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 エマがナノの担当官だけでなく別のセクションのチーフになったのは、喜ぶべきことであった。それによってエマの権限は更に広がり、出世は約束されたも同然であった。最早完成されたも同然のナノにいつまでも優秀な人材を担当させておく必要は無い。上はそう判断したらしく、エマには第二のプルミエを人工的に作り出す仕事が与えられた。そのため二人の時間は以前と比べるまでも無く減少してしまったが、その代わりエマはナノのために小さな図書室を作ってくれた。
 ナノが本を好きなのは初めて会ったときから知っていた。前の担当官が彼に読書をさせていたのはエマに与えられたナノのデータの中にあって知っていたし、軍事教育のためのテキストでさえ彼は隅々まで眼を通していた。危険な思想を与える類の本でなければ、プルミエに与えてもかまわないのではないか。むしろ敵国に潜入などをする場合のことを考えて、多くの知識を与えておくことは損ではない。そのエマの主張は受け入れられ、厳しい検閲をクリアした本が研究所の一室に集められた。詩集でも料理の教本でも心肺蘇生のマニュアルでも、ナノは同等の興味を持って紐解いた。
 もしかしたらナノは、感情が失われて空白となった部分を知識で埋めようとしたのかもしれない。それ以上に、エマといることのできない時間を消費するために。
 エマが出世すればするほどナノと共有できる時間は減少していった。感情が消えていく中で唯一の光であったエマにさえ会えないことをナノは無感動に受け入れた。何かを感じていたら自分がおかしくなってしまうことに薄々感付いていたのだろうか。消えてゆく心の中でエマが彼の全てになる。もしも感情を全て手放したら、彼女のことも何も思わなくなるのだろうか。そう考えると怖いような不思議な気分になる。エマに対する温かで柔らかい感情と同じように、空洞を吹き抜ける冷たい風のような感情の名前を彼は知らない。昔は知っていたのかもしれないその感情を、ナノはもう思い出すことが出来なかった。
 戦場で成果を上げるほど、彼の評価は高まり、周囲のナノに対する視線は冷めていった。『バケモノ』というのが影での彼の呼び名だ。それは戦場でも研究所でも同じことで、ナノの孤立は深まってゆく。エマはそれに気付いているようだったが、彼女にどうにかできる問題ではない。Project:Nicoleが成功し、ナノたちの手によって戦争が終結すれば全てが終わる。そうすればナノは英雄であり、彼らを作り上げたエマたちの名声も世界中に知れ渡るであろう。そうなればナノはもう、戦場に出なくて済むのだ。もしかしたらエマと、一緒に時を過ごすことができるようになるのではないだろうか。
 自分の考えが多分に理想を含んだ甘い考えであることをエマは自覚していたが、以前のようにそれを嘲笑を持って否定するようなことはなくなっていた。理想を掲げることは悪ではない。それを成し遂げようと努力することは尊く、彼女にはその実力があるはずだ。そのためにも一日も早くプロジェクトを完成させ、揺ぎ無い名声と権力を手中にする。望む未来を手に入れるために、彼女は努力を惜しまない。
 そのためにエマは今まで以上に仕事に打ち込み、ナノと過ごす時間は少なくなった。ナノは彼女を理解しているが故に何も言わず、何も言えず、黙って事実を受け入れた。
 ナノの目から見てもエマは変わった。かつての人を寄せ付けない尖ったような雰囲気は鳴りを潜め、虚勢に近かった自信が落ち着いた。尊大さが消えて他人を見下すことの無くなった彼女は、誰から見ても魅力的な女性だった。特に軍事国家の中で女というだけで差別を受けてきた同僚の女性たちからは一気に支持を集めたようだ。羨望や嫉妬が尊敬と崇拝に変わり、彼女の周りにはいつも人だかりができていた。小賢しい女と侮蔑していたはずの男の同僚たちでさえ、彼女には一目置くようになった。精神的な垣根を取り払い、人間関係を拒まなくなったエマに惹かれないはずがない。相変わらず言葉遣いはつっけんどんだが、軽口にも応じるようになったエマは多くの人間から好かれるようになっていた。
 初めのころ彼女の変化をナノは我がことのように喜んでいたが、多くの研究員の前で誰かの冗談に声を上げて笑うエマは彼の知るエマではないようで、複雑な感情を覚えた。人間的に成長したエマは光り輝くようでナノの目に眩しい。気付くと彼女との距離がどんどん開いていくようで、ナノはどうすることも出来ずに立ち尽くしていた。
 それでもエマと二人きりでいる時間は至福だった。自他共に対して厳しいエマが無防備に寄りかかってナノの手をいじっている。細い指先が掌を辿るのがくすぐったくて、ナノは小さな声を上げて笑った。まだ唯一明確に失われていない喜びの感情。それはエマと過ごす時間に育まれているからか。
 ナノの手をいじっていたエマは不意に彼を見上げた。

「お前の肌は冷たいのに温かいな。それに、触られると妙に心地いい」

 常々エマはナノの手を不思議に思っていた。彼に触れられていると、羊水に浸かったような心地よさがこみ上げてくる。全ての思考を放棄してこのまま眠ってしまいたくなるような、そんな不思議な感覚。彼からただよう香りもそれに拍車をかけているように思う。

「何故か少し調べてみてもいいか?」

 エマの頼みにナノは小首を傾げた。ナノにしてみれば、エマの肌だってひんやりとしていて触れているととても心地良く感じる。彼女の甘い肌はナノを魅了してやまず、エマ自身のやわらなか香りが彼は好きだった。

「…………わたしとお前は問題が違うんだ」

 ナノのあけすけな言葉にエマは不機嫌を装って赤くなった顔を背けた。わざとらしく拗ねてみせる彼女が愛しく、ナノはエマを抱き寄せて承諾を返した。

「……エマがそうしたいなら」





 第三次世界大戦の勃発で、ナノの戦時投入回数は格段に増えた。たった一人で一個師団を壊滅に追い込んだナノを、人々は恐れて遠ざけた。人を殺せば殺すほど、ナノの中からは感情が消えうせていくようで、最早彼はそれに関して何も感じなくなった自分に興味を抱くことは無くなっていった。
 Nicoleの投薬を出来るだけ早く進めたい軍部は、研究員たちをせっついて成果を上げようとしていた。どれほどナノが怪物的な強さを誇っても、彼一人では世界の各地で同時に起こっている戦争の全てに勝つことは出来ない。どうやら戦況は思わしくないらしく、だからこそ軍部は焦っていた。小さな極東の島国が世界に君臨するためには、絶対的な武力が必要なのだ。
 戦争に次ぐ戦争。合間に調整とデータの採集のために研究所に戻っても、ナノがエマと会える時間はほんの僅か。それでも会える場合はまだいい。戦況が差し迫るほどナノが拘束される時間は長くなった。
 感情の抑制は最早完成されたものとみなされ、ナノは不安定なまま放り出された。殺戮を無感動に遂行するナノを、研究員たちは忌み恐れた。彼のために開発された強靭で軽量なナイフを片手に、無造作に敵を屠っていく生体兵器。エマに対しては寛容になった彼らも、ナノに関しては話は別だった。
 エマに会いたくとも、ナノから会いに行くことは出来ない。エマはナノのために施設内を自由に歩き回ることを上官に掛け合って承諾させてくれた。どうせ拘束したところでナノがその気になれば、止めることは不可能だ。ならば施設内を散歩する程度の自由を与え、逆に寛容な軍に感謝の念を感じさせたほうがよりいい結果を生み出すだろう。
 国家や軍部に対する忠誠という名目の前に、エマの意見は認可された。そのためナノは施設内の庭や林を散歩する権利を手に入れたが、彼の姿を目にした人々が示す反応を目の当たりにするのを厭い、外出をすることは滅多に無かった。あったとしてもナノはできるだけ人目につかないようにして一人でひっそりと時を過ごしたのである。





 ある初夏の午後に、久々に空白の時間を見つけて、ナノは一人でひっそりと散歩に出かけた。できるだけ人のいない場所を求めて歩くうちに、いつの間にか施設の外れにある小さな林の中に立っていた。そこは散歩に出かけるたびに最後には必ず辿り着く場所で、人気が無いことがナノの気持ちを落ち着かせてくれる場所だった。
 緑陰が薄い木陰を作る木のベンチに腰を下ろして、ナノは珍しく晴れ渡った青い空を見上げた。抜けるような青さの空を、エマにも見せてやりたいとふと思う。しかしそれは無理な話だろう。昨日も今日も、ナノはエマと口をきいてさえいない。明日には再び戦場へ向かうことが決定しているため、次に彼女と会えるのはいつになるか定かではなかった。
 エマに会いたいと思う。だがそれは叶わない。向上心の強いエマにとっては研究の方が大事だ。研究さえ完成すれば戦争を終結させることができ、そうすればいつでも好きなときに会えるようになるとエマは言った。彼女の言葉はナノにとって絶対であり、エマがそう言うのならばそうなのだろうと納得した。しかしその気持ちは今ナノの中で揺らぎ始めている。
 エマの言うことは確かに一理あるが、本当にそんな未来は来るのだろうか。今のナノには一体何のために彼女と会うことを耐えねばならないのかもうわからなくなっていた。ナノのためにエマは研究を重ねている。だがそのせいで会うことが出来ないのは本末転倒ではないか。たまにナノと二人きりになっても、彼女は研究のことばかり口にする。ナノの戦功を褒め称えてくれるのは嬉しいが、そんなことのために寄り添っているのではない。一体何のために一緒にいるのか、一体何のために戦うのか、それがナノにはわからなくなっていた。
 もしかしてエマは、ナノよりも研究の方が大事になってしまったのではないだろうか。その考えに思い当たったとき、ナノの内臓の表面を何か冷たいものが滑り落ちていくのを感じた。彼はその考えを必死になって否定しようと試みたが、判断材料が少なすぎる。そもそもナノの勝手な推量の域を出るものではないはずなのに、その考えはいつの間にか彼の心を占めるようになっていた。
 ナノにはわからない。エマのことも自分のことも。エマはナノがナノでなくてもかまわないのではないだろうか。エマにとって大事なのはプルミエであり、ナノではない。研究の成果を愛しているのであって、ナノを必要としているわけではない。その証拠にエマはナノを知っているが、ナノはエマのことを何も知らない。それはナノが知ろうとしなかったせいだが、彼女が教えようとしなかったことも事実だ。今までそれを不思議とも思わなかった。わからない。エマがわからない。世界の全てがわからない。
 ナノはエマに会いたいと思った。そうして自分の愚かな考えを一笑に付してほしいと。それは彼の真摯な願いであり、唯一の望みであった。
 苦痛に満ちた思考を放棄してナノが顔を上げたとき、向かいの若い樹木の陰から、小さな少年がこちらを見つめていることに気がついた。








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