■□■ ハサミ □■□






「アキラ」

 不意に呼びかけられて、アキラは緩慢な動作で肩越しに振り返った。白いタイルを張った広いバスルームの戸口に、黒い服を纏った長身の男が立っている。

「……シキ」

 花が綻ぶような微笑を浮かべ、アキラは甘えるように呼びかけた。年齢も性別も超越したような、たおやかで艶めいた微笑。彼はシキに呼びかけられて心底嬉しそうに微笑んでいるが、その気になれば誰にでも同じように笑いかけられることをシキは知っていた。

「…………何をしている」

 硬い靴底がタイルをたたく。コートと手袋を脱いだだけの姿で真っ直ぐこちらへやってくるシキを、あいかわらずアキラは焦点の定かでない瞳で見つめている。生成りのシャツに、擦り切れた水色のジーンズ。靴さえも履かない彼の足元では、鮮やかな緋色がタイルを染めている。左手には何故か鈍く光る銀色の裁ちハサミを持ち、アキラはシキが傍にやってくるのを待っていた。

「……これは何だ?」

 突然力任せに右の手首を掴まれて、アキラは痛そうに眉を顰めた。だがこの程度で彼が苦痛を感じているはずはなく、蔑むようにシキはアキラを見下ろした。

「これは何だ、と訊いている」

 白く細い手首を掴み上げ、シキは眼光鋭くアキラを睨む。彼が掴んだ極端に細い手首の先では、不自然に短くなった五つ目の指が絶えず鮮血を滴らせていた。
 アキラは困ったようにシキを見上げている。媚びるような縋るような無垢な瞳。悪戯を咎められた子供のように、シキの顔色を窺うアキラに反省の色は無い。

「これは……形が気に入らなくて」

 舌足らずに言ってアキラは口ごもる。何故か今日になって突然、彼は自分の右手の小指の形が気に入らなくなった。少し反り返った細い小指。それがどうしても気に入らない。もしこの指をシキが見たら、何と言うだろうか。もし彼がこの指を気に入らなければ、どうなるだろうか。すでにまともな思考の出来なくなって久しいアキラは、シキに嫌われることが何より恐ろしくてたまらず、その指を切り落としてしまうことを思いついたのである。
 拗ねるように視線を逸らしたアキラを尚もシキは咎めるように見下ろしている。こうしている今もアキラの右手からは鮮血が滴っている。シキの寵愛を失わないために、自分の身体の一部を躊躇うことなく切り落としたアキラ。彼の思考の道筋がシキには手に取るようにわかった。
 シキは手近にあったタオルでアキラの右手を止血する。切断面にタオルを当てられると、あっと声を上げてアキラは身を捩った。苦痛に耐える声と表情は閨の中のそれと酷似している。あるいは、わざとそうしているのかもしれない。

「押えていろ」

 ハサミを取り上げ、かわりに右手に巻いたタオルが解けないように押えさえて、シキはアキラの足元に膝をついた。一体何をするのかと怪訝そうにアキラが見守る中で、シキは目を眇めてタイルに滴った赤い水溜りを見つめている。
 白いタイルに広がった血溜りの中に、赤い小さな塊が見える。シキは手を伸ばし、臆することなくその肉片を摘み上げた。
 シキの白い指先が赤く染まる。彼の瞳と相まって、シキには緋色がよく映えるとアキラは思った。
 アキラが見守る中、身を起こしたシキは摘んだ肉片を灯りに透かすように仰ぎ見る。それはかつてアキラの右手の小指だったもの。第二関節から先の肉片は、触るとまだ柔らかかった。
 シキは不意にかざしていた肉片をアキラに見せつけるように顔の前に下ろした。紛れも無いアキラの小指。結局気に入らないそれをシキに見られてしまったことが恥ずかしく、アキラは不服そうにくちびるを尖らせる。彼の子供っぽい愛らしい仕草にシキは口元を笑ませると、大胆な動作で摘んでいた肉片を躊躇うことなく口の中に含んだ。

「あっ……!」

 思わず口をついて出たアキラの声に、シキは満足そうに微笑を浮かべた。彼は舌の上でアキラの肉片を味わうように転がすと、アキラが止める間も無くこくりと咽喉を鳴らして嚥下した。

「シキ…………」

 困ったように眉尻を下げてアキラはシキを見上げた。彼の肉片がシキの一部になる。嚥下された小指はシキの胃の中で溶かされて、彼の血となり肉となるだろう。それはとてもとても魅力的で、背筋を駆け上る妖しい高揚感にアキラはため息をついた。
 けれど、ならば何も気に入らなくて切り落とした小指などでなくてもいいではないか。もっともっと他の部分をこそ、彼に味わって欲しいのに。

「ずるい」

 思わず零れ出たアキラの言葉。思いがけずシキの身体の一部になる栄誉に預かった自らの肉片に嫉妬しているのだろう。赤い舌先でくちびるについた血を舐め取ったシキは、あまりにも魅力的な微笑を浮かべた。彼の加虐性を垣間見せるようなエロティックな微笑。真っ直ぐ見上げてくるアキラの瞳。頬に血が上り、潤んだ瞳にシキを映している。いつの間にかアキラの左手はシキの服を掴み、何かを求めるように身体を押し付けていた。
 必死に自分を求めるアキラに、くつくつとシキは咽喉の奥で笑った。彼はアキラの細い顎を捉えると、

「…………アキラ」

 鮮やかで甘い毒を思わせる微笑を浮かべ、そっとくちびるを重ねた。





〔了〕







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