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おそらく近いうちに離れることになるであろうフラットに戻ると、アキラはナノに源泉と出合った経緯を話し始めた。それからナノが来るまでに源泉から聞いた彼の過去についても。
スプリングの軋むベッドに腰を下ろして黙って聞いていたナノは、話が終わるとうつむいてじっと自分の左手を見つめた。ナノにとって源泉という存在は、トシマでイグラが開催されるようになってから認識されたものだった。あの男がかつて研究所に属していたという話は聞いたが、源泉にしてみても一度姿を見かけたことがある程度で、二人の接点は皆無に等しい。それでも源泉にとってナノは息子の敵であり、そして妻の敵であった。
ナノは研究所を脱走するに際して多くの人間を殺害し、その研究もろとも破壊しつくすために施設を崩壊に追い込んだ。直接手にかけなかったにせよ、更に多くの人間が巻き込まれたであろうことはわかっていた。しかしその中によもや幼い子供たちが含まれていようとは。
いや、それは言い訳だ。ナノは見えない返り血に真っ赤に、それどころか真っ黒に塗りつぶされているであろう左の手を見つめている。あのときのナノは誰が巻き添えを食おうが知ったことではかった。あのときのナノにとっては殺すことも殺されることも何の意味も持っていない。研究施設の中に孤児院があることも知っていたし、他で行われている研究に子供が関係していることもそれとなく耳にしていた。もし孤児院や子供たちを目の当たりにしたことがあったとしても、自分は同じことをしただろう。それがナノの結論だった。
だからこそナノには源泉の行動が不思議でならなかった。妻子の敵を討つために彼が銃を取ったのは理解できる当然の行動だ。だが今夜、源泉はナノに握手を求め、物語の中で誰かが友人にするかのように、親しげにナノの肩を叩いた。未だかつてナノに対してそんな風に振舞う人間はアキラ以外には存在しなかった。ましてや妻子の敵である相手に、何故彼はそんなことをしたのだろうか。
考え込むナノにアキラは労わるような声をかける。
「……源泉はアンタを許したんだ」
「…………許す？」
それこそナノには理解できない。何故、どうして源泉は自分を許すのだろうか。許されるようなことをした覚えは無い。彼の罪は命を差し出しても贖えるようなものではない。人間としての感情が戻れば戻るほど彼の罪の意識は重量を増してゆく。自己の愚かさを悔いる思いは日に日に強くなっている。それなのに、許してもらえるはずが無いのに、何故。
ナノを構成する要素の中に、許されるという概念は存在しない。彼は自分を罪そのものだと考えており、与えられるのは罰であって許しは理解の範疇を超えている。長いあいだ人間が知ることの出来る最も深い絶望に晒され続けてきたナノに、どうにかして許されるという希望を与えてやりたいとアキラは切に願った。
アキラはそっと床の上に膝を着くと、ナノの左手を取って両手で包み込んだ。困惑に揺れる青色の瞳を真っ直ぐに見上げ、
「ナノ、アンタは俺に許してもらえるはずがないと前に言ったよな？」
それはトシマでの出来事。影のように空気のように寄り添っていた存在を失ったあの日。その原因を作り上げた自分をナノはそう言い表した。それでもアキラとともに歩みたい、と。
真摯な瞳に見つめられて、ただ黙ってナノは頷いた。その姿がひどく心細いようで、冷たい手を握る両手にアキラは力を込める。
「……ケイスケはアンタを恨んではいなかった」
ケイスケはナノを恨んではいなかった。愚かな行為だとわかっていてもラインを使用せずにおれなかった自己の弱さを悔やみはしても、ナノを恨むことは決してなかった。彼こそが被害者であり、アキラや自分と同じだとさえ口にした。それどころか、最後にアキラを守ることができて満足でさえあったようだ。
ケイスケはナノを恨んではいなかった。そんなことをするような人間ではない。もしここにケイスケがいたとしたら、困ったように笑って彼に言っただろう。自分はアンタを許す、と。
言い聞かせるように語るアキラを悲しげに見つめてナノは口を噤んでいる。瞬きをする度に瞳が青から紫へ、紫から青へと変化するのは、彼の心が揺れている証拠なのだろうか。
「ケイスケが許しているものを、俺が恨むはずがない。そんなのは筋違いだ」
ナノは困ったように自分の手とアキラを交互に見やる。冷たかった手はアキラの体温に染まって温もりが浸透するようだ。アキラは強い意志を持ってナノを見つめ、囁くように、しかし断固とした口調で彼に告げた。
「俺はアンタを許してる」
その瞬間ナノは泣きそうな、けれどどこか決意を感じさせる何よりも優しい微笑を浮かべた。あの、雨上がりの日のように……。
〔ＥＮＤ〕
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