■□■ 悔恨 □■□






 アキラ、と呼びかけられた気がして振り返ると、黄昏に沈む異国の街並みの中に、ただ一人立ち尽くしてアキラを見つめる男がいた。驚愕に見開かれる男の瞳。アキラもまた息をつめて立ち尽くし、二人はしばしのあいだお互いの姿だけを見つめていた。





 逢魔が時、という言葉がある。黄昏どきのすれ違う相手の顔もわからない薄暗い時間帯には、人間ならぬものとも出会っているという言い伝えだ。人間の意識の外に存在する超自然的なものをアキラは信じないが、今日だけはその存在を考えずにはいられなかった。
 ニホンからはるか遠く離れた異国の地でアキラを呼び止めたのは、源泉だった。トシマ崩壊のあの日から早数年。その名前さえもう思い出すことは無いはずの相手。源泉もまた複雑な表情を浮かべ、そしてアキラを近くのレストランに誘った。
 源泉と最後に顔を合わせたのは、もう何年も前の雨の振るあの運命の日のことだった。雨に濡れた背中をアキラは今でも昨日のことのように思い出すことができる。あのときに比べ源泉は少し老け、髪が伸び、そして何故か少し若く見えた。おそらくそれは彼の眼に宿る若々しい光のためだろう。笑うと細められて柔らかな印象になる源泉の目。あのころとは違った強い意思の光が浮かぶその眼が、アキラには眩しくさえ感じた。

「……どうやら、元気にしてたみたいだな」

 相変わらずの咥え煙草のまま源泉は笑う。屈託の無い笑顔。裏があるようには思えないが、自らの身体に多くの秘密を抱えるアキラは用心深く彼を観察していた。
 源泉は今、フリーのジャーナリストをしているらしい。気崩したジャケット、肩から提げた黒い皮のカメラケース。一目で宮仕えの人間ではないとわかる。もともと情報屋などをしていたくらいだから、アキラは驚かなかった。だからこんなところにいたのかとかえって納得したほどだ。源泉は手にしていたビールの壜をテーブルに置くと、何気ない口調を装ってアキラに問いかけた。

「お前は、やっぱりあいつと一緒にいるのか……?」

 あいつ、という言葉には多くの感慨が含まれていたことだろう。過去から現在までに起こった多くの出来事。あの日彼が見せた激情をアキラは忘れてはいない。

「いいや」

 アキラは表情を変えなかった。声もいつもと同じだった。だからこそ源泉にはわかってしまったようだった。
 そうか、と呟いて源泉は椅子の背凭れに寄りかかって黙り込んだ。トシマから脱出し、逃亡の生活を余儀なくされたこの数年間で、アキラは格段に嘘が上手くなっていた。おそらく政府の嘘発見器にかけられたとしても、彼は平然と嘘をつくだろう。幼さから脱却し、守るべきもののために戦うことを覚えたアキラを、眩しいものを見るような目で源泉は見つめた。
 源泉がその国を訪れたのは全くの偶然だった。中東での仕事が思いのほかスムーズに終わったため、日本へ帰国する前にせっかく時間があるのだからと足を伸ばしてみようと思い立ったのだ。夕焼けの黄金とばら色に染まる街並みをカメラに収めようとファインダーを覗き込んでいたら、あるはずのないものを、いるはずのない人間を見つけてしまった。初めは見間違いだと思った。だが身体は意思に反してその背中を追いかけていた。あのときよりも背の伸びた背中に、思わず声をかけたのは確かめたかったからだろうか。振り返ったアキラは記憶の中にあるよりも大人びて、彼の強さを象徴しているようだった。

「そうか…………」

 再度呟いた源泉は指を組んでテーブルに肘杖をついた。目の前にいるアキラはもうあのときのアキラではない。源泉を見つめる瞳には落ち着いた光を宿し、おそらく彼の出方次第によっては口封じをすることも厭わないだろう。その落ち着いた、リラックスしているようでいて決して気を緩めない様子はどこか野生の虎を思わせる。優雅で獰猛な美しい獣。そして同じような雰囲気の人間を源泉はもう一人知っている。

「…………俺の子供も生きてりゃお前くらいか」

 何気なく呟かれた言葉にアキラが微かに眉を顰める。話がどこへ向かっているのかわからないのだ。
 源泉はビールを一口煽ると、誰にも話したことの無い彼の過去のことを語りだした。
 それは現在の源泉を構成する上で最も重要な要因であっただろう。彼が何故トシマにいたのか、どうしてナノを狙ったのかをこの日初めて知ったアキラは、動揺を悟られないよう細心の注意を払って源泉を見つめた。
 昔と変わらぬ無精髭。アキラが何食わぬ様子で観察した源泉からは他意は感じられなかった。本当にただ話したいから話す。どこか遠いところを見つめながら言葉を紡ぐ源泉からは、何の敵意も感じられない。一度はナノに銃を向けたこの男のことを、どう捉えたらよいのかアキラは迷っていた。
 アキラにとって今日のこの邂逅は決してありがたいものではなかった。出来ることならば、彼とナノのことを知る人間の記憶を、すべて抹消してしまいたいと願っている。誰も二人のことを知らない場所で、ひっそりと平和に暮らすことがアキラの、そしてナノのささやかな願いであった。
この街は二人にとって理想的な場所であった。多民族が入り乱れ、多くの文化が交錯するために、二人が特筆して目立ってしまうことが無い。ここへ来てからしばらくになるが、穏やかで満ち足りた日々だった。このままの日々が続けばいいと思っていた。だからこそ二人のことを良く知る源泉に出会ってしまったことは致命的であったのだ。
 研究所でのこと、息子のこと、妻のこと。語り終えた源泉は頬杖を付いてアキラを見つめた。その眼差しはどこか親しい者への愛情を含んでいるようで、アキラはそれとなく眼を逸らした。
 雰囲気に飲まれてはならない。源泉はジャーナリストであり、アキラとナノの秘密を握る人間なのだ。今こうして緩んだ雰囲気を纏ってはいるが、その頭の中では二人をどうすべきか計略を練っているのかもしれないのだ。
 警戒が表情に出てしまったのかそれとも重くなり始めた空気のせいか、源泉は苦笑いを浮かべる。

「そんな警戒すんなよ。別にお前さんをどうこうしようなんて腹は……」

 無い、と言いかけた源泉の表情が一変する。苦笑に細められていた目が見開かれ、煙草を咥えた口が引き締まる。言葉を紡ぐことを忘れて思わず立ち上がった源泉を前に、ハッとしてアキラは背後を振り返った。
 喧騒に賑わう夕暮れどきのレストランの戸口に、黒い髪の男が立っていた。背が高く抜けるように肌の白い男は、アキラと源泉のいるテーブルをじっと見つめている。彼は迷いの無い足取りで真っ直ぐに二人のもとに、否、アキラのもとに向かってきた。

「…………お前、プルミエ、か……?」

 ゆったりとした、それでいて意外に速度の早い独特の歩調でやってきたナノは、振り返って彼に近付かないよう視線を送るアキラの肩にそっと手を置いた。帰りの遅いアキラを心配して探しに来たのだろう。やはりあのとき振り返るのではなかった。
 源泉とナノを会わせてしまったことを後悔するアキラを力づけるかのように、ナノは肩に置いた手に力を込める。アキラはすぐにでも立ち去りたいようだったが、ナノは緩やかに源泉を見つめて微動だにしなかった。

「こいつは驚いた…………」

 源泉は顔を掌で撫でると思い出したように煙草を灰皿でもみ消した。彼は内心の動揺を悟られないように二人から顔を背けて席に座りなおす。この日目の当たりにしたプルミエは、彼の知るプルミエではなかった。
 源泉の知るプルミエは、人形そのものだった。陶器で出来た、冷たく美しい破壊人形。最後に見たときその印象は人間的なものに移行したが、それでもまだ作り物めいた感が拭えなかったものだ。だがそれがどうだろう。今、目の前にいるプルミエは、人間そのものだ。風景に溶け込んでしまったかのような希薄な存在感は無く、確固とした一人の人間が存在している。茫洋として捉えどころの無かった硝子玉の青い目には、凛とした光が宿っている。金に近かった淡い茶色の髪を黒くしたせいもあるだろうが、彼は確かに一人の人間の男であった。
 顔を上げた源泉は複雑な感情の入り混じった微笑を浮かべてナノを見つめた。

「元気か……って訊くのも何か変な感じだな」

 照れたように笑った源泉がナノに椅子を勧めたので、アキラとナノは思わず視線を見交わした。数年にわたる逃亡生活の中で二人が精神的成長を遂げたように、源泉もまた人間としての深みを増していたようだ。彼のナノを見つめる眼差しに困惑の要素は強いものの、憎悪や恐怖は見て取れない。むしろかつての戦友を懐かしむような柔らかささえ滲ませている。

「安心しろよ。さっきも言いかけたけど、俺は別にお前さんたちをどうこうしたいわけじゃない」

 むしろ権力に楯突くことこそがジャーナリズムの真髄である。未だ逃亡生活を余儀なくされている彼らに同情こそすれ、二人を売るような真似だけはプライドが許さない。
 源泉をじっと見つめたまま席に着いたナノは固い意志の美しい光をその眼に宿している。青の薄さは変わらないのに、瞳の印象はあのころより更に強い。射抜くように注がれるナノの視線に何故か自分が微笑を浮かべていることを源泉は悟っていた。もしかして自分は嬉しいのだろうか。ナノの変容が、嬉しいのだろうか。

「…………お前さん、本当に変わったな」

 染み入るような感慨を含んだ声で呟かれた言葉。緊張を緩めることの無いナノとアキラに源泉は笑いかけた。
 本当はあのとき、トシマが崩壊したあの日、アキラをナノと行かせるべきではなかったのではないか。本当はアキラを力尽くでも連れ戻すべきだったのではないかと源泉はずっと悩み続けていた。その存在を多くの人間に知られてしまっているナノは最早救いようが無いが、アキラに関してはどうにかしてその存在を隠蔽することができたのではないだろうか。事実内戦に勝利を収め日興連がニホンを統一した結果、CFCは自らの崩壊に際して多くの機密事項を闇に葬った。その中にはNicoleやトシマでの出来事も含まれており、裏の事情に詳しい源泉の耳に、ナノに関する噂は聞こえても、アキラの存在を示す情報は未だに聞こえてこない。上手く立ち回りさえすれば、アキラは別の人生を生きることも出来たのではないか。そうあの日から源泉は悩み続けていたのだ。
 だが、どうやらそれは杞憂であったようだ。今のナノの姿を見て源泉は胸を撫で下ろす。プルミエは変わった。そしてアキラもまた。二人の強さを目の当たりにして、自分の判断が間違っていなかったことを源泉は確信した。彼が追いかけていた恐るべき殺戮兵器は最早この地上のどこにも存在しない。プルミエは消え去り、そしてナノが残った。そのナノを作り上げたのがアキラならば、自分の判断は間違っていなかったのだ。
 憑き物が落ちたかのように穏やかな雰囲気を纏った源泉は、心からアキラとナノの無事を喜んでいるようだった。三人は短い言葉を幾度か交わし、長くは無いが有意義な時間を共有した。源泉は二人にいつでも協力することを申し出ると、連絡先をアキラに託した。幾つかの電話番号と住所を書き付けた紙をアキラは受け取ったが、彼らがそれを使うことは無いだろう。源泉もそのことをわかってはいたが、何も言わずただ笑いかけた。もし二人が助けを求めてくるようなことがあったら、彼は命を賭してでも助けようとするだろう。二人はあの非現実的な出来事を証明する唯一つの存在だ。あの日あの場所で確かに彼らが生きていたことを、それぞれの想いが存在していたことを証明する唯一の証なのだ。
 この世の中に彼らの味方がいることを知っていてほしくて、源泉は使用されることの無いライフラインを託した。いつか平和な時代が来て二人がどこででも好きなように暮らせるようになったときに、遠い昔に出合った自分のことを思い出して欲しい。いくつもの悲しい出来事を懐かしい思い出として語れるようになった遠い未来に。
 それが源泉の願いだった。

「さて、長居は無用っと」

 おどけた口調で言った源泉は煙草を消して席を立つ。彼は同じように席を立とうとする二人をゆっくりしていくように促すと、ナノに向き直った。源泉は一瞬躊躇ってから右手をナノに差し出す。意外な行動に意味を図りかねてナノとアキラが見つめると、源泉は慌てて右手を引っ込めた。

「あっと、そうか、お前さん左利きだったか」

 照れたように笑った源泉は改めて左手を差し出す。差し伸べられた大きな手にナノはこの日初めて困惑の表情を浮かべてアキラを振り返った。ナノにとって源泉は敵ではないが、警戒を怠るべきではない相手でもある。だが思わず振り返ったアキラがゆっくりと頷いたので、ナノは求めに応じて源泉手を取った。力強く温かな手は乾いていて、冷たいナノの手に温度が溶けるようだ。源泉は引きつったクロス型の傷跡が残るナノ手を握り締めると、

「…………捕まるなよ」

 万感の思いを込めた一言。そして親しげにナノの肩を叩いて源泉の手は離れていった。それから彼はアキラを振り返り、

「元気で」

 アンタも、と応えたアキラに手を振ると、源泉は出口へ向かって歩き出した。何かをやり遂げたように清々しい雰囲気を纏い、真っ直ぐに伸ばした背筋があの日の背中と重なる。俯いて少し丸めた背中はかき消され、自分の道を堂々と進む源泉の背中だけがアキラの意識に焼きつく。一度も振り返らないその背中が消えた先を、二つの視線が長いこと追いかけていた。








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