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エマという存在はナノを不安定にした。それまでナノは特定の誰かに気を取られることなどは無かった。誰を見ても何も感じず、何を言われようがどう思われようがそれはナノにはどうしようもない、どうでもいいことだった。
この世にナノの思い通りになることなど一つも存在しない。全ては誰かの思惑によって左右され、そこにナノの意思は関係ないのだ。ナノに許されたのはただ願うことだけ。口にさえ出さない限りは、誰にも知られることは無い。叶えられることは永久に無い代わりに、奪われることの無いただ一つの自由。
彼は気付いていた。自分が無感動のただ生きているだけの物体になってしまっていることに。それは周りから強要された結果だが、拒否することをナノがしなかったのも事実である。今更そんなことをして何になるだろう。もともと感情の薄い自身が、本当に感情を消したところでどうということもない。むしろ完全に感情を消去してしまえば、今よりもずっと楽になれるかもしれない。
それはつまりまだナノに感情があるという証明であったが、彼はそのことに気付かなかった。或いは気付かない振りをして諦めた。諦める以外に道はなかったのである。
それがエマという存在の出現によって揺さぶられることになろうとは、当の本人であるナノでさえ思わなかった。突然認識したエマの存在は強烈で、あの日の彼女の様子が脳裏に焼きついて離れない。エマは美しかった。しかしそれは彼女の容姿のことではない。ナノには今でも容姿の優劣は理解できない。彼がエマを美しいと思うのは、苛烈なまでのその人格のためだ。
エマは強い人間であった。これまでナノは多くの人間を目の当たりにしてきた。幾多の戦争を生き抜き、武勲を立ててきた軍人の強さともまた違う。実力に裏打ちされた自負や、いかなる障害にも揺るがぬ精神。或いは魂とでも言うべきだろうか。それこそがエマを美しく思わせた。
恐らくナノは、エマの手足が欠けていようが、彼女が全身ケロイドであろうが、やはり美しいと思ったことだろう。誰にも負けぬよう、決して隙を見せぬように気を張るエマ。自分以外の全てを受け入れず、かといって卑屈にもならずに孤高であることを自らに課したエマ。彼女が孤立した存在であることは初めからわかっていたが、今ではそれが痛々しいように思えてならない。それでも決して弱みを見せず、強くあることを望む彼女をナノは美しいと思った。
その感情の名前をナノは知らない。誰も教えてくれなかったし、興味も無かった。これからも彼が知ることは無いだろう。
気付くとナノはエマを目で追っていた。何故か彼女の一挙手一投足が気になってたまらない。今まで聞いていたものと何ら変わらないはずなのに、声を聞くと心地いい。特に戦場から帰還した直後に彼女に会ったとき、自分の中に何か温かいものが満ちるのを感じた。それはとても不思議な感覚であった。
エマはナノに今までに無いことを教えてくれた。今まで誰も教えてくれなかった感情の抑制をする理由、ナノの立場について。より高度な戦略に加わるために、外国語などの授業を受けるように提案したのもエマだった。これから第三次世界大戦が勃発するに当たって、ナノの役目は単なる大量殺戮兵器以上のものになる。これまでの実験で、ナノには多くの適性や才能があることが認められた。そのため彼にはスパイ活動や情報操作、他国の機密を暴く工作員としての役目も期待されるであろう。そのためには戦闘術以外にも多くのことを学ばねばならない。
エマは感情の抑制を奨励しながらも、ナノに感情があるかのように振舞う術を学ばせた。暗号の解き方や輸送機の操縦方法、異文化の習慣や礼儀作法、心理学や医術についての講義も受けた。戦場でただ人を殺せばいいのではなく、仲間の救出も彼の任務になる。要人の暗殺や他国への潜入のためにも、それらは必要なことだった。
授業はつまらないものではなかった。ナノの知能指数は驚くほどに高い。彼は物を知ることが嫌いではなかったし、単調な日々に退屈もしていた。前のドクターがいなくなってからは、彼に本を与えてくれる人間もいなくなった。故にエマの与えてくれる授業の数々は、ナノにとって好ましいものだった。
中でも何よりナノを喜ばせたのは、外国語の授業だ。異国の言葉を学ぶのが楽しいという以前に、講師がエマだったのだ。彼女はこの時代に珍しく留学の経験が豊富であり、異国の文化に通じていた。彼女から直接聞く文化の違いや宗教観はナノの興味を刺激した。しかし一番彼を喜ばせたのは、講義の間は二人きりだという事実だろう。データの採集などとはまた違う雰囲気に高揚を覚える。彼女に触れてみたいと思ったこともあった。だがそれはできない。監視カメラがあるからではなく、ナノは彼女に触れることを躊躇った。彼の手によって多くの血が流された。それが穢れであることは初めて戦場に出た日から周囲の人間によって知らされていた。どんなことをしても決して浄化することのできない穢れ。その手で触れるにはエマの存在は清浄すぎた。これほど美しい人に触れていいわけがない。もしも穢れをうつしてしまったらと思うと、恐れにも似た感情を抱き、ナノは左手を強く握り締めた。
暴漢に襲われた事件の後始末を終えると、エマは休暇を取った。痛々しい彼女の姿を直視できなかった他の研究員たちはほっと胸を撫で下ろしたようである。エマは休暇の間研究所を離れ、山間部にある避暑地のホテルに滞在するのだそうだ。そのことをナノが知らされたのはいつもの時間に教室代わりの個室で、代理の講師として現れた軍人によってだった。
どうやらエマが自分に対して反発に似た警戒心を抱いてしまったことはわかっていたが、彼の担当官でありながら一言も言ってもらえなかったことは少なからずナノを落胆させた。表面上は相変わらずの無表情であったが、彼女のいない生活は張り合いが無く、時間の経過がやけに遅く感じられる。彼女のいない世界は再び霧の向こうの出来事のように感じられた。誰が何を言おうがナノにとっては他人の記憶を見るようで、実感というものが無かった。
だからこそエマが二週間の休暇を終えて戻ってきたとき、素直に嬉しかった。怪我の消えた顔は理知的に輝き、眩しいほどにナノは感じた。休暇の間に自分と折り合いをつけたのか、エマの態度は以前と同じようになっていた。まるで何事も無かったように。そのため二人の間にあった緊張も、秘密を共有する連帯感も、全てがうやむやになって消え去った。それはナノにとって嬉しいような、惜しいような複雑な感情をもたらしたが、やはり彼はそれに気が付かないふりをした。感情に名前を与えることはナノにとって禁忌であったのだ。
それから数ヶ月。ナノの感情値の乱れは数値上限りなくゼロに近くなっていった。彼は人を殺すことに何ら感情を動かされはしない。生と死は等価であり、生きていないということと死んでいないということの差異を彼は理解できなかった。医学上の死の定義を幾つも教えられたが、ナノにとっては心臓が止まり脳の活動が停止する、ただそれだけのことだった。だからナノは殺されることにも疑問を抱かなかった。彼が殺すのならば誰かが彼を殺すのも当たり前のことだろう。苦痛があろうが、悲劇であろうが、死は死以外の何ものでもなかった。それは哲学の部類に入る思考である。
ナノにとっては生きている必要が無い以上、死ぬ必要も無かった。彼はふと何故食物を摂取してまで生きていなければならないのかという疑問を抱いたことがある。そのことについてエマは彼を簡単に切り捨てた。
「莫迦かお前は?」
外国の歴史の授業で、自らの正当性を証明するために毒を煽って死んだ哲学者の講義の最中のことだった。机の下で優雅に脚を組んだエマは真っ直ぐナノを見つめる。
「人間は生まれたいから生まれてくるのだ。胎児が生まれることを母体は止めることが出来ない」
どんなことがあろうと胎児は自殺をすることはない。生きていたいから生きているし、生まれたいから生まれてくる。だからお前も生きているのだ、と。
あまりにも簡単に切り捨てられ、ナノはエマを見つめた。戦場にいるときはともかく、こういうときのナノには表情がある。それをエマは目を細めて見やるので、ナノはすぐに表情を消した。エマの不興を買うのは本位ではない。それに何より、彼女の言葉があまりにも新鮮であったから、できればじっくりと考えてみたくなった。エマはやはり、不思議な存在だった。
夏が過ぎ秋が来て、ナノを取り巻く状況は緩やかに変化していった。ついに彼の戦闘についていける人間はいなくなり、戦場への輸送以外、ナノは一人で戦時投入されることとなった。効力を薄めたウィルスを投与された兵士と小隊を組まされることもあったが、毎回顔ぶれが違うことから察するに、未だナノ以外の適応者は皆無であるようだ。そして何よりも、ウィルスの完全適応保菌者であるナノと彼らの戦闘能力は雲泥の差だった。
ナノの血清から取り出したウィルスは、猛毒であるのかもしれない。科学の知識を身につけたナノはそんなことを思ったりもしたが、だとしたところで彼にどうすることも出来はしない。彼の手と同じように、身体を流れる血液までもが穢れている。ナノにはどうしようもない理由で。
薄れゆく感情の中で、自分が穢れているという意識は強くなっていた。ナノはそれを滑稽だとさえ思ったが、誰にも話そうとはしなかった。前のドクターならばもしかしたら話す気になったかもしれない。だが今や研究所に彼の味方は一人もいない。いるとしたらエマくらいなものだが、彼女は前のドクターとは違う。ナノにとって彼女は特別であっても、同じ理由でエマにとって彼は特別ではない。エマにとっての自分の価値がウィルスの完全適合者以上のもので無いことをナノは悲しんだ。その悲しみが感情の消去によって消え去ることを彼が望んだのは、人間として当然の成り行きであったのかもしれない。
それはある秋のことだった。授業のためにナノは定刻どおりに教室代わりの個室に到着した。そこは以前に彼の担当官であったドクターのオフィスだった部屋で、そのために室内に監視カメラは設置されていない。夕刻のこの時間は窓から見える夕日がことのほかに美しく、しばらく見ることの無かった黄金色の光景にナノは明りもつけず窓辺に立って沈み行く夕日を眺めた。かつては一面茜色に染まった空に心を動かされもしたが、今ではただ懐かしいという感慨しか存在しない。この空を美しいと感じたのは、どんな気持ちだっただろうか。
聞き慣れた足音にナノは扉のほうを振り返った。二回瞬く間にテキストを手にしたエマが扉を潜る。彼女は眩しそうに目を眇めると、手にしていたテキストを机の上に置いてナノを、否、窓の外を見つめた。
ブラインドを下ろしていない窓辺にナノが立っている。夕日に輪郭のぼやけた彼はいつものようにただ黙ってエマを見つめた。夕日に透けて金糸のように髪がきらめく。黄昏の赤い光に染まった肌が、内側から火を灯したようで美しかった。
「…………髪が伸びましたね」
ふいにナノが言った。異国の音楽を思わせる声音。声楽を学ばせたら、さぞや聴衆を魅了するだろう。エマはつまらないことを考えながら自分の髪の一房を摘んだ。
「…………あれから大分たったからな」
切り刻まれた髪は伸び、いつの間にかエマは銃を枕の下に入れなくても眠れるようになった。ナノに対する警戒心は消え、男と接触するのに身構える必要が無くなった。彼女に暴力を振るったのは男だったが、それを助けたのも男だった。あの日ナノの腕の中で、確かにエマは自分の中で何かが崩壊する音を聞いた。それは自尊心や虚勢ではなく、もっとずっと根の深い何か。彼女が生まれてからずっと、抱き続けてきた卑屈な価値観であったかもしれない。
結局、女であることを許せなかったのはエマ自身だった。彼女を差別する人間を軽蔑するふりをしながら、最も拘り続けていたのは自分だったのだ。誰にも見下されず、誰からも奪われないことを目指し、強固な自分の虚像を作り上げていた。理解される必要は無いと、そんなものは弱者の妄言だと嘲笑いながら。そのことに気付いた瞬間、エマは声を上げて泣いた。自己の弱さに直面した彼女は、自分の愚かさや幼さを知り、それを認めた。認めることによってエマは、本当の強さを手に入れたのかもしれない。
エマは髪をいじっていた手を放すと、窓辺に寄ってナノと向き合った。
「…………まだ礼を言ってなかったな」
エマは左手を差し出す。ナノは左利きなのだ。両利きの訓練を受けているのでわかりづらいが、彼が武器を手にするとき必ず左手であることをエマは知っている。
ナノは差し出された手に微かに困惑の表情を浮かべてエマを見つめた。蝋のように白い肌に夕日がよく映えている。真っ直ぐ見上げてくる瞳にある強い意思の光。ナノには無い全てのものを持っている彼女を眩しく思う。
ふっと口元にゆるやかな微笑を浮かべ、エマは視線を和らげた。
「左手が気になるか?」
「……………………」
思いがけないエマの言葉。彼女は知っている。ナノが普段左手を使わない理由を。多くの人間を死に追いやってきた左の手を、彼は汚いものとして恥じているのだ。
躊躇するナノの手をエマは無理に掴んで強く握った。
「この手は国を守り人民を守る手だ。何を恥らう」
「……………………」
「…………何より、わたしを守った。礼を言う」
エマは微笑む。柔らかな視線。繋いだ手から彼女の体温が染み入るようで、ナノは目眩に似た高揚を覚えていた。強く美しいエマの手は、ナノの手の中で驚くほどに小さく華奢であった。
その衝動を何と呼ぶのかナノは知らない。ただ彼は押し寄せる衝動のままにエマを抱き寄せていた。彼女は息を呑んで身体を強張らせたが、ナノの腕の中で暴れようとはしない。一度だけ抱きかかえたことのある身体は記憶どおり細く、儚いとさえ思えた。
もしかしたらエマは、抵抗しても敵う相手ではないと大人しくしているだけかもしれない。そう思うと少し悲しかったが、ナノは何も考えぬように思考を停止した。ほんの少しでも長くこうしていたいと願う。頬に触れる柔らかな髪からは優しい香りがしている。もう少しだけこうしていることを許されるなら、ナノは生まれて初めて生きていることを感謝するだろう。
「……………………」
声にならない声をエマが漏らし、ナノは我に返って腕の力を緩めた。自分の取った行動が不敬罪以上のものであることは明白だった。しかしエマは身を強張らせたまま動こうとしない。かつての恐怖が蘇って身体の自由を奪っているのだろうか。
心配になってナノが顔をのぞきこむと、エマはぎこちない動作で彼を見上げた。彼女は困惑の表情を浮かべてはいたが、そこには決して恐怖や軽蔑は含まれていなかった。ナノと視線を合わせたエマは泣きそうな表情を浮かべる。頬には朱が差し、大きな目は潤みを帯びている。彼女は躊躇った末にわななくくちびるを開き、
「…………ナノ……」
エマはナノの服の裾を掴んで額を彼の胸に預けた。目を閉じるといつか嗅いだ甘いような香りがすることに気がついた。これはナノのにおいなのだろうか。何かを待つように目を閉じるエマの背中を再びナノの腕が抱きしめる。エマの名を囁きながら、彼は夕日に染まるお互いの白い頬をすり合わせるようにして近づけた。エマの吐息は芳しい香りがした。
そうしてエマはこの日、ナノが笑うのを初めて目の当たりにした。
ナノは凄まじいほど戦闘能力を増していった。一体何が彼をそうさせたのか、エマとナノ以外は誰も知ることは無いだろう。ナノにとってエマは世界の全てになった。彼の小さな狭い世界で、どんどんと失われていく多くの記憶や感情。少なくなったそれらの中で、彼女の占める割合はほとんど全てであった。
二人の特別な関係について他に知るものはいない。表面上はそれまでの関係を継続していたし、エマは普段ナノのことを相変わらず『プルミエ』と呼んだ。しかし二人きりでいるときはナノと呼びかけ、今までに無い表情を見せるようになっていた。ナノもまた彼女をエマと呼び、ほんの僅かに残された感情を見せる。彼はエマのためならばどんなことでもしてやりたかった。エマはナノの手を穢れているとは言わない。むしろエマのためにある力なのだから誇りを持てと言う。彼女にそう言われると本当にそんな気がしてくるのだから不思議なものだ。そのため今まで無意識に制御されていた力が解放されたのか、彼の戦闘能力は飛躍的にアップした。目覚しい戦功を上げればそれだけエマの評価も高まる。彼女が喜ぶとナノも嬉しい。だから彼は力を行使することを躊躇わなかった。それが誰かの立てた予定調和だということを二人は知らない。無知であるということはこのとき二人に、ささやかな幸せをもたらしていた。
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