない。優しい言葉には裏があり、差し伸べられる手には下心が潜んでいる。それがリーマスの常識だ。またシリウスが人狼に魅惑されていることもそれに拍車をかけた。人狼はリーマスにとって最も憎むべき相手であって、獣と化しているときに彼の意識は無い。人狼は完全に独立した存在なのだ。リーマスにとっては身体を乗っ取られたも同然である。そんな相手を崇拝し、魅了される人間は、リーマスにとって嫌悪すべき敵でしかない。シリウスの同情が信じられないはずである。
 だから彼は益々シリウスを警戒するようになった。気を抜いたら、突然襲われるかもしれない。目つきが気に入らないと殴り飛ばされ、喋り方がなっていないと骨が砕けるまで蹴りつけられるかもしれない。そんな被害妄想がリーマスを恐怖させる。全く思い通りにならない人生を諦めをもって辿ってきたリーマスは、平穏に慣れておらず、屈従と隷属以外に飼主との接し方を教えられなかった。だからこうしてシリウスに面と向かって悪態をついている今現在の自分に、むしろ戸惑いを感じている。口論などというものをしたのは初めてのことだ。そして主人を怒らせて、殴られなかったことも。
 今までと余りにも違う生活。それがリーマスを混乱させる。彼が安心できるのは、尊大で悪辣な主人に、恐怖か暴力によって支配されたときだ。それが幼い頃からの彼の常態であり、どんなに寛容な主人であっても、性的搾取は行われ、口答えは許されなかった。食わせてもらうのだから、代わりにそれを提供することをリーマスはいつからか納得するようになっていた。だがシリウスはそのどれもしない。ただ異常に人狼の魔力に捕われているだけだと思い込もうとしたが、駄目だった。
 いつかこのつけは回ってくるだろう。ならばできるだけ早いうちに、軽いうちに回ってくる方がいいに決まっている。そうやってリーマスはシリウスを警戒し、完全に軽蔑できる機会を窺っている。生まれも育ちも才能も、容姿も人格までも完璧な人間などいてはならない。それは強迫観念となってリーマスを支配する。その存在はリーマスを完全に否定してしまうだろう。彼の存在理由も、今までの人生も、どうにか守りつづけた人格や理性でさえも。だから絶対に、あってはならないことなのだ。








 猜疑と疑惑は強迫観念となって月齢とともに強くなる。翌日に満月を控えて、それは頂点に達した。満月はいつだってリーマスから理性を奪う。思考力は低下し、原始的な存在に内側から支配されてゆくのがわかる。内側から蝕まれる恐怖は、いつになっても慣れることは出来ない。いつか本当に自分はただの獣と成り果ててしまうのではないか。そのときは誰かが殺してくれることを祈るだけだ。
 満月が近くなるとリーマスは昼間に異常なほど眠くなり、夜が深くなるほど目が冴えた。いつにも増して夜目が利くようになり、落ち着きを無くす。だからリーマスは家人が寝静まった夜中を狙って、屋敷の中をうろついた。
 夜中の屋敷はひっそりとしていて、昼間の現実が嘘のようによそよそしい。だがその分太陽の光では照らし出すことが出来ない美しさがあるとリーマスは思う。日光は窓の桟に残った埃ばかりを目立たせるが、月光はガラスを透かせて廊下に水晶の水溜りを作り出す。火の消えたランプの中にも蒼い闇がたゆたい、絵画は素顔をさらけ出す。それらを見て歩くのがリーマスは好きだった。彼らはリーマスを否定しない。口を利かない代わりに、リーマスを拒否しない。深い海に沈んだような静寂は、リーマスを安堵させる。それは死に似ていたかもしれない。だからリーマスは死のうとは思わない。死はどこにでもあるのだから。そうしてこの夜も、思考力を失ったまま、夢遊病者の足取りでリーマスは部屋を出たのだった。
 夜の冷気を踏む素足の動きを止めたのは、廊下の先に昼の気配を見つけたからだった。
 リーマスは絨毯の上をできるだけ足音を立てないように進んだ。2階の廊下の中央。そこにある扉の隙間から、黄色い光が漏れている。とうに日付は変わっているのに、どうしたことだろうか。
 息を殺してそっと扉に忍び寄る。人の気配は感じられない。取っ手に手をかけると、鍵は掛かっていなかった。リーマスは音を立てないよう細心の注意を払って扉を開くと、音も無く室内に滑り込んだ。
 普段のリーマスならば、絶対にそんなことはしなかっただろう。入ってみて初めて思い出したのだが、そこはシリウスの書斎だった。マホガニー製の重厚な造りの机があり、その背後には書類をしまう棚が並んでいる。机の前にはアンティークの応接セット。壁紙は白地に若草色の蔦模様。カーテンはモスグリーンで、房飾りは金色。壮麗な暖炉には今は火は入っていない。壁際に並んだ飾り棚には、沢山の本が並んでいる。今まで中を覗いたことはあっても、入室したのはこのときが初めてだった。
 机の上には万年筆と、書類が入っているのだろう封筒。それから中身の半分残ったブランデーグラス。満月の影響で嗅覚の研ぎ澄まされたリーマスの鼻腔に、馥郁たる香りが漂ってくる。それから何かの甘い香り。何だろう、どこかで嗅いだことのある香りだ。
 リーマスは何気なく部屋を横切って窓辺に立った。カーテンを少し捲って外を窺う。群青の海に沈んだ庭は、生命の気配を感じさせない。それに一瞥をくれるとリーマスは踵を返し、そして立ち止まった。彼の視線の先にシリウスがいた。長身を寝椅子に横たわらせている。組んで乗せた指の下で、夜着に着替えてもいない胸が上下している。多分仮眠を取るつもりで寝入ってしまったのだろう。
 完全に戸締りを終え、火の元の確認をしてから執事は休む。それでも明りがついているのならば、それは主人がそうしているのであり、考えてみればその部屋に人が居ない筈は無い。
 予想外の出来事にリーマスはその場に立ちすくんだ。幸いシリウスに覚醒の気配は無い。ならば早々に立ち去ればいいものを、リーマスは何故かじっと若い主人を見つめた。
 ふと思った。もしこの場でリーマスがこの男を絞め殺しでもしたら、どうなるだろうか。そうすればこの世にリーマスを脅かす存在などいなくなる。それはとても気分がいい。
 リーマスはふらふらとシリウスに近付き、寝椅子に片膝を乗せた。少し軋んだが、シリウスに気付いた様子は無い。彼の襟元に引っかかっているタイを外す。自分で寛げたのだろう。それは難なく解けて床に落ちた。だがリーマスはそれを使う気はさらさら無かった。せっかく人の首を締められるのに、素手でやらないなんてもったいない。まだ少年だったリーマスの首を締めながら犯すのが好きだった男は、この感触がたまらないのだと言っていた。それが本当か確かめるよい機会だ。
 リーマスは夢見心地でシリウスの首に手をかける。手を置いただけでもう力強い動脈の動きを感じることが出来た。同じ人間なのに、太さのまるで違う首。骨の大きさからして違うのだろう。それが今自分の手中にあると思うと、リーマスはたまらずに微笑んだ。
 素晴らしい優越感。全てにおいて完璧な男を今、全てにおいて劣る男が屠ろうとしている。昏い快感がリーマスを支配し、彼はシリウスの首にかけた両手に力を込めた。くっと咽喉が鳴ったようだが、リーマスは気にしない。弾力のある咽喉にかけた手に、体重をかける。苦痛にシリウスが目覚めても、リーマスは気付かなかった。ただ恍惚とした表情で彼を見下ろしている。

 その表情は妖艶で、余りにも美しかった。

 だが幾ら何でもそれにシリウスは見蕩れてはいられなかった。彼は渾身の力を込めてリーマスを突き飛ばす。ただ首を締めることにだけ熱中していたリーマスは、容易く吹っ飛ばされた。
 その隙に身体を起こしたシリウスは、激しく咳き込んで口許を抑えた。胸郭に新鮮な空気が溜まるのを感じる。その間リーマスは絨毯の上に座ったまま、ぼんやりとシリウスを見上げていた。彼の傍らにはタイが落ちている。ああ、しまった。どうしてこれで腕を縛ってしまわなかったのだろうか。そんなことを考えながら。

「お、お前、何を考えてやがる!?」

 シリウスは掠れた声で怒鳴ったが、リーマスはきょとんとして彼をただ見上げていた。何故シリウスが怒っているのか理解できないようだ。彼は小首を傾げ、さも不思議そうに恐ろしいことを口走った。

「何って、首を締めるのは気持ちいいって聞いたから」

 その返答には流石のシリウスも言葉を失った。怒声すら出てこない。リーマスは至極残念そうに自分の掌を見つめている。昔リーマスの首を締めた男がそう言っていたのだと彼は呟いた。だから試してみようと思ったのか、とシリウスは絶句した。こいつは完全におかしい。まさか人狼化の影響で、人格が蝕まれつつあるのか? それにしたって常軌を逸している。この場合シリウスは恐れるべきなのか怒るべきなのか判断がつかなかった。だが結局シリウスは、次の瞬間リーマスの呟いた言葉に、怒りを爆発させたのだった。

「……後ちょっとだったのに」

 惜しいとでも言うような落胆の呟き。それを耳にした瞬間、シリウスはカッとなってリーマスの横っ面を引っ叩いていた。
 リーマスは後ろに吹き飛んだ。完全に本気で殴ったわけではないが、体重の軽いリーマスは容易く力に流された。彼は一瞬自分に何が起きたかわからなかったようで、吃驚した様子でシリウスを見た。それから手の甲で鼻の下を擦り、自分の血に目を瞬かせる。
 その間に騒ぎに気付いた家人の誰かが扉をノックしたが、

「何でも無い、入ってくるな!」

 そうシリウスに怒鳴られて、渋々去っていった。彼らの主人は常に不機嫌そうだが、不用意に怒鳴りつけるような人間ではない。後ろ髪は引かれるが、ここは立ち去るしかないだろう。誰かもっと人を呼んだ方がいいだろうし。
 物凄い形相で扉の方を睨みつけていたシリウスは、あるさざめきに似た声にリーマスを振り返った。全く理解不能なことに、彼は笑っていた。くちびると鼻から血を流し、頬を赤く腫らして、リーマスは笑っていた。こいつ、ついに壊れてしまったのか!?
 彼は愉快そうに笑いながらシリウスを見て口を開く。何だ、やっぱりあいつらと同じじゃないか、と。十にも満たない子供を犯したり、逃げ惑わせて銃で撃ったり、柱に縛り付けて錐で刺したりするのが好きな連中と、同じではないか。
 リーマスはシリウスを指差してゲラゲラ笑う。善人面しても、一度手を挙げてしまえば同じこと。どう取り繕ってももう元には戻らない。何だ、完璧な人間なんてやはりいなかったのだ。そう思うと可笑しくて、リーマスは笑い続けた。それがシリウスの神経を逆なでし、彼を更に怒らせることとなっても、リーマスは笑うことをやめなかった。
 そしてとうとうシリウスは本当に怒った。今までの人生でこれほど頭にきたことは無い。彼は再び手を挙げると、リーマスを打った。その一瞬だけ彼は黙る。だがまたすぐに笑い出し、シリウスは彼の髪を掴んで寝椅子に突き飛ばす。ただ胡乱なだけの眸を自分に向け、笑うリーマスをシリウスは打った。そんなに俺を貶めたいのなら、希望通りにしてやろうではないか。
 シリウスはリーマスにのしかかり、彼の衣服を剥ぎ取る。青白くて冷たい皮膚を掌で打擲し、赤味を引き出した。無理矢理脚を開かせ、加虐心に欲情を煽られて、シリウスは彼を犯した。それでもまだリーマスが笑うので、シリウスはその煩い口を大きな手で塞ぐ。だがリーマスは犬歯の伸び始めた歯でシリウスの掌に噛み付く。血が流れ、再びシリウスはリーマスの頬を打つ。脳震盪を起こした隙に今度はシリウスが細いリーマスの首を締めた。それは素晴らしい弾力で、猛り狂ったシリウスの欲望を増長させた。








 ……本当によく殺してしまわなかったものだ、とシリウスは痛む頭で考えた。今はもう昼で、彼は居心地の良いサンルームのデッキチェアに腰を下ろしていた。昔よくここで、まだ元気だった頃の祖母が刺繍をしていた。その横で遊ぶのがシリウスは好きだった。祖母は開明的なひとで、幼いシリウスをとにかく可愛がってくれた。彼女からシリウスは沢山のことを教わった。その中には弱い者を庇ってやるようにという教えもあったが、僅か半日前にシリウスはその禁を犯してしまったのである。
 あの後リーマスは気を失ってしまった。すぐだったのか時間がかかったのかシリウスは覚えていない。半分死姦するような状況が面白くて、シリウスは彼を犯すことを止めなかった。それから動かないリーマスを引きずって庭へ降り、家人が止めるのも聞かずに倉へ向かった。そいつを閉じ込めてしまえ、と命令すると、下男はあわててリーマスを担ぎ、小屋の中へ消えた。
 屋敷へ戻り、風呂に入り、朝食を取ると、シリウスは漸く冷静さを取り戻した。誰も何も言わないところ見ると、リーマスは檻の中だろう。多分そこが一番安全だと皆が判断したのであろう。シリウスの目に届かず、出入り口さえ見張っておけばいい。シリウスは何も命じていないが、勤勉な執事がきっと彼の面倒を見るだろう。ならばそれで充分だ。どうせ今夜は満月で、あいつの人間としての機能は最低になる。放っておいても変わらない。
 それにしてもとんでもない奴だ。思い出しただけではらわたが煮え繰り返るような怒りを覚え、シリウスはデッキチェアの上で長い脚を組む。やはりあんな奴、引き取るのではなかった。しかし後悔してももう遅い。こうなったらいっそ、田舎の領地にでも送ってしまおうか。いや、むしろ新しい飼主を探し出して、高く売りつけてしまう方がいいかもしれない。シリウスにしてみればもう何もかも沢山だった。あんな奴に関わるのではなかった。散々気を遣ってやり、これでもかというほど譲歩してやったのに、言うに事欠いてシリウスを幼児性愛者と同列扱いし、あまつさえ殺そうとしたのである。それで怒らない奴がいたとすれば、そいつは多分交感神経に何か障害を持っているだろう。ひょっとしたら前頭葉を除去されているのかもしれない。とにかく、シリウスはもう金輪際リーマスに係わり合いになりたくなかった。全く、あの友人はよくもまぁあんな奴を愛人に囲ったりなどしたものだ。
 そんな風に腹を立てるシリウスの傍らに、勤勉な執事が進み出た。すでに半世紀以上をこの家に仕えている老人は、無感動な調子で書斎の修繕に掛かる費用をシリウスに告げた。別に何かを壊したわけではないが、絨毯や寝椅子に飛び散った血は、なかなか落ちるものではない。シリウスも噛まれて流血した手であちこちを触りまくってしまった。絨毯は職人に洗浄を頼むとしても、寝椅子の布は張り替えねばならない。それも仕方が無いことだ。

「わかった、お前のいいように取り計らってくれ」

 投げやりな主人の言葉に畏まりましたと執事は頭を下げたが、その場を去ろうとはしなかった。怪訝に思ったシリウスが視線で話を促すと、

「今夜の動物の調達はいかがいたしましょう。子牛と山羊と、羊をご用意できます」

 どれにするか、と問われて、シリウスは考え込んだ。たった今あいつと決別することを決めたばかりであるのに、わざわざ餌など用意してやることもないだろう。もうシリウスはいくらあの獣が魅力的でも、今夜はそれを見ないことに決めていた。そんなことをしたら決心が鈍るのは目に見えている。今までの無礼な言動を反省させるためにも、餌などやる必要は無い。
 そう言うと執事は眉を顰めたようだが、何も言わずに一礼して退室していった。こうしてシリウスはミスを犯したのである。










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