■□■ 始まりの終わり、終わりの始まり □■□






 その国は美しい国だった。国土の七割を森林に覆われ、豊かな水源に恵まれた美しい国だった。独自の文化と壮麗な歴史を誇り、他に類を見ない美意識を有する民族。宗教によらぬその倫理観の高さに、大陸の人々が恐れを覚えたほどの。
 しかし全ては地に落ちた。世界的な大気汚染で空気は汚れ、空は青さを失った。同時に人々のおおらかな心は余裕を失い、与えることよりも奪うことに快楽を覚えた。権力を手にした人間は腐敗し、それを追及せずに黙認した人々もまた堕落した。責任を放棄し、追及をやめ、飼い慣らされることの何たる安逸か。考えず、疑問を持たず、ただ誰かが指示してくれることに従うのみ。家畜の幸福を謳歌する人々は、喜んで権利を手放した。それがどんなに愚かなことであるかなど考えもせずに……。






 首都の郊外に、大きな研究施設が存在していた。表向きは国営の孤児院を内包する、人間の可能性を追求する研究機関であり、常時多くの研究員が出入りしていた。中には大勢の子供が生活する孤児院もあったが、その建物は明らかに他の施設に比べ規模が小さかった。何より孤児院は他の施設とは林で隔てられた場所にあり、他と同様一般人の立ち入りは硬く禁じられていたのである。
 研究施設の中には孤児院の他に、大学や病院に似た建物が多く存在している。中には職員の特別宿舎もあり、そこは独立した一つの街のようなものだった。
 白を基調とした広い建物の中を、律動的な歩調で進む白衣の人物がいる。赤味がかった茶色の髪を後ろで纏め、誰にもまねできない颯爽とした足取りの女性の名はエマという。もともと高い部類に入る身長だが、ヒールの高い靴のせいで更に彼女を長身に見せている。背筋の伸びた姿勢は美しく、彼女の意志の強さを象徴しているようでもあった。
 エマは美しい女であった。蝋のように白い肌、意志の強そうな薄いくちびる。何よりも凛とした光をたたえた瞳に人々は目を奪われるであろう。長い手足は華奢で優雅でありながらも、自信に満ちた様子から弱々しさなど欠片も窺えない。それもそのはず、彼女は国家の粋を集めたこの施設の中でも、トップクラスの頭脳の持ち主であったのだ。
 エマの生い立ちは常に光り輝いているように他人には見えるだろう。軍事国家の中枢で辣腕を振るう高級将校の父、たおやかで貞節な美しい母。父母の秀でた部分を強く受け継いだ彼女に、不自由などあるはずがない、と。誰からも羨まれ、あるいは嫉妬されるほどの恵まれた人生。しかしそれは現実を知らぬ愚かな人間の考えることであり、そんな風に彼女を褒め称えながらも内心では嫉妬に臍を噛む連中をエマは軽蔑してやまないのだった。
 確かにエマは恵まれた環境に生まれただろう。父の地位が高いことや母が美しいこと、物質的に不自由を感じたことが無いことは彼女も認める。しかしそれが必ずしも幸せなことであるとは限らない。何故ならエマの父は、彼女のことをまったく認めていない。母親にいたっては、娘しか生むことができなかったことを死ぬまで悔い続けていた。両親にとってエマは、何の意味も持たない存在だったのだ。
 エマが生まれたとき、待望の第一子が娘であったことに父親は露骨に落胆した。軍事国家となって久しいこの国では、当然のように男尊女卑がまかり通っている。ましてや軍人であり、自分の跡を継がせることを夢見ていた父親は、娘など欠片も欲しいとは思っていなかった。思いやりなど持ち合わせない父親は、出産直後の妻を詰った。傲慢な男たちが好むような華奢で従順な妻は夫の無体な仕打ちに憤るどころか自らを責め、産後の肥立ちが思わしくないにもかかわらず、すぐにでも息子を孕むことを望んだ。そうして彼女は臨みどおり妊娠したのだが、体力の戻らぬうちに孕んだ子供は流れ、二度と子供を生むことはできなくなったのである。
 父と母が諍う姿をエマは見たことが無い。母親は卑屈なまでに従順で、父の機嫌を損ねないことだけをエマに教え込んだ。父親が妻に暴力を振るったことは一度も無いが、それよりも酷い状態というのは幾らでもある。息子を生産できない妻になど用は無いとでも言うように、父親は多くの妾を囲って正妻と娘を省みることは無かったのである。
 しかし因果なもので、結局のところエマ以外に子供はできはしなかった。何度妾を変えても子供はできず、無駄な努力に終わっていた。それでもエマは知っている。本当は腹違いの弟がいたことを。その子供は待望の息子であったのだが、生まれながらに重い障害を持っていた。肥大した選民意識塊であった父は、自分のDNAから障害を持つ子供が生まれたことに激怒し、妾と息子を処分したのだ。そう、文字通りに『処分』を。そうしてエマには書類上の兄弟はいなくなり、彼女は父親の唯一の直系子孫となった。
 幼いころのエマは、奴隷のような母と傲慢な支配者である父とろくに口をきくことなく育った。政府の中枢に位置する父はほとんど家にはおらず、自分の生んだ子供が娘であることに耐えられなかった母親はエマをいないものとして生活した。結局母親はエマのことを認めず、ただ父親の機嫌を伺うことだけを言いつけてこの世を去った。もともと細かった神経を病み、衰弱して死んだのである。そんな母をエマは哀れとは思わなかった。反抗も知らずただ搾取されることだけに甘んじた愚かな女の末路だとさえ思った。生まれてから彼女の存在を否定しかしなかった母親に、情をかけてやる必要など無いだろう。ましてや、父親に向ける愛情など、存在するはずが無かったのだ。
 エマは優秀な人間だった。幼いころから秀でた美貌を有し、何よりも怜悧なほどの頭脳は人々を驚嘆させた。甘えることを知らず、頼ることをせず、ただ自分だけを信じ、エマは一人で大人になった。それでも小さいころは、誰よりも優秀であることが認められれば、両親が振り向いてくれるかもしれないという淡い期待を抱いたこともあった。しかしどんなにエマが優秀な成績を修めようと、多くの人々から賞賛されようと、父母の態度は変わらなかった。そうして幼いエマは落胆し、或いは絶望して、両親を憎悪するようになったのである。
 どんなに努力してもどれほど実力をつけても、決して彼女の存在を認めようとしない両親。ただ女だというだけで全てを否定する人間に、自らの愚かさを思い知らせてやるのがエマの目標となった。彼女のことを認めない人間は、両親だけではなかった。むしろ、女であるエマのことを認めてくれる存在の方がよほど珍しかったのである。
 それはエマの復讐であったかもしれない。そしてエマはそれを成し遂げられると信じていた。彼女は自分の才能を過信せず、努力を怠ったりはしなかった。緩んだ意識は隙を生み、堕落を呼び込んで破滅を導く。どんな甘い誘いも彼女を魅了することは無く、エマはただひたすらに自らに厳しくあった。当然学業では常に首席を保持し、国際情勢が不安定であるにもかかわらず、幾つもの国に留学をして更なる高みを目指した。こうして誰もが目を見張るほどの輝かしい経歴を作り上げたエマは、当然の成りゆきとして政府の要人となるべく第一歩を踏み出したのである。
 もしもエマが男であったなら、軍人になることを目指したであろう。軍国主義のこの国で、栄達を望むならばそれが最も手っ取り早い手段である。しかし現実的に彼女は女であり、男社会の軍組織で女が頂点に立つことは不可能だ。そのためエマは軍ではなく政府の要人となることを目指した。当然風当たりは強いであろうが、そんなものに怯む彼女ではない。目的のためならば手段は選ばず、父親の威光でさえも利用する。どれほど憎い父であっても、自分のために利用できるのならばそれをくだらないプライドなどで拒否するなど愚かとしか言いようが無い。冷酷なまでの現状認識はエマが自らに課したものであり、人を人とも思わないような傲慢な態度に多くの人間が反発を覚えたであろう。それでもエマは周囲を省みることなど無く、ただ己の道を邁進し続けた。心の無い鋼鉄のような女と言われようが、冷笑を浮かべるだけで一瞥すら与えない。エマは駒にはならず、駒を動かす側の人間になることを求めたのである。その実力は充分にあった。しかしそれこそが彼女の過信であり、同じ思考回路を持つ人間によってよもや自分が駒にされる日がこようなどとは、夢にも思わなかったのであった。





 エマが国の極秘研究機関、通称ENEDに籍を置くようになったのは、冬の終わりのことだった。医科学に関する膨大な知識と経験を持つエマに与えられた仕事は、国家機密に関わることだった。すでに第三次世界大戦へ秒読み段階となったこの世界では、常にどこかで戦端が開かれている。そう遠くない未来にニホンが巻き込まれることは自明の理であり、勝者となれば莫大な利益が転がり込む。そのためにすでにニホンでは全体主義的な国家思想、子宮レベルの国民管理、教育における軍人育成の徹底が行われていた。それは最早洗脳であり、国家レベルの集団ヒステリーとも言うべきその方法は、成功を収めていた。
 だがいくら国民が一丸となって戦争に参加しても、武力が上がるわけではない。そのためニホンのみならず世界中の国々が極秘に新兵器の開発に着手し、いかにして他国と差をつけるかに躍起になっていた。その中でニホンが選んだ大量破壊兵器は、人間という名の生体兵器であった。
 正確には兵器は人間ではなく、それに寄生するウィルスであった。『Nicole』と名付けられたウィルスが発見されたのはほんの偶然であった。戦争に対する恐怖心を無くし、死をも恐れず闘う兵士を作り出すために、特殊な合成麻薬の研究を重ねていた。その過程で偶然生み出されたのがNicoleである。そのウィルスを投与された人間は凶暴性が増し、そういう気分がするだけでなく実際に肉体能力や精神力が増強し、飛躍的に戦闘能力が増す。ウィルスの名前を取って『Project:Nicole』と名付けられたその極秘研究に、エマは請われて参加することになったのである。
 『Project:Nicole』はニホンにとって最優先すべき重要課題であった。プロジェクトは軍に属し、莫大な研究費用と人員を割く権限を与えられていた。そのため民間から優秀な人員を引き抜いたり、秘密の保持のために重要なセクションに関わる研究員には警護という名目で監視さえつけられた。生え抜きではない研究員、それも特に民間から引き抜かれてきた人間には入所の前に必ずあるテストが実施される。それは宇宙飛行士などが受ける心理テストに酷似したもので、精神的に不安定または秘密の保持が不可能であるとされた人間は、どれほど優秀であっても研究所の門を潜ることはできなかったのである。
 ところが、である。厳しいテストをパスして入所したはずの研究員たちの中に、ついに問題を起こす人間が出てしまった。民間の大手製薬会社であるRabbitから引き抜かれてきた若い研究員が、拷問まがいの暴行を被験者である孤児院の子供にくわえるという事件が起こったのだ。深夜遅くまで残業していた同僚によって偶然発覚したその事件は、軍でさえ不可侵と言われた研究所を脅かした。
 研究所はその研究成果も含めて全てが軍に属し、研究員たちの関係さえそれに似せられている。しかし生粋の軍人に彼らのやっていることが理解できるはずも無く、野蛮で横暴な軍人を研究者たちは内心で莫迦にしていたのである。しかし今回のことで軍は検閲を厳しくすることを決めた。湯水のように金ばかりを消費しながらも、プロジェクトはまだ実験の段階を脱していない。ウィルスを投与された兵士たちは確かに飛躍的に戦闘能力を増したが、全員が精神に異常をきたし、発狂して死亡した。彼らが戦闘に参加できる回数は一人につきせいぜい一回。それも上手くいった場合で、ほとんどが投与と同時にもがき苦しんで死亡したのである。そんな状態ではどんなに素晴らしい効果があっても、無意味に等しい。一日でも早くウィルスの完成をさせ、最強の生態兵器を作り出さねばならない。そしてそのためにエマは軍属の地位を与えられて研究所に配属されたのだ。
 エマに与えられた任務は、Project:Nicoleの完成を急ぐことである。彼女の才能を持ってすれば、そんなことは容易いだろうと研究所の所長は言った。見えない血塗れの手で肩を叩かれながらエマは、見え透いた嘘に内心で所長を軽蔑した。口では彼女を誉めそやしているが、エマの父親の威光や自分の権力の失墜を恐れているのは見え見えだ。どうせ女性を重要なセクションに突然登用することによって、不祥事に向けられていた関心を逸らせようという魂胆だろう。研究所で起きた問題は全てこの男の出世に関わってくるのだ。将来確実に官僚となるであろうエマに、恩を売っておこうという理由もあるかもしれない。或いは、研究員たちの不満を彼女の一身に集めるためか。
 しかしエマは無言で拝命を受けた。彼女にとってそれはチャンスであり、断るべくも無いことだ。目の前の男をいつか踏み台に駆け上るには、まず確かなキャリアが必要なのである。世界最強の戦闘兵器の開発者というのは、なかなか悪くない肩書きではないか。
 長く無機質な廊下を歩むエマの歩調は速い。黙っていても目立つ容貌の彼女が通り過ぎるのを、多くの研究員たちが見送った。際立った美貌もさることながら、冷たく冴えた表情に誰もが目を奪われる。突然現れて何の努力もせずに重要な任務に就いた小賢しい女。縦割り社会の男たちが彼女に好感を抱いていないのは当たり前のことで、ましてや他を見下すようなエマの態度は彼らを煽ったが、そんなことを気にかける彼女ではなかったのである。

「……失礼します」

 ノックのあとにエマが扉を開くと、柔らかい冬の日の射したオフィスにいた白衣の男がエマを振り返った。やや額の後退した、垂れ目の初老の男は柔らかに微笑んでエマを迎え入れた。

「ああ、来たか」

 凭れていたデスクから身体を起こすと、白衣の男はエマを手招く。彼はエマの上官にあたり、そして今日限りでその権限を彼女に引き渡す。高名な心理学者であり、エマも何度か彼の講義を拝聴したことがある。彼の業績は素晴らしいものであったが、理想が勝ちすぎるというのがエマの見解であった。そのためにこの度、Project:Nicoleの重要な任務を解かれることとなったのだ。
 上官はエマに手を差し出して握手を交わすと、不意に部屋の奥を振り返った。つられてエマが顔を向けると、驚いたことに窓際に男が立っていた。エマが入室してから一度も物音を立てず、空気のように存在を感じなかった男。

「ナノ、これからは彼女がわたしの代わりに君を担当してくれる」

 ナノと呼ばれた男は美しい若者であった。光に透けて金色に見える髪に、凪いだ湖沼を思わせる薄青い瞳。あまりに白すぎる肌は、どうして内側の血管や筋肉の色が透けないのか不思議なほどだ。
 この男が、とエマは息を呑んだ。上官はエマの手を離すと親しげにナノに話しかけた。ナノは表情を変えることなく上官に顔を向けている。どこか儚さを漂わせた表情は無機質で、陶器でできた人形のようであった。
 Nicole・Premier    それがこの男のコードネームである。多くの兵士たちを発狂に追い込んだ恐るべきウィルスの唯一の完全適合保菌者。Nicoleを完全に取り込み、どころかその体内で血液としてウィルスを作りだすことのできる人間。生体兵器の生きた完全体。この男が、とエマはナノを見つめた。ここへ来る前にデータや写真を何度も見ているのに、それでも新鮮な驚きを禁じえない。初めて目の当たりにする生体兵器は、あまりにも無防備すぎた。







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