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 ナノとの初めての会見は緊張のうちに終わった。エマの警戒に当然気付いていたであろうに、ナノは何の反応も見せなかった。これからは自分をドクターと呼ぶようにと言うと、

「……はい、ドクター」

 初めて聞く男の声は、どこか遠いところから聞こえるような不思議な響きがあった。そしてナノは、エマが退室するまで一度も口を開くことは無かったのである。
 新たに与えられたオフィスでナノに関するデータを開きながら、エマは腕を組んで眉根を寄せた。上官は親しげに『ナノ』と呼んでいたが、あの男のコードネームは『Nicole・Premier』であり、ニコルがウィルスの名前である以上プルミエと呼ぶのが正しい。ナノというのは今日限りで退官する上官が個人的につけた呼び名なのだそうだ。よって、彼のほかにプルミエをナノと呼ぶ人間はいない。
 上官の、ひいてはエマの任務は、プルミエの完成と監督である。プルミエはNicoleの完全適合者ではあるが、戦闘兵器としては未完なのである。すでに幾つもの作戦に参加し、華々しい戦果をあげてはいるが、軍は納得していない。これからエマが目指すのは、プルミエの感情の撤廃と軍事教育の完成だ。そして彼が他の被験者と何が違うのか、どうしたらウィルスに適合できるのかを見つけ出す。もしもいつかウィルスに侵されて発狂するのだとしたら、できるだけ早くにそれを発見することもエマの仕事だ。そのためにエマはこれから四六時中ナノと行動を共にすることになるだろう。彼の心理状態を把握し、状態に合った教育プランを作成する。それは心理学の学位を持ち、作戦立案能力にも定評のあるエマには容易いことのように思えた。
 プルミエは軍の所有物であって人間ではない。個人の尊厳や権利は無く、血の一滴、髪の一筋でさえ軍に帰属する。そのため彼には一切の自由が無い。一人で外へ出ることもできなければ、勝手に死ぬことさえ許されない。そんなことは当たり前のことだとエマは思っていたのだが、今日初めて当のプルミエを目の当たりにして、奇妙な感覚を覚えた。
 魂の抜け殻。それがナノに対するエマの第一印象であった。ただ亡羊と立ち尽くしていた男の姿は、直視すると曖昧なのに、視線を逸らすと急に輪郭が際立って見える。空気のようでありながら、意識せずにはいられない。それは人間というよりも何か他の物体であるかのような印象だった。

「…………幽霊のような」

 無意識のうちに呟いてエマは我に返った。静まり返ったオフィスで彼女の呟きを聞いていたのは壁際の時計くらいなものだろう。あまりにも非現実的な言葉に莫迦莫迦しくなってエマは書類を放り出した。どんなに奇妙な印象であろうが、相手は所詮人間に過ぎない。いや、軍の所有物だ。後々のことを考えて警戒は怠らないようにしておくべきだろうが、それ以上の感情もそれ以下の感慨もすべて抹消すべきだ。そうでないと、待っているのは彼女の上官のような末路だ。プルミエをナノと呼んだ上官は、余計な感情を研究にさしはさんだため、プロジェクトを外された。彼はナノを死んだ息子のように可愛がっていたのである。
 可愛がるというのがどの程度のことなのかエマは知らされていなかったが、少なくとも彼はナノのために実験の減少を申し出た。このままではナノは崩壊してしまう、と。当然それは却下され、実験は続行された。すると彼は今度はナノに余計な思想を吹き込もうとしたのだ。人間の平等や世界の平和。それらは軍にとって危険思想であった。そんなことをすればどうなるかなどわかっていたであろうに、莫迦なことだとエマは思う。たかが実験体にくだらない情をかけて輝かしい実績を棒に振るなど、愚の骨頂だ。おかげでこの重要なプロジェクトを任されるようになったのだから、エマにとっては感謝すべきことなのかもしれないが。
 深呼吸をして気持ちを入れ替えたエマは、猛禽類を思わせる冷たい眼差しを取り戻し、デスクに向かって仕事を再開した。いかにしてナノを完全体にするか。それだけが情熱を傾けるべき彼女の仕事なのだった。





 これまでのところ、ナノの感情の抑制は成功を見せている。新たに渡されたデータに目を通しながらエマは人差し指の第二間接をくちびるに当てて考えていた。
 彼女がナノの担当官となってすでに二ヶ月が経過している。その間にナノが何らかの感情を見せたことは一度も無い。軍事訓練のあいだも、食事の最中でさえ彼は表情を変えなかった。要人暗殺のシミュレーションを終え、脳波の測定のために別室にいる今もきっと無表情で診察台に横たわっているのだろう。それほどまでに彼からは感情が窺えなかった。
 どうやらナノは生まれつき感情の起伏に乏しい人間であるらしい。過去のデータを見る限り、他の被験者と比べて明らかにナノの感情地の乱れは少ない。もしかしたらこの施設に来る前にすでに何らかの感情コントロールの教育を受けていたのかもしれない。ともかく、それはエマにとっては歓迎すべきことであった。
 しかし半面で問題もある。ナノは反抗心を一切持っていないが、だからといってそれが必ずしもいいように働くわけではない。反抗心が無く全てに対して無感動で、与えられた任務をただひたすらに全うすることは軍人として当然のことだが、同様に彼には忠誠心が全く無い。上官の命令は絶対でありそれを拒否することなど有り得ないが、もし上官が何らかの意図の下に国家を裏切るようなことを命令しても、ナノは諾々と従うだろう。それでは困るのだ。
 諦観はかまわない。何を望もうがナノの思い通りになることなど未来永劫ありえないのだから。だが自暴自棄は困る。幸い今までナノが自棄を起こしたことは無いが、何事にも興味を示さないのは自己に対する興味もないということであり、貴重な実験体に容易く死ぬことを受け入れられては困る。彼は生ける軍事機密であり、その身体こそが実験の成果なのだ。もし戦争に参加した折、戦闘中に死亡でもされては死体が敵国に渡る可能性が高い。長い時間と莫大な研究費を費やした生体兵器であるのだから、必ず生還することが最重要命令だ。何も生に執着して欲しいわけではない。ただとにかく自己の重要性は理解させねばならない。
 感情を抑制しつつも生体兵器としての自己の価値を理解させた上で、それでも矛盾することなく命を投げ出させるにはどうしたらいいのか。長い思案の末、エマはナノに対して国家に忠誠心を抱くようにすべきだと考えた。彼の中で最も尊ぶべきものを『ニホン』という漠然とした存在に据える。象徴としての国家に忠誠を誓わせれば、もしもスパイなどに反逆するよう命令されても、それに従うことは無いだろう。多くの国民と同じように彼にも全体主義的な国家思想を与えるべきだ。その中でも自分が特に重要な役目を負っていると思えば、自然と自負が沸くだろう。感情の乱れは隙を作りミスを呼ぶが、忠誠心を植えつけることはそれと矛盾しない。今まで何も知らされずにただひたすら命令の消化だけをしてきたナノであるならば、乾いたスポンジが水を吸い上げるように軍国主義の思想に染まることは目に見えていた。
 エマの提案は賞賛を持って受け入れられた。あまりにも大げさな所長の賛同に内心で舌打ちをしたものの、提案が受け入れられたのは喜ぶべきことだろう。この件に関してエマの権限は絶大であり、全ては彼女に一任された。できれば忠誠の対象は明確であったほうがいいのだが、所長はそれに関しては何も言わなかった。所詮は無能者だとエマは彼を軽蔑していたが、事実は異なる。所長は無能者ではなく、彼は明確な忠誠の対象がナノの身近な人物になるであろうことを期待していたのだ。小賢しく尊大で自分こそが選ばれた人間であると勘違いしている小娘に。





 エマの権限が更に広くなったことはすぐに研究所内に知れ渡った。ただでさえ突然現れた傲慢な女にのさばられて面白くないのに、更に彼女が出世となれば嫉妬は憎悪に変化する。ましてやエマは他人を思いやったり謙遜したりすることが無い。年齢の高さで上下関係を作ったり、能力と関係の無い部分で他人を卑下したりするのは莫迦のすることだとエマは思っていたし、そう考えていることを隠そうともしなかった。それで彼女が不細工であったりせめて愛想がよければ話はまた違っただろうが、実際のところエマは際立った美貌の持ち主であり、自分の認めた実力の持ち主以外に対して微笑することさえ稀な人間であった。そして更には、矮小な人間の心理を理解しようなどという考えを持ち合わせてはいなかったのである。
 エマは自分の容姿に興味が無い。他人の容姿にも興味が無い。顔の美醜など、本人の努力によらない部分を賛美したところで何の意味があるのだろう。ただ親から受け継いだだけの遺伝的要素より、自らが望み努力して手に入れたもののほうがはるかに価値がある。だから彼女は何よりも努力を尊んだ。自己を高めることを常に求め、一切の妥協を許さなかった。幾人もの男たちが彼女の容姿に惹かれてやってきたが、向上心の無い人間に用は無い。中にはパートナーとなるべき人間もいたが、誰もがエマの強すぎる向上心についていけずに離れていった。しかしエマがそのことを悲しんだことは無い。脱落者に興味は無い。高めあうことのできないパートナーなど足手まといなだけだ。その高すぎる理想は同僚に対しても同じだった。無能でエリート意識ばかりが高い男たち。彼女の容姿に嫉妬する女たち。確かにエマは化粧もするしスカートも履くし、ヒールの高い靴も履く。しかしそれは全て、彼女に難癖をつけようと待ち構えている人間に口実を与えないためだ。服装にも行動にも一部の隙も無くとも、彼らはエマを中傷するのだから。
 どいつもこいつも愚かな莫迦どもばかり。そんな奴らに何故エマが愛想を振りまかねばならないのか。何故わざわざおもねらねばならないのか。同じ空気を吸っていることさえもおぞましいのに、無視してもらえるだけありがたいと思うべきだ。悔しければ努力を重ねて結果を出せばいい。いや、せめて努力だけでもしてみせればいいのだ。そうすればエマは決して侮蔑したりはしない。少なくとも彼女は、実らぬものだとしても努力を続ける人間には寛大であった。
 そう考えるとナノは非常に好ましい実験体であった。彼は一切無駄口を叩かない。エマが何か質問したときにだけ口を開き、話しかけられない限り永久に黙っている。時折諦観を垣間見せることはあるが、従順でエマの命令に諾々と従う。母のように卑屈な従順さではなく、ナノからは隷属的なものを感じることは無かった。
 また、ナノはウィルスのためかはたまた本人の資質か、優秀な頭脳を有しており、彼に何かを教えることが楽しくもあった。何の疑問もさしはさまぬせいか、ナノが物事を吸収していくスピードは驚異的で、エマでさえも驚きを禁じえなかった。特に戦闘技術の飲み込みの速さは超人的で、一度やって見せさえすれば彼は正確に模倣することができたのだ。なるほど、生体兵器とはよく言ったものだ。この時期ナノは何度か軍の特殊部隊に混ざって極秘で戦闘に参加したが、どれもが目を見張るほどの成果をあげた。エリートの中のエリートである特殊部隊の人間ですら、彼のことを恐れたほどに。
 演習後の脳波の測定を済ませたナノにいくつかの質問をしながら、エマはじっと彼を観察した。相変わらず感情に乱れは無く、真っ直ぐにエマを見つめて淡々と質問に答えている。彼女を見つめる瞳は硝子玉のように透き通って虚ろであり、そのくせ一切他人を踏み込ませない何かがある。その奥底にはもしかしたら抑圧された感情が渦巻いているのではないか。ふとそんなことを思ってエマは目を逸らした。

「…………今日はこのくらいにしよう」

 質疑の応答を書類に書き込みながらエマは言い、腕時計を見た。十七時を少し回ったばかり。普段よりやや早いが、今日のノルマはすでに達成した。あとはオフィスに戻って報告書を作成するだけだ。もうナノと一緒にいる必要は無い。
 エマは立ち上がりながらふと思いついてナノを呼んだ。

「……人間に限らず生物というものは、長い時間凝視されると敵対心を抱く。特に女は警戒心が強い。話すときに相手の目を見るのは大事だが、長すぎる注視は禁物だ。注意しろ」

「…………はい、ドクター」

 ゆるりと顔上げたナノは緩慢な動作で瞬きをした。なるほど、よくわかっているようだ。
 エマが先に立って部屋を出ると、いつもどおりナノが後からついてきた。エマよりも頭一つ分は背の高いナノは、一歩遅れて彼女に従うのが常だった。エマの歩調は速く律動的であり、硬いヒールが床を叩く音が響くが、不思議なことに同じ速度で歩くナノの動作は緩やかで、時折足音が不規則に消えることもある。彼の気配は無いに等しく、長い間足音がしないと本当に後ろにいるのか振り返って確かめたい衝動に駆られることもあった。それでもエマが背後を顧みることは無かった。ナノよりも優位の存在であるエマが振り返る必要は無いと思っていたし、どんなに気配が無くともすれ違う研究員たちの態度で彼がいることはわかった。研究員たちは殺戮マシーンであるナノを恐れ、必要が無い限り決して近寄ろうとはしなかった。だからこそ愚かなのだ。
 幾つかの部屋を通り過ぎたとき、前方に白衣を来た二人の男がいることにエマは気がついた。神経質そうな大柄な男は憎悪を隠しもせずにエマを睨んでいる。その後ろにはだらしなく脂下がった目にあからさまな嘲笑を浮かべた中年の男。どういうわけかは知らないが、その二人はエマを目の敵にしており、何かというと謂れの無い難癖をつけてエマを貶めようとしていた。当然エマは相手にせず、それが更に気に入らないらしい。こういった手合いはどこへ行っても必ずいるもので、エマは完全に無視を決め込んでいた。相手にするだけ莫迦莫迦しい。
しかしこの日は違った。二人の男はエマとすれ違う瞬間にこれ見よがしに嘲笑を浮かべ、下劣な侮辱の言葉を口にしたのだ。

「女王様のお通りだ。今日は誰にケツを振ったのかな?」

「バケモノまで咥え込みやがって、恥知らずの淫売が」

 二人の前を通り過ぎたエマの歩調が緩む。

「毎日二人っきりでナニやってんだか」

「大股開いてバケモノの調教するくらいなら、俺らも混ぜてくれよな」

 エマは足を止めると無表情で踵を返し、ナノはただ彼女の行動を見守った。ゲラゲラと下卑た声を上げて笑う男たちの一人の肩をエマは掴む。未だ嘲りの表情を浮かべたまま振り返った男が見たものは、大きく右手の拳を振りかぶったエマの姿だった。
 鈍い音が廊下に響き渡った。エマの拳は男の頬にクリーンヒットし、成り行きを見守っていた誰もが衝撃に息を呑んだ。不意打ちをくらった男は吹っ飛び、思いがけないエマの行動にもう一人の男が顔を引きつらせる。

「っつ、このアマ……!」

 男は拳を振り上げたが、それよりも早くにエマの肘鉄が鳩尾にめり込む。息がつまり苦痛で身体が曲がったところを、再び飛来したエマの拳が的確に顎を殴りあげた。幾らエマが女で体重も軽く力では男に劣っても、全体重を乗せた拳は重く、ろくに鍛えてもいない男を殴り飛ばすなど簡単なことだった。ましてやエマは、父親への反抗心から肉体的に強くなることをも自らに課し、軍隊での訓練も受けたことがある。彼女が体得したのは護身術ではなく殺傷術で、ひ弱な研究員の一人や二人、エマにとっては敵ではない。
 顎や頬を押えて蹲る男たちの前にエマは立ちはだかった。

「……軍属でありながら上官を侮辱するとはいい度胸だ。わたしが銃を持っていなかったことを感謝するんだな」

 処分は追って通達する、覚悟しておけと言い捨ててエマは踵を返した。彼女は普段より幾分か速い歩調でナノの元へ戻ると、思いがけない事態に固まっていた他の研究員たちが更に恐怖で身を竦める行動に出た。エマは男たちを殴ったせいで皮膚が裂け、血を滲ませた手でナノの頬を打ったのである。

「……………………」

 流石のナノもこれには驚いたように目を見張った。二人の人間を殴りつけたあとの右手に力は無く、音はしても痛くは無かっただろう。だがこんな風に訓練でもないのに誰かに殴られることは初めてで、微かに困惑の表情を浮かべてナノは高揚に頬を染めたエマを見つめた。

「誇りを持て! お前への侮辱はわたしへの侮辱であり、ひいては国家に対する侮辱だ!」

「………………」

「お前は国家に忠誠を誓った戦士だろう! 卑屈になるな、前を向け、誇りのために闘うことを恐れるな!」

 それだけを言い終えるとエマはナノには一瞥もくれずに歩き出した。それまで研究室の硝子越しに事の成り行きを見守っていた研究員たちもざわめきながら顔を出し、去ってゆくエマの後姿を見つめた。
 ナノは叩かれた頬を押えると、何も言わずに再びエマの後ろに従った。先を行くエマが歩調を緩めることは無い。ナノがついてきているかどうかなど今の彼女には関係無かった。ナノに向けた言葉は全て、エマが自分に対して言い続けていた言葉と同じだった。彼女の言葉は自分自身に向けられた言葉だったのだ。





 ふと気がついたとき、ナノはすでにそこにいた。そこは大きな建物の中で、広大な敷地内に立っている研究施設だった。気付くと彼は『プルミエ』という名前で呼ばれており、誰も彼の本当の名前を呼ぶ人間はいなかった。
 そのせいだろうか、ナノにとって名前は記号に過ぎなくなった。ずっと昔はそうではなかったような気がするが、彼の本当の名前を呼んでいた人の顔も声ももうおぼろげで、それが父母だったのかそれとも赤の他人であったのかさえもうわからない。しかしそんなことはナノにはどうでもいいことだった。今の彼はプルミエと呼ばれており、彼の担当官であるドクターだけが『ナノ』と呼ぶ。特別な名前は『ナノ』だけで充分だ。ましてやただの記号に拘る理由がナノにはわからなかった。
 ドクターはナノに色々なことを教えてくれた。どうやら彼に好意を抱いてくれているようで、ナノもドクターに好感を抱いていた。それ以前に、ナノに対して口をきく人間はドクターただ一人であり、必要も無いのに彼に声をかけるような人物はいない。誰もがナノを恐れ、恐怖心を気付かせまいと軽蔑し、彼を遠ざける。何故彼らが自分を恐れるのかナノには理解できる。未知の存在に出会ったとき、人間は恐れを抱く。ましてやナノの戦闘能力は人類のそれを遥か凌駕し、この研究所の人間を殲滅することとて不可能ではない。
 しかしナノにその意思は無い。彼にとってはこの箱庭が世界の全てであり、そのことに疑いを抱くことなどなかった。ナノは軍の所有物であって人間ではなく、権利などは一切存在しない。ナノが生きていられるのは彼が従順であるからで、反抗心や疑問を持つことは許されなかった。
 軍はナノに感情を抑制することを求める。だからナノは感情を切り離した。できる限り何も感じず、何も考えないように。もしかしたらそれは、ナノの防衛本能がそうさせたのかもしれない。何かを考え、何かを感じるようなままでは、彼の精神は傷つけられてしまう。物体としてしか彼を見ない人間たち。尊厳を奪われた生活。人格の否定。感情のあるがままに受け入れるにはあまりにも過酷な状況。だからこそナノは感情を無くしていったのかもしれない。
 そんな中での唯一の味方であったドクターは、ついにナノから引き離された。何があったのかなどナノに知らされることは無いが、それでも彼が自分のために何かをしてくれようとしていたのだろうことはわかる。彼がいなくなってしまうと思うと身体の中に穴が空くようであったが、ナノはやはり表情を変えることはなかった。彼にとって現実は霧の向こうの出来事のようなもので、例え身体の一部が失われても、ナノはフィルターを通すようにしか感じることは無かったであろう。
 新しいドクターは若い女性だった。周囲の人間は彼女を類稀な美女と言うが、ナノにはよくわからない。他より目が大きいとか肌が白いとか鼻筋が通っているという識別はできるのだが、それが他よりも優れているのかどうかがナノにはわからなかった。彼にとっては容貌など所詮識別のための記号でしかない。わかることは彼女が若い女性であるということだけだった。そしてそれはナノにとって彼を『ナノ』と呼ぶ人間がいなくなるという程度のことでしかなかった。
 新しいドクターの名前はエマというらしい。前のドクターが彼女に引き合わせる際にナノに教えてくれたのだが、役に立つことはほとんど無いだろう。エマはどうやらかなり地位の高い軍属として赴任してくるらしく、一時期は彼女の噂で持ちきりだった。そのためナノにもわずかだがエマの情報があった。何でも父親が高名な将軍であるらしく、そのため優遇措置が取られての抜擢であるらしい。ナノの担当官となることは出世であるらしく、彼女に対する羨望や嫉妬は後を絶たなかった。
 どうやらエマに対する風当たりは、彼女の生まれのせいだけではないようだった。ナノにはよくわからないのだが、彼女が真っ直ぐ前を見て歩くだけで不満を感じる人間がいるようである。検査のために連れ立って歩いていると、これ見よがしの中傷が聞こえてくることもあった。だがエマはそんなものに耳を貸さない。何も感じていないどころか、聞こえてすらいないように彼女は誹謗中傷を黙殺した。非難した相手に堂々とされると、ひとは返って羞恥を覚えるもので、エマの態度は彼女の正当性を知らしめるかのようだった。
 かつてはナノも中傷に憤りを覚えたことがあったように思う。不当な言いがかり、差別、蔑視に感情が動かされることもあったはずだが、それは遠い昔のことで今のナノが何かを感じることなどは無い。きっとエマもそうなのだろう。常に一歩下がって後ろを歩きながら、そんな風にナノは考えていた。しかしそれが間違った認識であったことは、すぐに知れることとなる。





 エマは不思議な人間であった。
 どんな風にと問われたら無表情でナノは黙り込むだろう。上手く説明は出来ないが、それでもエマは他の人々とは違っていた。まずナノから目を逸らさない。ほとんどの人間は彼と向かい合うことを恐れた。彼の眼を見ていると見透かされそうで怖いと言った兵士がいたことをナノは知っている。それからエマは彼に近付くことを何とも思っていないようだ。前のドクターでさえ当初は一定の距離を置いていたのに、エマは警戒はしていても一歩の距離を恐れない。実験のために採血をするときでさえ、慣れた手つきで無造作に注射針をナノの腕に差し込む。彼の身体に流れる血液こそが最強の兵器であるにもかかわらず、エマの手つきに動揺は見られなかった。それどころか、脳波の測定のためにコードを取り付けたナノの身体に平気で触りさえした。特殊な訓練を重ねた軍人ですら彼の浮き上がった血管に眉を顰めるというのに。
 どうやらエマはナノが怖くないようだ。彼女にとってナノは純粋な研究対象であり、それ以外の何者でもない。でなければ何よりも従順で絶対服従の部下であり、恐れる必要など無いかのようだった。
 そんな風に扱われるのはナノにとって初めての経験である。だからこそエマは不思議な存在だった。それが心地よいのか居心地悪いのかよくわからない。しかしナノがどう思ったところでエマを拒否できるわけではなく、一々何かを感じることは無意味だ。彼女を理解する必要は無い。受け入れる以外に選択肢は無いのだから。
 こうしてナノとエマは行動を共にした。エマに対する中傷は日に日に度合いを増していくようであったが、彼女は振り返らない。これこそが完全に抑制された感情の賜物なのだろうか。だがそれは違った。エマはある日突然、ナノを驚愕させる行動に出たのである。
 エマが二人の男を足下に沈めたとき、ナノは少し離れた場所で彼女を見つめていた。ナノの目から見ても彼女の動きは滑らかであったが、やはりプロのものではない。それでも何の軍事訓練も受けていない男たちを叩きのめすことには不自由しないだろう。彼女が何らかの武道を習得していることは初めからわかっていた。彼女の足運びや周囲への警戒の仕方は、単なる研究員のものではない。データの採集のために行われる質疑応答でも素人では思いつかないような質問が混じっていることは度々だった。あらかじめ決められていた問いかけではなく、応答中に思いついたようなものも多く、エマが何らかの訓練を受けているであろうことはナノにはすぐにわかった。
 だからエマが男たちを打ち倒したとしても、別段ナノは驚かなかった。彼女に対する中傷の中でも最も下劣な、謂れの無いものを発する男たちであったし、上官に対する侮辱が刑罰の対象になることは周知の事実である。軍に属する人間でありながら上官を蔑ろにして無事でいられるはずは無い。だからエマが彼らを殴り倒してもナノは特にどうとも思わなかった。彼を驚かせたのは、戻ってきたエマが彼の頬を平手で打ち据えたからである。
 ナノにとってエマが振り上げた手を避けることなど造作も無かった。しかし彼は頭では殴られるとわかっていたにもかかわらず、それを回避することができなかった。身体が動かなかったというより、殴られるということが信じられなかったのだ。
 困惑の表情を浮かべてエマを見ると、彼女は怒りに打ち震えるかのようにナノを怒鳴りつけた。

「誇りを持て! お前への侮辱はわたしへの侮辱であり、ひいては国家に対する侮辱だ!」

「………………」

「お前は国家に忠誠を誓った戦士だろう! 卑屈になるな、前を向け、誇りのために闘うことを恐れるな!」

 凛とした声が消えてエマがナノから目を逸らす瞬間、彼女の充血した目が微かに潤みを帯びていることに気がついた。エマは血の滲んだ右手に構うことなく歩き出す。彼女の言葉は今までに無い思想であり、無意識にナノはエマの後を追っていた。困惑のまま瞬けば瞬くほどにエマの後姿は鮮明になり、ナノの網膜に焼き付いてゆく。霧の向こうの出来事であるような現実は突如として色彩を帯び、エマという人間をナノは突然認識した。そうしてナノはこのとき初めて、エマが美しいことに気が付いたのである。







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