■□■ Non chiedermi che cosa ho, ma che cosa sono □■□






 重厚な扉を開くと、夏の日差しの差し込む窓辺に彼が立っていた。
 後ろ手に扉を閉めても彼は振り返らない。ほとんどの家具の運び出された部屋は空虚なまでに広く、差し込んだ強い日差しに今この瞬間までも色あせていくようだ。

「……行くのか」

 幾度も訪れたはずのその部屋を戸惑いがちな足取りで横切って近付く山本の声に、ようやく彼が振り返る。夏の風が薄い青の刺繍が縁取ったカーテンを揺らし、彼の足元に揺らめく影を作り出した。

「行くよ」

 振り返った雲雀は、口元に薄い微笑を刻んでいた。
 どこへとは言わない。二人にとってはそれだけで充分だった。
 雲雀が部屋を横切る足音がコツコツとやけにひびくのは気のせいではあるまい。主を失った部屋の中に、反響しているのだ。どこか放心したように山本は雲雀を見守っている。ダークグレーのスーツを一部の隙も無く着こなす雲雀。風の通る室内ではあるが、汗一つ浮かべぬ彼の姿は、現実感を喪失させるほどに無機的であった。
 雲雀はがらんとした室内を振り返る。つられるように山本も首をめぐらせて周囲を見回した。最早ほとんど何も無いこの部屋が、雲雀が二度とここへ戻らぬことを暗示しているようだった。
 ほとんどの物は処分した、と雲雀は言った。何事にも執着しない彼らしいと山本は思う。雲雀はこの国を去る。そしてはるか東にある故郷の土を踏む。彼は東の地でこの国以上の権勢を揮い、頂点に立つだろう。そのための下準備、そのための数年間だったのだから。
 この国で雲雀が得たものが何だったのか、山本にはわからない。おそらく彼は、山本など思いもつかぬほどのものを手に入れ、そして喪失してきたのだろう。彼は躊躇うことをしない。手に入れるために失うことを恐れない。物事の重要性とその順位を正確にとらえ、自らの血と肉とする術を心得ている。そうして準備を整えた彼は、より大きなものを手に入れるためにこの地を去る。この国では雲雀の真に欲するものは手に入らない。すでにそれは他人の掌中にあるのだから。
 そのことを山本は誰より正確に理解していたが、それでも雲雀がこの国を去ることの抑止力に自分がなりえなかったことに、一抹の寂しさを感じないわけではなかった。けれど、だからこそ雲雀なのだと、彼はただ苦笑を漏らしただけで感傷を断ち切った。未練も執着も、雲雀には似合わない。他人が恐れを抱くほどの潔さ。それ以外である雲雀など、見たいとは思わないから。
 広い部屋をゆったりと横切った雲雀は、壁際にある白い布のかけられた備え付けの家具に右手を乗せた。山本の記憶が正しければ、そこにあったのはアンティークのチェストだ。布のかけられた硬い表面をなでる雲雀の手つきは優しく、懐かしさを滲ませているようだった。

「……ついてくるかい?」

 布の上に手を置いたまま雲雀が尋ねた。大きく鋭い目が真っ直ぐに向けられる。山本は一瞬思いがけない高揚に息を呑んだが、微笑を浮かべた彼ははっきりと首を横に振った。

「オレは行かない」

 行くわけにはいかない。山本には山本の、雲雀には雲雀の道がある。少しの間交差していたその道は、これからずっと離れてゆくだろう。二人の目指すものは違いすぎるのだから。
 山本の返答に、しかし雲雀は満足げな微笑を浮かべた。彼は山本が肯定の返事をすることなど望んではいなかった。もし山本が首を縦に振ったなら、その瞬間から彼は侮蔑と嫌悪の対象となっただろう。雲雀にとって山本は、自分以外の人間に忠誠を誓っているからこそ価値のある人間だった。決して手に入らぬものへの憧憬と執着。それが雲雀が抱く山本への感情だ。いかに雲雀の傍にあっても雲雀のものではないその忠誠を失った男など、生きる価値さえ無いだろう。
 この世には二種類の人間がいる。頂点に立つ者と、それを支える者と。雲雀は頂点を目指し、山本は頂点にある者を守る。そして二人は同じ頂を見てはいない。だからこそ道は違えてゆくのだ。
 雲雀は頂点に達するだろう。山本の予想は何ら明確な根拠を有してはいなかったが、彼はそれが現実となることを疑ってはいなかった。
 そう遠くない未来に、雲雀は頂点に立つだろう。山本が敬愛してやまぬ人物と肩を並べ、友となり敵となり、世界に君臨するのだ。
 一片の躊躇いもなく高みを目指す雲雀を、山本は羨ましく感じることがある。恐れを知らぬ人間だけが持つ輝きを、眩しく思うことも。けれど、それはほんの一瞬の出来事であり、その考えが持続することはない。身の程を知っているというよりも、頂点に立たぬ者の誇りと自負が山本にはあるからだ。
 山本が雲雀にはなれないように、雲雀も山本になることはできない。雲雀のような人間を支え、守ることが自分には出来るという誇り。彼は頂点に立った人間のすぐ傍で、歴史が動くのを見るだろう。そして、遠い東の頂に、雲雀が君臨する日を目の当たりにするのだ。歴史は常に東へと流れてゆく。文化の中心も、全ては東へと。それを山本は、頂に近い場所で眺めるのだ。傍観ではなく、自らの手足を犠牲にしても。
 いつかまたどこかで、二人の道は交差するかもしれない。そのとき、昂然と面を上げていられるために、山本は自らの道を選び、進む。雲雀が臆せず頂点への階を駆け上っていくように。
 一陣の風が吹いた。風は窓を鳴らし、カーテンをはためかせる。室内を通り抜けた風は二人の髪を乱し、雲雀は何か愛しいものを見る目つきで窓の外を眺めやった。窓の外は明るく、ただ夏の日差しだけが世界を白く染め上げていた。
 コツリと靴音を響かせて、雲雀は踵を返した。壁際を離れた彼は山本の傍を通り過ぎる。扉へ向かう足取りに迷いは無い。
 手を伸ばせば届く距離をゆっくりと通り過ぎた雲雀に、差し伸べられなかった拳を握り締めた山本が声をかけた。

「行くのか」

 先ほどと同じ問い。雲雀は声を出さずに微笑むと、足を止めた。行くよ、と答えた声は微笑を含み、振り返らぬ彼の背中を眩しげに山本は見つめる。それ以上何も言わぬ山本を、雲雀は振り返らない。それが彼のプライドであり、山本へのはなむけであるから。
 雲雀は再び歩き出し、重厚な扉に手をかけた。その扉を出た瞬間、二人の道は分かたれる。行ってしまうのか、とその背中を見つめて思う山本の声が届いたように、凛とした雲雀の声が部屋に響いた。

「東へ」

 預言者を思わせる声の反響が消え去らぬうちに、雲雀は扉の外へ姿を消した。そして無機質な部屋には穏やかに微笑んだ山本だけが取り残され、そして重厚な扉は閉ざされた。





〔了〕







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ノン キエーデルミ ケ コーザ オ マ ケ コーザ ソーノ
「Non chiedermi che cosa ho, ma che cosa sono」

「私が何を持っているかを問うな、私が何であるかを問え」



















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