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 朝食の席に下男が駆け込んできたのは、前代未聞のことだった。王が逝去あそばされたときも、こんな風に取り乱したりはしなかった。忠実で出し惜しみしない彼はその朝も霧に煙る庭をいつも通り掃除し、倉にリーマスの様子を窺いに行った。そして彼は跳ね戸の窓から、血まみれになって倒れているリーマスを発見したのである。
 リーマスはすぐに屋敷に担ぎ込まれ、下男が呼びに行った医者に手当てを受けた。治療を終えた医師はシリウスに彼が重態であることを告げた。

「全身を鋭い爪のようなもので引き裂かれ、腕の肉なんか食いちぎられている。一体、熊にでも遭遇したのかね」

 医師は何度も首を傾げながらシリウスに説明した。
 驚いたのはシリウスも同じである。鋭い爪や噛み傷に心当たりはあるが、まさか彼が自分でやったとは言えないので、野犬に遭ったのだと説明して事無きを得た。医師は承服しかねるようではあったが、また明日来るとだけ言って去っていった。
 残されたシリウスは、本日の予定を全て中止してリーマスの傍に付き添った。まさかこんなことになるとは思いもよらなかった。何故友人が必ず餌を一緒に檻に入れるようにしろと言ったのかが漸くわかった。シリウスは何冊も人狼に関する本を読んだが、そのどれにも彼らに自傷癖があるとは書いておらず、多分リーマス特有の行動なのであろう。いいつけをきちんと守らなかった罰は、シリウスではなくリーマスに降りかかってしまった。
 確かにシリウスはリーマスを嫌っていたし、彼に思い知らせてやりたい思っていたが、これは余りにも酷すぎるだろう。今やリーマスは満身創痍で寝台に横たわっている。傷の所為で熱が出たため、腫れたくちびるは渇いてひび割れている。いや、それはシリウスが殴った所為かもしれない。
 そう思うといたたまれず、シリウスは深い自己嫌悪に陥った。思えばリーマスのあの行動も普通ではない精神状態でのことだ。また正常な教育を全く受けることができず、暴力と恐怖に支配されて育った彼に、中途半端に優しく接したのも悪かったのだろう。自分の浅はかさに重いため息が漏れた。
 リーマスは真っ青な顔で、苦しそうに喘いでいる。メイドを下がらせたので、シリウスは自ら乾いたタオルでリーマスの汗を拭ってやった。それからブランデーを混ぜた水に浸したスポンジを、軽くくちびるに当ててやる。病人に水分の補給は不可欠だ。そうしてシリウスは彼に似つかわしくない情けない表情で、リーマスを見守りつづけたのだった。








 何か恐ろしい夢を見て、リーマスは目を覚ました。自分の置かれた状況がうまくのみこめず、彼は視線を彷徨わせる。寝台の中の闇と、僅かに開かれたカーテンからもれる柔らかい光。そちらに顔を向けようとしたのだが、頭が酷く重くて動かせなかった。それどころか全身に焼け付くような痛みが走り、リーマスは低く呻いた。
 その声を聞きつけたのか、誰かがカーテンから顔を出した。男が何か言っている。誰だったろうか、この人は。確か主人の友人で、背の高いあのひとだ。いつも不機嫌そうで、でも笑うと蕩けるような愛嬌のある……。

「吸えるか?」

 気付くとリーマスは男に肩と首を支えられて、何かをくちびるに当てがわれていた。冷たくて滑らかな細い円筒形のそれが何であるか考える前に、リーマスは息を吸い込んでいた。酸素とともに何か冷たくて甘いものが口腔に流れ込む。リーマスがそれがただの水だと気付くまで大分時間を要した。
 満足のいくまで水分を取らせると、シリウスは病人を寝台に寝かせ直した。多分全く思考力の残っていないだろうリーマスは、すぐに目を閉じてしまう。それを確認するとシリウスは看護婦の経験のあるメイドを呼びに席を立った。状況の把握できていないリーマスはその男が何処かへ行ってしまうのが心細くて嫌だったが、声を出すことは出来なかった。
 精一杯息を吸うと、微かに甘い香りがした。今先刻自分を抱き起こしてくれた男のコロンの香りだ。再び忍び寄ってきた睡魔の誘惑に引き込まれながら、あのとき書斎で嗅いだのはこの香りだったのか、と胸の中で呟いた。








 驚いたことにリーマスの傷は見る見るうちに完治していった。医者は有り得ないと興奮して説明を求めたが、シリウスは単なる奇跡だと言い張った。肉をえぐられ、もう二度と動かないかもしれないと言われた手も、10日後には物を掴めるようになっていた。これはまず間違いなく人狼化による良い方の影響だ。一生寝たきりを覚悟していたシリウスは、その良好な経過に当の本人よりもよっぽど喜んだ。そう言えば柱にくくりつけられて錐で何度も刺されただとか恐ろしいことを言っていたが、そんな跡は一つもない。全部綺麗に消えていた。この分なら次の満月の前には全快していることだろう。そう言うとリーマスは何か考える様子でただ素直に頷いた。
 リーマスはあれ以来嘘のように大人しくなった。シリウスが傍にいても嫌がらないし、文句も言わない。むしろこの家に来たばかりの頃に戻ったように、無口で表情が消え失せた。
 大きな怪我で体力を失った所為かとシリウスは考えていたが、身体が良くなっても一向にリーマスは大人しいままだった。
 この頃シリウスはよくリーマスの世話を焼いた。仕事の合間を見つけては部屋に顔を出すようになったし、外へ出ればリーマスの好物である甘いものを買ってきた。あるとき焼き菓子に添える紅茶を自ら淹れてやりながら、シリウスは自分の無分別な行動を謝罪した。それに対するリーマスの反応は薄く、少なくとも表情を変えることはなかった。ただ、何か考えるように俯くと、

「……いや、ぼくも悪かったから」

 そんな殊勝なことを呟いてシリウスを驚かせた。
 おかげで二人はどうにか決裂しかけていた仲を修復することが出来たのだが、シリウスはどうも釈然としない。もちろん仲違いせずに済んだのは嬉しいが、どうして急にリーマスは大人しくなったのか。彼は何も言わず、通常どおり過ごしている。シリウスも取り合えずしつこくない程度に彼の様子を見に行くようにし、その時間は段々長くなっていった。
 リーマスが大人しくなったのは、彼が自分の間違いに気付いたからである。満月が過ぎて冷静になってみれば、先日の猜疑が単なる思い込みに過ぎないということはすぐに知れた。シリウスは真剣にリーマスの身を案じている。自分自身に対して不機嫌そうな表情でされた謝罪は、少なくとも何かの打算の結果では無さそうだった。ここ数日の態度もリーマスが戸惑うほど誠実であるし、シリウスが何食わぬ顔で嘘をつけるほど腹芸の上手い人間ではないことがよくわかった。ならば少し、信用してみるのも手かもしれない。そうして彼はつまらない、子供の我が侭に似た自分の怒りの鉾先を静めたのだった。
 この事態をとても喜んだ人々もいた。それは家人たちで、あの険悪な雰囲気が再び屋敷に蔓延することが無いよう、二人を見守ることにしたらしい。シリウスなど表面には出さずともやはりかなり心配していたらしい老執事に、一言釘を刺されたほどである。自覚も反省もしていたのでシリウスは素直にそれを認めることにしたのだった。
 ある日漸く普段の生活に支障が無い程度に回復したリーマスを伴って、シリウスは散歩に出かけた。木立の間を染める黄昏を楽しみながら、取り留めの無い話をした。仕事は順調であるとか、例の友人は相変わらず元気らしいとか。主に喋るのはシリウスの役目で、リーマスは時折相槌を打ちながら隣を歩く。そこで前々から疑問に思っていたことをシリウスは尋ねてみることにした。
 リーマスは一日のほとんどを自室で過ごす。この屋敷にやってきて以来それは変わらない。しかしそんなに毎日、一体何をして過ごしているのだ、と。
 するとリーマスは珍しく困惑の表情をシリウスに向けた。

「いや、別に特に何もしていないが」

「何も? じゃあ、どうしてるんだ?」

 リーマスは困ったように首を傾げる。彼はだいたい毎日寝て過ごしている。今は前のようにシリウスと食事を共にしているので、朝食の後自室に引き取ると、うたた寝をする。昼食後も同じで、夕食後は本格的に眠る。毎日それの繰り返し。

「よくそんなに眠れるな」

 呆れてシリウスは言ったが、それ以外にすることが無いのだから仕方が無い。散歩や読書はしないのかとシリウスは訊いたが、人狼が屋敷の中をうろつくのを大抵の召使は快く思わない。だから散歩は夜中にする。それに読書をしようにも、彼は字を読むことが出来なかった。

「何だ、そうなのか。俺はてっきり……」

 シリウスは自分の頭を掻く。彼は当然のようにリーマスは読み書きができるのだと思い込んでいた。考えてみればきちんとした教育を受けていないのだから、まずできるわけがないのだが、何しろリーマスは頭の回転が早く、舌鉾も鋭い。シリウスを非難する言葉の数々は文盲者のレベルではなかった。それに、この家へ来たとき、図書室を開放してあると言っても特に反応が無かったので。それでシリウスはてっきりリーマスは識字者なのだと思い込んだのである。
 二人の間に無言の数瞬が流れる。シリウスは夕焼けに燃える空を眺め、リーマスは足元の草を見つめている。少ししてふとシリウスが足を止めて言った。

「……教えてやろうか?」

 小さな声だったが、リーマスには充分だった。彼は顔を上げ、黄昏に翳るシリウスの顔を見た。

「……そうだね」

 同じように呟くと、二人は再び歩き出した。








 かつて異国の哲学者はこんなことを言った。短い人生の中で、この三つのものを得られた人間は、人生の勝者である、と。一つは尊敬できる師。一つはお互いを認め合える友。そして最後は優秀な弟子。その言葉が本当ならば、シリウスは人生の勝者である。
 かつて通っていた学校の校長は尊敬できる師であったし、認め合える友人もいる。そして今回優秀なる弟子を得ることが出来たので、もれなく彼は人生の勝ち組みに入ることが出来たのである。
 実際リーマスはとてもいい生徒だった。満月が明けて体調が整ったのを期に授業を開始したのだが、理解が早く、記憶力も良く、それこそスポンジが水を吸い上げるように彼は文字を覚えていった。
 まずシリウスはアルファベットを教えるよりも先に、リーマスにペンを握らせ、その手を取って彼の名前を綴ってやった。リーマスは何故かシリウスが背を抱きこむようにして手を取ると、妙に緊張して顔を顰めた。
 名前の次は、アルファベットだ。まず大文字を教え、それだけで物の名前を教える。次の日には小文字を教え、辞書の引き方を教えてやった。基本的に辞書などほとんど使わないシリウスは発音記号についてはあまり自信は無かったが、取り合えず読んで聞かせると、彼は理解したようである。
 大文字と小文字で綴ることを覚えたら、今度は筆記体だ。ほとんどペンすら持ったことの無いリーマスにとってこれは難問であったらしい。文字は覚えたが、書くとなると上手くいかないみたいだった。変に腕に力を入れるのか、指がつったと言い出したこともあった。それなら筆記体は書くことに慣れてからでいいから、とにかく正しい綴りを覚えるように言うと、リーマスは神妙な顔で頷いたのだった。
 そして数日後の夕食の後、珍しくリーマスが書斎にやって来た。あれ以来、というよりもともとここには用は無かったのだろうが、リーマスは書斎には近付かない。それが息抜きに執事に頼んだ紅茶を持ってやって来たのがリーマスだったので、シリウスは少なからず面食らった。

「これ、合ってるか?」

 そう言ってリーマスは紅茶のセットと一緒に紙を差し出した。それには『Sirius Black』と書いてあり、興味津々の態でリーマスは返答を待っていた。

「ああ、合ってるけど、何でわかったんだ?」

 シリウスはリーマスに自分の名前の綴りなど教えていないし、わざわざ合っているかと訊くくらいなのだから誰かに教えてもらったわけでもないのだろう。そもそもリーマスがここへ来ることに決まったときに、一度名乗っただけの自分の名前を覚えているとは思っていなかったので、シリウスは驚いたのである。家人も彼を名前では呼ばないし、持ち物に名前を書かされていたのは初等学校までだ。
 不思議がるシリウスの真似をしてかリーマスは首を傾げる。何をそんなに驚いているのだと言わんばかりに。

「辞書に載ってた」

 彼はそう言って今度は逆側に首を傾げた。今のリーマスは暇さえあればシリウスが与えたお古の辞書を眺めている。紙とインクは幾らでも与えられているので、毎日一生懸命書き取りに励んでいるようだ。かつて小さい頃勉強を嫌がって逃げ回ってばかりいた誰かとはまるで違う、と執事が評したほどに。そうして彼は気になるものを見つけ、ひょっとしたらと思って書き取ってきたのだそうだ。
 一緒にお茶をしなからシリウスは素直に感心してリーマスを見た。もうSの項目までいったのか。では今度は百科辞典を渡してやらねば。それにしても……。

「よく俺の名前を覚えてたな」

 てっきり忘れたか覚えなかったかだと思っていた。何しろもう一緒に暮して三ヶ月以上になるが、リーマスがシリウスの名前を呼んだことは一度も無かった。そのことをシリウスは知っていた。てっきり気付いていないと思っていたリーマスはバツが悪そうである。

「……あの人がよく、話してたから」

 あの人、とはつまりシリウスの友人だろう。そんなにあいつの話題にのぼっていたのだろうか。すると今度は、

「だって良く目立つし……」

 そんなことを言ってリーマスはあらぬ方向に目を逸らした。それでシリウスは急にあることに気がついた。まてよ、そうなるとひょっとして……。

「おい、お前もしかして、前から俺のこと知ってたのか?」

 少し険しい声音に不承不承リーマスは頷いた。何しろ彼は2年もそこにいたのだ。主人の仲の良い友人であったシリウスを知らないはずは無い。何だ、そうだったのかとシリウスは少し不機嫌そうになった。それは単に考え事をするときの彼の癖である。知らなかったのはシリウスだけで、リーマスの方は知っていた。だからあんなに何の反応も見せずにここへやって来ることを承諾したのか。
 むっつりと考え込んでしまったシリウスを見て、リーマスはちょっと不安になった。しまった、怒らせてしまっただろうか。思わず上目使いに覗き込むと、目が合った。シリウスは眉をひょいと上げると、まあいいかと呟いた。良かった、どうやら気にしなかったらしい。ほっとしてリーマスは微笑んだ。それはシリウスが初めて見るリーマスの『楽』の表情で、普段より子供っぽく見えて可愛らしく、シリウスもつられて微笑んだ。
 こうして和解は成立した。










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