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 長い廊下を律動的な歩調で進む一つの影。白衣を纏った姿勢のいい後姿はエマである。彼女は手にした書類に目を落としながら淀みない足取りで廊下を進む。すでに深夜にさしかかった時刻であるから、彼女の他に人の気配は無い。別の階層へ行けば深夜勤務の人間はいるだろうが、彼女のセクションはあえて深夜に働く必要が無いので今はほとんど無人の時間帯である。彼女がこれほど遅い時間まで研究所にいることは決して珍しいことではない。仕事に関して一切の妥協を許さないエマは、時間の経過を忘れて研究に打ち込むこともしばしばだった。どうせ住居は研究所から少し離れてはいても施設内にあるのだし、帰ったところでシャワーを浴びて寝るだけのことだ。そうでなければ自宅の書斎で仕事をするのだから、だったらオフィスで残りの仕事を片付けていても変わりは無いだろう。
 一日十二時間以上エマが働いていることは周知の事実である。そのことを多くの研究者たちは忌々しいと感じているようであったが、中には感心している人間もいるようだ。エマのスタンスがどうであれ、彼女の赴任以来ナノの生体兵器としての完成度は目に見えて向上している。更にウィルスの受容体となるには一定の年齢に達せねばならないことを証明したのは彼女であり、また第二次成長期を過ぎると保菌者となれる可能性が格段に下降することもわかった。エマが決して七光りや飛び交う噂のとおり生まれ持った美貌で今の地位を手に入れたのではないことに、誰もが薄々気が付き始めていたのだ。
 エマは書類に目を落としたまま照明の消された研究室の前を通り過ぎてゆく。本来人のいないはずの時間帯であるので廊下の照明は非常灯のみとなっている。文字を追うことはできるが柔らかいオレンジがかった明りの中では読みにくくてたまらない。何より一日中酷使された目は休息を要求して文字を霞ませ、エマは何度も瞬きを繰り返して書類の文字を追っていた。
 どうやら今日はここまでのようだ。書類の最後のページを読み進めながらエマは廊下の角を曲がる。できればこの書類に手書きででもいくつか修正を加えておきたかったが、いい加減疲労がたまっているようだ。疲れているときに無理に働いてもミスを犯しやすくなるだけなので、万全を期すには明日に持ち越した方が懸命だろう。明日にでもできる仕事なのだから、より完璧を目指すには休息をとったほうがいい。もしかしたらその間に、もっといい考えが浮かぶかもしれないのだから。
 エマはIDカードの下がった白衣の胸のポケットにペンを挿すと、書類を閉じて表紙に目をやった。これはデスクの上に置いておこう。その前に訂正をする予定のページに付箋をつけて…………。
 オフィスについてからの行動を考え始めたエマの視界の隅で、何かが動いた。彼女がはっとして振り返ったのとほぼ同時に、逆側から誰かが飛び出す。しまったとエマが舌打ちをする間も無く彼女の身体を衝撃が襲う。腰から駆け上がる焼け付くような衝撃。悲鳴さえ口をついて出ることは無く、エマは目を見開いたまま床の上に倒れこんだ。身体中から冷や汗が吹き出す。目の前が奇妙に明滅している。声が出ない。指の先さえ動かせない。
 一体何が起こったのか理解もできず、喘ぐように呼吸をするエマの身体を誰かが蹴り上げた。指一本動かせない彼女は咳き込んで仰向けになった。唯一自由に動く目が捉えたのは二人の男の影だ。明滅を繰り返す目で必死に見上げた男たちは、かつてエマが地に平伏させ、解雇の通達をしたあの男たちであった。





「いい様だぜ」

 エマの髪を掴んで近くの研究室に引きずり込んだ男は、手にしたナイフで彼女の髪を切り刻みながらゲラゲラと笑った。脂下がった目に涙さえ浮かべる男は明らかに様子がおかしい。酔っているのかそれとも何かドラッグを使用しているのか。もう一人の神経質そうな男は額に青筋を浮かべている。男が手にしているのはスタンガンのようで、エマの身体の自由を奪ったのはそれだった。

「ほらほら、もっと美人になったぜ女王様」

 ナイフを手にしたままエマの顔を殴りつけて男は笑う。暗い室内で時折垣間見える男たちの顔は悪魔のようで、エマは生まれて初めて戦慄を覚えた。逃げ出そうにもかろうじて腕が持ち上がるようになったばかりで、悲鳴を発しようにも舌がもつれて声が出ない。男たちは笑いながらエマに暴行を加え、罵声を浴びせかけた。お前のせいで全てを失った、お前のせいで人生が滅茶苦茶だ、お前のせいで、お前のせいで…………。
 腹部を蹴り飛ばされてエマが胃液を吐いて倒れこむと、男たちは暴行の手を止めた。

「やべえやべえ。殺しちゃいけないよな」

 ナイフを手にした男は盛んに鼻をすすっている。どうやら粘膜から摂取する粉末タイプの麻薬を使用しているようだ。唾棄すべき下衆どもめ。エマは激しく咳を繰り返しながら頭をフル回転させた。どうにかして逃げなければ。殺す気は無いようだが、麻薬中毒者の言うことなどあてにはならない。いつ気が変わるかわかったものではないし、助かったところでこのままでは重症は免れないだろう。この身体さえ自由に動かせれば、思い通りになどさせないのに。この腕さえ自由であれば、必ず息の根を止めて思い知らせてやれるのに!

「お前に思い知らせてやる」

 不自然に上ずった声でスタンガンを手にしていた男がエマの身体を壁際に蹴り飛ばした。背中が壁面にぶつかって息が止まる。白衣の胸からペンやIDカードが飛び散った。
 男たちは下卑た笑いを浮かべながらエマの前に立ちはだかった。脂下がった目じりを更に下げて、男がエマの足を蹴り開く。

「何するかわかるよなぁ?」

 しゃがみこんだ男はエマの服にナイフを当てて一気に切り裂いた。露になった白い肌に、血の気が引くのをエマは感じた。切っ先が当たって胸に怪我をしたことよりも、男が脚を掴んだことのほうが恐ろしかった。強姦される。エマは咽喉の奥からくぐもった悲鳴を上げた。
 強姦は身体的な怪我をほとんど負わせないにもかかわらず、精神的ダメージの巨大さで数ある拷問の中でも群を抜いて効果的であるとされる。どれほど強靭な精神力の持ち主でも、それを耐え忍ぶのは至難の業だ。ましてやエマは軍事訓練を進んで受けてはいても、拷問に対して耐性をつける訓練は受けていない。どれほど彼女が精神的に強いとしても、耐えうることは難しいだろう。
 エマが慄く様子に男たちが絶えず哄笑を上げた。一気に彼女を嬲らずに、じわじわと苦しめるつもりなのだろう。エマは動かぬ身体に必死になって命令する。動け、動け、動け!

「ひゃはは、ほら、泣けよ。泣いていいんだぜ?」

「どうした、上官を侮辱してるのに、今度は怒らないのかよ?」

 男たちがエマの身体をわし掴む。痣になるほど乱暴な所作。スカートが切り裂かれ、白い脚が露になった。エマはその間も必死になって頭を回転させていた。頭上にある出入り口の側の壁に、非常警報のボタンがある。ボタンを押せないとしても、せめて扉の側で悲鳴を上げれば、誰かが気付くかもしれない。どうにかして一瞬の隙を作り出さねば。それさえできれば或いは助かるかもしれない。
 ナイフをもう一人に押し付けた男が笑いながらズボンのベルトに手をかける。麻薬を摂取しているせいか手つきがあやふやで、ガチャガチャと音を立ててもなかなかベルトは外れない。

「早くしろよ」

 スタンガンをどこかへ仕舞ってナイフを手にした男が甲高い声で文句を言うが、男は苛立ったように舌打ちするだけで返事をしなかった。
 投げ出されていたエマの手に何かが当たった。横目で見ると白衣の胸から零れたペンだ。エマは最小の動作でペンを掴むと、扉までの距離を測る。通常ならば五歩の距離。足は動くだろうか。這いずったのならばどれほどの時間がかかるだろうか。

「くそっ、面倒くせえ」

 未だベルトをいじっていた男の腿に、渾身の力を込めてエマはペンを突き立てた。

「ぎゃああああっ!」

 男は仰け反ると隣の男を巻き込んで倒れこむ。その隙を突いてエマは身体を起こしたが、足がもつれて走ることはできなかった。

「この売女!」

 扉まであとほんの少しの距離を残してエマは再び床に引き倒された。打ちつけた肩と手首に激痛が走る。脚が、脚が、とわめく男は床に転げたままで、ナイフを手にした男がエマに圧し掛かる。

「殺してやる、ぶっ殺してやる!」

 男は額に浮かべた青筋を更に増やし、ナイフを持った手を振り上げた。
 もう駄目だ。
 全てはここで終わるのか。
 わたしの人生は一体何だったのか。
 悔しい、悔しくてたまらない。
 力さえあれば、あとほんの少しの力さえあれば……。
 エマがそう考えて強く目を瞑ったときだった。頭上から鈍い音が響いたのは。

「ぐぁああああっ!?」

 思いがけず降ってきた悲鳴にエマは目を開ける。男はエマに馬乗りになったまま奇妙な方向に折れ曲がった腕を掴んでいた。その背後にもう一つの影。長身の男は無造作に悲鳴を上げる男の首を掴んで引き上げる。大柄な男は猫のように簡単に持ち上げられ、くぐもった悲鳴を上げながら側にあったデスクに投げ飛ばされた。
 あっけに取られて声の出ないエマに影となった男が屈みこむ。廊下の窓から差し込む淡い光に照らされたのは、人形のような白い顔。ナノだ。
 プルミエ、と口走りかけてエマは息を詰まらせた。腕は動いても舌はまだもつれている。ナノはエマの無事を確かめると立ち上がって床に這いずった二人の男を見つめた。緩やかに一歩を踏み出す瞬間にナノの瞳が鮮やかな紫の色彩を帯びたことにエマは気が付いた。彼女は無理矢理上体を起こすと、

「ナ、ノ…………」

 プルミエ、と呼んでいる暇は無かった。ナノは脚を押さえて蹲る男の首を掴んだままエマを振り返る。

「…………殺、すな……」

 ナノはゆっくりと頷くと、男の脚に刺さっていたペンを引き抜き、今度は肩に突き立てた。再び悲鳴が上がり、放り出された男は泣き叫んで床を這いずり回った。投げ飛ばされた男は気絶しているのかピクリとも動かない。ナノは二人の男に一瞥をくれると、緩やかな足取りでエマの元へ近付いた。床に片膝をついたナノはエマの状態を確認して目を細める。自分が半裸に近い状態であることにようやく思い至ったエマは、突然ナノが男であることに気が付いて慄いた。ナノは自分の着ているシャツに手をかけた。彼の行動にエマは血で薄汚れた胸を痺れる腕で覆い隠そうとする。この男にはどうしたって敵わない。逃げられる可能性はゼロよりも低い。
 恐慌に陥りかけたエマに、ナノは脱ぎ去ったシャツをそっとかけてやった。エマはビクッと身体を震わせ、安定しない視線でナノを見上げる。瞼は腫れ上がり、額やくちびるが切れて血が滲んでいる。目元の痣はしばらくの間残るだろう。幸い鼻の骨は折れていないようだ。
 掠れた声でナノとエマが呟く。混乱のためか事態が把握し切れていないらしく、エマの表情は強張っている。

「エマ…………?」

 小首を傾げてナノは彼女の名を呼んだ。よほど恐ろしい思いをしたのか歯の根が合っていない。少し躊躇った末にナノはエマの顔に張り付いていた髪を右手の指で除けてやった。警備の人間が悲鳴に気付いてやってくる前に、せめて男たちから引き離してやった方がいいだろう。背中に腕を回すとエマは身を強張らせたが、くちびるを噛んで悲鳴を飲み込んだ。この期に及んでの気丈な振る舞いにナノは眉尻を下げてエマを見つめた。

「…………かわいそうに……」

 ナノの言葉の意味が一瞬わからず、エマは瞬いた。気付くと力強い腕に抱きかかえられており、男たちとは逆の部屋の隅に下ろされる。見上げるとナノは心配そうに彼女を見つめていた。
 かわいそう?
 誰が?
 わたしが?
 …………咽喉の奥、心臓の上の辺りで感情が爆発した。エマは声を上げて泣きながらナノにしがみついて離れようとしなかった。赤ん坊のように泣きじゃくるエマに戸惑いながら、ナノは不器用な手つきで彼女の髪を撫でた。しがみついたナノからは安堵を誘うような何かとてもいい香りがした。





 エマの事件はすぐに知れ渡った。それというのも、エマが翌日、暴行のために腫れ上がった顔を隠しもせずに研究所に現れたからである。彼女は軍から派遣されてきた捜査官に進んでどんな協力も惜しまないことを約束した。また、研究所のずさんな管理体制に一石を投じ、軍事機密の保持のためにも安全管理と警備体制をもっと厳しくすべきだと提案した。すでに解雇をされた研究員に容易く侵入を許すようでは話にならない。幾ら相手が内情を熟知しているとは言っても、これでは他国のスパイなど我が家のように入り込めるだろう。
 脱臼した肩と手首を白い三角巾で吊ったエマの言い分は誰の反論を受けることも無く受諾された。管理体制は見直され、警備のための監視カメラや人員は増やされることとなった。世界情勢が刻一刻と不安になっている時期である。警戒してしすぎるということは無いだろう。
 美しい顔に怪我を負ったことを隠しもせずキビキビと指示を下すエマを、多くの人間が恐れを持って見つめていた。感情の無い鋼鉄の女。しかし彼女を見つめる視線の中に、尊敬の入り混じったものがあることを、否定できる人間はいなかった。
 エマの立会いの下、捜査官はナノに対しても尋問を行った。軍事兵器であるプルミエが命令も無しに行動を起こしたのはこれが初めてである。理由を問われたナノは無表情のまま淡々と尋問に答えた。

「悲鳴が聞こえました。緊急事態に際しては個人の裁量に任せるとドクターに言われています」

 エマはナノに教えている。有事の際、判断を仰ぐ上官がいない場合は、命令がなくとも独自の裁量で行動することを許可する。また身体が多大な損傷を被り、生命の危険にさらされた場合、自己の安全を最優先で確保すること。万が一敵の手に落ちるようなことがあれば、一切の情報の漏洩を防ぐため、跡形もなく自己を消滅させること。これらに反しない限り、上官の命令は絶対であり、その安全を確保すべし。

「ドクターは上官であり、安全を確保することが最優先でした」

 ナノの目は薄いブルーであるが、彼の眼は日光にも暗闇にも強い。不審な悲鳴を聞きつけて現場に駆けつけたナノは、暗闇の中でナイフを振り上げた男と組み伏せられた白衣の人物を見つけた。床に散乱したネームプレートからそれがエマだと知ると、彼の上官を助けるべく行動したのである。
 尋問はすぐに終了し、捜査官は立ち去った。もともと形式的なものであり、恐らくナノの状態を観察することが目的であったのだろう。ナノは始終無表情のままで、尋問の間エマもまた微動だにしなかった。
 捜査官が退室すると、エマは詰めていた息をそっと吐き出した。あとで事件直後のナノのデータを送るように言われることは目に見えていたが、一先ずは肩の荷が下りた。デスクの上で組んでいた指を解くと、ナノがこちらを見ていることに気がついた。無感情な青い瞳はただエマに向けられている。視点の定かでないナノの目が自分の顔に広がる怪我をとらえるのが不快で、エマは真っ向から彼を見つめ返した。
 怪我を凝視されるのは弱みを晒しているようで苛立ちを覚える。ましてや昨夜、不覚にもエマは彼に縋って声を上げて泣いた。今まで誰にも晒したことの無い醜態を、この男は知っている。そう思うと自然とエマの視線は険しくなった。
 ナノは眩しいものを見るように目を細めてエマを見た。彼は挑むようなエマの視線を恐れ気も無く受け止める。

「…………髪を切ったのですね」

 突然投げかけられたナノの言葉は場にそぐわず、エマは眉を顰める。切り刻まれた髪をどうにか整えると、長かった髪はすっかり短くなっていた。異国の音楽を思わせる声は、ただ思ったことを口に出しただけのように思えるが……。

「ああ」

 短く言ったエマを見つめながらナノはゆるやかに瞬きを繰り返す。無表情であるのに、昨日までとはどこかが違うような気がしてならない。昨夜のナノには表情があった。憐憫と、それから戸惑いの。
 ふと思い立ってエマはナノを見つめた。

「……昨夜、わたしを『エマ』と呼んだな」

 ナノは肯定するように瞬きをする。

「何故だ?」

 問いかけにナノは目を逸らした。どこを見るでもなく壁面を漂った視線はナノの無表情の裏に隠された感情を表すようで、エマは彼の横顔を見つめた。ナノは彷徨わせていた視線をエマに戻すと、

「…………あなたが『ナノ』と呼んだから……」








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